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南茅部町史 上巻
(鰊場の歩方(ぶかた)(川汲・小板与三郎談・明治二八年生))
五月 道南 カムサッカ 六月 道内 △鉱山労働者 四月 道内 北
千島
, 樺太 △漁業労働者 一二、五二九人(男一一、五五〇人 女九七三人) 一月 北
千島
,(鱈) 二月 道内 樺太 北
千島
(鰊・蟹) 三月 道内 樺太 北
千島
(鰊・鮭・,鱒・蟹) 四月 道内 樺太 北
千島
カムサッカ(鰊・鮭・鱒・蟹工船・鰮) 五月 ,道内 樺太 北
千島
カムサッカ(鮭・鱒・蟹工船・鰊) 六月 道内 七月 カムサッカ
函館市史 通説編 第一巻
(日露国境問題)
従って論議はこれに集中され、その交渉の過程において
千島
方面では、ロシア側は、択捉島は元来ロシア領であるのに,、日本人が占有しているのだといってその領有を主張し、日本側は、
千島
全島は日本領であるのに、ロシア人がその, ここにおいて、多年日露両国間の問題となっていた、
千島
列島における国境は確定されたのである,現在わが国が南
千島
領土の返還を主張しているのは、まさにこの条約に基づくものである。
函館市史 通説編 第二巻
(北海道のラッコ・オットセイ猟の沿革)
が国のラッコ・オットセイ猟であるが、寛成12(1800)年淡路出身の高田屋嘉兵衛が、場所請負人として
千島
,そして、同8年
千島
樺太交換条約が締結後、
千島
列島全域が我が国の領土に帰属したことにより、翌9年「日本帝国所轄,この時期、
千島
列島海域における外国猟船が捕獲したオットセイの頭数は多大であり、例えば、イギリスの狩猟船船長,~1878(同11)年までの7年間に、エトロフ島のみで8000頭以上に達したという(H.J.スノー『
千島
列島黎明記,外国猟船を排除しようとすることを目的にしたものであったが、この後、オットセイ猟の特許を願いでる者はなく、
千島
列島周辺海域
恵山町史
(新たに設けられた19の支庁 明治30年(1897年)10月)
根室支庁 根室国根室郡常盤町 根室・花咲・野付・標津・目梨・国後・色丹・得撫・新知占守 紗那支庁
千島
国紗那郡紗那村, 択捉島 <根室・紗那支庁の管轄区域・郡について> 明治2年の国郡制定11カ国の1つ
千島
国,国後島)・択捉(えとろふ)郡・振別郡・紗那(しゃな)郡・蘂取(しべとろ)郡(以上択捉島)に、同9年樺太
千島
交換条約,により日本国領有域(中
千島
・北
千島
)となって
千島
国に編入された得撫(うるっぷ)郡(ウルップ島他)・新知,つまり、明治30年の支庁制では、北方4島(歯舞・色丹・国後・択捉)を含む
千島
(ロシア名クリル)列島全島
函館市史 通説編 第一巻
(オホーツク文化)
又はそれ以前の民族でないかと考えられていたが、北海道のオホーツク海沿岸には特異な文化があって、樺太や
千島
列島,北
千島
については馬場脩が昭和5年から貝塚や竪穴住居址の調査に取組んでいたが、北
千島
は日本民族の源流を探
南茅部町史 上巻
(開拓使設置)
この松浦・意見書がとりいれられて、
千島
を徐く現行の国名(支庁名)と郡名が選定され、以来ながく使用(呼称,六郡 北見国 八郡 胆振国 八郡 日高国 七郡 十勝国 七郡 釧路国 七郡 根室国 五郡
千島
国
函館市史 通説編 第一巻
(和人渡来と蝦夷の歌枕)
、久寿2(1155)年66歳で没したといわれる、藤原顕輔の歌にも、 あさましや
千島
,年73歳で寂滅した、西行法師にも、 いたけるも あま見る時に なりにけり えぞが
千島
恵山町史
((2)サンフランシスコ講和会議)
ソ連は北方領土問題について、日本の侵略主義を非難攻撃し、南樺太や
千島
列島までが、日本の侵略を被ったごとき,
千島
列島並びに南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連の主張には承服致しかねます。,日本開国の当時
千島
南部の二島択捉(えとろふ)・国後(くなしり)両島が日本領土であることについては、帝政,ただウルッブ以北の北
千島
諸島と樺太南部は当時日露両国人の混住の地でありました。,一八七五年五月七日日露両国政府は平和的外交交渉を通じて樺太南部は露領として、その代償として
千島
諸島は日本領
函館市史 銭亀沢編
(漁や出稼ぎの時の弁当)
五月から八月末にかけて男たちは北
千島
や樺太に出稼ぎ(建網漁)に行った。,
千島
に行く時には函館から船が出るが、この時は船の中で食事を作るので弁当は持たなかった。
函館市史 通説編 第一巻
(北海道の自然)
日本海沿岸、オホーツク海沿岸に分けることができ、太平洋沿岸は襟裳岬を境として東側の十勝、釧路、根室は
千島
海流,の影響を受けるが、西側の日高、胆振、渡島の東海岸は対馬海流と
千島
海流の影響を受ける。
函館市史 通説編 第一巻
(ジョン・ミルン)
火山を調査しているが、翌年には貝塚などの遺跡を発掘し、8月に開拓使委員や通弁官らと玄武丸に乗船して、
千島
,のシュムシュ島に至り、
千島
アイヌを調査している。,日本国中に石器時代の遺跡が存在することを確認し、これを基にアイヌ民族と日本民族との関係を調査するための
千島
行
函館市史 通説編 第一巻
(宮部ライン)
宮部ライン 館脇操は、
千島
列島内の亜寒帯と温帯との境界をエトロフ水道(エトロフ、ウルップ両島の間)に
函館市史 通説編 第一巻
(北海道の学会)
昭和6年1月に北海道、樺太、
千島
に関する記事を載せる雑誌『蝦夷往来』が札幌で発行されるようになった。,時の出品目録が『蝦夷往来』第6号の特輯(しゅう)号に掲載されているが、これによると北海道各地と樺太、
千島
,このころから、北海道や
千島
などの考古関係の報告や論文も多くなってくる。
南茅部町史 上巻
(松前随商録)
「
千嶋
第一之昆布出る。」
函館市史 通説編 第一巻
(キタキツネ)
アカキツネの別名を持っているが、細かな亜種区分に基づくと、津軽海峡以南のものをホンドキツネ、北海道、南
千島
函館市史 通説編 第一巻
(官船建造と定雇船頭となる)
彼はただちに大坂に下ってこれを造り、翌享和元(1801)年4月箱館に回漕し、主として
千島
方面の運航に当
椴法華村史
(ブロウトンの来航)
の交換等がなされ鎖国中ではあったが薪水の補給、艦体の修理が許され約二週間の滞在の後、プロビデンス号は
千島
函館市史 通説編 第一巻
(石狩低地帯(河野ライン))
館脇操は、森林樹種の分布から、石狩低地帯を境として北海道を大きく二分し、この地帯より北東部を、南樺太、南
千島
函館市史 通説編 第一巻
(ロシア人の南下)
松前藩士湊覚之進が、厚岸に派遣されて滞留中、択捉および国後の酋長らから、一昨年(宝暦7年)クルムセ(北
千島
椴法華村史
(昭和十年)
この年水無で硫黄の採掘が開始されたので、ここの人夫稼と
千島
方面への出稼で何んとかこの年を乗り切ったと云
函館市史 通説編 第一巻
(諏訪大明神絵詞)
ばれていたものらしく、すなわち、延文元(1356)年小坂円忠の手になる、『諏訪大明神絵詞』によると、「蝦夷が
千島
,しかも『諏訪大明神絵詞』は蝦夷が
千島
の物語であり、それに出てくるウソリケシ、マトウマイヌの地名は函館・
椴法華村史
(昭和二年)
大正九年・十二年と続いた不景気のあたりから、椴法華村では以前より多数の村民が、樺太・
千島
及び道内の各地,(文中に後志支庁管内を主な出稼先としているが統計的には
千島
・樺太等への出稼も多数あった。)
函館市史 銭亀沢編
(〈平成二年十月二十四日の高波〉)
平成二年十月二十四日の高波〉 台風第二三号が本州の東海上を北上し、北海道南東海上で温帯低気圧に変わり、二十四日には
千島
椴法華村史
(高田屋とゴローニン)
ゴローニン こんな事件が続いた数年後の文化八年(一八一一)ロシア海軍ゴローニン大佐は、ディアナ号で
千島
列島
函館市史 通説編 第二巻
(雑領期)
雑領期 明治初年から明治8年に
千島
樺太交換条約が締結される時期までは、樺太は日本とロシア両国の雑領地
函館市史 銭亀沢編
(霧)
この時期に
千島
方面から南下する親潮の海域では、冷たい海面上に暖気が入り込むと海霧(ガス)が発生し、北東
函館市史 通説編 第一巻
(種痘の普及)
に遣わし、アイヌ、和 人の別なく種痘を施し、翌5年にも洋春を斜里および北蝦夷地(樺太)に、井上立長を
千島
椴法華村史
(函館県の設置)
日高国・天塩国の全域・後志国北部九郡・胆振国東部七郡・北見国西部四郡 根室県 根室国・釧路国・
千島
国
椴法華村史
(明治二十五年)
明治二十五年 ・シベリア・
千島
の調査、海外進出準備さかん。,(翌二十六年六月十二日ウラジオに到着) ・北方の警備開発に備えるべく、侍従片岡利和
千島
調査を実施する
函館市史 通説編 第二巻
(北海道関係航路の重視と道庁補助航路)
まず20年代に道庁が補助金を支出して航路を開かせたのは小樽・増毛冬季航海(21~24年度)、
千島
冬季航海,24年度のみ)、稚内・網走冬季航海(25、6年度)のわずか4線のみで、しかも30年代以降も継続したのは
千島
航海,このなかで函館に関係ある航路として
千島
冬季航海が挙げられる。,若松は
千島
航路に汽船清徳丸をあてたが、冬季間にわずか1回にすぎなかった。
函館市史 通説編 第一巻
(リコルドの再航)
五郎次は自ら中川良左衛門と名乗り、
千島
の有力者を装い、5年間ロシア滞留中にロシア語も解するようになっていた
椴法華村史
(気象の特色)
千島
より南下する親潮(寒流)と津軽海峡を通る対馬海流(暖流)は、季節により強弱を生じ椴法華の気象に少なからぬ
函館市史 通説編 第一巻
(函館考古会の設立気運)
井田は玄武丸で開拓使の委員やミルンと
千島
にも同行しており、ミルンが
千島
アイヌを調査した際にシュムシュ島
椴法華村史
(昭和十一年)
このため例年のように
千島
・樺太方面に出稼に出る者が多かった。 ,
千島
出稼者 約四十名 樺太出稼者 約二百七十名
函館市史 通説編 第二巻
(猟虎膃肭獣猟法と遠洋漁業奨励法の制定)
その提案理由書には、 実際の経験に拠れば猟虎は
千島
諸島のみ棲息するの事実なるに依り,#160; とあり、従来のように
千島
列島周辺,免許を受けたラッコ・オットセイ猟業船(明治29年) 船 名 トン教 定繋場 猟獲高 所有者 第1
千島
丸,第2
千島
丸 海 王 順 天 卯 の 日 八 雲 懐 遠 宝 寿
函館市史 通説編 第一巻
(日本人人種論)
も古い記録は、万治3(1660)年2月に伊勢松坂の船が鳥羽を出帆して暴風のため洋上を漂うこと7か月、
千島
,「本島アイヌはチャシを使用せり」、「本島アイヌは石器、土器を使用せり」、「本島アイヌ、樺太アイヌ、北
千島
,北
千島
を調査した鳥居龍蔵は「北
千島
の石器時代遺跡は現今居住のアイヌのもので、しかもこの遺跡は現今の彼等
南茅部町史 下巻
(〔渡辺章三〕)
同年四月、函館在勤を命ぜられ、函館着任早々五月に
千島
国へ出張している。,用向きは詳らかでないが、
千島
から函館に帰ると東京へ出張している。,当時の船便のことであるから、かなりの月日を要した長途の旅行であり、
千島
の報告のため東京に出向いたものと, 函館在勤申付候事 同上 同年 五月一二日 御用有之
千島
国出張申付候事
椴法華村史
(ロシアの北辺進出)
元禄十年(一六九七)頃までにカムサッカまで進出したロシアは、その後も前進を続け正徳元年(一七一一)頃には
千島
恵山町史
(蝦夷地の航路を開く)
特に冬季間の蝦夷地の航海はタブーであったが、南下する
千島
海流を利用し、正月の縁起物の新鱈を箱館から江戸,東蝦夷地経営の中心となった寛政11年以降は、最も近い東の航路を利用する船が増え、船乗り達もこの海域の対馬暖流と
千島
海流
函館市史 通説編 第二巻
(カムチャツカ出漁の始まり)
、サガレン島(樺太)が最も早く、当時の露領漁業問題は、まずサガレン島を中心に展開するが、同島が樺太・
千島
交換条約,まず、日本人が最初にカムチャツカに足跡を残したのは、明治27年、
千島
列島の北端幌延(ポロムシリ)島を根拠,また、明治8年の樺太・
千島
交換条約には「日本船及ビ商人通商航海ノ為オホツク海諸港及ビ堪察加(カムチャツカ
函館市史 銭亀沢編
(戦前の出稼ぎ)
筆者注) 道外へ出稼ぎ 五二八名(樺太鰊漁業…同) 道内へ出稼ぎ 六二〇名(日本海鰊、
千島
鮭定置, 三月から五月 道内日本海・樺太の春鰊漁業出稼ぎ 五月から八月 露領・
千島
鮭定置漁業出稼,戦時下まで沿海州、樺太、
千島
などへと二五年間出稼ぎを続けて来た女性が、「私達の村で今で云ふ村民皆労とか
函館市史 銭亀沢編
(主なる食素材の入手方法と利用)
魚介類の場合は、イワシ・ホッケ・サバなどは自給していたが、ニシン・サケなどは樺太や
千島
で働き、もらってきていた
椴法華村史
(本州との交易)
延文元年(一三五六)の『諏訪大明神絵詞』によれば、『蝦夷カ
千島
ト云ヘルハ我國ノ東北ニ当テ大海ノ中央ニアリ
南茅部町史 下巻
(〔戦後の学校教育〕)
疎開児童は都会の方が落着くと帰っていったが、
千島
や樺太からの引揚者の子弟が転入してきた。
函館市史 銭亀沢編
(産後の食事)
南
千島
へ出稼ぎに行った時は土産に帆立の貝殻がとても喜ばれたという。
函館市史 通説編 第一巻
(黒松内低地帯)
つまり、北海道の生物相は、東北地方から北上してきた温帯的要素が、道南から道北へと分布を広げ、他方、樺太や
千島
南茅部町史 上巻
(長濱)
此處ゟ天明弐年ノ比(ころ)兜を献上す 温泉あり 萬病に吉 運上金百弐拾五両 安永中金弐百廿両
千嶋
第一之昆布出
恵山町史
(津軽海峡東口の海流と自然)
津軽海峡はこの干満作用に加え、津軽暖流と
千島
海流(寒流)の異種海流が、それぞれ西と東から流れ、且つこれを
椴法華村史
(北海道の誕生)
八郡) 日高国 (七郡) 十勝国 (七郡) 釧路国 (七郡) 根室国 (五郡)
千島
国
南茅部町史 下巻
(命令航路)
イ、函館幌泉線 ロ、函館釧路線 ハ、函館蘂取線 3、函館
千島
線
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