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恵山町史
(2、古武井郵便局)
2、
古武井
郵便局 〈等級〉 3等郵便局 (明治36 1903・4・1) 集配特定郵便局 (昭和,16 1941・2より ) 〈名称〉
古武井
郵便受取所(明治36 1903・12,・10) 所在地 亀田郡尻岸内村
古武井
35番地
古武井
郵便局(明治39 1906,) 所在地 亀田郡尻岸内村
古武井
191番地 〃 (明治41 1908・11, 1912・12・ 1) 所在地 亀田郡尻岸内村字
古武井
26番地 〃 / 2、
古武井
郵便局
椴法華村史
(古武井漁師の遭難)
古武井
漁師の遭難 明治二十年十一月二十日、鱶鮫漁に出た
古武井
の漁師三人、高浪のため遭難、恵山岬沖十里程 /
古武井
漁師の遭難
椴法華村史
(古武井の山岳崩壊)
古武井
の山岳崩壊 明治三十七年九月十七日、
古武井
二股押野硫黄鉱山坑夫長屋裏山崩壊する。,▲戸井分署 尻岸内村にては十七日の降雨にて字
古武井
二股押野貞次郎所有硫黄鑛内に建設しある坑夫の /
古武井
の山岳崩壊
恵山町史
(3、古武井小学校)
3、
古武井
小学校 (1)学校の沿革 明治13・ 8
古武井
教育所ができる(児童84, 根田内小学校に合併する 明治36・11・14 根田内小学校より分離して、現役場庁舎のところに
古武井
小学校,と校名が変わる 21・ 4・ 1 尻岸内村立
古武井
小学校と校名が変わる, 22・ 4・ 1 尻岸内村立
古武井
中学校が併置される 高等科,、しのぶ会挙行(閉校記念誌発行) 3・31
古武井
小学校閉校(4小学校が統合し / 3、
古武井
小学校
椴法華村史
(古武井海岸係留船の大破)
古武井
海岸係留船の大破 昭和二十七年十月二日、道南を襲った強風のため、
古武井
海岸係留中の尻岸内村長栄丸十一屯,、石川県大栄丸十屯、同大起丸十一屯が尻岸内町
古武井
海岸に打揚げられ大破。 /
古武井
海岸係留船の大破
恵山町史
(古武井硫黄鉱山の変遷)
古武井
硫黄鉱山の変遷 元治元年(1864) 旧山の発見 4月、
古武井
村の住人、樵夫(ふ)の孫兵衛 /
古武井
硫黄鉱山の変遷
南茅部町史 下巻
(古武井鉱山雪崩事故)
古武井
鉱山雪崩事故 熊泊鉱山崩壊事故の前年、明治四一年三月八日に熊泊の近在、現恵山町
古武井
川上流の鉱山 /
古武井
鉱山雪崩事故
椴法華村史
(古武井・椴法華間の開通)
古武井
・椴法華間の開通
古武井
・椴法華間道路開通式は椴法華村地内工事を昭和八年三月に終り、七月二十三日椴法華小学校,
古武井
椴法華 道路開通式 昨日椴法華村で挙行 亀田郡
古武井
・椴法華間準地方費道開通式,
古武井
・椴法華道路開通式 昭和8年7月24日 函館新聞 昭和8年 開通当時の乗合自動車 /
古武井
・椴法華間の開通
恵山町史
(2、日浦・古武井両校水産補習学校 『日浦・古武井小学校沿革誌』より)
2、日浦・
古武井
両校水産補習学校 『日浦・
古武井
小学校沿革誌』より 日浦水産補習学校生徒数,日浦水産補習学校職員
古武井
水産補習学校生徒出席者数
古武井
水産補習学校職員,ただ、
古武井
小学校の沿革誌第8「
古武井
青年会」の項に補習学校にかかわる事項が記されている。 ,・明治45年1月1日「
古武井
在住の尋常小学校を卒業せる三十歳以下の者を以て組織し目下会員四十名を有し、,を為しつつある」 ・大正3年1月11日「本日より三月十日まで、毎週一二時間ずつ
古武井
水産補習学校に / 2、日浦・
古武井
両校水産補習学校 『日浦・
古武井
小学校沿革誌』より
恵山町史
((3) 古武井、日ノ浜地区)
(3)
古武井
、日ノ浜地区 底質調査で述べた
古武井
地区と日ノ浜地区の各調査線で底生生物の調査をした。,
古武井
地区の各調査線(計17線)で距岸距離0〜200メートルまでは25メートルピッチ、距岸距雌200メートル,
古武井
地区の調査は、昭和58年10月19日に1、3、5、7、9、11、13、15、17線の9調査線(生物調査点,
古武井
地区の水深3.5メートルと5メートルの天然石にはミヤべオコシがそれぞれ49.0〜52.4パーセント,表6-5
古武井
、日ノ浜地区に出現した主な大型底生動物 表6-6
古武井
、日ノ浜地区に出現した / (3)
古武井
、日ノ浜地区
恵山町史
(3、(古武井)海積神社)
3、(
古武井
)海積神社 所在地 字
古武井
43番地 氏 子 旧
古武井
村・字高岱・日ノ浜・
古武井
を主,元旦祭1月1日、月並祭(命日祭)毎月3日 <歴代宮司> (日浦)稲荷神社に同じ 海積神社(
古武井
/ 3、(
古武井
)海積神社
恵山町史
(尻岸内村古武井までの延長)
尻岸内村
古武井
までの延長 尻岸内町史には、この戸井線の延長に関する資料(請願)が記されている。 , 〈理由〉 戸井線ハ函館戸井間ノ鉄道ニシテ昭和十一年着手同十四年度開通ノ路線ナルガ、更ニ本村字
古武井
迄延長,而シテ
古武井
迄延長スルニ於イテハ、ソノ利用区域タルヤ、戸井村ノ一部・尻岸内・椴法華・尾札部ノ全村及ビ臼尻村,然モ、戸井ハ地勢並ビ要塞施設ノ関係上、終点トシテ各種ノ設備ニ困難ノ地ニシテ、戸井線ヲ本村字
古武井
迄延長,いずれにしても貴衆両院の可決・北海道建設事務所の調査来村は、戸井・尻岸内・椴法華村の悲願、戸井線
古武井
/ 尻岸内村
古武井
までの延長
恵山町史
(古武井硫黄鉱山の地理的概況)
古武井
硫黄鉱山の地理的概況
古武井
硫黄鉱山の位置は、
古武井
川の上流、約8キロメートル~9キロメートル,
古武井
川は延長13、4キロメートルの小河川であるが、いくつもの支流を集め水量も多く、大滝小滝と呼ばれる,地理的概況については、現況地図1『恵山町全図 5万分の1』と、
古武井
硫黄鉱山地図2『渡嶋国丸山四近地質図 /
古武井
硫黄鉱山の地理的概況
恵山町史
((3) 古武井、日ノ浜地区)
(3)
古武井
、日ノ浜地区 日ノ浜地区と
古武井
地区の等深線(2メートル間隔)を図3−15に示した。,
古武井
地区をみると、2メートル等深線は距岸60メートル前後を、4メートル線はほぼ110メートルを、6メートル / (3)
古武井
、日ノ浜地区
恵山町史
([尻岸内川と古武井川に架かる橋])
[尻岸内川と
古武井
川に架かる橋] 尻岸内川と
古武井
川はともに「2級河川」で、両河川とも川幅10メートル,
古武井
橋の建設(昭和42年・1967年)
古武井
橋は2級河川
古武井
川・道道(昭和45年に国道昇格・, 〈歩道〉川上側2.5メートル 川下側1.5メートル ・橋脚鉄筋コンクリート 鋼単純合成桁
古武井
橋 / [尻岸内川と
古武井
川に架かる橋]
恵山町史
([東洋一を誇った古武井硫黄鉱山])
[東洋一を誇った
古武井
硫黄鉱山] 『恵山町ふるさと民話の会』編集・発行の
古武井
鉱山物語という本がある,というのも、先日「
古武井
鉱山物語」という本をいただき、その扉に硫黄山概観の絵地図が掲載されていたからだった,(北海道新聞 朝の食卓 H5.5.27 全文)
古武井
鉱山物語は題名どおり物語りであり、登場人物,
古武井
川の上流に大規模な硫黄鉱山が存在し、僅か30年に満たない期間であったが山間には3千人を越す鉱山(,そして、この数値は
古武井
硫黄鉱山の盛衰とも一致している。 / [東洋一を誇った
古武井
硫黄鉱山]
戸井町史
(十五、古武井浜の鰮騒動(大正十三年))
十五、
古武井
浜の鰮騒動(大正十三年) 大正十三年十一月二十五日、尻岸内村字
古武井
の網元斉藤留五郎の曳網,ところが誰が言い出したものか「
古武井
の斉藤では、鰮が大漁で始末に困り、鰮を海に投げ捨てた」という噂が立,「鰮を拾いに行こう」ということになり、老人も若い者も磯舟や川崎船に乗り込み、百数十名の人々が分乗し、
古武井
,こういうことを放任しておけば、こういう悪弊を増長させる原因になるということで、当直巡査一人を残して全員尻岸内と
古武井
/ 十五、
古武井
浜の鰮騒動(大正十三年)
恵山町史
(古武井熔鉱炉・女那川煉瓦製造所の研究論文)
古武井
熔鉱炉・女那川煉瓦製造所の研究論文
古武井
熔鉱炉・女那川煉瓦製造所(炉築造のための)の調査・研究,また、浜田らは、
古武井
熔鉱炉と女那川煉瓦製造所の本格的な学術調査の要請(跡地の発掘なども含めて)・文化財保護,その労が実り、価値が認められ、『
古武井
熔鉱炉跡』『女那川煉瓦製造所跡』という名称で1968年(昭和43,
古武井
熔鉱炉・女那川煉瓦製造所は、文化財として道の指定を受けるだけの歴史的、あるいは産業遺構として価値,
古武井
熔鉱炉・女那川煉瓦製造所について収録する参考文献 尻岸内町史執筆の主とした参考文献 ①松前地
古武井
溶鉱炉 /
古武井
熔鉱炉・女那川煉瓦製造所の研究論文
恵山町史
(植民公報にみる古武井硫黄鉱山の概要)
植民公報にみる
古武井
硫黄鉱山の概要 明治37年1月の殖民公報第18號(北海道廰)礦業の部に渡島國
古武井
硫黄山,と題して、
古武井
硫黄鉱山の概要が述べられている。,に硫黄鉱あり北を木直硫黄山と言い南を
古武井
硫黄山と言う。,現今盛に採掘するは
古武井
硫黄山なり。 ,
古武井
硫黄山は尻岸内村
古武井
川の上流、海面を抜くこと約三百メートルの処にあり海岸を去ること二里余りとす / 植民公報にみる
古武井
硫黄鉱山の概要
恵山町史
([古武井硫黄鉱山の操業(後期)])
[
古武井
硫黄鉱山の操業(後期)] この後期は、いわゆる中央資本が投入され大規模開発が行われた期間と言,
古武井
硫黄鉱山の操業は、明治34年(1901)函館の資産家(函館旧桟橋で回漕(かいそう)店を経営)山縣勇三郎,この時期の操業の状況については、尻岸内町史・明治44年農務省調査報文(農商務技師、伊木常誠)・三井
古武井
鉱山資料 / [
古武井
硫黄鉱山の操業(後期)]
恵山町史
((3) 古武井、日ノ浜地区)
(3)
古武井
、日ノ浜地区 図6-12
古武井
地区の海岸線は単調で、開放型の漁場である。,
古武井
地区の砂地帯を除く1平方メートル当りの現存量の単純平均値は、2,913.4グラムであった。,2.5キログラム/平方メートル、それ以遠は0.8キログラム/平方メートルと差が認められたのに対して、
古武井
地区,図6-14 図6−14は
古武井
地区の調査地点を距岸300メートルまでに限って模式的に現存量を緑藻,
古武井
地区に生育している海藻のうち、出現頻度20パーセント以上に限り、優占順位をみたのが表6−11である / (3)
古武井
、日ノ浜地区
恵山町史
(根田内村・古武井村・尻岸内村の神社と寺院)
根田内村・
古武井
村・尻岸内村の神社と寺院 根田内村(字恵山)、
古武井
村(字
古武井
・日ノ浜)、尻岸内村,また、根田内村、
古武井
村には庵寺有りと記されている。,の甥、根田内村の住人三好又右ヱ門が地蔵尊を寄進し「根田内の地蔵庵」と呼ばれていたと伝えられているが、
古武井
村 / 根田内村・
古武井
村・尻岸内村の神社と寺院
恵山町史
(古武井小学校(根田内小学校へ統合される前まで))
古武井
小学校(根田内小学校へ統合される前まで) 尻岸内学校で示したと同じ大蔵省の報告文書には、次のように,
古武井
學校 公立 渡島国亀田郡尻岸内村支村
古武井
ニ在リ 敷地三十五坪 明治十三年 村民金百三十九円,ヲ醵シ村民ノ漁業納屋ヲ借リ校舎トス 八月 開業
古武井
學校ト称シ変則小學科ヲ教フ 十四年二月,目にした文書類すべてに「
古武井
學校」となっている。 ,「
古武井
小学校職員任免之義ニ付上申当部下亀田郡第六学区
古武井
小学校六等訓導 留目政治儀 今般病気ニ付帰国之上療養致度趣 /
古武井
小学校(根田内小学校へ統合される前まで)
恵山町史
([五稜郭と古武井熔鉱炉])
[五稜郭と
古武井
熔鉱炉] 同じ、1854年(安政元)には、蝦夷地巡視(後の箱館奉行)を命ぜられた堀利煕,1858年(安政5年)に完成(年代については異論がある)したといわれる『
古武井
熔鉱炉』は、このように、,なお、
古武井
熔鉱炉と深くかかわる、この五稜郭について、函館市史・松前町史等を編纂した東北学院大学榎森進教授,(北海道新聞 1997年1月1日 東北学院大学教授 榎森 進)
古武井
熔鉱炉が存在したことは,
古武井
熔鉱炉についてはこの時代、いわゆる名所旧跡として知れわたっていたと思われる。 / [五稜郭と
古武井
熔鉱炉]
戸井町史
(四、古武井鉱山の大火(明治四十一年))
四、
古武井
鉱山の大火(明治四十一年) 明治四十一年六月十一日午後三時三十分、尻岸内村字
古武井
元山、山県硫黄鉱山 / 四、
古武井
鉱山の大火(明治四十一年)
恵山町史
((4)古武井高炉と一連の施設)
○
古武井
での鋳砲と
古武井
熔鉱炉をめぐる謎 尻岸内町史編集長の浜田昌幸は、C・ペンバートン・ホヂソン,今日までの研究調査では、『
古武井
熔鉱炉は操業の結果、遂に失敗した』という結論に達し、われわれをして、
古武井
洋式高炉,『
古武井
熔鉱炉』自体の構造も判然としない。,夫より半里斗にて村あり、
古武井
と云う。小頭役半兵衛にて小憩、一飯を喫す。,それに、前述の
古武井
中ノ濱(熔鉱炉)と恵山の絵図がある。 / (4)
古武井
高炉と一連の施設
恵山町史
([古武井硫黄鉱山の操業(前期)])
[
古武井
硫黄鉱山の操業(前期)] 『北海道鉱床調査報文』北海道庁第2部地理課(明治24年3月出版)より / [
古武井
硫黄鉱山の操業(前期)]
戸井町史
(七、古武井、大滝の沢の大火(明治四十三年))
七、
古武井
、大滝の沢の大火(明治四十三年) 明治四十三年四月十三日午前十一時頃、尻岸内村字
古武井
、大滝,然し
古武井
までは二里余り離れており、消防組を召集する暇もなく、附近から駈けつけた者を督励して消火につとめ / 七、
古武井
、大滝の沢の大火(明治四十三年)
恵山町史
(三井鉱山、古武井硫黄鉱山買収の背景)
三井鉱山、
古武井
硫黄鉱山買収の背景 (三井事業史 本編三巻上 第一節三井鉱山の発展、第二章産業投資の,(以下省略) この三井事業史には、三井鉱山の
古武井
硫黄鉱山買収は、硫黄業界における三井物産の,そして、三井物産は思惑通り硫黄販売での優越の地位を占めたが、三井
古武井
鉱山の硫黄生産高は逆に年々減産となり,ただ、三井が明治25年に開発した高品位で
古武井
に次ぐ生産量の岩尾登鉱山は、三井から分離、幌別鉱山と合併,なお、三井鉱山株式会社は、大正3年に開催された『東京大正博覧会』に『三井
古武井
鉱山・硫黄』を出品しており / 三井鉱山、
古武井
硫黄鉱山買収の背景
恵山町史
([古武井地区、日ノ浜地区、高岱地区])
[
古武井
地区、日ノ浜地区、高岱地区]
古武井
地区には、山背泊漁港を抱く内湾があり、海鳥類の越冬を助けている,一方、日ノ浜地区は
古武井
川を挟んで砂浜地が続いている。,そのうえ酸性度の高い
古武井
川では、川水の影響などから底生生物の生育条件は非常に厳しい、このため環境的、,高岱地区は、日ノ浜地区、
古武井
地区の後背地として緑豊かな山谷を形成し麓には狭小な台地が恵山自然公園と接,本種は、恵山町各所で確認できたが、
古武井
小学校校地内のクロマツ林内で繁殖したのを確認した。 / [
古武井
地区、日ノ浜地区、高岱地区]
恵山町史
([古武井小学校沿革誌より「青年学校行事の記録」])
[
古武井
小学校沿革誌より「青年学校行事の記録」]
古武井
小学校の昭和14年度から17年度の卒業式学事報告書,に主な行事等、
古武井
青年学校にかかわる事項がいくつか記されているので拾ってみる。 ,
古武井
青年学校の卒業生 昭和14年度(本科第5回迄の累計42名・研究科第4回迄の累計22名) ,回迄の累計68名・内女9名・研究科第7回迄の累計34名) なお15年度の卒業証書授与式は「
古武井
尋常高等小学校,・青年学校」、16・17年度は「
古武井
国民学校・青年学校」となっている。 / [
古武井
小学校沿革誌より「青年学校行事の記録」]
恵山町史
([古武井熔鉱炉と女那川煉瓦製造所])
[
古武井
熔鉱炉と女那川煉瓦製造所] 本論は、尻岸内町史 第8章松前氏の復領そして再直轄への第4節『幕府 / [
古武井
熔鉱炉と女那川煉瓦製造所]
恵山町史
(古武井青年学校に於ける実践(赤石英三氏からの聞き取り))
古武井
青年学校に於ける実践(赤石英三氏からの聞き取り) 赤石英三氏は昭和13年、
古武井
小学校高等科を,卒業、
古武井
青年学校本科に入学。,昭和20年(1945)応召されたが、戦前・戦後とイカ釣り、昆布漁等に従事している漁師で
古武井
青年学校の /
古武井
青年学校に於ける実践(赤石英三氏からの聞き取り)
恵山町史
([北海道硫黄取調書(古武井) 北海道大学所蔵])
[北海道硫黄取調書(
古武井
) 北海道大学所蔵] ・明治5年(1872)開拓使 榎本武揚一行の報告書 / [北海道硫黄取調書(
古武井
) 北海道大学所蔵]
恵山町史
([三井古武井紀行記 函館商船学校 町田久敬(峯水)])
片道函館港から
古武井
村の浜まで七〇銭である。,間もなく眼前に丸山及び
古武井
岳が白雪こうこうとして天空に聳えている。,さて、余が
古武井
鉱山事務所に到着したその日午後より、風伯一段と加わり暗雲全く
古武井
の山々を覆(おお)い,
古武井
近在の山が伐木され坊主になって居るのを見ても分かる。 ,
古武井
の海浜 三井
古武井
鉱山に滞在すること、ここに五日間、一両日の内に船が来なければ自分の学校の始業式 / [三井
古武井
紀行記 函館商船学校 町田久敬(峯水)]
恵山町史
(古武井硫黄鉱山の発見について 明治37年1月の殖民公報第18號(北海道廰))
古武井
硫黄鉱山の発見について 明治37年1月の殖民公報第18號(北海道廰) 礦業の部・明治24年3月,だが、地元の言い伝えでは、
古武井
の住人、樵夫の山野千松であるとされている。,『……この
古武井
の三井鉱山を発見した話しはなかなか聞くに価値があると思う。,
古武井
硫黄鉱山の開発について
古武井
硫黄鉱山の開発は必ずしも順調には進まなかった。,『三井
古武井
鉱山』と呼称し、押野・山縣の事業をそのまま引継ぎ操業をする。 /
古武井
硫黄鉱山の発見について 明治37年1月の殖民公報第18號(北海道廰)
恵山町史
((3) 古武井、日ノ浜地区(調査期間‥昭和58年9月〜59年8月))
(3)
古武井
、日ノ浜地区(調査期間‥昭和58年9月〜59年8月) 日ノ浜地区の基点は
古武井
と尻岸内漁業協同組合,の境界線から100メートル
古武井
側とし、これより海岸線に沿つて100メートル間隔でオッケに5点を定めた,また
古武井
地区の調査は、日ノ浜と
古武井
の境界線を基点とし、海岸線に沿って100メートル間隔に定点を設け,なお、調査点はおおむね水深20メートルまでとし、日ノ浜地区で94地点、
古武井
地区で263地点の計357,
古武井
地区の底質は、類型化した8型の全てが出現する複雑な底質型である。 / (3)
古武井
、日ノ浜地区(調査期間‥昭和58年9月〜59年8月)
恵山町史
(古武井・椴法華間開通(昭和8年3月))
古武井
・椴法華間開通(昭和8年3月) 大正10年2月16日「湯川・椴法華間道路開削改修期成同盟」の結成,
古武井
椴法華 道路開通式 =昨日椴法華村で挙行= 昭和八年七月二十四日 函館新聞,(現北海道新聞) 亀田郡
古武井
・椴法華間準地方費道開通式は二十三日午前十一時より椴法華小学校に於て,地方費道編入昇格ノ件」 昭和三~十三年陳情二回 同 八年(一九三三) 「町村道
古武井
,蛾眉野線)開削ノ件」 昭和九~十三年陳情四回 同 同 ( 同 ) 「
古武井
元 /
古武井
・椴法華間開通(昭和8年3月)
恵山町史
(①松前地古武井熔鉱炉の研究並びに考証年表)
第2節熔鉱炉(本炉)本節の中心問題である
古武井
の熔鉱炉の完成年代から始めよう。,尻形は、大橋では1番炉で4間に3間であり、
古武井
では5間四方で、大橋と
古武井
とでは、(規模として)大差,ただ
古武井
の内面の耐火煉瓦積の胴張は木材を用いていた(小出箱館御用留)。,次に、(
古武井
の)増設後の火入れである。,
古武井
ノ鉄「噴火湾畔ノ
古武井
ニハ沙鉄ノ沖積スルモノ多キガ故ニ日本人ハ大ニ之ヲ採集セント、欧法ヲ以テ爰( / ①松前地
古武井
熔鉱炉の研究並びに考証年表
恵山町史
([大正三年三月 東京大正博覽會 古武井礦山出品解説書 三井鑛山株式会社])
[大正三年三月 東京大正博覽會
古武井
礦山出品解説書 三井鑛山株式会社] 産地 (一)位置及び名称,
古武井
鉱山 当鉱山は北海道渡島国亀田郡尻岸内村字
古武井
にあり (二)鉱区坪数 採掘鉱区面積,より東渡島半島の南岸に沿って戸井村まで七里、馬車の便あり、余りは山道西て馬車を通ずる能はざるを以て函館
古武井
間二七海里,は汽船によるものとす 沿革 (一)発見の時代及び業務沿革 元治元年四月、
古武井
村山野千松,交最盛況を極めたりき、当会社は明治四四年一二月及び同四五年一月に於いていずれもこれを買収せり当今之を合併し
古武井
鉱山 / [大正三年三月 東京大正博覽會
古武井
礦山出品解説書 三井鑛山株式会社]
恵山町史
((1)古武井川及び尻岸内川沿い周縁の林地)
(1)
古武井
川及び尻岸内川沿い周縁の林地 住居地域から上流は、両岸が急傾斜で迫る山間河川となっているが / (1)
古武井
川及び尻岸内川沿い周縁の林地
恵山町史
(②古武井熔鉱炉に関する研究 幕末期蝦夷地開拓と外国技術)
②
古武井
熔鉱炉に関する研究 幕末期蝦夷地開拓と外国技術 高 木 幸 雄 昭和,本稿は武田斐三郎が残した数々の業績の中で、
古武井
(現亀田郡尻岸内町)に建設された
古武井
熔鉱炉を通して、,以上の理由から、
古武井
は立地条件上充分満足し得る立地条件であったことが知れる。 ,⑥大島の築造した釜石の熔鉱炉と、
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のそれとは形状が類似している。,その結果幾分改良して
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熔鉱炉に使用したのではなかろうか。 / ②
古武井
熔鉱炉に関する研究 幕末期蝦夷地開拓と外国技術
恵山町史
(渡嶋国亀田郡「シリキシナイ」領古武井澤硫黄取調書)
渡嶋国亀田郡「シリキシナイ」領
古武井
澤硫黄取調書 一、
古武井
沢は「シリキシナイ」村領に属する周囲四里,○硫黄山地位並硫黄の品位 一、
古武井
沢より河に傍(そっ)て山路に入ること約三里にして正さに其硫黄山の,○運輸 一、
古武井
沢より硫黄山迄は甚だ嶮路なきを以て馬を以て通行し得べし。,石川某開採せし時は山元に於いて精製し馬背にて之を東風泊に出せり、東風泊は直ちに此
古武井
沢の近辺なり。,総論 一、
古武井
沢は極めて薪に富めるを以て硫黄を精製すとも恵山のごとき費なし。 / 渡嶋国亀田郡「シリキシナイ」領
古武井
澤硫黄取調書
恵山町史
(⑤尻岸内町古武井熔鉱炉および川上レンガ製造跡略報)
⑤尻岸内町
古武井
熔鉱炉および川上レンガ製造跡略報 「北海道の文化」第16号(別刷)昭和44年3月20,日発行 武内収太・吉崎昌一(函館博物館)・尻岸内町教育委員会
古武井
熔鉱炉 序 ,北海道亀田郡尻岸内町
古武井
に、安政年間に築造された洋式熔鉱炉が存在することが広く知られていた。,遺構の立地と状態
古武井
熔鉱炉は、北海道亀田郡尻岸内町字高岱99番地にある。,遺構は
古武井
川の現河床面より2~3メートルの比高をもつ低位段丘上に築かれている。 / ⑤尻岸内町
古武井
熔鉱炉および川上レンガ製造跡略報
戸井町史
(二、古武井鉱山の雪崩による大惨事(明治四十一年))
二、
古武井
鉱山の雪崩による大惨事(明治四十一年) 明治四十一年三月八日午後一時、尻岸内村字
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、浅田硫黄鉱山双股 / 二、
古武井
鉱山の雪崩による大惨事(明治四十一年)
恵山町史
(③幕末蝦夷地の洋式製鉄(金属・1968年9月1日号) 技術のふるさと:古武井の高炉)
③幕末蝦夷地の洋式製鉄(金属・1968年9月1日号) 技術のふるさと:
古武井
の高炉 大 橋 周 治(,大小の岬をめぐり、岩を穿った数多くのトンネルをくぐって
古武井
に行く途中、100年前には、アイヌ部落の人煙,この
古武井
高炉の構造に関する正確な記録はきわめてとぼしい。,(高木幸雄『
古武井
熔鉱炉に関する研究』表2参照)高木氏自身もまた適確に述べている。,道開拓の先駆 上述のように、
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の洋式高炉は失敗に終わった。 / ③幕末蝦夷地の洋式製鉄(金属・1968年9月1日号) 技術のふるさと:
古武井
の高炉
恵山町史
([盛況を極める海運業])
−根田内−椴法華−古部−木直−尾札部−臼尻−熊泊 大一丸 ・戸井−日浦−尻岸内−
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−根田内,(
古武井
鉱山)直行 山縣鉱山回漕部 福嶋丸 ・
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(
古武井
鉱山) 函館汽船切符販売会社,(
古武井
鉱山)直行 保坂回漕店(押野鉱山汽船) 礦運丸 ・
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(
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鉱山)直行 ,押野鉱山汽船 苫前丸 ・
古武井
(
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鉱山)直行 樋口回漕店 第三古宇丸 ・戸井−,・
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間の直行便として毎日就航しており、
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・恵山地区の人々に大いに利用されていたという。
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(経営の概要)
(
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鉱山が、東洋一といわれた所以である) <世界各国の生産高> イタリア、スペイン、日本,「中小屋精煉所」 押野
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硫黄鉱山運搬船「礦運丸」 三井
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精煉場(大正3年撮影, 旧山精煉場 旧押野)
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船着場(えさん漁協
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支所前浜) 押野
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硫黄鉱山,「元山撰鉱場」 押野
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鉱山「第二青盤精煉所」 押野
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硫黄鉱山「露天掘」,池谷鉄雄氏(
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生まれ、池谷虎一画伯、父)
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硫黄鉱山で働いていた人々 [図] 生産組織
恵山町史
(新第三紀層)
新第三紀層 恵山火山の直接の基底は、大部分が新第三系の絵紙山層で、同じく新第三系の
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層および木直層,
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層(Kb)
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層(藤原・国府谷、1969)は、主として泥岩・硬質頁岩からなり,
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層は、本地域では西南部の
古武井
・山背泊・
古武井
川下流などに分布し、硬質頁岩を主体として灰白〜淡緑色,山背泊漁港背後の崖では
古武井
層上部の凝灰岩相の部分に珪藻土がみられる。,
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付近では凝灰岩と凝灰角礫岩の乱堆積がみられる。
恵山町史
(生産高(製品)と販売高)
生産高(製品)と販売高 最盛期東洋一といわれた
古武井
鉱山の生産高が、実際にはどの程度の規模であったのか,
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鉱山を除く、操業期間の総生産高が1万トンを超えている鉱山は、次頁(表)の5鉱山であり、幌内・岩尾登,これと比較して181,014トンの総生産高を上げた
古武井
硫黄鉱山の規模が理解できよう。,なお、
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を含む生産高上位3つの鉱山はいずれも三井鉱山が経営権をにぎっている。,その三井鉱山が、
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鉱山を買収するに当たっての興味ある社内報告が三井事業史に掲載されている。
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