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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (北前船)

北前船 松前渡海船の図 大宮神社総代大橋謙太郎氏より寄託(滋賀大学経済学部附属史料館保管)  ,たとえば、このころから北前船主として成長してきた、西野兵助、田中伊兵衛、小餅屋治郎兵衛、町野清兵衛、田中市左衛門,(『西川家文書』)  このように買積船としての北前船は、これまでの荷所船とは異なり、船頭の意志で売買 / 北前船
函館市史 通説編 第一巻 (北前船の発達)

北前船の発達 箱館の経済は前述のような不振を続けるが、しかしこの時期は同時に北前船の飛躍的な発展をみた,すなわち、文政・天保期以降の箱館と本州諸港との交易は、この日本海海運の花形にまで成長してくる北前船によって,北前船はいわゆる賃積船ではなく、船頭の意志でどこにでも航海する買積船であり、文化・文政以降になると箱館港 / 北前船の発達
椴法華村史 (北前船の航行)

北前船の航行 一六〇三年に江戸幕府が開設され、江戸が政治・経済・文化の中心になったことにより、以前よりあった,この時代の蝦夷地に来航していた船は、「北前船」(通称ドンブリ船)と呼ばれる船で、北国すなわち加賀・能登 / 北前船の航行
恵山町史 ([昆布の道])

この北廻り航路を往来した船が「北前船(弁財船)」である。,北陸の米を運んでくるので北米船と呼ばれたという説もあり、この北前船は、単なる運搬船ではなく、各地の産物,北前船の大型化、帆の構造・操作の工夫などは、それだけ北廻り航路・昆布の道は富をもたらす魅力的な商いができる,北前船1艘の建造費が蝦夷地と本州・上方の2回の航海で元を取ったと伝説的に伝えられている。  ,蝦夷地の海産物、とりわけ高価な値段で取引される昆布、北前船は日本海の荒波を越え、その主産地下海岸・陰海岸
函館市史 通説編 第二巻 (函館商人の系譜)

5千円~6千円 末広町 呉服太物商 和洋建築鉄物商   忠谷久蔵 5千円~6千円 大町 北前船経営,北前船の故郷ともいうべき加賀橋立の出身で、すでに明治初年には大和船数隻を所有して北前船経営を続けるとともに,函館には忠谷のほか平出喜三郎、久保彦助、西出孫左衛門などの著名な北前船主、その他多くの北前船関係者の活動,また、末期の北前船が露領漁業に従事したことは、周知の事実なのである。,北前船主の経営は、実際には、この支店が中心なのであり、その意味では地場の資本として扱ってもよいのである
函館市史 通説編 第一巻 (断宿の独占利潤)

従って、断宿の得る問屋口銭は、売買過程で、取引の相手となる船手(多くは北前船)の船宿になっている問屋が,だから北前船などが、箱館に来て場所請負人と取引し、その場所に産物を積取りに行った時には、結局、断宿に入御口銭
南茅部町史 下巻 (〔明治の海運〕)

北前船と呼ばれた五、六百石積みの弁財船の時代は、明治二〇年代まで続いていく。  
函館市史 通説編 第二巻 (渡島組設立)

実は当初の発起人の荻野喜兵衛は石川の北前船主である忠谷久蔵の大町にある函館支店の惣理(18年11月11,忠谷自身も和船久保丸などを所有し北前船経営を続け明治4年には函館に支店を設け荒物・海産商を営んでいた。,忠谷は他の北前船主と同じく函館に本籍を移す事はなかったが、実質的には函館に土着して活動した商人であった,渡島組が次に述べるように改組して新たな海運会社として飛躍する背景には北前船主として活躍したこの忠谷の参加
函館市史 銭亀沢編 (戸数と集落)

この流通上の画期として、北前船が上方と北海道を結んで盛んに就航されるのは一八世紀後半の宝暦・天明期以降,それに先立つ一八世紀中頃に発展した石崎村や上湯川村・下湯川村は、北前船流通の全国展開の下地を形成した地場産業
椴法華村史 (繩とじ船・丸木船の海峡横断)

繩とじ船・丸木船の海峡横断 津軽海峡には大きな三つの潮の流れがあり、五百石・千石といった北前船でもこれを
函館市史 通説編 第二巻 (「日本大廻り」航路の成立)

西周りは買積船である北前船が幕末以降依然として主流を占めていたためであった。,開拓使付属船やその他の海運会社の汽船利用が顕著であったため、三菱への移行が比較的容易であったのに対して西周りの北前船,しかしこの三菱の西周り航路への進出は旧来の和船による廻漕業者、北前船主層には大きな脅威となっていった。,また全道的には10年代後半から20年代にかけて電信の普及等により、遠隔地交易による価格差を利潤とした北前船
恵山町史 (航路の進歩と官営の廃止)

航路の進歩は、港の修築や北前船などの船舶の運航能力の向上に因るところも大きかった。
椴法華村史 (椴法華と本州直送海運)

はどのような様子であったろうか、毎年時期になれば現在の元村〓中村宅前浜に本州から一度箱館へ入港し、許可を受けた北前船
函館市史 別巻 亀田市編 (松前藩の蝦夷地統一と番所の設置)

味噌、陶器、古着などの生活必需品をもたらし、また昆布、鮭、鰊をはじめとする海産物その他を購入して行く北前船
椴法華村史 (前幕領時代以後)

である『元治二丑年正月諸書付』には椴法華から本州へ鱈を直送する願書が記されており、この時代になると大型の北前船
南茅部町史 下巻 (漁業開拓三百年記念の歌)

ヨイト ヨイヨイ 弁天島 サテ 大謀網だよ イヤサカサッサ   ハアー蝦夷が呼んでる  北前船
函館市史 通説編 第二巻 (芸娼妓の出身地)

函館の遊郭や芸娼妓のことが多く載っているが、それらによると芸娼妓の出身地は東北地方がほとんどで、特に「北前船
函館市史 通説編 第一巻 ([目次])

 松前家復領と藩政   第二節 復領後の箱館経済の動向   第三節 高田屋の没落   第四節 北前船
函館市史 通説編 第二巻 (社外船の登場)

19年に浅野惣一郎が日の出丸(1200総トン)を購入したのを初めとして、大家七平、広海二三平などの旧北前船主,それらは北前船主系に見られるような和船から汽船船主へと移行するもの、あるいは地方における汽船会社とその
函館市史 通説編 第二巻 (東京商人と一手積特約)

函館が旧来の北前船主体の交易、すなわち自己荷物輸送から他人貨物輸送へと移行しつつある時期に彼らは登場してきており
恵山町史 (冬)

北前船(きたまえぶね)でやってきた商人たちはこの「新鱈」を買い付け江戸に送った。
函館市史 通説編 第二巻 (汽船・弘明丸の就航)

そして北前船による日本海航路と諸汽船会社による東京・函館間の航路とともに、基幹航路へと成長していくのである
函館市史 通説編 第二巻 (競争の激化)

従来函館と阪神市場は日本海航路、すなわち北前船による比重が高かったが、太平洋沿岸経由の関西行きはさまざまに
函館市史 通説編 第二巻 (汽船の運航状況)

その主な仕出地は越後、越中を中心として、秋田、庄内が次いでいるが、従来はこれらの航路はいわゆる北前船によるものであったが
函館市史 通説編 第二巻 (北海道共同商会の設立)

所在地は、函館が圧倒的に多いが、道内の福山、江差、小樽、厚岸、根室などから、道外の四日市、東京、青森や北前船
函館市史 通説編 第二巻 (商取引の実態と商人の諸相)

であるが、従前は、中国地方や京、大坂方面への魚肥流通は、日本海海運を通じての和船による取引、いわゆる北前船,移出方法には、一般に、1、大漁場持が自己の船で移送して販売する方法、2、北越・上方方面の船主(いわゆる北前船主
函館市史 通説編 第二巻 (西洋形帆船の建造ブーム)

また函館の船主に限らず道外の船主も、三菱の日本海沿岸航路に刺激されて明治12年に北前船主広海二三郎が西洋帆船,を採用したのを先駆として、北前船の洋式化も進み始めた。
戸井町史 ([昔の蝦夷地の船])

北前船(きたまえせん)      丸木舟  丸木舟は、大木を切り倒し、造ろうとする舟の長さに
恵山町史 (風)

昔、弁財船(べんざいせん)(北前船)がクダリ風(南南西の風)に帆を孕ませて蝦夷地へ渡り、アイノ風で南下
恵山町史 ([明治・大正時代の漁業])

1750年代、宝暦年間に入ると北前船により塩が大量に出回るようになり、魚類等の塩蔵・加工技術も一段と向上
函館市史 通説編 第二巻 (汽船船主の特質)

26年時点では2隻の汽船を所有して本業の物産商、漁業経営等のほかに回漕業も始めており、広くは北前船主系
函館市史 通説編 第二巻 (亜米利加四番船の進出)

大阪を最終地とする日本海航路に就航した北前船は買積船が主流であり、自己の荷物を輸送したのに対して、外国商船
函館市史 通説編 第二巻 (莫大な利益と仕込の実態)

第1、2期の漁場主の中には、大阪から函館に至る西回り航路(北前船航路)に從事した船乗り(賣船乗りともいわれた
函館市史 通説編 第二巻 (海運の概況)

また船種別では汽船が主流となり、北前船主も汽船に移行することに象徴されるように明治後期は汽船主導の時代
恵山町史 (5、江戸時代の鱈漁)

そして、宝暦年間(1751~1763年)以降、瀬戸内の塩の生産量が増え、兵庫・大阪を根拠地とする北前船,この塩鱈も、北前船で大量の塩が蝦夷地へ運ばれるようになった、宝暦以降であり「松前史略」によると1789
函館市史 通説編 第二巻 (産業別移出入額の変化)

この時期には、衰退期にあったとはいえ、日本型船、すなわち北前船による取引がいまださかんで、各地港湾から
恵山町史 (4、嘉永7甲寅3月の『箱館六ケ場所調べ』)

弁財船(べんざいせん)は北前船とも呼ばれた大型商船であり700石積程度はあったのではないか、いわゆる回船問屋
恵山町史 (6、郷土と高田屋嘉兵衛)

同7年、和泉屋伊兵衛の北前船の沖船頭となって、兵庫から下関を経て出羽の酒田に廻船し、同国、庄内で和船技術,                 小頭  宇之助   (吉田)   山高 御印様  (1978 第4回日本海文化展 北前船
恵山町史 (3、幕府直轄以降の箱館六ケ場所)

約2.5m×15メートル×0.8メートル)が9隻、大型の弁財船(べんざいせん)(北前船
椴法華村史 (目次)

808     一 本州と蝦夷地の海運……………………………………………………808      北前船
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