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恵山町史
(4、(恵山)厳島神社)
そのような理由から、総本
社
の宗像
神
社
より、
厳
島
の方がよく知られるようになり、全国各地の港にも
厳
島
神
社
が,当
厳
島
神
社
は函館市弁天町の
厳
島
神
社
からの分
神
と推察される。 ,<歴代宮司> (日浦)稲荷
神
社
に同じ
厳
島
神
社
(恵山) 弁才天(弁天様)と市杵
島
姫命(
厳
島
神
社
,)について 当
神
社
は函館市弁天町の
厳
島
神
社
からの分
神
と推察されるが、この函館
厳
島
神
社
は江戸時代「弁財天
社
,市杵
島
姫命を祀る
神
社
がある安芸の宮
島
『
厳
島
』に、古来から弁才天を祀る
神
社
も存在していた。 / 4、(恵山)
厳
島
神
社
南茅部町史 下巻
(〔厳島社〕)
〔
厳
島
社
〕
厳
島
神
社
は、古来海中の岩
島
に海上安全、漁事豊漁を願って祀られた
神
社
で、弁天
社
、弁天さまとして,海岸の村人に信仰された
神
さまであった。,宝暦年間(一七五三)安芸の宮
島
に至り、大
社
より勧請(かんじょう)したと伝えられる。 ,海岸から開かれたので道内諸
社
中、
厳
島
社
は漁村や船人の関係で、松前、江差、箱館には早くから勧請されて鎮座,このほか海上安全、豊漁、商売繁昌を祈る
神
社
系列と思われる弁天
社
、竜宮
社
、恵比須
社
、琴平
社
、三
島
社
、住吉
社
/ 〔
厳
島
社
〕
恵山町史
(5、(御崎)八幡神社)
そのため、明治10年(1877)、村
社
として根田内の
厳
島
神
社
から分
神
し、御崎八幡
神
社
を創立した。,したがって祭
神
は市杵
島
姫命であり、氏子は字御崎の人々が主である。 ,主な事業 祭典などの事業は、すべて(恵山)
厳
島
神
社
に合わせて行っている。,なお、尻岸内八幡
神
社
(大澗)、稲荷
神
社
(日浦)、海積
神
社
(古武井)、
厳
島
神
社
(恵山)の4
社
については宗教法人,(註1)
神
社
本庁 1946年(昭和21)国家
神
道廃止に伴い設立した
神
社
神
道の宗教団体で、全国の
神
社
の大半 / 5、(御崎)八幡
神
社
南茅部町史 下巻
(〔神社現況〕)
〔
神
社
現況〕 (昭和六〇年現在)
社
寺名 創立年月日 所在地 宮司, 稲荷
神
社
寛政八年(一七九六) 字古部一四四-一 安田吉春(大正二年生) 同 , 同 同 天保二年(一八三一) 字安浦二九六-五 安田範彦(昭和一三年生)
厳
島
神
社
, 宝暦三年(一七五三) 字臼尻一五一 同 稲荷
神
社
寛政四年(一七九二) 字大船三一六 / 〔
神
社
現況〕
南茅部町史 下巻
(棟札等にみる郷土神社編年一覧)
5・ 札幌
神
社
権宮司菊地重賢、道内各
神
社
を巡回調査 正月吉日 臼尻
厳
島
神
社
旧二,臼尻
厳
島
神
社
村
社
に列せられる。 , 臼尻村
社
厳
島
神
社
社
殿再建 入母屋造柾葺 間口四間・奥行四間 斎主
社
司小
島
仁太 , 38・ 9・ 8 臼尻
厳
島
神
社
神
門一基 郷土出身出征軍人の無事帰還を謝 斎主
社
掌小
島
仁太郎, 59・ 臼尻
厳
島
神
社
宮司安田範彦 氏子総代長、野村幸兵衛、同副、宮田、広
島
県
厳
島
に至り / 棟札等にみる郷土
神
社
編年一覧
南茅部町史 下巻
(郷土神社棟札編年一覧)
世話人 中村屋佐五兵衛 文政八乙酉(一八二五)七月廿三日 臼尻
厳
嶋
大明
神
,磯谷村役 久兵衛 百姓代喜代松 文政八乙酉年(一八二五) 臼尻
厳
島
大明
神
,天保一二辛丑(一八四一)八月
神
直日 臼尻
厳
嶋
大明
神
鳥居一基 大
神
主藤山長門頭藤原正清 臼尻村若駒連中, 永井相模 弘化二乙巳(一八四五)七月二九日 臼尻
厳
嶋
大明
神
,稲荷大明
神
御
神
像(木造)一体安鎮 安政四丁巳(一八五七)七月二八日 臼尻
厳
嶋
大明
神
/ 郷土
神
社
棟札編年一覧
恵山町史
(2、『壬申八月巡回御用神社取調』第2巻より、尻岸内村神社調)
合祀
嚴
嶋
神
和幣 但、合殿の書上ニテ別祠ニ付、此分合祀申付候事。,起原不分明 同村末
社
稲成
神
木像 翁稲荷・廃物 改祭同断 但、
嚴
嶋
社
合祀ノ請書為二差出一候事,・
嚴
嶋
神
の和幣・別祠とせず稲荷
社
に合祀すること。 ,枝郷根田内・
嚴
嶋
神
和幣(祭祀
神
体) 稲成
神
木像(祭祀
神
体 翁稲荷)廃棄し改めて祭ること,但、
嚴
嶋
社
合祀の請書を差し出すこと。 / 2、『壬申八月巡回御用
神
社
取調』第2巻より、尻岸内村
神
社
調
函館市史 通説編 第一巻
(神社)
神
社
往時は
神
仏混淆の時代で、薬師堂のごとく寺か
社
か区別しがたいものもあるが、のちに
神
社
と定められたものを, 弁財天
社
(現
厳
島
神
社
) 亀田八幡宮の
神
職が漁期に来て豊漁祈願したのが始まりといわれ、『, 住吉大明
神
(現住三吉
神
社
) 『箱館夜話草』に、明暦元年、南部の修験者感応坊創建と、
神
明
社
,
神
明
社
の
神
職沢辺氏はもと尻沢辺に住して、沢辺姓を名乗ったというから、両
社
関係があるらしい。, このほか箱館八幡宮には、摂
社
として、愛宕大明
神
、天満宮、末
社
として大工祖
神
、八郎大明
神
/
神
社
恵山町史
(3、神道指令以降の神社)
3、
神
道指令以降の
神
社
神
道指令の二の②に「
神
社
神
道は、国家から引き離し、軍国主義の要素と極端な国家主義,第二条 本
神
社
ハ八幡
神
社
ト称ス。 ,第三条 本
神
社
ノ所在地ハ北海道渡
島
国亀田郡尻岸内村字大澗五三番地。 ,、恩道市太郎、山本鐵藏、井戸竹作 稲荷
神
社
・海積
神
社
・
厳
島
神
社
については、
神
社
代務者は八幡
神
社
,4名 『
厳
島
神
社
』大坂丑松、井上軍治、長田定治以上3名 / 3、
神
道指令以降の
神
社
南茅部町史 下巻
(〔郷土の神社の沿革〕)
〔郷土の
神
社
の沿革〕 延宝五年(一六七七) 尾札部開村 延宝七己未年(一六七九) 尾札部稲荷大明
神
創建, 飯田屋与五左衛門、奥州二戸郡福岡鎮座呑香稲荷
神
社
を勧請 ,宝暦二年(一七五二) 川汲開村 宝暦三年(一七五三)四月 臼尻
厳
島
大明
神
創建 ,木直稲荷大明
神
創建 木直・佐藤彦太郎、下北易国澗村鎮守大石
神
社
の分霊勧請,庭内
神
祀る 寛政二年(一七九〇) 古部開村 寛政四年(一七九二) 熊泊稲荷大明
神
社
殿創建 / 〔郷土の
神
社
の沿革〕
南茅部町史 下巻
(〔神社創始の起源〕)
〔
神
社
創始の起源〕 郷土の
神
社
の勧請は尾札部稲荷
神
社
が最も古く延宝七年、飯田屋与五左衛門が南部三戸郡福岡,ついで臼尻
厳
島
神
社
は、享保の頃、知行主新井田金右衛門が当海岸勤番見分の砌り、海上暴風にあい臼尻の澗に避難,、市杵
神
社
の
神
影を勧請(かんじょう)して弁天
島
に祀ったという。,以来、人びとは弁天さまと呼び、この
島
を弁天
島
と呼んだ。 ,大船稲荷
神
社
は安永二年(一七七三)、高田屋彦右衛門が江差の笹山稲荷
神
社
の分霊を勧請して庭内
神
として祀った / 〔
神
社
創始の起源〕
恵山町史
([神道国教策以後の郷土の神社])
[
神
道国教策以後の郷土の
神
社
] 明治政府の
神
道国教策により郷土の4
神
社
はどのように変わったのか、菊池重賢,の『壬申八月巡回御用
神
社
調』(明治政府・開拓使による
神
社
調べ)以降の郷土の
神
社
の実態については、明治12,年6月調の文書、『渡
島
国亀田・上磯・茅部三郡
神
社
明細帳』(函館支庁・戸籍係)が存在する。,九拾四坪 民有地第二種 名受人
社
掌大熊廣義 一、境内
神
社
壱
社
稲荷
神
社
祭
神
, 無格
社
厳
島
神
社
一、祭
神
市杵
島
姫命 / [
神
道国教策以後の郷土の
神
社
]
南茅部町史 下巻
(〔明治五年神社巡回日記〕)
男百七拾九人 内 人口三百弐拾人 女百四拾壱人 △
厳
嶋
社
,拝殿九尺ニ弐間
神
門一
社
地六間ニ廿間 此祠
厳
嶋
社
合祀申付、請書取レ之候事。 ,〃枝郷根田内村 七四軒 四九八人
厳
嶋
神
末
社
稲成
神
, 一四三人 稲生
社
臼尻村 五三軒 三二〇人
厳
嶋
社
,
厳
嶋
社
境内稲成
神
(文政二) 相生町 歓喜天(慶応元) 等樹院休泊所天祐庵 〃 東照宮( / 〔明治五年
神
社
巡回日記〕
南茅部町史 下巻
(〔稲荷社〕)
村にも稲荷
社
があった。,現在、臼尻一
社
のみ
厳
島
神
社
となっているが、臼尻にも古くから稲荷
社
があった。,明治五年、開拓使の達しによって、一村に二
社
あることは争いの源(もと)となるので稲荷
社
を
厳
島
社
に合祀するよう,命じられて以後、臼尻の稲荷
社
はなくなったかに思われてきたが、実際その祭
神
は
厳
島
神
社
に合祀して伝えられている,明治一八年の北海道志によると、道内の稲荷
社
は一一三座あり、各
神
社
名の中でも最も多い
社
名である。 / 〔稲荷
社
〕
函館市史 通説編 第二巻
(神社と寺院の反目)
神
社
と寺院の反目 実はそうではない。,倩承伝仕候得共、今般御開拓使御出張以来、諸宗ハ東西御場所ヘ弐拾四ヶ寺ノ末寺取建仕候趣、(中略)北海道渡
島
国御開拓御盛功御満足,奉加配札等向後不為致段、触下ノもの申出筈ニ付、別紙ノ通相達申度奉存候間、御差支有無奉伺候、且村役人ヘも
厳
確御布告被成下候,函館において
神
仏分離をめぐる寺
社
間の対立は、以上のように天台宗の教線拡張という開教を契機に発生したものであり,その意味でいえば、函館の
神
仏分離をめぐる寺
社
間のトラブルは比較的少なく、「妥協・融合」の色彩が濃厚であるといえよう /
神
社
と寺院の反目
戸井町史
(三、各神社の棟札(むなふだ))
三、各
神
社
の棟札(むなふだ) 豊井村と書かれた棟札 (1)宮川
神
社
① 奉納 宮川大明
神
講中豊井村,御本
社
一宇 願 主 戸井村 氏子中 当
島
大学 松前志摩守源章広公, 郷
社
函館山ノ上大
神
宮
社
司 兼 無格
社
瀬田来稲荷
神
社
社
掌 ,① 無格
社
汐首
神
社
神
門二基 斉 主
社
掌 沢 辺 , 奉 鎮 祭
嚴
島
大
神
祠 斉 主 宮川
神
社
社
掌 小 野 / 三、各
神
社
の棟札(むなふだ)
南茅部町史 下巻
(〔亀田八幡宮社記〕)
の村々までの
神
社
鎮座の状況は次のようであった。,(
神
道大系より) 戸井村鎮守 宮川明
神
壹
社
本
社
三尺三尺 蛯子尊勧請 木五尺鳥居壹宇,
厳
島
社
勧請 起元・普請前文同断。 ,臼尻村鎮守 壹
社
厳
島
大明
神
拝殿 三間四間 木
社
内御堂 木八尺鳥居, 藤山大膳 藤山主膳 〆 當代迄七代 一
神
寶
社
内荘
厳
等之訳合 / 〔亀田八幡宮
社
記〕
南茅部町史 下巻
(〔嘉永七年「六ヶ場所書上」にみる神社庵室〕)
壱ヶ所 (
神
主 同) 同 汐首 大巳貴命小
社
壱ヶ所 (
神
主 同) 同 瀬田来, 稲荷小
社
壱ヶ所 (
神
主 同) 戸井 宮川大明
神
小
社
壱ヶ所 亀田村
神
主, 同 古武井 八大龍
神
社
壱ヶ所 (
神
主 同) 同 根田内 蛭児
社
壱ヶ,亀田村
神
主 藤山大膳持 地蔵堂 臼尻
厳
嶋
大明
神
社
,蛭児
社
壱ヶ所 (
神
主 同) 落部 八幡
社
壱ヶ所 (
神
主 同) / 〔嘉永七年「六ヶ場所書上」にみる
神
社
庵室〕
函館市史 通説編 第二巻
(開拓使の神仏分離観)
明治5年の開拓使による
神
社
改正に伴う
社
寺取調の任に当ったのは函館八幡宮祠官菊池重賢であったが、彼の取り,調べの眼はかなり
厳
しかった。,例えば、小樽高
島
村の稲荷
社
を調査しては、「
神
璽二勧請、外ニ仏体一有之、此分取除ク」、また函館豊川町の豊川稲荷
社
,を調べても、同
社
に安置されていた銅像の
神
体を「此銅像ヲ廃シ
神
鏡・和弊ノ内ヲ以テ改祭スベシ」(同前)というように,、稲荷
社
については悉く廃止を迫っていた。 / 開拓使の
神
仏分離観
南茅部町史 下巻
(北海道旧纂図絵による産土神(うぶすながみ)の起源)
北海道旧纂図絵による産土
神
(うぶすながみ)の起源 元禄一六癸未年(一七〇三) 五月 キナホシ,龍
神
社
八月九日 稲荷
社
再立 正徳三癸巳年(一七一三) 八月一二日, 尾札部ヤキサワ三
嶋
社
八月一七日 尾札部稲荷
社
再立 享保二丁酉年,(一七六一) 七月二〇日 臼尻
厳
島
社
再立 八月五日 臼尻稲荷
社
再立, 椴法華鎮守稲荷
社
再立 伝えられる各
社
の起源、創始よりかなり古い記録である。 / 北海道旧纂図絵による産土
神
(うぶすながみ)の起源
南茅部町史 下巻
(町の文化財指定)
一五一番地 宗教法人
厳
島
神
社
昭53・2・28 明治六年、
厳
島
神
社
旧
神
殿再建に祭し、青森 県佐井村,
厳
島
神
社
宗教法人
厳
島
神
社
昭和54・12・6 天保一二庚丑年八月と記載。,
厳
島
神
社
宗教法人
厳
島
神
社
昭和54・12・6 弘化二乙乙七月二九日と記載。,
厳
島
神
社
宗教法人
厳
島
神
社
昭和54・12・6 安政四丁乙七月二八日と記載。,
厳
島
神
社
宗教法人
厳
島
神
社
昭和54・12・6 慶応二寅年八月と記載。
函館市史 通説編 第二巻
(明治政府の神仏分離政策)
ハ牛頭天王ノ類、其外仏語ヲ以
神
号ニ相称候
神
社
不少候、何レモ其
神
社
ノ由緒委細ニ書付、早々可申出候事 一,、仏像ヲ以
神
体ト致候
神
社
ハ、以来相改可申候事 付、本地杯ト唱ヘ、仏像ヲ
社
前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘,とりわけ、薩摩・隠岐・美濃苗木・松本・富山・佐渡・土佐の各藩において
厳
しかった。,隠岐でも元年6月に全
島
の廃仏を断行し、1寺も残さず壊してしまった。 ,愛知・福井・新潟・香川・
島
根・大分などでは、寺院と庶民の伝統的な和合を背景にして、廃仏毀釈に対する反抗運動 / 明治政府の
神
仏分離政策
恵山町史
(2、国家神道についての指令)
③日本の
島
々が、
神
に起源するか特別の起源を持っているので、他の国よりも優れているとする考え。 ,(尻岸内八幡
神
社
所蔵) この
神
道指令に該当した郷土の
神
社
は、次の4
社
である。 ,・尻岸内村『八幡
神
社
(郷
社
)』 ・字日浦『稲荷
神
社
(無格
社
)』 ・字古武井『海積
神
社
(無格
社
)』, ・字恵山『
厳
島
神
社
(無格
社
)』 字日浦『稲荷
神
社
(無格
社
)』 尻岸内村『八幡
神
社
,(郷
社
)』 字恵山『
厳
島
神
社
(無格
社
)』 字古武井『海積
神
社
(無格
社
)』 / 2、国家
神
道についての指令
椴法華村史
(戦いの激化と社会情勢)
戦いの激化と
社
会情勢 昭和十七年三月、アメリカ軍がガダルカナルで反撃を開始して以来、戦局は急速に日本,しかし毎日の新聞やラジオの報道は
厳
しい報道統制の中で心ならずも、赫々たる戦果ありとしか発表するより道は,この年の気候は比較的安定しており、農業生産力も回復するものと期待されていたのであるが、七月のサイパン
島
陥落,に昭和二十年二月二十七日第一回村会開催のおりに、谷内村長によって行われた村会開催宣言の中には、当時の
社
会情勢,ヲ浸サントシ凡ユル物量ヲ動員シテソノ豊富ナルヲ恃ミテ帝國ノ周辺ニ迫リ此
島
ヲ始メ我ガ本土ノ玄関タル硫黄
島
迄 / 戦いの激化と
社
会情勢
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田八幡宮)
明治五年、菊池重賢の「巡回御用
神
社
取調」の際は、亀田村の八幡宮として、詳細に調査が行われた。 ,『亀田村郷土誌』(大正初期)には「明徳元年に函館の館主河野加賀守森幸が越前国敦賀気比
神
社
より分霊を奉じて,再建があり、
社
前の花崗岩の大
島
居は松前奉行の経営奉納によるものである。,本
社
は八幡の森と称する古木亭々たる森林にあり、昼尚小暗く荘
厳
の気自ら迫り
神
々しさはことばに尽くせない。,、鍛治町の稲荷
神
社
、
神
山町の稲荷
神
社
、赤川町の三
嶋
神
社
、石川町の川上
神
社
などの宮司も兼ねている。
南茅部町史 下巻
(若者組)
若者組 天保一二年(一八四一)、
厳
島
神
社
に鳥居寄進の棟札に若駒連中とある。
恵山町史
(夏)
この季節風は、北太平洋の湿った暖かい空気を運び、時としては近海で発生した海霧を亀田半
島
の津軽海峡東口に,とはいうものの、亀田半
島
における夏の海霧の襲来は、道東の根釧(こんせん)原野、道央の勇払(ゆうふつ)原野,恵山町は、亀田半
島
のコンブ生育地(ミツイシコンブ・マコンブ)の中央部に位置しており、夏期は各漁港でコンブ,町内の海積(わだつみ)
神
社
・
厳
島
神
社
・稲荷
神
社
・尻岸内八幡
神
社
の各祭典や夏まつりなど、まちは祭り一色に,道南地方より北に位置する、道央の札幌、旭川内陸盆地の夏日は50日前後に達するので、亀田半
島
の海岸地方は
南茅部町史 下巻
(口絵)
昆布採取 松浦武四郎 東西蝦夷山川地理取調図 万延元年 市立函館図書館 所蔵 川汲稲荷
神
社
絵馬, 文久二壬戌年 奉納 箱館 徳田屋利三郎 川汲稲荷
神
社
船絵馬 明治11年 奉納 荒関勝蔵,川汲稲荷
神
社
髷(まげ)絵馬 明治12年 奉納 山崎永吉 板木(安浦)金毘羅
神
社
絵馬,」帖 天保12年 小板久弥 所蔵 文月(七月)八日 穴水郷大
社
(石川県) 八月十三日,昭和5年頃 中竹中家 所蔵 臼尻村熊泊(大船)乾繭場 昭和7年 村上元三郎 所蔵
厳
島
神
社
上棟式
椴法華村史
(古武井・椴法華間の開通)
、大
島
・林両代議士、前田・太田・富合・岡部・廣部各道議、山木戸井署長、田中尾札部・安川戸井・斉藤尻岸内各村長,、川口亀田水産会長、函毎・函館新聞
社
、 其他椴法華村会議員、有志等百余名定刻一同着席、
神
官の修祓、,降
神
行事、祝詞、儀があって玉串奉献昇
神
行事を以て崇
厳
裡に道路開通報告祭を終り引続き開通式に移り国旗掲揚,詔書奉読、菊地村長式辞朗読をなし、次で功労者 松原富次郎、武石胤介、川口又三郎、福永藤三郎、川
島
力松,石岡房太郎 諸氏に対する感謝状記念品贈呈あり、支庁長(代理)林代議士、前田道議、安川戸井村長、川
島
村会議員代表
南茅部町史 下巻
(上磯式 奴振り)
福
島
大
神
宮祭礼行列 四箇散米(しかさごまい)行列、大名行列。 ,相沼八幡
神
社
の祭りに登場。 ,上ノ国 石崎奴 石崎八幡
神
社
で行われている道中振りの奴。 ,後志管内 倶知安 赤坂奴 昭和八年から
神
社
大祭のみこし行列に加わる。 ,天塩
厳
島
神
社
大名行列 奴行列は一六人。
戸井町史
((参考)北海道と青森県の円空仏)
そのうち観音堂が十九堂、
神
社
が六
社
である。,(こんこう)を
厳
禁した。,中には江差町五勝手の柏森
神
社
や木古内町佐女川(さめがわ)
神
社
の御
神
体になった円空仏のように、衣冠束帯を,釧路市米町
厳
島
神
社
観音像 礼文華の窟で作る。,文政五年(一八二二)の記録に「福山馬形
神
社
に円空作の十一面観音、荒谷
神
社
に円空作の木像がある」とあり、
南茅部町史 下巻
(奴)
そして大正一二年、
厳
島
神
社
の祭典に道中奴を奉納したのがはじまりである。 ,明治末期、川汲稲荷
神
社
の大祭のときに加賀奴をはじめて披露したという。
南茅部町史 下巻
(瑞火)
瑞火 熊泊稲荷
社
(大船)の別当の前浜に、大きな岩があった。,
厳
嶋
神
社
ニ鳥居奉献ノ議起ルヤ別當ニ請ヒテ一ノ鳥居ハ二本柳庄三郎、二ノ鳥居ハ先代小川幸一郎ト先々代大坂政一氏
函館市史 通説編 第二巻
(教導職の実態)
「講
社
心得」によれば、各敬信の徒は地域ごとに講を結び、その代表者として講幹を選び、この講幹を中心に日常,の生活を行ない、毎月1日に
神
社
に参詣するよう決められていた。,講幹を補佐する者として、講
社
世話役掛がいた。 ,教導職の人々による説教はこのように、
厳
粛にして
神
々しい雰囲気の中で執り行なわれたのであるが、この教導職,函館中教院=願乗寺が、いうなれば函館を中心とする渡
島
・桧山地域の教導センターになっていたのであり、この
戸井町史
(五、高田屋嘉兵衛と汐首岬)
又
神
社
の附近の人家の前や畠の縁に、笠木石の破片二箇、柱の破片一箇が残っている。 ,高田屋嘉兵衛が汐首
神
社
に鳥居を寄進したのは、観音堂がまだ汐首
神
社
の境内にあった頃であろう。 ,この岬に海上安全を護るように、汐首
神
社
が建っている。,嘉兵衛は汐首
神
社
に鳥居を寄進することを発願し、郷里の淡路
島
か、兵庫あたりに産する御影石で、組立てるばかりに,今考えると、このような
厳
しい処分をした理由が納得出来ないし、これを裁いた幕府の役人の非常識さに驚ろくものであるが
椴法華村史
(明治三十七年)
この報は函館区役所や関係海運会
社
、軍隊等に入電しこの時非常事態であると判断した函館区は、「明朝敵艦の砲撃,(十一日午後十時福
島
発)北海道渡
嶋
國小
島
沖に於て帝國商船奈古浦丸(七百十余噸)は露國軍艦四隻の為めに砲撃, ●函館戒
嚴
令施行区域 一昨十四日函館港に戒
嚴
令を施行せられたが右は函館要塞地帯及之,を哨戒し、要塞亦戦備を
厳
にして敵を待てり。 ,またこの時赤十字
社
や愛国婦人会の結成が奨励され、
神
社
や寺院では必勝祈願祭や戦没者の追悼法要なども実施され
函館市史 通説編 第一巻
(石器天降説)
朝廷に言上し、国忌や布施を法式どおりに執り行い、警固を
厳
重にしたことはその後の記録にもたびたび出てくる,このように、石器がその当時
神
秘的に考えられたためか、石鏃の向きによって吉、凶兆が占われたりもした。,また下北半
島
の佐井村に箭(や)之根八幡宮という
神
社
があるが、この
社
の高台一帯は縄文時代中期の遺跡になっていて,、同
社
には御
神
石として黒く光った磨製石斧が大切にまつられていたということである。 ,石器天降説はこのように、
神
々の時代のものという太古的な理解からで、
神
代の石器と呼んだ風が生れたが、上古
函館市史 通説編 第二巻
(住民の行動規制の強化)
まず4月3日、白鳥新十郎、蛯子半五郎、代
嶋
剛平、西村平左衛門、村田林人、西村次兵衛及び各名主に市中締向兼帯,その後藩庁は、家中・寺
社
・領民に対しアメリカ船渡来の際の対応方法に関する触を相次いで出していったが、4,(6)山背泊近辺、築
嶋
・桝形外、亀田浜、七重浜等は、場末で人家も少なく、夜分密に上陸の程もはかりがたいので,(16)異船滞留中は、観音・薬師・愛宕・七面等の山にある
神
仏への参詣を
厳
禁する。,松前藩が住民の動向にいかに
神
経をとがらしていたのかを知ることができよう。
恵山町史
(【聞き取り協力者】)
) ・古武井の商売について、恵山硫黄鉱山の運搬(ドサンコ)、回漕店、はしけ、川崎船による樺太、千
島
出稼,笹田 弘氏(恵山) ・青年団活動、昭和13年の第1回渡
島
方面下海岸ブロック大会(百・二百・走高跳・,荒木房雄氏(大澗) ・戦前の
神
社
の格式について、八幡
神
社
(郷
社
)稲荷・海積・
厳
島
神
社
の無格
社
,郷
社
宮司は判任官(
神
祇官に準ず)、村
社
の
社
務も管轄 高橋慎一氏(東京都) (押野鉱山経営 押野彊氏,阿部準三氏(福
島
町) ・恵山高校開校当時について、滝川初代校長の水産課程構想、昆布養殖の取組
南茅部町史 下巻
(安浦駒踊り)
板木の駒踊りは、むかし盂蘭盆と
神
社
の例祭に踊られていた。のちには大祭のときに踊るようになった。,稲荷
神
社
で稽古をした。稲荷
神
社
は現在の町立病院の横の母子センターのところが境内であった。 ,
厳
しい練習で鍛えに鍛えて拍子を、型を、芸を体におぼえさせる。 ,保持して」いること、「駒おどりが、念仏おどりの一種であったことを示す」ものとして、三戸郡階上村赤保内茨
島
の,乗りちがい駒) (渋谷道夫の区分による) 稲荷
神
社
例祭奉納
恵山町史
([昭和9年の尻岸内村勢要覧])
ヂフテリア一七(全治一六、死亡一) 腸チフス六(全治三、死亡三) [宗 教]
神
社
, 郷
社
一(八幡
神
社
) 無格
社
三(稲荷・海積・
厳
島
神
社
) 寺院 曹洞宗二,、坦々たる草原遠く連なり、今はただ土産馬の放牧に任せおるのみなるも、青波渺茫(びょうぼう)遥に下北半
島
の,山を下りて根田内街道を東に七ツ岩の奇勝を過ぎ、磯谷温泉に至れば剛放峻
厳
なる恵山の突角は打寄する太平洋の,水産 畜産 村財政 尻岸内村勢要覧 恵山スキー場 郷
社
八幡
神
社
恵山町史
(6、郷土と高田屋嘉兵衛)
〓高田屋 屋敷跡 函館護国
神
社
坂下 〓高田屋嘉兵衛像 函館護国
神
社
坂下 恵山火口原,尻岸内枝郷日浦 ・稲荷
社
木像(男躰白狐ニ乗) 合祠
厳
島
(いつくしま)
神
(和幣) ・祠(ほこら)4,証文には弁天様・稲荷様とあり、
神
社
取調では稲荷
社
、御
神
体は木像(男躰白狐ニ乗)
厳
島
(いつくしま)
神
(和幣,この
厳
島
(いつくしま)
神
、
厳
島
神
社
は市杵
島
姫命(いちきしまひめのみこと)が主
神
で安芸の宮
島
(
厳
島
)に所在,するが、函館の弁天町にある
厳
島
神
社
もそうであるよう、通称弁天様とも呼んでいる。
恵山町史
(2、教育目標の設定)
一(
社
会と郷土)自主協同の精
神
を重んじ明るい郷土
社
会の発展を通じ、国家
社
会の建設に貢献する。 ,二(道義と情操)道義を昂揚し、豊かな情操と敬虔な精
神
を涵養する。 ,「学校教育方針」 ○学校経営の合理化 一 教職員の
厳
正な服務と相互の協力により学校経営の効果を,四(家庭教育と道義の昂揚)家庭教育の振興、
社
会訓練の徹底と宗教精
神
の涵養により道義の昂揚を図って、清らかな,すべきものとされている」とあるところから、村内の校長会との話し合いは勿論、他教育委員会との情報交換や道教委(渡
島
地方教育事務所
南茅部町史 上巻
([郷土の戸口])
元禄年間には亀田八幡宮に昆布を採る人たちの安穏祈願のため、毎年
神
楽が奉納された記録(
神
道大系「亀田八幡宮,かなりの漁家と釣り船が冬の
厳
しい漁業に従事していたことが推測される。 ,しかし、この頃すでに部落にはそれぞれ
神
社
や墓地も設けられているのに、部落毎の戸口を知ることができない。,字村の戸口や産物に至るまで、より詳細な数字が一律に計上されてくるのは、嘉永七年(一八五四)書上(福
島
屋文書
恵山町史
(古武井・椴法華間開通(昭和8年3月))
湯川・椴法華間道路開削改修期成同盟」の結成・発会式、以降の住民代表・議員・首長らの請願活動、とりわけ
厳
しい,椴法華間準地方費道開通式は二十三日午前十一時より椴法華小学校に於て挙行せるが主なる来賓は、町田土木事務所長、
神
谷渡
島
支庁殖産課長,、川口亀田水産会長、函毎新聞
社
・函館新聞
社
、其他椴法華村会議員、有志等百余名 定刻一同着席、
神
主の,修祓、降
神
行事、祝詞の儀があって玉串奉献・昇
神
行事を以て、崇
厳
裡に道路開通報告祭を終り、引続き開通式に,案内役として茶谷支庁長、町田土木事務所長、
神
谷課長の諸氏、外に前田、太田両道議、笠
島
函館署長、平尾函館築港事務所長
函館市史 通説編 第二巻
(北海道関係航路の重視と道庁補助航路)
撤退を余儀なくされたため北海道・本州連絡線および北海道沿岸線の比重が増大していった(『日本郵船株式会
社
百年史,小樽・増毛間は民間の航路が開けてきたため廃止、稚内航路は流氷などの自然条件が
厳
しく廃止した。,受命者は日本郵船や天塩北見漕運会
社
、また函館の若松忠次郎などであった。 ,このなかで函館に関係ある航路として千
島
冬季航海が挙げられる。,この成功によって道庁は正式に補助航路を開くことにして、25年度は愛知県半田の半栄
社
、26年度以降は函館
函館市史 銭亀沢編
([カワサキセン(川崎船)の来航とイカ釣り技術の伝播])
カワサキセンには、七、八人が乗り組み、ヤウチ(屋内)同士が四、五艘船団を組んで、七月十九、二十日頃の
厳
島
神
社
南茅部町史 下巻
(大船農耕地)
この年、農耕地から
厳
島
神
社
に鳥居を寄進した記録がある。
戸井町史
(一、湯立式)
武内宿禰の古例にしたがい、
神
に誓って赤心を表わすという意味で、昔から伝承された
厳
(おごそ)かな儀式である,
神
楽始の
神
歌 ○おもしろや
神
に御
神
楽(みかくら)参らする 参らせたりや重ねがさねに 重ねがさねに,の
神
もさこそは敷
島
の 道の道ある世を守るらん 世を守るらん ○足引き山の榊葉常磐(さかきばときわ),となりてこけのむすまで ○八雲立つ出雲八重垣つまごみに 八重垣つくるその八重垣を ○千早振る加茂の
社
の,に祝える川
社
川波高くあそびたるかな ○湯の上のちりをば誰かとるならん かすみと共に誰かとるならん
南茅部町史 上巻
([嘉永七年六箇場所書上])
嘉永七年六箇場所書上] 市立函館図書館所蔵の田中正右衛門第五号とある古文書に、嘉永七年(一八五四)の「六ヶ場所
神
社
庵室幷云々書上,五号 田中正右衛門 嘉永七甲寅年 三月 六ヶ場所
神
社
庵室幷御備品家数,壱ヶ所 但亀田村
神
主 藤山大膳持 一 大山祗命
社
壱ヶ所 前同断,幕 串 廿五本 天保六未年御備 一 松 明 百五拾本 同 一 草 鞋 百五拾足 一
厳
嶋
大明
神
社
, 壱ヶ所 但両
社
共亀田村
神
主 一 稲荷
社
壱ヶ所 藤山大膳持 一 龍宮庵 壱ヶ
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