• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

函館市/函館市地域史料アーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 66件
辞書ファセット
/ 2ページ
函館市史 銭亀沢編 (浄土宗勝願寺)

浄土宗勝願寺 明暦二(一六五六)年に僧の求道によって現在の地に開かれたのがその始まりであり、当初は求道庵,その後称名寺の末寺となり、勝願寺と改称している。  ,また、同寺には大正期に建てられた切妻造りの四脚門がある。 勝願寺 勝願寺平面図 / 浄土宗勝願寺
函館市史 銭亀沢編 (近代の勝願寺)

近代の勝願寺 この妙応寺と並んで、比較的史料をよく伝存している浄土宗勝願寺の、近代における動態を探ってみよう,『北海道寺院沿革誌』で、この勝願寺の来歴について、その建立の年時と開基名、本寺名を確認したが、勝願寺が,寺宝として伝える「由緒書」(明治二十七年)によると、勝願寺の前身・求道庵(当時「亀田郡石崎村字中村壱番地,勝願寺」へと寺号を公称した。,こうして寺号公称を許された勝願寺は、以後、順調に寺勢を拡げて、昭和の時代へと入っていく。   / 近代の勝願寺
恵山町史 (東本願寺の開拓出願)

東本願寺の開拓出願 政府は明治元年以来北海道開拓の為に役所を新設し官吏を任命したのであるが、何分にも,茲に於いて東本願寺は大勇猛心を以て国恩報謝の為めに、明治2年(1869年)6月5日、北海道開拓を政府に,山中一切道筋無之、何分不自由之地に御座候間、為冥加如何様の御奉公も可仕候得共、差当り新道切開、石狩、久摺、十勝之深山,出稼之者も異教に流不申様仕、報御国思度奉存候、以上    (明治二年)六月五日            本願寺東門主使, 弁事  御 役 所    この出願には本山の坊官(門跡寺院の執事)たりし下間頼一(大蔵卿)同頼稼及 / 東本願寺の開拓出願
函館市史 銭亀沢編 (寺院の姿)

の観意寺、曹洞宗の善宝寺・西願寺、浄土宗の勝願寺・大願寺)のうち、浄土宗の大願寺を除く五か寺が、石崎に,地区内に現存する六か寺のうち、『北海道寺院沿革誌』が登載しているのは、この妙応寺と勝願寺および大願寺だけである,ただ、この勝願寺・大願寺の記事も、妙応寺に比べてかなり簡略なものとなっている。,勝願寺については、前身を「求道庵」として、「本寺は函館称名寺、明暦二年(一六五六)の建立、開基は求道、,『北海道寺院沿革誌』は、このように、勝願寺と大願寺についてそう多くを語らないが、それでも近世の明暦二年 / 寺院の姿
函館市史 銭亀沢編 (寺院の立地と建物)

寺院の立地と建物 銭亀沢地区には現在六つの寺院が存在している。,に大願寺(浄土宗)、石崎町に勝願寺(浄土宗)・観意寺(真宗大谷派)・妙応寺(日蓮宗)そして鶴野町に善宝寺,(曹洞宗)・西願寺(真宗)といった具合にかたよって分布している。,また、勝願寺・観意寺・善宝寺の三寺に関しては、いずれも敷地を隣り合わせて建っており、寺町の様相を呈している,この原因としては、寺院の運営は、檀家の経済によって維持されるため、比較的人口の多い村に各宗派の寺院が集中 / 寺院の立地と建物
函館市史 通説編 第一巻 (下海岸方面の社寺)

下海岸方面の社寺 志海苔八幡神社は天正年間(1573 1591)、銭亀沢八幡神社は正保元(1644),石崎の勝願寺(浄土宗称名寺末)は明暦2年に、僧求道が建て求道庵といい(大正9年寺号)、銭亀沢の大願寺(,称名寺末)は創立年代は不明だが、もと上湯川にあって念称庵といい、明和2年に現地に移った(大正7年寺号) / 下海岸方面の社寺
函館市史 別巻 亀田市編 (宝皇寺(真宗大谷派))

宝皇寺(真宗大谷派) 宝皇寺  創立は安政六年四月、開基は厳如上人、はじめは「東本願寺別院広大寺,」と称し、翌万延元年五月、箱館奉行小出大和守の差図により「東本願寺別院宝皇寺」と改称した。  ,前記のように安政六年、本願寺二十一世大谷光勝法主が使僧斉聖寺をもって箱館奉行堀織部正に出願し、国恩に報,いるため自費をもって能登・越中の民を数十戸移住させ、桔梗野を開拓して、「東本願寺開発場桔梗野」と称した,その後移民が増加して道場が狭くなったので、当時の住職間瀬徳温の所有地一、二〇〇坪を寄付し転住を願い、明治十五年五月六日 / 宝皇寺(真宗大谷派)
函館市史 銭亀沢編 (戦時下の寺院)

国内が戦時色一色に染めぬかれる昭和十七年の頃になると、宗教世界も、「宗教報国会」のもと、戦争勝利の祈願,」の戦勝祈念を、地域住民に浸透させていったのである。  ,浄 土 宗 勝 願 寺 字石崎 230    - 浄 土 宗 大 願 寺 字銭亀 263    -,この石崎説教所(今日の西願寺の前身)が、大正九年から昭和九年の間に石崎地区に進出していたことになる。,これによって、地内の六か寺の仏教寺院のうち、五か寺が石崎地区に集中していたことがわかった。 / 戦時下の寺院
函館市史 通説編 第二巻 (北海道における近代寺院の造立と函館)

法龍寺 観音寺 新善光寺 広照寺 高野寺 威光寺 西念寺 専勝寺 大沢寺 北漸寺,法輪寺 豊隆寺 慧林寺 超勝寺 札幌説教所 小樽説教所 永豊庵 光明寺 後志・余市,胆振・有珠 根室・根室 後志・小樽 渡島・茅部 後志・古平 渡島・函館 釧路・釧路 十勝・,本願寺 本願寺 本願寺 総持寺 京都仏光寺 松前法幢寺 本願寺 本願寺 函館高龍寺,本願寺 本願寺 松前法源寺 永平寺 本願寺 函館称名寺 松前光善寺 古平禅源寺 本願寺 / 北海道における近代寺院の造立と函館
函館市史 銭亀沢編 (近代の妙応寺)

近代の妙応寺 大正期の妙応寺(北海道立文書館蔵)  明治五(一八七二)年、明治政府の「神仏分離,日蓮宗の寺院には、壇家の菩提寺とともに、もろもろの祈願などをする祈祷寺もあることを考慮したからであろう,なぜなら、石崎のほかの浄土宗の念称庵(大願寺の前身)や、求道庵(勝願寺の前身)には、神官菊池は出向いていないのである,明治十二年九月二十六日、この経石庵が庵号を改めて「日持山妙応寺」と寺号を公称したい旨の願書が開拓使へ「,奉願」され、翌十月四日に「聞届」けられた(「庵号改称願」妙応寺蔵)。   / 近代の妙応寺
函館市史 通説編 第二巻 (政府首脳への請願)

政府首脳への請願 3月の黒田長官の要請に答えて7月30日から東北・北海道(8月30日手宮着)の現況視察,三井銀行方、北白川宮能久親王…田中正右衛門方、大隈参議…渡辺熊四郎方、大木参議…平田文右衛門方、徳大寺宮内卿,…勝田弥吉方)(14年8月18日「函新」)に入った。  ,、青森)の際には、帰路函館港に寄るとの達(明治9年太政官達第46号「太政官日誌」)を受けた開拓使の請願で,を提出しながら、開拓使の対応に行き詰まりを感じていた請願者達は、やむを得ず政府高官への請願に踏み切った / 政府首脳への請願
函館市史 通説編 第二巻 (東本顧寺の移転)

東本顧寺の移転 東本願寺=函館別院は、明治初年にはアメリカの仮領事館に当てられたのみならず、同9年の,大火後に再建された東本願寺 「函館実地明細絵図」より    この移転論争は結局、道路改正,により、明治14年に大谷光勝の私有地である現在地に移転することで決着したのであるから、両者引分けの形となって,いっぽう、明治12年の大火には直接見舞われなかったものの、本願寺派函館別院=願乗寺も災火には悩まされ続,そうした中で、明治40年の大火によって、大谷派函館別院・本願寺派函館別院・称名寺そして実行寺が悉く再焼失 / 東本顧寺の移転
函館市史 通説編 第二巻 (明治時代の函館の寺院群)

12,509人 浄土真宗 西派別院 東川町 浄土真宗 本願寺派 西本願寺 安政4(1857)年、堀川乗経,が本願寺休泊所として創立。,万延元(1860)年、本願寺掛所願乗寺と 改称。明治6年、豊川町からの出火により焼失。,7,500人 宝皇寺 桔梗村 浄土真宗 大谷派 東本願寺 本願寺21世光勝が、安政6(1859)年、,箱館奉行所の許可を得て、桔梗村に越前国の農民数10戸を移住させ、東本願寺開発場桔梗野とし、同地に本願寺別院広大寺 / 明治時代の函館の寺院群
函館市史 銭亀沢編 (伝承にみる仏教寺院)

伝承にみる仏教寺院 石崎町にある曹洞宗善宝寺の、寺院と壇家による寺院機構は、僧侶、「責任役員」(三人,この寺院機構をもとに、年二回開催される定例総会で、各種の寄付金や布施のことなど、寺の維持方針が決定される,第二次世界大戦時下から戦後の前後には、この寺院機構を活用した僧侶と共同の「読経会」も催されており、寺院,妙応寺・観意寺・善宝寺・勝願寺)が共同で事に当たった。  ,病気と家内安全を祈願するこの祭りは、女性中心の祭りであるが、毎年一五〇人前後の参拝者がある。 / 伝承にみる仏教寺院
函館市史 銭亀沢編 (石崎町の二つの講)

これは、戦時中の一時を除いて明治から現代まで続いており、その目的は女性の安産祈願にある。,「観音講」は、昭和から現代まで存続しており、地内の人は宗派に関係なく、勝願寺に毎月十七日に集まり、航行,昭和十年に、勝願寺に観音様を建立した。お盆と正月には、盛大な祭りを催すという。,この観音講は、前の勝願寺のところで確認した昭和六年の二三三名にのぼる「西国丗三番石像観音尊芳名帳」と全
恵山町史 (開拓許可)

開拓許可 明治2年8月29日、太政官の弁官より呼掛有り、公用人佐々木長兵衛を使者として出頭せしめしに「願之通,御 沙 汰 書                        東本願寺光勝  今般北海道新道切立願之通被, 仰付候 付開拓使之指揮ヲ受ケ可致尽力  旨御沙汰候事    又、「今般本願寺東門主より北海道新道切立之願且有志之信徒新開村落,へ移住人民救輸為致度段願之通被度許万事其府へ可伺出旨申渡候此段相違候事□但北海道土地支配被仰付候藩々へ,以上(『東本願寺北海道開教史』より)
函館市史 銭亀沢編 (石崎共同墓地)

表によると石崎の墓地は明治四十一年と地域内では遅れて許可になっているが、これは現墓地へ通じる坂下の勝願寺,墓地移転時の記録は残っていないが、勝願寺の本堂裏手一帯はかつて墓地であり、檀家や宗派に限定せず共同墓地,戦前は宗派別に、南一区から六区までは浄土宗(勝願寺)、七区から一〇区は曹洞宗(善宝寺)、北の一区から四区,は浄土真宗(観意寺)、五区から一〇区までは日蓮宗(妙応寺)と分かれていた。
南茅部町史 下巻 (【資料三】 逓信省発行 記念絵葉書)

大きな犠牲を出したが戦争は勝利に終わったので、この戦役記念絵葉書の発行は一層多くの企画を重ねたらしく、,第二回 一組三枚    得利寺戦役、我兵ノ砲撃、巡洋艦ノ陸上砲撃、各宮妃殿下繃帯御調製   第三回,この三回は、明治三八年の戦勝がほぼ決定的になった五、六月ごろ発行されたものである。    ,さらに、この日露の戦勝記念絵葉書を、局長飯田清次郎が二四便、家族へあてて投函している。,ハ 御報迄デ草々敬白   三八・八・一九     小生義無事着御安心ヒ下度願上候也 ハ便丸一型函館九
函館市史 通説編 第二巻 (江戸城引渡交渉)

などを登用、明治元(1868)年2月12日には松平慶永の忠言を受け入れ、自らも江戸城を出て上野寛永寺大慈院,西郷は、勝の嘆願条件の検討を約束し、とりあえず江戸総攻撃の中止を指示した。,勝の嘆願を検討した新政府は、徳川家処分方針を決定、4月4日、東海道先鋒総督橋本実梁、同副総督柳原前光が,第二箇条 城明渡シ尾張藩へ可相渡ノ事(勝は江戸城を田安慶頼預かりとすることを嘆願していた。),の次のような内容の嘆願書(「太政官日誌」『復古記』)を東征軍参謀に提出することとなった。  
函館市史 通説編 第二巻 (内陸部の埋立と市街整備)

願成寺川から函館山を望む  亀田川を外海に転注した結果、願乗寺川は自然廃河となり、塵芥物が堆積して,また願乗寺川の埋立と前後して、明治18年の大火の際恵比須町より末広町までの道路改正により、東浜町より蓬来町,以上の事業は北海道庁によるものであるが、最後に願乗寺川埋立に関連しての函館区の事業にふれてみたい。,函館区は亀田川の転注により、願乗寺の埋立が予想された明治19年4月の段階で、北海道庁に対し倉庫地として,願乗寺末流にあたる敷地の払い下げを請願した(明治18年「臨時区会決議録」)。
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田村の表彰式)

故正二位 大僧正 大谷光勝法主  故従五位勲五等 園田実徳  守田岩雄」(大正八年一月七日函館毎日新聞,)    大谷光勝法主は大谷派東本願寺第二一世法主、安政五年以来明治初期に至るまで、亀田村桔梗野の,開拓に尽力、宝皇寺建立など、今日の桔梗村の開祖ともいうべき人である。  
恵山町史 (恵山権現(えさんごんげん)を祀った人々)

恵山権現(えさんごんげん)を祀った人々 およそ、人の住んでいるところで、神社やお寺の見かけないところはない,それでは、いったい、誰が何を願い、この恵山大権現を祭ったのであろうか。  ,現在堂内には金毘羅(こんぴら)大権現・秋葉大権現・勝軍地蔵尊の三神が合祀(ごうし)されているが、これが,勝軍地蔵尊については、和人を守ってくれるいわゆる鎮守であろう。,そして、これらの自然の恐ろしさ、災難に対する無力を嘆き、時折訪れる修験者(しゅげんじゃ)に祈願を請い共
南茅部町史 上巻 (臼尻村二代目戸長 篠田順)

篠田順は旧名田中勝之介といい、山形県の人である。  ,これを北海道庁の青江秀の諸村巡回の折請願して、ついに明治二〇年、鹿部、臼尻、尾札部村合同の病院を設立した,                    真宗大谷派     斉藤慎三 森田森太郎                     西念寺,    後藤八十吉 相木慶太郎   相木寛蔵                 相木幾一郎       □本勝之助,金丸徳次郎 副                           川村千代松 田中嘉八郎 西川勘五郎   寺沢久八
函館市史 通説編 第一巻 (神社)

神社 往時は神仏混淆の時代で、薬師堂のごとく寺か社か区別しがたいものもあるが、のちに神社と定められたものを,明徳元(1390)年、河野加賀守森幸なる者が越前敦賀郡の気比神宮より勧請し、文禄年間には領主蠣崎氏の祈願所,承応初年に松前千勝丸(後の9代高広)が湯治し、母清涼院が奉謝のため、承応3(1654)年、知内産の黄金,その鰐口は湯倉神社に現存し、それには「奉掛薬師堂松前千勝丸敬白甲午承応参年正月吉祥日」、裏に「国次作」,  弁財天社(現厳島神社) 亀田八幡宮の神職が漁期に来て豊漁祈願したのが始まりといわれ、『
函館市史 銭亀沢編 (〈石崎〉)

〈石崎〉 石崎村は、銭亀沢村境より、字小鳥澗、字崎、石崎宮の川を挟んで字石崎、寺の川を挟んで字中村、,字石崎は石崎宮の川と寺の川に挟まれた間口約一八〇メートル、奥行四〇メートル足らずの狭い地域である。,東境は寺の川で、墳墓地はみあたらないが、寺の川河口部に求道庵(浄土宗勝願寺)があり、寺裹という小字も存在,中村川河口東よりに、短冊状地割に並んで間口を少し広く取って経石庵(日蓮宗妙応寺)が位置している。,られていること、近世初頭以前に成立した小字集落は、昆布漁業を核にした漁業集落で、集落境界に神社や墳墓地・寺院
函館市史 通説編 第二巻 (その他の出版物)

北溟社の明治11年~明治12年「諸願届書」によれば、『北海道大小区画書』(明治11年)、『開拓使函館支庁職員録,の香てふ 函館遊寓名士伝 家屋図入/北海立志編 日本北海道案内記 北海/巴港之宝庫 函館紀勝,小野寺一郎 小野寺一郎 泉保作 黒田林蔵 吉岡憲 三好菊太郎 宮城勇 沢石太 沢石太,魁文舎 函館毎日新聞社 小島大盛堂 魁文舎 北鉄旅行案内発行所 北鉄族行案内発行所 中里勝蔵,のぶし矢 函館公論 北海文学 北海叢話 新声 鶯笛 北海パック 小橋栄太郎 北海婦人会 勝見貫一郎
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田地域の馬と競馬)

      桔梗村   一 馬ノ蕃殖起原及ヒ即今蕃殖景況ノ進歩改養(善)ノ方法    安政六年京都東本願寺当村開墾,近在村々より各駿馬を引出して誇りあへるが、頗る連勝を得て喝采を得る者あり。,蓋し此地の少壮輩、士民の外僧侶にても医師にても何れも騎馬に巧なれば、人に託して勝を制するを屑とせざるなり
函館市史 通説編 第二巻 (幕末の外国人医師たち)

この両者の西洋医学に、地域住民から大なる期待が寄せられたことは、「安政六未年願書并歎願書」(『函館市史,当時、住民は勝手に外国人医師の診察を受けられなかったから、まず奉行に診療願いを出すわけで、それがこの史料中,安政6年1月から約半年の間に、70件ほどの願書が出されている。その1つを例にあげてみよう。,通治療相頼種々薬用仕候得共、今以て全快不仕何共難渋至極に罷在候処、内澗町喜兵衛手代寅之助と申もの長々足病相煩、此度浄玄寺止宿,しかし一番多い病気は限病で願書の35パーセントを占めている。
函館市史 通説編 第二巻 (仏教演説会の盛行)

この寺院同志の横の関係を保つべく組織された「六和会」こそが、実は仏教演説会を積極的に推し進める母体であったのである,事実、この明治37年前後の新聞記事には、神社のみならず寺院の戦勝祈願の記事も数多く報じられている。,このように、明治17年以後の函館宗教界は、寺社によるキリスト教排撃を基調としながらも、日露戦争という非常時,これこそ寺院の機能的変遷に他ならない。
函館市史 通説編 第二巻 (箱館の動揺)

未タ火鎮らす候、尤所々ニテ大戦ひ死亡沢山、京都町首持歩行困乱甚敷、言語ニ述かたく、四日八ツ時頃ニ仁和寺宮様御狩衣,4日の昼過ぎには仁和寺宮が錦籏2流と共に出馬、行く末はどのようになるのかと心配しておりますとの情報で、,征討大将軍となった仁和寺宮が錦籏2旒と共に登場するなど、かなり精度の高い情報であるが、その後に「勝敗ノ,山村、中沢両組頭にその旨を説明したが、彼らは帰府を懇願する姿勢を変えなかった。,しかし、橋本悌蔵が箱館に到着した時には、人心の動揺の鎮静に心を砕いていた杉浦兵庫頭は、請負人の度々の歎願に
恵山町史 (6、恵山大権現)

6、恵山大権現 恵山大権現といえば、江戸時代、大成町の太田山・太田神社、伊達市の有珠山・有珠善光寺とともに,(1664)美濃の美並村、福野の白山神社に御神体を納め、行基(註1)の徳風を慕い仏像12万体彫刻を発願し,道南の寺社で寛文5,6年頃の草創の観音堂のほとんどに円空仏が祀られている。  ,勝軍不動明王も地蔵の変化身という。,この金比羅大権現は神仏習合の神(仏)として、郷土、恵山の豊国寺(第2節の寺院の項参照)にも祀られている
函館市史 別巻 亀田市編 (名主の仕事)

故ニ村役人ハ十月頃ヨリ村内ノ宗門人別調ニ従事、調帳ヲ作リ函館ノ旦那寺ニ至リ寺受証ヲ乞ヒ、調書ヲ添テ差出, 娘志げ十九才 弟岩松二十一才 忰豊太郎四才 次男勝太郎三才 娘かや六才    以上七人の内 男四人女三人, (以下略)   浄土宗称名寺□印 水嶋三太郎五十九才 妻ちせ四十七才(以下略)   日蓮宗実行寺,  浄土宗願乗寺   惣宗門家数四拾四軒 人別合弐百六拾弐人    内男百三拾七人 女百弐拾五人,一 箱館市中并ニ六ケ場所村々ヨリ、冬分夫食米拝借相願候ヘバ、糺ノ上代金上納ノ期月ヲ定メ貸シ渡シ来候
南茅部町史 下巻 (竹中重蔵)

のち、本願寺函館別院の事務を執り、函館市内に一店を創業。樺太鰊の買とりに加担して大金を得る。,事業の経営も旺盛で、昭和三年、念願の乗合自動車事業を創業する。  ,書をよくし、文才に勝れていた。  ,            皮膚病の治療のため川汲温泉に湯治     22年 2月    函館区元町東本願寺別院本堂再建部書記会計係,、北海道寺務出張所北海道慈善会簿             冊記録整理係勤務     25年      
椴法華村史 (明治元年)

箱館奉行杉浦勝誠は、箱館市中に浮説が流行し人心が動揺していることを知り、二月二十日、治安維持に配盧し、,・三月二十五日 朝廷上議所において箱館裁判所設置その他について審議 ・四月 箱館裁判所を設置し仁和寺宮嘉彰親王,榎本軍は箱館府宛の嘆願書を人見勝太郎に持たせて出発させる一方、箱館を攻撃する態勢を整え、大鳥圭介の率いる
戸井町史 (九、体育・文化行事)

町内の神社、寺院、旧家等から借用して展示した文化財、民俗資料は次の通りである。  ,北海道文化財指定・板碑 宇美 藤蔵 浜 町 2 円空仏 汐首観音堂 汐首町 3 松前侯より拝領した大盃 平沼 勝敏,   〃  〃 30 吉良邸平面図    〃  〃 31 戸井警察署図面    〃  〃 32 つぼ 寺西,   〃  〃 91 火鉢    〃  〃 92 お重(五つ重) (四つ重)    〃  〃 93 東本願寺一如上人書,104 鰐口    〃  〃 105 神楽面    〃  〃 106  伝目定釈迦牟尼伝像 法 泉 寺
函館市史 通説編 第二巻 (開拓使の神仏分離観の転換)

#160; 北海道ノ儀ハ従前氏神氏子ノ区別十ニ八九ハ判然不致(中略)社モ亦漁場請負人・出稼人等漁業祈願ノタメ,また一方、開拓使は明治5年の頃、「北海道ノ儀ハ辺境未開ノ地ニテ従前漁夫商人等願済ニモ無之、神社仏堂勝手次第造立,此段モ兼テ及御懸合置候也」(「開公」5735)と、北海道の寺社建立の特異性を認めざるを得ないことも教部省,こうした開拓使による北海道的な寺社建立の特殊性の容認という史実に徴するならば、前に課題としていた明治4,箱館奉行所の祈願所として、毎年米20俵の支給を受け、正月の神楽と8月の祭礼には、奉行所から葵紋の高張堤灯
戸井町史 ((参考)北海道と青森県の円空仏)

中には江差町五勝手の柏森神社や木古内町佐女川(さめがわ)神社の御神体になった円空仏のように、衣冠束帯を,寛政十一年(一七九九)幕吏松田伝十郎が、蝦夷地調査の幕命を受けて渡島した途次、背面に刻まれた場所に運び円空の願望,〃〃 鳥山観音堂 観音像 台座共四五センチ 江差町泊 観音寺 阿弥陀像 台座共三ハセンチ 江差町五勝手,但し、油川の浄満寺や三厩の義経寺等にある円空仏は、渡島前の作仏と思われる。  ,むつ市大湊 常楽寺 阿弥陀如来立像 常楽寺はもと田名部にあり神宮寺と称していた。総高一四六センチ。
函館市史 通説編 第一巻 (沖ノ口取締)

一 入津の船頭、水主、宗旨寺判銘々持参来り候様に申付け置くべき事。,其内春中粒鯡(生鰊)積出候船、勝手により直に出帆いたし度き旨相願候はば、改役相済候上出帆申付くべき事。
恵山町史 (朝田鉱山の大惨事)

朝田鉱山の大惨事 本町の字古武井、曹洞宗高聖寺の山門近くに、「朝田鉱山雪害横死者之碑」と刻まれた(正,7位勲5等榊原勝行書)石碑が建っており、裏面には横死者男11名、女18名の名前が記されている。  ,双股の雪崩の発生を知った請願巡査(鉱山事務所・村役場の請願により、鉱山には巡査が配置されていた)小林捨次郎
函館市史 別巻 亀田市編 (歴史を画する議決)

寺田八郎議員(反対)は  「市長は共産党との政策協定を破棄したこと。,吉田二郎議員(賛成)は「合併は両市民の願望であること。陳情請願者が二万六、〇〇〇人余にものぼること。,土井勝雄議員(反対)は  「住民不在の合併であること。函館市の都市像がはっきりしないこと。,迎町春光議員(賛成)は  「住民多数の願望を生かすこと。」と明快簡潔に賛成した。    ,翌八日、請願第三号(「住民投票の結果が出るまで合併議案の議決を待て」との趣旨)について、事務局から、「
函館市史 別巻 亀田市編 (四年間の活動状況)

両地域住民の意識調査によっても明らかであり、住民の大半がその必要性を痛感すると共に一日も早く合併するよう願望,亀田町函館市の合併実現を期せねばならぬことは、賢明なる貴職の熟知することであり、私共地域住民の永年の念願であります,吉田二郎 山村衛敏 秦徳雄 佐々木正 亀谷利春 平野重治   丹信樹 鈴木勉 迎町春光 伊藤安昌 寺田八郎, 土井勝雄   2 第二回委員会(三月六日)   「亀田町函館市合併促進要望書」について、委員会,田中本司郎 吉田二郎 寺田八郎 伊藤安昌 土井勝雄   3 第一回理事会(四月九日)   「亀田町函館市合併促進要望書
椴法華村史 (明治三十七年)

十二日午後一時五十五分函館特發)    昨日正午青森縣津軽郡艫舴(へさき)崎十哩沖にて汽船奈古浦丸全勝丸露艦四隻,に取巻かれ奈古浦丸撃沈全勝丸雨を冒し全速力にて松前郡福島に逃げたりとの報達するや區民非常に騒擾し昨夜より,北海道渡嶋國小島沖に於て帝國商船奈古浦丸(七百十余噸)は露國軍艦四隻の為めに砲撃せられ沈没したり同時に全勝丸,二十五日、敵艦隊は房州勝浦沖を東航中なりとの情報に接し、再び日本海に入らんとするものなるを判斷し、海峽禦艦艇,またこの時赤十字社や愛国婦人会の結成が奨励され、神社や寺院では必勝祈願祭や戦没者の追悼法要なども実施され
恵山町史 (6、郷土と高田屋嘉兵衛)

箱館に回航、回船問屋の白鳥勝右衛門方を宿とする。,1818年(文政元)<49歳>・高田屋嘉兵衛健康勝れず郷里へ帰る。,墓は郷里の多聞寺と函館市の浄土宗、称名寺にある。  ,なお、恵山の麓にある浄土宗「興徳山布教院、豊国寺」の寺号の公称は、1881年(明治14)4月であるが、,因みに、嘉兵衛の墓は郷里の多聞寺と函館市の称名寺にあり、いずれも豊国寺と同じ「浄土宗」である。  
恵山町史 ([昭和9年の尻岸内村勢要覧])

  教] 神社 郷社一(八幡神社)        無格社三(稲荷・海積・厳島神社)        寺院, 曹洞宗二(高岸寺・高聖寺)        浄土宗一(豊国寺)・説教所二 [村吏員]  有給吏員 ,浴舎の裏手、賽の河原の中に高田屋嘉兵衛舩中の海上安全祈願の碑あり、之より山頂に登る道は茫々岩塊の間を九折蛇行,山を下りて根田内街道を東に七ツ岩の奇勝を過ぎ、磯谷温泉に至れば剛放峻厳なる恵山の突角は打寄する太平洋の
函館市史 通説編 第二巻 (明治初期の商工行政と商工会)

第一の理由は、明治政府の悲願であった条約改正をすみやかに遂行するためには、日本の商工業者の世論を代表する,松本、飯田、 高松、徳島、撫養、小倉 〃 14 熊本、松山、三重、新宮、富山、武生、 坂井、大聖寺、,39 勧業会設立の年次的推移 年次 所在地 明治16 東京○ 〃 17 秋田、銚子×、勝山,21 長岡、上田、伏木、敦賀、北万、八幡(近江)、 彦根、杵築 〃 22 札幌、小樽、函館、長野、寺庄
函館市史 銭亀沢編 (幕末の村むら)

「蝦夷日誌」には「其名に愛て縁結び等を願いける人もあるやらん、傍らに柵結て是に願成就の幟等多く建たり」,村中から一四町余で、近郊無双の勝景と記されている。恒祭は三月十日。,寺は摺鉢石の近くに称念庵がある。  ,村内には川が多く、宮川、寺川、白石川、目名川、谷地川があり、谷地川が小安村との境となる。  ,寺としては経石庵があり、箱館実行寺の「永仁四年六老僧の日持上人是地へ渡り、庵を結で棲み居ること四年、後漢土
函館市史 銭亀沢編 (目次)

の妙応寺/近代の勝願寺/     戦時下の寺院/小学校生徒の戦争・神社観/大漁と出稼ぎの安全を祈って,銭亀沢の宗教世界……………………300     石崎八幡宮の場合/根崎川濯神社の場合/古川町の大漁祈願祭,/石崎町の二つの講/     志海苔町の二つの講/古川町の観音講/銭亀沢地区の講/伝承にみる仏教寺院,の立地と建物/     浄土宗大願寺/浄土宗勝願寺/真宗大谷派観意寺/日蓮宗日持山妙応寺/曹洞宗善宝寺,/     真宗興正寺派西願寺/墓地と火葬場  三 銭亀沢の住宅と住い方…………………………………
恵山町史 ([郡区町村制と戸長役場])

開拓使士族   〃     13等20円   山崎弓雄  岐阜県士族   〃      〃  〃  野村勝蔵,第五  職遊猟願威銃願ノ事。 第六  印紙罫紙売捌願ノ事。 第七  小学校資金ノ事。,第九  成規ニヨリ社寺及ビ教導職取扱ノ事。 第十  棄子迷子処分ノ事。,第十一 旅人逓送願及発病行倒等処分ノ事。 第十二 道路掃除方法ノ事。,第十六 郡書記以下帰省養病願ノ事。 第十七 地方税ニ関スル諸営業願ノ事。
函館市史 通説編 第二巻 (箱館府の廃止時期)

改称 神奈川  1.4.20 箱 館 1.4.12 仁和寺宮嘉彰親王,新 潟 2.2.22 新 潟       ―――┘     明治 府中但馬 1.4.19 西園寺公望,・市政・民政の3裁判所を設置(旧幕の寺社、町、勘定奉行を引き継ぐもの) 佐 渡 1.4.24,弁務助勤申付候事        巳九月       箱館県                   粟津勝之助,された際の例     明治15年 2月8日 開拓使廃止、3県設置の大政官布告       2月9日 願伺届等宛名布達
戸井町史 (目次)

……363  第五節 戸井の万体仏と貞伝上人………………………………………365  第六節 法泉寺の,法泉寺(館町)       「附」三十三番の観音さん     三、大隆寺(館町)     四、大宣寺,古記録に現われた道南の昆布      3、戸井産昆布と製品名      4、昆布採取及び製造兼業願(,とその解説     三、戸井の方言を構成している東北地方の訛語、訛音の法則 第十五章 下北半島の景勝地,………………………………………1137     一、仏が浦の絶景(佐井村)     二、鍵掛岩(願掛岩
/ 2ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました