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函館市史 銭亀沢編
(浄土宗勝願寺)
浄土宗
勝願寺
明暦二(一六五六)年に僧の求道によって現在の地に開かれたのがその始まりであり、当初は求道庵,その後称名寺の末寺となり、
勝願寺
と改称している。 ,
勝願寺
勝願寺
平面図 / 浄土宗
勝願寺
函館市史 銭亀沢編
(近代の勝願寺)
近代の
勝願寺
この妙応寺と並んで、比較的史料をよく伝存している浄土宗
勝願寺
の、近代における動態を探ってみよう,『北海道寺院沿革誌』で、この
勝願寺
の来歴について、その建立の年時と開基名、本寺名を確認したが、
勝願寺
が,寺宝として伝える「由緒書」(明治二十七年)によると、
勝願寺
の前身・求道庵(当時「亀田郡石崎村字中村壱番地,この明治二十七年は、
勝願寺
にとって、「本堂庫裏」の大改築を実施した画期的な年であった。,こうして寺号公称を許された
勝願寺
は、以後、順調に寺勢を拡げて、昭和の時代へと入っていく。 / 近代の
勝願寺
函館市史 銭亀沢編
(石崎町の二つの講)
「観音講」は、昭和から現代まで存続しており、地内の人は宗派に関係なく、
勝願寺
に毎月十七日に集まり、航行,昭和十年に、
勝願寺
に観音様を建立した。お盆と正月には、盛大な祭りを催すという。,この観音講は、前の
勝願寺
のところで確認した昭和六年の二三三名にのぼる「西国丗三番石像観音尊芳名帳」と全
函館市史 銭亀沢編
(寺院の姿)
されなければならないのは、現在の六か寺(日蓮宗の妙応寺、浄土真宗の観意寺、曹洞宗の善宝寺・西願寺、浄土宗の
勝願寺
,ただ、この
勝願寺
・大願寺の記事も、妙応寺に比べてかなり簡略なものとなっている。,
勝願寺
については、前身を「求道庵」として、「本寺は函館称名寺、明暦二年(一六五六)の建立、開基は求道、,『北海道寺院沿革誌』は、このように、
勝願寺
と大願寺についてそう多くを語らないが、それでも近世の明暦二年,近代寺院の歴史は、近代国家の宗教施策の中で均質的に展開することを求められたのであるから、妙応寺と
勝願寺
函館市史 銭亀沢編
(寺院の立地と建物)
銭亀沢地区では神社は町ごとに一つ以上存在しているのに対し、寺院の場合、銭亀町に大願寺(浄土宗)、石崎町に
勝願寺
,また、
勝願寺
・観意寺・善宝寺の三寺に関しては、いずれも敷地を隣り合わせて建っており、寺町の様相を呈している
函館市史 銭亀沢編
(石崎共同墓地)
表によると石崎の墓地は明治四十一年と地域内では遅れて許可になっているが、これは現墓地へ通じる坂下の
勝願寺
,墓地移転時の記録は残っていないが、
勝願寺
の本堂裏手一帯はかつて墓地であり、檀家や宗派に限定せず共同墓地,戦前は宗派別に、南一区から六区までは浄土宗(
勝願寺
)、七区から一〇区は曹洞宗(善宝寺)、北の一区から四区
函館市史 通説編 第一巻
(下海岸方面の社寺)
石崎の
勝願寺
(浄土宗称名寺末)は明暦2年に、僧求道が建て求道庵といい(大正9年寺号)、銭亀沢の大願寺(
函館市史 銭亀沢編
(〈石崎〉)
東境は寺の川で、墳墓地はみあたらないが、寺の川河口部に求道庵(浄土宗
勝願寺
)があり、寺裹という小字も存在
函館市史 銭亀沢編
(近代の妙応寺)
なぜなら、石崎のほかの浄土宗の念称庵(大願寺の前身)や、求道庵(
勝願寺
の前身)には、神官菊池は出向いていないのである
函館市史 銭亀沢編
(伝承にみる仏教寺院)
葬儀も自宅で営まれることが多く、特に戦没者の慰霊供養祭は、石崎町内の四か寺(妙応寺・観意寺・善宝寺・
勝願寺
函館市史 銭亀沢編
(目次)
……………291 明治五年の神社調査/明治十二年の神社調査/寺院の姿/近代の妙応寺/近代の
勝願寺
,新湊町)/川濯神社(古川町)/八幡神社(石崎町)/寺院の立地と建物/ 浄土宗大願寺/浄土宗
勝願寺
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