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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 銭亀沢編 (増起伏運動を強めてきた渡島半島)

増起伏運動を強めてきた渡島半島 現段階での研究者たちの理解では、道南の地は第四紀が始まる約一八〇万年前,ところが、東北日本弧の北部にあたる渡島半島は、とくに第四紀の半ば頃になってから、日本列島のほかの島弧(,たとえば西南日本弧、琉球弧など)と同じく、プレートの島弧への潜り込みが強まったため、東西圧縮の力が強まり,現在、渡島半島の主軸山脈(遊楽部岳一二七七メートル、乙部岳一〇一七メートル)や、そこから分岐した亀田半島,(一一六七メートル)および松前半島(大千軒岳一〇七二メートル)がいずれも一〇〇〇メートル以上の高度を持 / 増起伏運動を強めてきた渡島半島
椴法華村史 (八千代丸と共栄丸の衝突)

八千代丸と共栄丸の衝突 明治四十一年八月二十七日、室蘭から函館へ向かった八千代丸百七十八屯と函館から,明治四十一年八月三十一日 小樽新聞   ○八千代丸沈沒 詳報       △ 原因は濃霧       ,△ 乘組員無事    滊船八千代丸が去る二十七日夜半渡島國茅部郡木直村沖合に於て滊船第三共榮丸と衝突沈沒,したる惨報は昨紙を以て逸早く報導する所ありたるが今其の詳報を掲げんに   △八千代丸 新潟縣北潟市八千代滊船會社所有滊船,△八千代丸の沈沒    時宛かも翌二十九日午前一時三分中腹を破ぶられたる八千代丸は滔(とう)々たる浸水 / 八千代丸と共栄丸の衝突
南茅部町史 下巻 (渡島の港門)

渡島の港門 函館は綱知らずの良港として、昔から船舶の入津が多かった。,大きな湾口の東側には、弁天島と呼ばれる島嶼が連らなり、天然の船掛り澗として、最良の自然の条件を備えている,提唱の内容は、当時、函館から北海道庁のある札幌への公式のルートは、函館から森に至り海路室蘭に渡り、千歳山道,臼尻村の東にある岬より五つの島嶼が横澗より沖合六丁に点在する。,弁天島中の島、沖の島の乾(いぬい)に当たる茂佐尻岬と二艘澗の間約一九丁、水深六、七尋ないし一二、三尋、 / 渡島の港門
椴法華村史 (大正十二年島泊の大火)

大正十二年島泊の大火 大正十二年五月二日午前三時、島泊中村理髪店から出火したが、当時村内には少数の手動,ポンプがあるのみで、折からの風に煽られ島泊現在の川森旅館から〓福永商店の付近までの両側一帯、三十六戸が,八万円       原因は七輪の火から    去る三日の椴法華村大火は既報の如くなるが同村より渡島支庁,損害数量及価額建物住宅全焼二十二棟、三十三戸、物置全焼二棟、納屋全焼一棟、住宅破壊二棟、物置破壊一棟、総坪数二千七百坪其他 / 大正十二年島泊の大火
函館市史 通説編 第二巻 (弁天岬台場降伏と中島三郎助の抵抗)

弁天岬台場降伏と中島三郎助の抵抗 しかし、箱館山からの砲撃と軍艦による海からの砲撃とを腹背に受けて苦況,この日、千代ヶ岱の津軽陣屋跡へも降伏勧告の使者が来たが、元浦賀奉行与力で主将の中島三郎助はこれを拒絶した,これを迎え撃った千代ヶ岱守備兵は、大小砲で迎撃したが、遂に白兵戦となり、長カノン砲を操って奮戦していた,中島三郎助も弾丸を受けて倒れた。,この千代ヶ岱攻防戦は箱館戦争最後の戦闘であった。   / 弁天岬台場降伏と中島三郎助の抵抗
椴法華村史 (渡島汽船と〓工藤海運部)

渡島汽船と〓工藤海運部 明治末ごろより、椴法華から熊泊方面の定期船路は、函館の〓(ヤマサンギ)工藤海運部,渡島汽船株式会社の設立   大正十年十月二十五日 創立総会開催   社長   小川幸一郎   所在地,  函館市東浜町十五番地   株式数  三千株    こうして渡島汽船株式会社により椴法華から熊泊,すなわち、〓工藤海運部は、春日丸、鳳至丸の二隻を、渡島汽船株式会社は、西久丸、一二丸、西海丸を投入して,その後、渡島汽船株式会社は、大正十五年十月一日、北海道道庁命令航路の指定を受け、函館・森間に芸陽丸、函館 / 渡島汽船と〓工藤海運部
函館市史 通説編 第二巻 (渡島組設立)

渡島組設立 その発端は19年の渡島組の設立であった。,     渡島組設立願  私共義当道諸貨物運搬及ビ行旅ヲ通ジ専ラ衆庶ノ便ヲ計ルヲ目的トシテ,有志輩協議ヲ遂ゲ資本金二万五千円ヲ以汽船渡島丸ヲ構造シ則明治十八年五月以降回漕ニ従事罷在候処尚資本金ヲ,結社名を渡島組としたのも渡島丸にちなんだものであろう。,ところで願書には18年5月以降渡島丸で回漕業を始めたとあるが、実はこの渡島丸は東京で18年4月に建造された / 渡島組設立
恵山町史 ([渡島半島“みち”のはじめ])

[渡島半島“みち”のはじめ] 函館から東渡島の海岸線を津軽海峡沿いに恵山岬を経て、噴火湾へ回り茅部郡森町,この『中野路』は木古内から上ノ国に至る山みちで、当時は渡島半島唯一の横断路であったが「仏法僧(ぶっぽうそう,蝦夷島の統治者となった松前藩は、和人の定住地を東は亀田(函館市)から、西は熊石までに限定し、この区域を,そして、亀田以東の内浦湾・襟裳岬・根室半島、国後・択捉島を加え知床岬までを「東蝦夷地」、熊石以北宗谷から,松前藩は石高9千石で格式大名並みであったが、領内で揚がる漁獲高などからの収益・税収は10万石とも、15 / [渡島半島“みち”のはじめ]
函館市史 通説編 第二巻 (渡島国を7大区とする企画)

藤山村 軍川村 21小区 22小区 以上村数30村 注 青文字は現函館市域の村 大野村   千代田村,)1~17小区 13村と33町 第12大区(渡島国福島郡)1~3小区 6村 第13大区(渡島国上磯郡,石川村 一本木村 大野村 千代田村 本郷村 鶴野村   文月村 峠下村 軍川村 市渡村 飯田村,第20大区(胆振国虻田有珠室蘭の3郡)1~6小区 16村と10町 第21大区(胆振国幌別白老勇払千歳,74村と1町 第25大区(根室国花咲根室野付標津目梨の5郡)1~4小区 22村と10町 第26大区(千島国国後振別択捉紗那蘂取 / 渡島国を7大区とする企画
南茅部町史 下巻 (室蘭港へ渡航すべき渡島国の港門 臼尻港)

一ハ長万部に出で噴火湾の沿岸を廻りて室蘭に至り千歳山道を過ぎて札幌に至る其里程七十九里餘なり。    ,五嶼の間は満潮の時に当り約千一丁許り。    ,にして、之を森湾の東西十五町、南北五町廿四間五尺惣坪数二十九万弐千三百五十坪に比すれバ実に四十一万四千四百五十坪,函館の戸口一万一千其大小を平均して一戸一日に大薪一本を費やすとするも一万一千本の需要あり。    ,一敷を以て三円とすれバ其総額三百円にして其一年の需用拾万八千余円なり。     / 室蘭港へ渡航すべき渡島国の港門 臼尻港
戸井町史 (一、武井の島の伝説)

と相対するように、全島玄武岩で構成された岩島が浮かんでいる。,この岩島はマンジュウ形の小さな岩島と、直角三角形をした大きな岩島を連(つら)ねたような形で、島の周囲は,この島は、遠い蝦夷地の昔からムイノシマと呼ばれ、「無意の島」「武委の島」などという漢字の当てられた時代,、島にまつわる伝説と共に、戸井町のシンボルとされている島である。  ,カムチャツカ、オホーツク海、樺太、千島、北海道に及んでいる。 / 一、武井の島の伝説
恵山町史 ([函館と亀田半島の気候特性])

ところで、渡島半島南東部にあたる亀田半島は、北海道の気候区分から「太平洋側西部」の気候に属するが、地形的,千島列島より南下する寒流の親潮と、上記の対馬暖流は、とくに夏期において交会し、多量の水蒸気が凝結して濃霧,一方、津軽海峡を挟んで、対岸の青森県下北半島の気候と、亀田半島西端の函館の気候を比較すると、表2.1(,日本列島の気温図表(例えば井上・羽多野、1983)からみると、北海道南部の亀田半島・松前半島と本州北端,以上のような亀田半島と下北半島の気候の類似性が、江戸期から現代に至る両半島地域の歴史・居住・産業(とくに / [函館と亀田半島の気候特性]
函館市史 銭亀沢編 (函館風松前神楽(渡島神楽))

函館風松前神楽(渡島神楽) この地域で演じられている神道と関係の深い神事芸能は雅楽と神楽(かぐら)である,そのうち舞楽は豊栄の舞その他数番演じられている」という(石崎地主海神社の創立者川島ゆき子談)。,また、ここで奉奏されている松前神楽を渡島神楽や函館風松前神楽と呼んでいた時代があった。,これらによって江戸時代から明治期までの松前町や福島町、江差町などの渡島半島各地の神楽文化との交流史と函館風松前神楽,       舞 獅子頭 藤山宣広            荒木力弥         尾取り 不明 次 千歳舞 / 函館風松前神楽(渡島神楽)
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田村並びに渡島地区共進会)

亀田村並びに渡島地区共進会 ○渡島二才馬連合共進会 昭和二十九年七月二十日、渡島二才馬連合共進会は村役場裏広場,        一等 伊藤  保  一等 逢坂 セツ                   二等 福島隆栄,昭和  雨塚 タカ タカ号    〃         〃  昭和  田原吉三郎   ○第一回渡島中部畜牛共進会,亀田村字昭和 鈴木勇所有 新栄号 二等賞  また、同十月十五日七飯町家畜市場において開催の第九回渡島二歳馬共進会,馬  第二部 昭和 佐々木勝雄    馬  第三部 桔梗 小野寺次郎    豚  第一部 桔梗 千葉 / 亀田村並びに渡島地区共進会
函館市史 別巻 亀田市編 (明治二十九年渡島地方調査)

明治二十九年渡島地方調査 明治初期の小作制度については現在資料が乏しくその様子を明らかにすることができない,しかし、時代は下がるが、主として明治二十九年九月、北海道庁殖民課事業手高畑冝一の調査および『渡島国状況報文,高畑の『渡島地方調査』より抜粋すると、   小作部   (一)渡島国亀田郡亀田村小作状況,亀田郡亀田村五稜廓通十八番地 一 畑地壱町五反壱畝弐拾九歩    外ニ弐反壱畝弐拾参歩     此坪五千弐百拾弐坪也,      佐々市三郎              □ 借地証書                 渡島国亀田郡亀田村字札幌通 / 明治二十九年渡島地方調査
恵山町史 (新たに設けられた19の支庁 明治30年(1897年)10月)

・爾志・久遠・奥尻・太櫓・瀬棚 札幌支庁 石狩国札幌区大通西3丁目  札幌(区)・札幌・千歳,根室支庁 根室国根室郡常盤町    根室・花咲・野付・標津・目梨・国後・色丹・得撫・新知占守 紗那支庁 千島国紗那郡紗那村,の管轄区域・郡について>  明治2年の国郡制定11カ国の1つ千島国(国後島・択捉島・色丹島)の国後(,に、同9年樺太千島交換条約により日本国領有域(中千島・北千島)となって千島国に編入された得撫(うるっぷ,つまり、明治30年の支庁制では、北方4島(歯舞・色丹・国後・択捉)を含む千島(ロシア名クリル)列島全島
函館市史 通説編 第一巻 (日露国境問題)

従って論議はこれに集中され、その交渉の過程において千島方面では、ロシア側は、択捉島は元来ロシア領であるのに,、日本人が占有しているのだといってその領有を主張し、日本側は、千島全島は日本領であるのに、ロシア人がその,エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、夫より北の方クリル諸島は魯西亜に属す、カラフト島に至りては、日本国,   ここにおいて、多年日露両国間の問題となっていた、千島列島における国境は確定されたのである,現在わが国が南千島領土の返還を主張しているのは、まさにこの条約に基づくものである。
函館市史 通説編 第二巻 (北海道のラッコ・オットセイ猟の沿革)

が国のラッコ・オットセイ猟であるが、寛成12(1800)年淡路出身の高田屋嘉兵衛が、場所請負人として千島,そして、同8年千島樺太交換条約が締結後、千島列島全域が我が国の領土に帰属したことにより、翌9年「日本帝国所轄,この時期、千島列島海域における外国猟船が捕獲したオットセイの頭数は多大であり、例えば、イギリスの狩猟船船長,に達したという(H.J.スノー『千島列島黎明記』)。  ,外国猟船を排除しようとすることを目的にしたものであったが、この後、オットセイ猟の特許を願いでる者はなく、千島列島周辺海域
南茅部町史 上巻 (鰊場の歩方(ぶかた)(川汲・小板与三郎談・明治二八年生))

    五月  道南 カムサッカ     六月  道内   △鉱山労働者     四月  道内 北千島,  樺太   △漁業労働者  一二、五二九人(男一一、五五〇人 女九七三人)     一月  北千島,(鱈)     二月  道内 樺太 北千島(鰊・蟹)     三月  道内 樺太 北千島(鰊・鮭・,鱒・蟹)     四月  道内 樺太 北千島 カムサッカ(鰊・鮭・鱒・蟹工船・鰮)     五月  ,道内 樺太 北千島 カムサッカ(鮭・鱒・蟹工船・鰊)     六月  道内     七月  カムサッカ
恵山町史 (渡島国亀田郡恵山取調書)

渡島国亀田郡恵山取調書 ○歴来 一、恵山の硫黄は古来より人の口に膾炙(かいしゃ)する所にして、其開採,を得しことありと雖(いえ)ども、然れども一〇か年を以て之を成算すれば其得る処并せて六千石余りに過ぎず、,然れども其分量は特に、一千分の九に過ぎず。,して七千五百石余りの純硫を得べし。,の価は三万三千七五〇円たり。 / 渡島国亀田郡恵山取調書
南茅部町史 下巻 (臼尻港修築計画)

臼尻港修築計画 亀田半島の臼尻湾は、江戸時代から道内、道外航海する船舶関係者や漁業者には、天然の良港,横澗といわれた対岸から神社の建っている弁天島までの東締切工事と、弁天島の神社前から東防波堤を築く。,弁天島の巌頭と港口に標識灯と港灯を建設する。,金拾壱万参千八百参拾円六拾九銭   防波堤費      金貳千四百拾四円          締切工事費,港燈費      金貳万六千参百八拾四円       器具器械費      金壱万六千五百七円六拾銭
椴法華村史 (昭和初期の漁業組合)

昭和初期の漁業組合 『昭和九年・渡嶋支廳管内水産業概要』に依り昭和初期の椴法華漁業組合の状況を記すと,自創立至大正二年十二月三日   第二代 石岡長五郎 自大正二年十二月二十八日至大正三年七月五日(死亡)   第三代 川島力松,辭任)   第八代 川口又三郎 自昭和六年六月十八日至昭和八年一月三十日(辭任)   第九代 川島力松,ニ保存シテ二十一日字島泊海濱ヨリ三、四十間、水深二、三尋、海底、平盤礁及岩礁、ゴロタ石昆布、和布、ちがいそ,磯掃事業    椴法華村字島泊地先三千坪字元椴法華ヨリ字影ノ濱ニ至ル地先二千坪、九年二月五日ヨリ三月二日
函館市史 通説編 第一巻 (オホーツク文化)

又はそれ以前の民族でないかと考えられていたが、北海道のオホーツク海沿岸には特異な文化があって、樺太や千島列島,これがオホーツク文化で、網走モヨロ貝塚からはアイヌ人と全く異なるアリューシャン列島の原住民に似た骨格を,北千島については馬場脩が昭和5年から貝塚や竪穴住居址の調査に取組んでいたが、北千島は日本民族の源流を探
椴法華村史 (昆布礁の造成)

昆布礁の造成 前掲書「渡嶋支庁管内水産業概要」を参考とする。      ,投石個数ハ大六万八千四百二十九個、小二万三千百四十二個、其大サハ大十貫以上、小七貫乃至十貫ニシテ、七貫以上十貫以下,投石個所ハ字「ラント」ノ澤ヨリ元椴法華ニ至ル地先四千坪ニシテ、昭和九年二月一日ヨリ同六日迄及同年三月五日,・磯掃事業    椴法華村字島泊地先三千坪字元椴法華ヨリ字影ノ濱ニ至ル地先二千坪、九年二月五日ヨリ三月二日,監督費    金四千九十七圓四戔                  旅費    金三百十圓四十四戔
南茅部町史 上巻 (開拓使設置)

この松浦・意見書がとりいれられて、千島を徐く現行の国名(支庁名)と郡名が選定され、以来ながく使用(呼称,一一カ国  八六郡    渡島国 七郡  後志国 一七郡  石狩国 九郡  天塩国 六郡  北見国 ,八郡  胆振国 八郡 日高国 七郡  十勝国 七郡  釧路国 七郡  根室国 五郡  千島国 五郡
椴法華村史 (明治二十五年)

明治二十五年 ・シベリア・千島の調査、海外進出準備さかん。,(翌二十六年六月十二日ウラジオに到着) ・北方の警備開発に備えるべく、侍従片岡利和千島調査を実施する,)島・八月幌筵(ほろむしろ)島を調査帰途につく。,大漁民)  村内では非常に数は少ないが鰮漁場・鮪漁場の経営者或は大規模鱈釣業経営者で(通称親方)、数千円単位,その他雑漁業等により収入を得る漁民で、大部分が家族単位が多く、年間収入は二百円から三百円が普通で稀には千円近
恵山町史 ((2)サンフランシスコ講和会議)

ソ連は北方領土問題について、日本の侵略主義を非難攻撃し、南樺太や千島列島までが、日本の侵略を被ったごとき,千島列島並びに南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連の主張には承服致しかねます。,日本開国の当時千島南部の二島択捉(えとろふ)・国後(くなしり)両島が日本領土であることについては、帝政,ただウルッブ以北の北千島諸島と樺太南部は当時日露両国人の混住の地でありました。,一八七五年五月七日日露両国政府は平和的外交交渉を通じて樺太南部は露領として、その代償として千島諸島は日本領
函館市史 別巻 亀田市編 (五稜郭築造の内容)

五稜郭築造の内容 『函館市史資料集、第二十六集、函館の史蹟五稜郭』によれば、初の計画は弁天台場、築島台場,(現在の船場町、当時の築島)沖ノ口台場(現在の仲浜町西警察署の処)亀田役所(現在の五稜郭とその裏手の役宅,同心長屋 市立函館図書館蔵   金 九万八千両 役所構築及五稜郭堀割   金 二万五千両 役所及役宅建築, 築島台場築設 金一万六千両 備砲   金 二万両 沖ノ口台場築設 金四千両 備砲    と五稜郭,しかしこの予算で最後まで工事が行われたわけではなく、途中幕府財政の逼迫により予算が削られており、築島台場及
函館市史 通説編 第一巻 (築造の予算)

そこで詳細な調査をとげ、弁天岬台場、築島台場、亀田役所(すなわち五稜郭)および役宅を築造することに決し,  一金二万五千両 役所、役宅普請入用 一金九万八千両 役所構五稜郭惣堀入用 一金二万両,但し二十四ポンド五十挺 一金四万五千両 築島台場 一金一万六千両 右備砲。,但し二十四ポンド二十挺 一金二万両 沖ノ口台場 一金四千両 右備砲。,但し二十四ポンド五挺   計金四十一万八千七百六十両余    安政3年11月10日組頭河津三郎太郎
函館市史 通説編 第一巻 (宮部ライン)

宮部ライン 館脇操は、千島列島内の亜寒帯と温帯との境界をエトロフ水道(エトロフ、ウルップ両島の間)に,エトロフ島まで分布している北海道的高木はエトロフ水道以北では完全に姿を消し、ハイマツ、ミヤマハンノキなどの
恵山町史 (戦没者名簿)

野呂 きみゑ 大澗43 野呂 清吉 S18.6.8 本邦西方海面 野呂 千枝子 〃31 松本 義勝,S19.8.25 旭川市陸軍病院 岩船 千枝 川上410 小倉 卯佐美 S20.3.29 メレヨン島,15 近藤 伝吉 S16.5.19 函館市 谷ロ スエコ 〃178 藤枝 梅吉 S19.9.18 北千島,2 畑山 清市 S21.8.2 京都府舞鶴 赤石 アキエ 青森市 村上 林蔵 S19.11.13 北千島, 実 S16.6.16 函館市 大坂 英嗣 〃429-1 二本柳 長四郎 S21.3.21 北千島陸軍病院
函館市史 通説編 第一巻 (開墾事業)

そこで調役山田鯉兵衛、下役村上次郎右衛門、石坂武兵衛、在住勤方代島剛平を掛りとし、その外用達、用聞にも,千葉郷 いまの大野町市渡の内で、千葉久治なる者が頭取で開墾し、寺院なども建立した。,千代田郷 いまの大野町の内で、河村新左衛門が頭取で開き、その資本は出羽国酒田(山形県)の富豪本間正五郎,一本木郷 前記千代田郷に接続し、島津才兵衛なる者が頭取で開拓した。,のちに一本木と千代田が連合して小学校を設け島河小学校と称したが、これは島津、河村の両頭取の姓をとったものであるという
南茅部町史 上巻 (イカ凶漁)

イカ凶漁 いか漁獲高と価格の推移 単位=千貫・千円(右 総漁獲高状況  左 いか漁獲高状況), 渡島管内の沿岸町村のイカ一本釣りは、昭和二八、九年ごろから水揚げの減少の兆候をみせ、昭和三一年には松前
函館市史 通説編 第二巻 (奥羽5藩の警備と箱館)

  津軽藩- 警備地域(箱館表、千代ヶ台~エサン岬持場心得、乙部村~西蝦夷地ヲカムイ岬間,、西蝦夷地惣体の援兵心得)、元陣屋(千代ヶ台)、出張陣屋(西蝦夷地スツツ) 南部藩- 警備地域(箱館表出岬警備専用心得,)、元陣屋(東蝦夷地ユウフツ)、出張陣屋(東蝦夷地子モロ、クナシリ島、エトロフ島) 秋田藩- 警備地域,(西蝦夷地ヲカムイ岬~シレトコ迄惣体、北蝦夷地島々共一円)、元陣屋(西蝦夷地マシケ)、出張陣屋(ソウヤ,また、上記の諸藩の松前・蝦夷地警備と箱館との関係では、特に南部藩が箱館山麓に、津軽藩が千代ヶ台に各々元陣屋
函館市史 別巻 亀田市編 (管理米供出)

管理米供出 渡島支庁の統計によれば昭和十八年四月末の管内各町村の管理米供出状況は次のとおりである。,管理米供出状況]  管内全体の供出割合が八五パーセントと目標をかなり下回っていたので、同年五月二十日、渡島支庁,この会議には道庁、渡島支庁、渡島郡農会、各役場、各町村の農会などから関係者が出席したが、亀田村からは、,昭和十七年米穀年度 二八〇万石   昭和十八年米穀年度  二七五万石 管理米(配給米)  二六二万九千石, 道外補給米(雑穀を含む)五六万一千石 確保割当米穀    二〇六万八千石 供出米        一八六万八千石
函館市史 通説編 第一巻 (和人渡来と蝦夷の歌枕)

、戦いに破れてのがれ渡るものや、北陸道の辺りから、産物交易に通い、後永住した者もあったと伝え(『蝦夷島奇観,、久寿2(1155)年66歳で没したといわれる、藤原顕輔の歌にも、   あさましや 千島,年73歳で寂滅した、西行法師にも、   いたけるも あま見る時に なりにけり えぞが千島
恵山町史 (渡嶋国亀田郡「シリキシナイ」領古武井澤硫黄取調書)

渡嶋国亀田郡「シリキシナイ」領古武井澤硫黄取調書 一、古武井沢は「シリキシナイ」村領に属する周囲四里,距今茲壬申七年前函館の一薬商石川小十郎なる者(○〆と通称す)始めて開採し、前後三年従事して上好の硫黄(黄色の者)約子二千石余,是れ以て現下坑口及山下に此鼠色品猶二千石余棄て顧みざる所なりと言う。,其固有の重みを以て沈降し、而して他の流体の部分其位に代わり又結冷せられて沈む如く是転互升沈すること、数千万,舩賃  共計金一四〇円 一、石川某開採のときは税銀毎年二〇〇円を納めたり、但し当時の税法一か年何百千石掘出 / 渡嶋国亀田郡「シリキシナイ」領古武井澤硫黄取調書
恵山町史 ((7)えさん漁業協同組合 (平成17年4月1日現在))

(7)えさん漁業協同組合 (平成17年4月1日現在) 役員 代表理事組合長 高島 武俊 職員 専務理事,     (貸付金)六三〇、一八八千円 販売取扱高 三、一六一、九五六千円      (鮮魚一,、六八八、九一八千円・水産製品九七七、五五七千円・管外四九五、四八一千円) 購買取扱高 六二〇、六八一千円,     (漁業資材五五五、八五八千円・生活物資六四、八二三千円) 利用収入高 一〇、一三六千円,三八四千円)       た こ   (七二、〇八一千円) ・海 藻  天然こんぶ(四七三、八一六千円
函館市史 別巻 亀田市編 (村・町議会議員)

 光栄  杉本  清  高橋 喜市   西谷 安友  佐藤 銀作  守田 武雄  木戸浦一二  水島辰三郎,昭和二十四年補欠選挙   川井長次郎  小柳 忠蔵    ○昭和二十六年選挙  定員二六名   水島 ,  武  芳彦   土井 勝雄  川井長次郎  川井米太郎  菊谷 兼雄  小柳 忠蔵   大島 ,定蔵  若松  弘  菅  兵吉  寺田 八郎   川井長次郎  横山  巌  厚谷 政治  宮崎千代吉,  筆村由之助  佐藤 久雄  工藤喜代蔵   宮崎千代吉  山本朝一郎  関本 政蔵  藤谷久三郎
函館市史 通説編 第一巻 (ジョン・ミルン)

彼は明治10年に渡島の火山を調査しているが、翌年には貝塚などの遺跡を発掘し、8月に開拓使委員や通弁官らと,玄武丸に乗船して、千島のシュムシュ島に至り、千島アイヌを調査している。,日本国中に石器時代の遺跡が存在することを確認し、これを基にアイヌ民族と日本民族との関係を調査するための千島行
南茅部町史 下巻 (〔叙勲・褒章〕)

  臼尻町長 北海道町村会事務局長   財団法人 北海道自治振興センター理事長   社会福祉法人渡島福祉会理事長,木直 昭和51・4・28 紺綬褒章 佐藤忠二 大正14・9・30生 渡島東部消防事務組合備品として救急,・3生 渡島東部消防事務組合消防自動車購入 費として三、〇〇〇千円寄附 木直 昭和53・11・29,紺綬褒章(木盃5号) 佐藤忠一 大正14・9・30生 渡島東部消防事務組合救急自動車購入 費として三,加我梅次郎 日赤事業に五〇千円寄附 川 汲 昭和48・7・ 銀色有功章 佐藤トセ 日赤事業に五〇千円寄附
函館市史 別巻 亀田市編 (段丘形成と人類)

幾つか形成された段丘の成立年代について瀬川らの報告によると、渡島半島の海岸段丘で資料となる木片が発見されているのは,この中位段丘が渡島半島で形成されたころは、青森県でも同じように海水面が低下して津軽海峡が地続きとなり、,北海道で初めに人類が生活したのは札幌低地帯の千歳市の海成段丘と十勝平野の段丘上である。,今から二万三千年代で寒冷な気候であった。,マンモス動物群がいたころなので、彼らをマンモスの狩人と呼んでいるが、旧石器時代の終りになると渡島半島にも
函館市史 通説編 第一巻 (北海道の自然)

日本海沿岸、オホーツク海沿岸に分けることができ、太平洋沿岸は襟裳岬を境として東側の十勝、釧路、根室は千島海流,の影響を受けるが、西側の日高、胆振、渡島の東海岸は対馬海流と千島海流の影響を受ける。
函館市史 通説編 第一巻 (北海道の学会)

昭和6年1月に北海道、樺太、千島に関する記事を載せる雑誌『蝦夷往来』が札幌で発行されるようになった。,時の出品目録が『蝦夷往来』第6号の特輯(しゅう)号に掲載されているが、これによると北海道各地と樺太、千島,のほか亀田のサイベ沢、下石川野(現在いずれも函館市)、上磯の添山、戸井村(現町)、尻岸内村(現町)など渡島半島各遺跡出土,このころから、北海道や千島などの考古関係の報告や論文も多くなってくる。  ,また10月には深瀬が『旅と伝説』第4巻12号に「奥尻島紀行」を書き、遺跡を紹介している。
椴法華村史 (昭和八年の津波)

昭和八年三月四日 函館毎日新聞 椴法華の被害莫大 三陸地方一帯を襲った今暁の津浪の餘波をうけて渡島管内下海岸一帯,大部分を引き揚げその中五隻は破損甚だしく使用に堪えず一隻は行方不明となり外に鰮粕三十石と莚(むしろ)千五百枚,を流出しその他漁具の流失見積り約一千圓で被害額は目下調査中であると。
函館市史 別巻 亀田市編 (七重官園の影響)

     梨        百三十九本    〃  同 六年  二万五千本    林 檎      ,百四本    〃  同 七年  三万五千本     桃       四十三本    〃  同 八年,  二万三千本     李       五本    〃  同 九年  五万八千本     杏       ,上三十本    桃    〃    三十六本    葡 萄   〃    十三本    なお、『渡島国状況報文,その後明治三十九年の亀田諸村の植林状況について『渡島国状況報文・亀田村外六村』には大要次のように記している
南茅部町史 下巻 (臼尻簡易水道)

昭和二七年一〇月、入久川上流を水源とし東海(臼尻)豊崎(垣の島川~紅葉川間)地域を給水区域とする上水道,着工して間もなく再調査の結果、昭和二九年一二月、設計変更の承認を得て、水源池を垣の島上流一、二〇〇メートル,工事は四か年で完成、総工費一五、八三〇千円、起債一四、〇〇〇千円、一般財源一、八三〇千円を要して(昭和三,のち、昭和四五年三月三一日(環境第四二九号)認可を得て水源施設の増改工事(事業費五三、〇〇〇千円)をおこない
椴法華村史 (高田屋とゴローニン)

ゴローニン こんな事件が続いた数年後の文化八年(一八一一)ロシア海軍ゴローニン大佐は、ディアナ号で千島列島,の測量中薪水欠乏となり、クナシリ島に入港したが、この地を守備していた南部藩兵は、直ちにゴローニン以下六名,一方ロシア側もまたゴローニンの抑留に対抗して、当時エトロフ島の開発を幕府から命ぜられていた高田屋嘉兵衛
南茅部町史 上巻 ([戦後のイカ釣り漁])

イカ生産高の推移   尾 札 部 村 臼  尻  村   昭和 生産高(千貫) 生産額(千円) 生産高,(千貫) 生産額(千円)   二〇年 五二五 一、六三三 七八一 四、二六七  北海道漁業生産統計表,三九五 三、九七三 七二、九七六   二六 四、七七八 一二七、五九六 四、一三一 一二九、八七二 渡島支庁
恵山町史 (3、奉行所の設置)

蝦夷地経営のねらいは、千島列島を南下するロシアに対抗するため択捉(えとろふ)島など東蝦夷地奥地の開発(,松前藩は石高9千石の大名格であったが、漁業収益が石高にして10万石とも20万石とも噂されていたので、幕府,なお、奉行職は役高2千石、役料1千500俵、在勤中手当て700両で格付は芙蓉間詰(ふようのまづめ)、遠国奉行
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