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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第二巻 (北海道のラッコ・オットセイ猟の沿革)

そして、同8年千島樺太交換条約が締結後、千島列島全域が我が国の領土に帰属したことにより、翌9年「日本帝国所轄,この時期、千島列島海域における外国猟船が捕獲したオットセイの頭数は多大であり、例えば、イギリスの狩猟船船長,~1878(同11)年までの7年間に、エトロフ島のみで8000頭以上に達したという(H.J.スノー『千島列島黎明記,外国猟船を排除しようとすることを目的にしたものであったが、この後、オットセイ猟の特許を願いでる者はなく、千島列島周辺海域
函館市史 通説編 第一巻 (宮部ライン)

宮部ライン 館脇操は、千島列島内の亜寒帯と温帯との境界をエトロフ水道(エトロフ、ウルップ両島の間)に
椴法華村史 (高田屋とゴローニン)

ゴローニン こんな事件が続いた数年後の文化八年(一八一一)ロシア海軍ゴローニン大佐は、ディアナ号で千島列島
函館市史 通説編 第一巻 (オホーツク文化)

又はそれ以前の民族でないかと考えられていたが、北海道のオホーツク海沿岸には特異な文化があって、樺太や千島列島
函館市史 通説編 第一巻 (日露国境問題)

   ここにおいて、多年日露両国間の問題となっていた、千島列島における国境は確定されたのである
恵山町史 ((2)サンフランシスコ講和会議)

ソ連は北方領土問題について、日本の侵略主義を非難攻撃し、南樺太や千島列島までが、日本の侵略を被ったごとき,千島列島並びに南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連の主張には承服致しかねます。
恵山町史 (3、日本近海の海洋)

いっぽう千島列島沿いに南下してくる親潮は、*オホーツク海の融氷水に源を発しながら根室半島納沙布岬から襟裳岬
恵山町史 (3、奉行所の設置)

蝦夷地経営のねらいは、千島列島を南下するロシアに対抗するため択捉(えとろふ)島など東蝦夷地奥地の開発(
椴法華村史 (昭和二十六年)

(中略)  日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得
恵山町史 ((1) 日本を大回遊するスルメイカ)

また太平洋では道東から千島列島南部の海域に広がり、その一部はオホーツク海にも入る。
恵山町史 ([日本の自然])

本州へと移動していったグループと、同じく北極圏の太平洋側、アリューシャン列島から、カムチャツカ半島、千島列島
恵山町史 ([引揚者団体尻岸内支部の発足])

また、旧満州国や旧植民地の朝鮮半島・台湾・サハリン(南樺太)などや、クリル列島(千島列島、内、日本は国後,終戦の年、昭和20年8月8日に宣戦布告し進攻してきたソ連軍と相対した日本軍兵士や、南樺太・千島列島等に,約二ケ月の訓練を受けた後小樽へ集結、泰平丸(七、〇〇〇屯)に乗船、千島列島の占守島(シュムッシュ島・カムチャッカ
函館市史 通説編 第一巻 (江別集団の発生)

その分布は樺太南部や千島列島南部にまで及ぶが、一方では函館周辺から東北地方の青森、岩手、秋田、山形の各県
南茅部町史 上巻 (はじめに)

2.宮部ライン  館脇操は千島列島内における亜寒帯と温帯の境界をエトロフ水道に求め、恩師宮部金吾の名
函館市史 通説編 第二巻 (函館港の外国ラッコ・オットセイ猟船)

そして捕獲した毛皮の積荷を降ろし、再び食糧、資材などを積み込み、千島列島からカムチャツカ半島沿いに猟を
恵山町史 ([函館と亀田半島の気候特性])

千島列島より南下する寒流の親潮と、上記の対馬暖流は、とくに夏期において交会し、多量の水蒸気が凝結して濃霧
函館市史 通説編 第二巻 (カムチャツカ出漁の始まり)

まず、日本人が最初にカムチャツカに足跡を残したのは、明治27年、千島列島の北端幌延(ポロムシリ)島を根拠
椴法華村史 (現在の地形)

北東に頭を向けたと仮定すると頭の先にエトロフ島など千島列島が点々と伸びてカムチャッカ半島に続いている。
函館市史 通説編 第二巻 (猟虎膃肭獣猟法と遠洋漁業奨励法の制定)

#160;        とあり、従来のように千島列島周辺
函館市史 通説編 第二巻 (箱館奉行の再置)

享和2年の蝦夷地奉行(箱館奉行)の設置は、ロシアの南下現象(とりわけ千島列島を介した蝦夷島本島への接近
恵山町史 (2、開国・蝦夷地の再直轄)

同年八月、長崎奉行へ国書を手渡し、国交を求める事と、樺太、千島列島の境界画定(国境の取決め)についての
恵山町史 (3、後北式土器文化)

他地域から文化要素が流入してきただけではなく、北海道の土器も本州や千島列島、サハリンに進出している。
恵山町史 ((2) 海底にゆらぐ褐色の大きい葉)

道東や千島列島に生えている。
恵山町史 (2、敗戦を知らせる天皇のラジオ放送)

その内容は、『ドイツ降伏後3カ月以内に、ソ連が対日戦争に参加することを条件として、南サハリン(樺太)・千島列島
恵山町史 ([五稜郭と古武井熔鉱炉])

幕府もこれに対して、松前藩に任せておけず、箱館に奉行を設け蝦夷地や千島列島・樺太(サハリン)の調査や、
恵山町史 (3、幕府直轄以降の箱館六ケ場所)

羽太正養(蝦夷地取締御用掛・箱館奉行)が著した『休明光記』によれば、経営の中心は「千島列島を南下するロシア
南茅部町史 上巻 ([慶祥丸漂流])

御奉行所    継右衛門らが無事帰国して、漂流中の取調べの中で口上や手書きから作成したと思われる千島列島
恵山町史 (6、郷土と高田屋嘉兵衛)

これは、その前年(文化8年の春)同艦、艦長ゴロウニンら8人が、クリール諸島(千島列島)の測量を終え物資補給
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