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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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南茅部町史 下巻 (沿岸の定期航路)

沿岸の定期航路 明治四一年の函館毎日新聞の海運広告は、沿岸の海運の繁昌を伝えている。  ,〓樋口回漕店と〓板村商船部はおもに戸井・尻岸内、八宮本回漕店は椴法華・銚子行。, 根田内行 毎日夜半   厚田丸    戸井 椴法華行 毎日夜半   苫前丸    戸井 椴法華古部行,戸井・日浦・尻岸内・古武井 行   定期無事丸                       釜谷・小安,・汐首・瀬田来・尻岸内・戸井行   定期厚岸丸 同所行                     同 / 沿岸の定期航路
南茅部町史 下巻 (〔東海岸道〕)

〔東海岸道〕 寛政三年、菅江眞澄が搔き送り舟で尾札部・臼尻・鹿部を伝い行き、胆振、有珠岳へ旅をした。,寛政一二年(一八〇〇)、東蝦夷地厚岸からの帰途、幕吏戸川藤十郎の一行がエトモ(室蘭)から砂原・鹿部を経,戸川一行の東海岸通りは、貴重な郷土の海岸道路の事情を記録に残しているものである。   / 〔東海岸道〕
函館市史 銭亀沢編 (方言の色彩が濃厚)

方言の色彩が濃厚 言語では、海岸方言(浜ことば)のもっとも強い所であるといわれている。,津軽や下北地方の方言の色彩が濃厚である。 / 方言の色彩が濃厚
函館市史 銭亀沢編 (いつこれらの海岸段丘は作られたのか)

一つは、銭亀沢の豊原にある日吉町Ⅰ面にあたる海岸段丘からのもので、三メートルの厚さを持つ銭亀沢火砕流堆積物,の下に厚い細粒陸成堆積層があり、その下から洞爺火山灰(Toya)が見い出された(図2・1・6)。,また、函館面の各所では、従来から銭亀沢降下火山灰層や数メートルの厚さの火砕流堆積物が見いだされることが,その段丘堆積物が厚い砂やシルト、砂礫の互層からなることからみて、当時、ここが函館山に向けて突き出た砂州状地形,現在までの期間が長いほど、陸上の水成、風成堆積物あるいは火山灰、さらには函館の場合、火砕流堆積物などを厚く / いつこれらの海岸段丘は作られたのか
函館市史 銭亀沢編 (氷河性海面変化と海岸段丘)

氷河性海面変化と海岸段丘 銭亀沢から函館市街地にかけては、まとまった複数段の海岸段丘が発達し、この地域,しかし、後述のように銭亀沢の低位の段丘上には火砕流堆積物が厚く堆積しており、その形成は単純ではない。,ここでは、比較的によく調べられている函館市街地の海岸段丘とあわせて銭亀沢の海岸段丘についてみたい。,本地域の海岸段丘について、中川(1961)は、函館の海岸段丘を大きく「赤川」面、「日吉町」面、「桔梗」,表2・1・1 函館の海岸段丘区分対比 / 氷河性海面変化と海岸段丘
函館市史 銭亀沢編 (古砂州が張り出し、新しい海岸段丘や海岸低地が出現した時代(図2・1・12、約八万年前))

古砂州が張り出し、新しい海岸段丘や海岸低地が出現した時代(図2・1・12、約八万年前) 一二万年前に,約六〇メートル付近にあった海面は、温暖期の終了とともに下がり始め、それまでの波食台は離水して新たな海岸段丘,最終間氷期の形成になるこの時期の海岸段丘は日本列島各地で見られ、下末吉面やS面の名称で知られている。,海面低下とともに、こうした海岸段丘形成はさらに続くが、八万年前頃になると、幾分、様相を異にしてくる。,その背後には、海から砂州により閉ざされた潟湖が形成され、そこには泥質物が厚く堆積した。 / 古砂州が張り出し、新しい海岸段丘や海岸低地が出現した時代(図2・1・12、約八万年前)
恵山町史 ([昭和9年の尻岸内村勢要覧])

[昭和9年の尻岸内村勢要覧] 昭和9年(1934年)の郷土の村勢要覧が現存する。,『昭和九年 尻岸内村勢要覧 北海道亀田郡尻岸内村役場』より [沿革の大要]  −省略− [地勢及び,[恵山]  湯の川より道南下海岸を自動車に乗り、津軽海峡の風光を右に見て東に行くこと、二時間にして尻岸内村日浦,の海岸に至る。,此処を越えて尻岸内に入れば左方小高き杜に、鎮座の郷社八幡宮は下海岸一帯漁民の崇敬厚し。 / [昭和9年の尻岸内村勢要覧]
戸井町史 ([下海岸の交通の変遷])

[下海岸の交通の変遷] 下海岸の海岸道路も、今は二級国道になり、改修舗装されバスやトラックが頻繁(ひんぱん,開拓使時代(明治元年三月から明治十五年一月まで)の下海岸と蔭海岸の里程と道路状態が、古記録に次のように,以上が開拓使時代の下海岸と蔭海岸の里程と道路の実態であるが、簡潔(かんけつ)な記述であるが、当時の状態,一、明治四十四年八月一日桧山郡厚沢部村大字安野呂村藤木倉蔵なる者、戸井村大字戸井村字弁天澗に於て乗合馬車営業,向う岸に茶店のような小さな家が見え、こちらの岸に小さな渡し舟が一艘ある。 / [下海岸の交通の変遷]
恵山町史 (⑤尻岸内町古武井熔鉱炉および川上レンガ製造跡略報)

⑤尻岸内町古武井熔鉱炉および川上レンガ製造跡略報 「北海道の文化」第16号(別刷)昭和44年3月20,北海道亀田郡尻岸内町古武井に、安政年間に築造された洋式熔鉱炉が存在することが広く知られていた。,遺構の立地と状態  古武井熔鉱炉は、北海道亀田郡尻岸内町字高岱99番地にある。,現海岸線からの距離は900メートル。,この上に、厚さ2センチメートルの耐火粘土がカバーしていた。 / ⑤尻岸内町古武井熔鉱炉および川上レンガ製造跡略報
恵山町史 (1、尻岸内村沿革史(累年統計)より)

1、尻岸内村沿革史(累年統計)より 尻岸内村沿革史・累年統計が現存する。,内容は沿革の概要・村概要・尻岸内村諸規定及び諸規則の部と、大正年間(元年から、内容により11年迄)の統計,尻岸内尋常小学校  4校中児童数の一番多かった尻岸内小は、常に1学級当たり50名を超す「すし詰め教室」,敷地は字浜中2番地2(現中浜79番地)と決まり、工事監督者に尻岸内部長の浜田伊三郎が就任、同年、工事に, 拝啓 今般都合に依り弊山事業全部廃止致す事に相成候に就ては貴村に対し長らくの間ご厄介に相成りたる御厚誼 / 1、尻岸内村沿革史(累年統計)より
恵山町史 ([引揚者団体尻岸内支部の発足])

[引揚者団体尻岸内支部の発足] 戦後、役場が直ちに取組まなければならなかった大切な仕事として、頭を悩,尻岸内町史には、このような辛苦を味わった人々の生の声が『復員の記・引揚者の記』として、寄せられている。,船は稚内より一里ほど距れた海岸で座礁したが、悪戦苦闘の末辛うじて助かった。  ,そして、永久的・継続的な援護業務については、厚生省(国)と道(府県)市町村の(縦の系列)が担当することになった,『引揚者団体尻岸内支部役員名簿』    引揚者団体尻岸内支部 支部長兼会計  高木 元臣      / [引揚者団体尻岸内支部の発足]
椴法華村史 (ウラヤコタンへの襲来)

襲来 『新室蘭市史第一巻』によれば、      天保二年(一八三一)二月二十日、一隻の外国船が厚岸場所,厚岸勤番谷梯小右衛門は、ときどき発砲する外国船に備えて士卒・漁民・アイヌたちを配置したが、二十四日に至,って外国船乗組員がボートで岸に近づき発砲、小右衛門らも応戦して交戦状態となった。
函館市史 通説編 第一巻 (外国船再出現)

更に天保2(1831)年2月20日、1隻の外国船が厚岸場所ウラヤコタンに停泊、ときどき発砲するので、厚岸勤番谷梯小右衛門,、敵は更に小舟4艘をもって援護し、1般を上陸させて高地から銃火をあびせるので、ついに衆寡敵せず敗れて厚岸
函館市史 銭亀沢編 (〈コンブの種類〉)

〈コンブの種類〉 コンブには、岸コンブ、中間コンブ、沖コンブがある。,岸コンブの方が品質が良く価格も高い。岸コンブは、幅が広く、身が厚くて、色が黒いといった特徴がある。,中間コンブと沖コンブは岸コンブより大きく長いという。,岸コンブと沖コンブの区別は、生育している場所に関係なく、実際の品質をみて分類し、検査を受ける(第二章第三節参照
恵山町史 (2、2級町村制発足時(明治年間)の尻岸内村役場三役)

を施行、初代村長には、尻岸内村11代戸長を務めていた太田留治が引き続き就任した。  ,陸路の開発について、尻岸内の有志、高橋常之助、浜田栄助らは湯川村、尻岸内村間の道路開削計画に積極的に関与,そして、翌大正元年には尻岸内小学校に2教室を増築する。, 高橋は戸井村出身、明治32年(1899年)小安村戸長役場に奉職し9年間務め、同40年(1907年)厚岸町役場書記,その後、来道し同28年(1895年)尻岸内村戸長役場に筆生として奉職。 / 2、2級町村制発足時(明治年間)の尻岸内村役場三役
戸井町史 ((2)池田家(館町))

(2)池田家(館町) ①                 釧路国厚岸郡厚岸町   小鰊搾粕                  ,北海道亀田郡戸井村                           池  田  栄  吉  北海道厚岸郡厚岸町役場庁舎新築費,北海道亀田郡戸井村                           池  田  栄  吉  北海道厚岸郡厚岸町第三部消防組器械蔵置所壱棟並器具器械一式有志共同寄附候段奇特
恵山町史 (1、異国船の来航)

・一八三一年(天保二年)二月、厚岸のウライネコタン沖に異国船来航上陸、厚岸勤番所の出張人と戦闘となる。,14か所の台場を構築し、さらに勤番所を、東蝦夷地の山越内(現八雲町字山越)・絵鞆(室蘭)・様似・釧路・厚岸,・同年(同年)六月、アメリカの捕鯨船プリマス号の乗組員マクドナルド利尻島ノッカに短艇で着岸、遭難者を装,・同年(同年)四月、イギリスの捕鯨船エドモント号、東蝦夷地厚岸のマビロに漂着、七月、箱館に航送中暴風に,乗組員の上陸に、警備のさらなる強化のため、嘉永5年(1852)幕府の許しを受け、新たな築城と松前城下沿岸の
恵山町史 ([陸路の充実])

猿留(さるる)山道(幌泉~猿留(さるる))等の道路を開削、文化年間(1804~1817年)には仙鳳趾~厚岸,寛政11年には道路が開かれると同時に、東蝦夷地(道東)の人家の少ない昆布森・仙鳳趾・厚岸・野付など10
椴法華村史 (第三大亀丸と川崎船の衝突)

川崎船の衝突 大正九年二月十三日付 函館毎日新聞   ●第三大亀、川崎船と衝突       尻岸内沖,にて    區内前田汽船株式會社第三大亀丸は一昨十日午後三時當港に於て雑貨を搭載し釧路厚岸に向け航行中同六時三十分亀田郡尻岸内村沖合,に差蒐(さしかか)りたるに暗夜の爲咫尺(しせき)を辨せず折柄出漁中なる尻岸内字女那野呂茂吉所有川崎船に
南茅部町史 下巻 (大正四年 函館港海運・回漕店)

      電話四四九番   定期    鹿島丸  尻岸内直行                定期,定元期扱  敦賀丸  佐渡・新潟行  尼崎汽船北海部       共同    運輸丸  佐ル太・沙流・厚別,・様似行                      天京丸  幌満・幌泉・小越・庶野・口留・廣尾・厚岸,                定航 第一日本海丸 同所行  ◎浦河直行         日高定期航路  定航   豊漁丸  厚別,  根田内・磯谷行  東濱町一四番地  〓前田船舶支店        定航 第一大亀丸  釧路・厚岸
戸井町史 ((二)戸井の地質構造と岩石)

しかもこれらの川をさかのぼる程、両岸の岩壁はこの岩石が厚大な層を形成している。  ,の削られた所に厚大な層をなして露出している。  ,流紋岩は第三紀層を貫ぬき、或はこれを被覆しているが、下海岸に最も広く厚く分布しているものは、緑色及び暗緑色,)を受けて形成され、その上部に種々の厚さの礫層(れきそう)が発達している。,と推定される厚い灰色粘土層、砂質粘土層が露出しており、その上を砂礫層が被覆している。   
南茅部町史 上巻 ((5)平地)

(5)平地 平地は各河川流域に局部的に見い出されるほか、海岸沿いに見い出されるが、小面積を占めるだけである,と砂礫の互層が一〇メートルの深度まで見出され、基盤岩には達していないので、この場所における沖積層の層厚は,基盤に達しない所があるが、前者は山寄りの地点を示し、一般的には八木川の場合と同様一〇メートル以上の層厚を
戸井町史 (八、〓池田家(館町))

金沢家で厚岸に小鰊漁場を経営した時には、栄吉が船頭となり、妻ソメ子と共に厚岸に赴き、鰮の漁期には帰村して,次いで建網一ケ統をふやし、更に厚岸に小鰊漁場を設けた。,したために、漁撈のことに精通したことに加え、漁運にも恵まれ、戸井の鰮漁は曳き網、建網共に大漁が続き、厚岸,ここに四ケ年間勤め、明治四十三年(一九一〇)二十才の時、函館の保田商店に勤め、保田(やすだ)家の経営する厚岸,初代栄吉が生前厚岸の漁場に行っていた頃、保田家の漁場で働いている鉄蔵をハナの聟にと見込み、保田家の主人
函館市史 銭亀沢編 (地表)

地表 地表ハ至ルトコロ墟土之ヲ被覆スレドモ甚ダ厚カラズ。河岸ノ外ハ地味肥沃ナリトハ云ヒ難シ。
恵山町史 ((2)石刃)

(2)石刃 次の段階は石刃技法によってつくられた大型石刃、彫刻器、厚手のスクレーパー等を主体とする前期白滝文化,この時期の遺跡数は少なく白滝村第13地点遺跡、同村ホロカ沢1遺跡、北見市中本遺跡、黒松内町樽岸遺跡などが,第5図 石刃(黒松内町樽岸遺跡) 武内収太ほか『樽岸』市立函館博物館、1956
函館市史 通説編 第一巻 (段丘地形)

段丘地形 函館付近に段丘地形がよく発達していることは古くから知られているが、これらはその成因によって海岸段丘,と河岸段丘に分けられる。  ,海岸段丘はいうまでもなく、過去の海面に関して波食作用を受けて平坦化した面を主体としており、その上に堆積物,を比較的厚く乗せる場合、ほとんど乗せない場合、比較的薄く乗せる場合とがある。,河岸段丘は川の両岸あるいは片側に、川の浸食が復活したために旧河床が刻まれて階段状に残った地形で、海岸段丘
函館市史 通説編 第二巻 (北海社と関西貿易社)

には、「北海社」という名称が予定され、創立証書(6か条)や定款(28か条)も用意されていた(「五代友厚関係文書,同社の概要を「関西貿易社創立証書并定款」および「設立発起人決議」(『五代友厚伝記資料』第4巻)で見てみると,、資本金100万円(内50万円は五代友厚他22名の発起人が出資、残りを公募)、本店は大阪に置き、神戸、,海産物(昆布・海鼠・鯣など)を中国へ輸出するのが主眼で、その北海道の現況を「北海道ノ地形ヲ見ルニ西海岸ヨリ,この東京滞在中の事と思われるが、岩内炭坑と厚岸官林の払下を出願、許可を得ている(『五代友厚伝記資料』第
椴法華村史 (外国船来航の概観)

を書いた『東方見聞録』の記録に示された、ジパングー・金銀島を探索するために、オランダ船カストリウムが厚岸,に来泊しこれをかわきりに、イギリス・ロシア等の船がさまざまなねらいをもって、蝦夷地沿岸にしきりに姿を見
椴法華村史 (天神丸の根田内破船)

根田内破船 明治六年十二月十三日十二時頃、函館から荷物積取のため椴法華へ向け航行中の天神丸根田内海岸において,明治六年 戸井往復 民事課(北海道蔵)    本月十三日茅部郡尻岸内枝郷根田内海岸ニおいて難破船在之段御訴奉申上候,多人數人夫御差出し被下船巻揚方夫々御手傳ヒ成下候得共何分前書之始末柄ニ而巻揚不相成船道具等取揚方萬端厚く
函館市史 通説編 第一巻 ([日吉町段丘について])

松倉川支流では上流で段丘堆積物が1メートル前後、下流で2メートル余となり、下流部にやや層厚を増す傾向がみられる,これに対し松倉川本流沿いでは下流部から上流部に段丘堆積物の層厚を増す傾向があり、下流の戸倉町付近で2~,高丘町、上野町の日吉町段丘堆積物は、西から東に厚くなる傾向がうかがわれる。  ,この平坦面の堆積物は、基盤岩との関係が明らかでないため全体の層厚は不明であるが、国鉄五稜郭操車場北方の,   (3)堆積物の厚さは50メートルよりも薄く、堆積物が、より高い波食台を覆う時
函館市史 銭亀沢編 (火砕流分布と噴出の様子)

火砕流分布と噴出の様子 「銭亀沢火砕流堆積物」は、日吉町面と呼ばれた海岸段丘の海側に連続して厚く分布,鴈沢ほか(1990)も、段丘礫層上に厚さ一〇から二〇メートルで堆積する火砕流堆積物と赤川面などの降下火山灰,図2・1・8 銭亀沢火砕流堆積物の分布(山縣ほか、1989より)  海岸段丘の上にも、函館市街の
恵山町史 (〈特別養護老人ホーム建設に助成〉)

これは町が高齢化社会を見据え、かねてから計画中であった特別養護老人ホームを、社会福祉法人『尻岸内恵愛会,・名 称  特別養護老人ホーム『恵愛園』 ・所在地  亀田郡尻岸内町字柏野一一七番地 ・経営主体 ,社会福祉法人『尻岸内恵愛会』 ・代表者  理事長 山内健治 ・法人設立 昭和五八年一二月六日 (厚生省社第八四五号
恵山町史 ((1)ライマン等の砂鉄調査)

本島に散在せる火山石中に混在するものにて、その石の欠損せるに従い、砕けて沙鉄(砂鉄)となり、其内の重厚なるもの,」  函館より東の方二七英里(一一里)なる古武井村の海浜には、容易に鎔解すべき沙鉄の層ありて、其最も厚き,〇此地沙層の富る部分は、凡そ直径三〇碼(ヤード)(一五間)にして中央は二尺八寸の厚さあり、而(そ)して,而して、其広さ、二〇碼(ヤード)許にして、厚さ平均恐らく一尺許なるべく、都(すべ)て三千六七七立方碼(,凡そ長さ一〇〇碼(ヤード)、広さ(幅)二五碼(ヤード)許にして、其最も厚き所は一尺三寸許なりと。
恵山町史 (地位及び硫黄鉱)

地位及び硫黄鉱 函館の東へ約40キロメートル、尻岸内村支村古武井より北、古武井川上流約8キロメートル,ここには坑道が2坑ありその奥へ10メートルほど進むと、白色凝灰岩の上層に厚さ30~80センチメートルの,また、ここより東方、渓流を遡ったところに40~50メートルにわたり厚さ30~50センチメートルくらいの,新山では2か所の坑道を調査したところ、鉱石の質、層の厚さに差があり埋蔵量を推量しがたいが、2山合わせて,また、前表に示すように硫黄の含量もすこぶる多く、且つ鉱層も厚く相当の生産量が期待される。
函館市史 通説編 第一巻 (平野)

平野 函館付近の平野はその大部分が海岸平野で、一部に河岸平野が見出される。,函館市大門広小路における建築工事の際にも、東雲町と同様の地層が見出され、下部から上部に、粘土層、層厚50,センチメートルのピート、層厚30センチメートルの砂層、層厚10センチメートルのピート、50センチメートル,の厚さの盛り土という層序を成している。,これらのうち、層厚50センチメートルのピート層中の花粉分析概査によると、針葉樹よりも広葉樹の花粉が多く
椴法華村史 (「まこんぶ」「みついしこんぶ」)

ニ至ルノ間ハ槪ネ岩盤ニシテ間々「ゴロタ」石ヲ混シ水深三尋乃至七八尋トス汐首岬以西根崎村ニ至ルノ間ハ沿岸岩盤陸岸,ヨリ連旦スルモ湯ノ川村ハ岸ヲ去ル三百間水深七八尋ヨリ昆布礁アリ該地方ニ於テハ昆布着生帯海深二十尋ニ及フ,積立金ヲナシ經費ニ宛テ附近ノ丘岡ヨリ石材(赤色ヲ帯ヒタル軟石)一個重量三貫目乃至三十貫位ノモノヲ取リ沿岸ニハ,、釧路国白糠郡ニ至ル間ニ産シ殊ニ日高国襟裳岬附近ヨリ同国静内郡ニ至ル沿岸に饒(じょう)産シ沿岸一尋乃至六七尋,ノ間ニ繁殖スト雖トモ其最モ繁茂スルハ二尋乃至四・五尋ノ岩盤上トス    亀田郡法華尻岸内間等ノ真昆布場
椴法華村史 (明治二十年代の昆布漁業)

・主な昆布と形狀   元昆布     多少厚薄長短ニ差アリト雖モ槪ネ巾三四寸ヨリ尺餘ニ至リ長サ六七尺,ヨリ丈餘ニ至ル質ハ厚クシテ濃緑色ナリ古來松前昆布ト稱シテ賞味セラルゝモノ是レナリ。   ,三石昆布     幅二三寸ニシテ長サ三四尺ヨリ數丈ニ及フモノアリ暗緑色ニシテ元昆布ニ比スレハ厚クシテ,黒昆布     幅三四寸長サ四五尺ニ及フ黒色ニシテ質厚ク天鹽ノ沿岸ニ産スルヲ天鹽昆布ト云ヒ利尻禮文等,二尺七八寸乃至三尺位トス   ・販売及仕向地    仕向地ハ昆布ノ種類ニヨリ各々其需用地ヲ異ニセリ本道ノ東海岸乃至南海岸日高等
椴法華村史 (陸路の充実)

蝦夷の地は盡く嶮阻にして通路自在ならず、所としては人蹟絶え其海岸搔送り舟をもって、漸々に通路をなすといえども,東蝦夷地長万部-虻田間、様似-幌泉、幌泉-猿留(さるる)等の道路が開かれ、更に文化年間(一八〇四~一八)仙鳳趾-厚岸間,蝦夷地内の道路の整備に伴って、旅人の宿泊設備も次第に整えられるようになり、寛政十一年昆布森・仙鳳趾・厚岸
椴法華村史 (カジカ岩元一丸の破船)

           能戸 勘右衛門               右申口   當月廿一日夜當村海岸ニ,而取揚候上舩主江相渡可申心組ニ御座候間取扱次第早速御届可申上候尤破船後今日迄も場所へ番人付置時々村中海岸見廻,榮吉 十九歳九ヶ月               右申口    當月廿一日茅部郡尾札部枝郷椴法花海岸ニ,リ被下候処海失之内別紙之品々御取揚被成下猶今日迄種々厚御世話ニ相成助命仕候段相違無御座重而被仰聞候村方,ニ於而非法不正之取扱等無之哉ト再應御糺御座候得共非法不正之取扱等一切無御座候只々厚キ御仁惠之御世話被成下候段一同難有仕合
恵山町史 ((4)北筒式土器)

口縁は山形突起をもった波状もしくは平縁で、口縁部に肥厚帯がつくられ、その直下に円形の刺突文が数センチメートル,間隔でめぐる特徴を持った土器で(第22図)、その南限は日本海側では岩内町、噴火湾岸では登別市である。,遺跡も海岸地帯だけではなく山岳地に近いところまで分布し、円筒式土器文化が植物質食糧資源を最大限に利用し
恵山町史 ((5)昭和4年の駒ケ岳の噴火による漁業被害)

内外、厚さ2乃至3メートルの層となり海底に沈堆した。,リタルモ、村民経済ヲ脅カス程度ノモノニ非ザリシカ、翌十七日朝ヨリ鹿部臼尻方面ノ海面ヨリ軽石漂流シ来リ、其ノ厚サ,依レバ、沿岸四里半沖出シ三百間内外ニ渉リ七八尺乃至一丈五六尺ノ層ヲ成シ、海底ニ沈堆シアリ為メニ沿岸ニ棲息繁茂,スル海藻魚介ハ死滅ノ危ニ遭イ、殊ニ沿岸ノ内古武井浜中及ビ尻岸内浜中沖合ノ砂磐ヲ除ク三里余ニ渉ル昆布礁ハ,六月十七日駒ケ岳爆発ニ依リ海上ニ浮流セル軽石ハ陸続キトシテ、本村沿岸ニ沈降シタル為、沿岸ニ棲息繁茂スル
椴法華村史 (明治二十三年烏賊漁船の大遭難)

十艘計矢木内村に七八艘有川村三谷村に六艘づゝ當別邊に七八艘漂着せし由にて昨朝矢木内よりの報に依(よ)れハ同村海岸にも,歟覆(みくづか)へりし船又一轉して舊(もと)に復したれは直に中に飛入りしに運よく一陳の強風にて同村海岸へ,かりしが一人ハ終に溺死せり又若松町本間次郎持船七人乗りハ寒川沖にて轉覆と同時に破壊したるも其際幸にも海岸町,去六日葛登支燈臺近傍に漂着したるもの三十余名あり右の者共燈臺に行きて難破の始末を述べしに燈臺員ハ食物等を與へ厚く,一同一昨日帰函せり又茂邊地へ漂着したるもの五十名あり之も同村の役場に到りて遭難の始末を申述べければ同役場にても厚く
恵山町史 (鉱床の生成過程)

なお、鉱層の厚さが不定なのは水底の地形が複雑、起伏があったためと推察される。  ,にて「呈」開拓次官黒田清隆)  古武井の硫黄は、一つは武佐川(古武井川)なる硫黄の旧製造所にあり、海岸なる,坑口に近き外側、凡(およ)そ厚さ六〇センチメートル許(ばか)りなる灰色硫黄の一層あり。,また、坑口に灰色硫黄の厚さ一・二メートルの層あり。,但(ただ)しこの層は小なる山谷の岸頭に沿うて露出し、長さ三〇メートル高さ三・七メートルに及ベるあり。
函館市史 通説編 第一巻 (幕府の物資輸送)

越えて翌11年、幕府が東蝦夷地を直轄すると、奥州酒田から幕府の必需品を箱館に回漕すること2回、更に厚岸
函館市史 通説編 第一巻 (旗合せの糾問)

旗合せの糾問 それがどういうことからか、折から厚岸のウラヤコタンの外国船乱暴事件の調査のため、蝦夷地
函館市史 通説編 第一巻 (ロシア人の南下)

、ロシア人の南下接近の報を聞いたのは、これより先、宝暦9(1759)年のことで、松前藩士湊覚之進が、厚岸
戸井町史 (七、〓金沢家(泊町))

五代藤吉が学校を卒業するとすぐ、四代藤吉は十七才の息子を連れて、厚岸の小鰊漁場へ出稼ぎに行って、鰊漁業,父の死後二年目の明治三十年(一八九七)厚岸に小鰊漁業を経営し、翌明治三十一年(一八九八)瀬棚郡美谷(びや,)に鰊漁場を経営し、又戸井では鰮漁の外に鮪(まぐろ)漁に着手したが、厚岸、美谷、戸井いずれも大漁が続き,、やることなすこと、すべて順調に行き、五代目を継いで以来十数年にして巨萬の富を築き、下海岸屈指の大資産家
恵山町史 (3、発足当時の郵便業務)

その2年後、同10年には尻岸内本村に同じく5等郵便局が開設、秋田多三郎が取扱人の命を受け業務に従事する,明治16年3月「駅逓編成法」が公布され、翌16年8月16日「尻岸内3等郵便局」(一時、大澗郵便局と改称,〈当時の逓送夫〉 新しい郵便局の逓送夫について、尻岸内町史に、古老の思い出話として「当時の逓送夫は、それと,容積 長さ曲尺弐尺 幅曲尺弐尺 厚さ曲尺弐尺       重量 壱貫五百匁     *括弧内の規定,(但し幅及厚各五寸以内の物は長三尺を限り差出すことを得)  第四条 小包郵便物ノ当期価格ハ金百五拾円
函館市史 通説編 第二巻 (北海道における近代寺院の造立と函館)

しかも特徴的なことは、この先発地の函館・松前の寺院が本寺となって末寺を造立する地域が釧路や根室という沿岸部,これに、小樽・有珠の寺院の末寺形成先をつけ加えるなら、近代寺院の開教形態の一つに沿岸型開教なるものがあったといって,・古平 後志・忍路 根室・根室 石狩・札幌 後志・寿都 後志・忍路 胆振・室蘭 釧路・厚岸,後志・寿都 渡島・桧山 石狩・札幌 後志・岩内 渡島・函館 後志・積丹 釧路・厚岸,・樺戸 石狩・札幌 渡島・茅部 後志・久遠 後志・積丹 石狩・空知 石狩・札幌 釧路・厚岸
南茅部町史 上巻 ([むすび])

第二には、第一に深いかかわりをもつことであるが、南北両要素の濃厚な混生地帯であることで、このことは多かれ,第三に、生態的には海岸性植物から高山性植物までを広く包含していることである。,内陸部の植生状態の如何は沿岸漁業、養殖漁業などの盛衰に深いかかわりをもつだけに、山岳丘陵地帯の植生および
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