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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (名主)

名主 名主は町年寄の次役で、町年寄を補佐し、町政を取扱うのはもちろん、また特に市民の願届請証文等に連印,  大町 弁天町 鰪澗町  名主  新十郎 山ノ上町 神明町  同  次兵衛 内澗町 地蔵町, 同  四郎右衛門 大黒町 仲町  同  伝右衛門    また、特に名主の中から肝煎名主,名主の任免は、町年寄および現在名主の協議によって意見を具申し、奉行所から辞令をもってこれを命じた。,平日羽織、袴を着し、脇差を帯び、肝煎名主は肩衣、袴を用いた。 / 名主
函館市史 別巻 亀田市編 (名主の設置)

名主の設置 名主の制度が設けられた年代はつまびらかではないが、元和(一六一五―二三)年間ではなかろうか,箱館近傍ニテハ亀田郡各村ノ如キ、七重〔今七飯村ナリ〕ハ元和年代ニ名主ノ設アリ。」,亀田郷の名主は、奉行―代官―下代の下にあって亀田郷を治めたが、後代の前幕府直轄時代のように一村に一名の,名主が置かれていたわけではなく、亀田郷全体を一名ないし二名(大部分は二名)の名主で管轄し、名主の下に年寄,なお名主は下代を兼務したことも多く、その時は職名としては下代兼名主と名乗っていた。 / 名主の設置
函館市史 別巻 亀田市編 (名主の仕事)

名主の仕事 名主は村の長として箱館奉行所、沖の口番所の命令に基づいた諸検査、書類整備、書類確認、布達,○村内布達のこと  奉行所、在方掛から名主に下渡された布達は、各村の名主から年寄、百姓代、小頭(頭取,)などの村役人に連絡され、村民に伝えられるが、必要に応じては名主所(名主の自宅で後の村役場に当る)に村民,一 亀田村名主 鍛冶村名主 同村六郎 上山村名主 赤川村名主 大川村名主 七重村名主 藤山郷頭取 峠下村名主, 市ノ渡村名主 本郷頭取 大野村名主 文月村名主 湯川村名主 一本木郷頭取 千代田(郷欠カ)頭取御用状 / 名主の仕事
函館市史 別巻 亀田市編 (歴代名主)

歴代名主 現在までに判明している名主を番号を付して整理すると次のとおりである。 / 歴代名主
函館市史 別巻 亀田市編 (名主の仕事内容)

名主の仕事内容 明治初期(明治元年より五年ころまで)の亀田地域の名主の仕事内容について、詳しく記した,明治初期の村役人 役名 年 亀 田 村 鍛 冶 村 神 山 村 石 川 村 桔 梗 村 赤 川 村,名       主 明治元年 弥兵衛 万九郎 三之丞 宝皇寺役僧 是心坊 長太郎 二年   / 名主の仕事内容
恵山町史 (7、名主事務所の開設)

7、名主事務所の開設 名主事務所の開設については、尻岸内町史年表に次のように記述されている。  ,「1837年(天保8年)6月、尻岸内に名主事務所を置き、従来の頭取という職名を名主と改む。,名主の給料は年額5両とし、帯刀を許され席順は小安村の次席とされた。」,と改称す」とあるので、この年、あるいはこの頃、頭取を名主と改称したのを機会に事務所も開設したのではないかと,棟札」が保存されており、これには、文化8年(1811年)尻岸内御会所 村岡清九良(清九郎)と記され、名主事務所 / 7、名主事務所の開設
函館市史 通説編 第二巻 (町年寄・名主の廃止)

町年寄・名主の廃止 江戸時代以来箱館の町政を担当してきたのは町会所である。,つまり安政2年1月26日に出された「町年寄名主詰所ノ義、私領中町役所ニ唱来候得共、以来町会所ト唱可申候,また名主は、各町配置を基本に幕末期5名体制で推移してきたようであるが、廃止時直前6名から7名体制に増員,)杉浦嘉七の隠居名(「伊東善五郎文書」『青森市史』7)    表2-19 名主一覧表,(同上)  注10 文久3年9月名主頭取から町年寄並となる。 / 町年寄・名主の廃止
南茅部町史 上巻 (知行主)

知行主 天明から寛政末年頃まで、文献により六箇場所の知行主の変遷をみることができる。       , 新井田兵内     新井田金右衛門    新井田金右衛門       新井田孫三郎 ウスジリ 領主,新井田兵作      新井(田)伊助  ユウラップ 青山 栄治   六箇場所の場所請負だった商人の名を / 知行主
函館市史 通説編 第二巻 (汽船船主の特質)

ところが20年代のなかばには30隻前後、船主も20名前後を数えるまでになった。,   表7-23 函館定繋汽船一覧 明治26年 明治28年 明治36年 船主氏名,船名 登簿 噸数 船主住所・氏名 船名 登簿 噸数 船主氏名 船名 登簿 噸数 間半四郎,(『北門名家誌』)。,この船主同盟会のその後の動向は不詳であるが、35年の『商業会議所年報』に「函館海運同盟会三十一名・東浜町事務所 / 汽船船主の特質
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田の館主)

亀田の館主 亀田にあった館について、歴史的信憑(ぴょう)性についてはやや問題があるが、『東北太平記』,別名『北部御陣日記』の記事により考察すると、下北半島の豪族蛎崎蔵人信純の命令により文安元(一四四四)年,このように亀田館の館主として蛎崎系、河野系の二つの系統が示されており、詳細は不明であるが、とにかく彼らによって / 亀田の館主
南茅部町史 上巻 (漁村の民主化)

漁村の民主化 敗戦後、戦地(外地)や軍隊から復員して帰宅した人たちは、新しい時代を迎えて、意欲的に沿岸漁業,昆布を採り、幸いイカ漁に恵まれるなかで、漁業会の運営も民主化のかけ声の中で活発な意見や活動が目立った。,総代定員四二名、出席三四名、うち委任状四。  四月一二日に会則変更の申請がなされている。  ,総代四一名、出席三六名、うち委任状三。  五月一八日会則変更を申請。  ,協議案議題にあるとおり、漁業会の機構改革は急務となり、漁村の民主化は漁業会の組織機構の改革にもとめられて / 漁村の民主化
戸井町史 ((附)昔の戸主名(明治十三年以降))

(附)昔の戸主名(明治十三年以降) 資料の乏しい中から、明治、大正のものと昭和初期のものを調査して載,明治十三年時代の戸主は殆んどこの世にないだろうし、明治三十五年時代の戸主でも生きている人は少ないだろう,各時代の一人一人の戸主の氏名を見ていったら、感慨無量なものがあるだろうし、老人にとっては昔の思い出がいろいろ,昔の鰮(いわし)、鮪(まぐろ)、鰤(ぶり)などの大漁で家が栄えた網元や親方、名主・年寄・百姓代などの村役人,このような観点から、他町村の人々には関係も興味もない昔の戸主名を載せることは、「戸井町の過去の発展を支 / (附)昔の戸主名(明治十三年以降)
函館市史 通説編 第二巻 (岡野敬胤の主張)

岡野敬胤の主張 ともあれ、函館教育協会が14年12月までに設立されたことは、疑う余地がないといえる。,  協会ノ世ニ公益アルハ、今更ラ僕ガ申サズトモ普ク世ノ知ル所ニシテ、各自其主義ト目的トヲ,当道ノ如キモ札幌有志諸君ノ発起ニ係ル勧農協会ノ如キ、開会以来日未ダ浅クシテ既ニ百余名ニ垂ントスル賛成員,シテ函館教育協会ヲ設立シ不日ニシテ会員ノ已ニ五六拾名ニ上レルニ至レリ。,それにしても、函館で創刊された雑誌でありながら、この『学事新報』があえて「北海道」の名称を付した点に、 / 岡野敬胤の主張
椴法華村史 (昆布の主な生産地)

昆布の主な生産地 次に中川一雄著「昆布の生産から消費まで」昭和二十八年発行(関係部分のみ抜粋)より当時,その内主要産地は函館から恵山岬を経て、砂原、森に至る沿岸であって、恵山岬を大体の境界として函館に至る沿岸,特に白口浜の尾札部、川汲、臼尻産のものが有名である。,この白口もの、黒口ものの名称は両地区から採れた昆布はそれぞれの特長があり、加工した場合前者は色が白く風味,がこめこんぶ   (製品はがこめ元揃昆布、及びがこめ折昆布)    まこんぶと着生分布区域は同じであって主産地 / 昆布の主な生産地
函館市史 通説編 第一巻 (館主とその性格)

館主とその性格 河野政通築城館跡の図 「函館沿革史」より  従って今日の函館市には、河野加賀右衛門尉政通,あまりつまびらかにされていないが、河野政通は伊予の越智氏から出た河野氏の後裔とされ、加賀国江沼郡の出身で、のち流浪して南部の田名部,しかもこの時代の蝦夷地は、農業を主体とする本土と比較するならば、極めて異質なものであり、ここに住む住民,そして彼らは、いずれもアイヌと同じく原始的な漁労や狩猟を主とし、またはそれらの交易をもって再生産を支えていた,それがため館主は、安東氏の出先機関として、従来から渡来していた和人や土着のアイヌが、生産の地域としている / 館主とその性格
函館市史 別巻 亀田市編 (住民投票を主張し請願)

住民投票を主張し請願 1 住民投票の運動  合併に疑問をもつ会は「合併は住民投票できめましょう。」,市民のみなさん、直接請求、道議会へむけての署名にご協力下さい。」,2 亀田市と函館市の合併に関する請願  同会からの請願の主旨は次のとおりである。    ,更に請願の理由として右の主旨について詳細にわたり説明し、住民投票による結論が出るまでは合併問題の処理を,以上は合併に疑問をもつ会筆頭代表宮崎米作ほか二、九二九名から提出された。 / 住民投票を主張し請願
戸井町史 ((1)開拓使の主な役人)

(1)開拓使の主な役人 明治五年六月五日刊官員全書抜萃    開拓次官従四位   黒田 清隆  薩摩鹿児島県人, 三月拝    開拓使三等訳官   福士 成豊  開拓使人    明治五年 三月拝    開拓少主典,     西村 利光  函館人     明治三年 五月任     総 員  四四六名      ,次官、判官、権判官、大主典、権大主典、少主典、権少主典、史生、掌、訳官―辞令(任)    出仕(四等 / (1)開拓使の主な役人
椴法華村史 (蝦夷地の主要道路)

蝦夷地の主要道路 寛永十年(一六三三)将軍家光の命により諸大名視察のために派遣された幕府巡視使分部左京亮信,このほかにも、蝦夷には各主要地点を結ぶ道路があったが、その主なものを記すと次のとおりである。    / 蝦夷地の主要道路
函館市史 通説編 第二巻 (国家主導型の港湾建設)

国家主導型の港湾建設 日本では明治以来、富国強兵、殖産興業、輸出振興という経済政策の下に、一貫して国家主導型,日本資本主義経済史において、産業革命は明治20(1887)年代の終わり、日清戦争(明治27~8年)の頃,それは殖産興業、輸出振興第1主義をとる政策の下に、横浜、神戸港のような貿易港から始まる。,しかし「本格的な造成工事は、明治二十二(一八八九)年、横浜港から始められ、その後大阪港、神戸港、名古屋港,などの主要港に及び、次いで函館、小樽、釧路、室蘭の北海道諸港、その他の港湾造成が行われた」(広岡治哉編 / 国家主導型の港湾建設
南茅部町史 上巻 (郷土の名字)

特に使い分けているわけではなく、その人の呼び名と家の名が一組になっていて、名前、氏名または姓名ともいわれている,明治六年の畑反別調と明治五年から九年までの漁獲取高調を報告させた書上に連らなる各家々の戸主の名を次に掲,(昭和五七年四月現在)の主帯主によって、同姓一〇戸以上の名字の一覧表を作成した。  ,昭和五七年四月現在        昭和五七年五月発行 住民基本台帳による     住民基本台帳による主帯主,の    渡島桧山版50音別電話帳による 世帯主の名字(同姓)     同姓一〇戸以上の名字        / 郷土の名字
椴法華村史 (主な郵便役所(郵便局)の開設)

主な郵便役所(郵便局)の開設 名称       開設年月日  根田内郵便取扱所   明治八年一月 / 主な郵便役所(郵便局)の開設
函館市史 別巻 亀田市編 ([主な工場(大正・昭和前半)])

[主な工場(大正・昭和前半)] [主な工場(大正・昭和前半)] 設立年 工 場 名 主 製 品,所在地 経 営 者 大正五年 合名会社 半田造船所 船舶修理 本町二五六 半田 文夫 大正八年 星野工業株式会社 / [主な工場(大正・昭和前半)]
南茅部町史 上巻 (ヲサツベ場所知行主・新井田知貞)

ヲサツベ場所知行主・新井田知貞 遠い昔、蝦夷地であった南茅部町は、六箇場所のヲサツベ場所といわれ、恵山岬,元和二年(一六一六年)、松前藩主慶廣公に仕えた新井田広貞三男・知貞の知行地として与えられ、以来、寛政年間末,知貞は新井田家三家の祖広貞家より分家、一家を起こして二系の祖となった人で、母は藩主季廣公の十三女である,この時の顚末を記したクナシリ・メナシ騒擾一件取調日記は、北海道史の文献資料としても有名である。   / ヲサツベ場所知行主・新井田知貞
戸井町史 (四、戸井警察署で取扱った主な事件)

四、戸井警察署で取扱った主な事件 四、戸井警察署で取扱った主な事件 事件名 年月日 1、戸井戸長役場,〃一二、一二 20、戸井村役場の疑獄事件 昭和八、八、二〇    以上が戸井警察署の記録にある主な / 四、戸井警察署で取扱った主な事件
恵山町史 (【主な参考図書】)

【主な参考図書】 新撰北海道史(昭和11・北海道庁) 新北海道史(昭和56・北海道) 北海道志復刻版,歴史(昭和35・読売新聞社) 日本の歴史(昭和41・中央公論社) 岩波講座日本歴史(昭和47) 日本地名大辞典北海道編 / 【主な参考図書】
椴法華村史 (その他の地名)

その他の地名 以上史料に基づいて地名の起源をたずねたものの他に、明治時代に付けられた地名であろうと思,われる地名が多数ある。,、また産業の中心が漁業であり、農業、林業共に未発達で住民の土地所有者も無かったため、これらの地域では主な,となり、古くからの呼び名又はその場所に在る建造物、地形の特色などを以って地名とするようになったようである,このようにして付けられたと思われる地名には次のようなものがある。   / その他の地名
恵山町史 (〈役場事務機構の改正、参事・主幹制の導入〉)

〈役場事務機構の改正、参事・主幹制の導入〉 山田は町長就任1年後の平成8年4月1日、役場事務機構の大幅,改正の内容  職名を「課長・参事・主幹・主査・主任」とし、係を廃止する。  ,課を統廃合し名称の改正をする。 / 〈役場事務機構の改正、参事・主幹制の導入〉
函館市史 銭亀沢編 (漁船部分名称)

漁船部分名称 漁船の各部名称は特殊なものが多いので、主なものを簡単に説明しておきたい。  ,この名称はオモテ(表)、ドノマ(胴の間)、トモ(舳)と呼ばれる。  ,船の左舷をオモカジ、右舷をトリカジという名称が一般的であるが、イソブネをはじめ漁船の場合は、作業する側 / 漁船部分名称
恵山町史 ([恵山町で行われた主な発掘調査])

[恵山町で行われた主な発掘調査] 第1図 恵山町内の遺跡分布図  恵山町内では恵山貝塚、日の浜遺跡,恵山貝塚  昭和15年           名取武光・能登川隆  昭和35年10月26~30日     , 昭和36年10月21~26日     吉崎昌一  昭和41年 4月5~7日      名取武光 / [恵山町で行われた主な発掘調査]
恵山町史 ([地方行政の民主化・『地方自治法の制定』])

まず、第1条には「この法律で、学校とは小学校、中学校、高等学校……」と学校を定義し、その種類、名称を定,制度(六三制)が施行された昭和22年5月、尻岸内村にも日浦・尻岸内・古武井・恵山の各小学校にそれぞれの名称,なお、同年に構成された尻岸内村六三制準備委員会ではこのことを協議、日浦中学校については、名目上設立した,古武井中学校・恵山中学校については、両校を統合し学校名を尻岸内村立第二中学校と呼称することに決定はしたが,なお、東光中学校と学校名を改称したのは、昭和29年2月である。   / [地方行政の民主化・『地方自治法の制定』]
戸井町史 (三、道南の館主と政季、信広の渡島(新羅之記録抜萃))

三、道南の館主と政季、信広の渡島(新羅之記録抜萃) 『新羅之記録(しんらのきろく)』に享徳三年(○○,、箱館の河野加賀右衛門尉政通を攻撃し、その後中野の佐藤三郎衛門季則、脇本の南条治部少輔季継、穏内の館主蒋土,然れども下の国の守護茂別八郎式部大輔家政、上の国の花沢の館主蠣崎修理大夫季繁固く城を守り居れり」と述べている,十三之湊破滅の節、若冠(じゃっかん)にて生け捕られ糠部(ぬかのぶ)の八戸(根城(ねじょう)南部)にて名を,改め、安東太政季と号し、田名部を知行して家督を継ぐ、而(しか)して蠣崎武田若狭守信広朝臣、相原周防守政胤 / 三、道南の館主と政季、信広の渡島(新羅之記録抜萃)
函館市史 銭亀沢編 (底生動物の利用と地方名称)

底生動物の利用と地方名称 底生動物には岩盤や貝殻、海藻などの基質に付着する固着動物、基質や砂泥底の表面,魚類とイカ・タコ類を除いた底生動物類のうち、主に和名のあるものについて漁業者から聞き取った地方名称と現在,表2・3・2 銭亀沢の魚類を除く主な底生動物 / 底生動物の利用と地方名称
恵山町史 ((2)調査参加者氏名・所属(順不同))

(2)調査参加者氏名・所属(順不同) 小城 春男  北海道大学大学院・水産学博士 佐藤 文男  (,財)山階鳥類研究所主任研究員 林  吉彦  (財)山階鳥類研究所鳥類標識調査者、日本鳥類標識協会会員,山階鳥類研究所鳥類標識調査者、日本鳥類標識協会会員、 一戸 静雄  (財)日本野鳥の会会員  ほか2名、,氏名・所属不詳、 / (2)調査参加者氏名・所属(順不同)
椴法華村史 (昭和三十九年村名変更の議決)

昭和三十九年村名変更の議決 椴法華村の村名を恵山村と改称しようとしたことは古くから何度かあった。,一 村の名称を変更することについて、   二 村の名称を変更する条例制定について、    議長九月十五日,助役 長政友一      主事 成田吉之助    議会の書記左の通りである。      ,日程第一村の名称を変更することについて、        日程第二村の名称を変更する条例制定について、,成田主事 村名変更は地方自治法第三条第三項の規定により知事の許可を得ることになっており必要性を認められた / 昭和三十九年村名変更の議決
函館市史 銭亀沢編 (海藻類の利用と地方名)

海藻類の利用と地方名 銭亀沢を代表する海藻はマコンブであり、ガゴメやホソメコンブも発生の多い年には漁獲,これらのコンブ類は主に天日乾燥しマコンブとガゴメは折り昆布に、ホソメコンブは棒切り昆布に加工される。,その他、食用に供される海藻の主なものは、冬から春にかけ平磯の岩盤上に着生するスサビノリやウップルイノリ / 海藻類の利用と地方名
函館市史 銭亀沢編 (回遊動物の利用と地方名称)

回遊動物の利用と地方名称 回遊動物の代表は魚類とイカ・タコ類である(表2・3・3)。,主要な漁獲種としては、四月にサクラマス、カラフトマス、ヤリイカなど、五、六月にはスズキ、ホッケ、マイワシ,スルメイカはマイワシ、マコンブと並び、かつての銭亀沢の主要な漁獲物であった。,表2・3・3 銭亀沢で漁獲される主な魚類およびイカ・タコ類 / 回遊動物の利用と地方名称
南茅部町史 上巻 ([旧尾札部村地区の字名改正])

[旧尾札部村地区の字名改正] 1 尾札部村の字名  明治一一年地券創設より昭和五一年二月一日字名地番改正,(ハ)字名の選択、字名は従来の字名をできるだけ尊重するも簡単を旨とし、由緒あるもの、親しみ深きもの、語調,のよいもの等を選択し、すべてを通して同一字名、類似字名並に当用漢字以外の漢字を用いるものはこれをさける,(ニ)字界字名の標示、字界には字名の標示をする。,(1)平行式  主要街路に沿い、これに直交しその進路の平行するものをいう。 / [旧尾札部村地区の字名改正]
恵山町史 ([御崎の恵山名号『お経岩』について])

[御崎の恵山名号『お経岩』について] 恵山名号(えさんみょうごう) 恵山町字御崎の東端、椴法華村へ通,記  念  碑   恵山名号は函館本願寺別院の前身、願乗寺休泊所を建立した名僧堀川乘経師が,蝦夷地を踏験し、安政二年(一八五五)江戸の本願寺掛所に抵りて寺院の建設を説き、意見書を本山に致し、宗主広如上人,真宗の伝道は「聞法(もんぽう)」という教法(耳から聞く事)により信仰を納得していくことが主であり、壁に,恵山名号”お経岩” / [御崎の恵山名号『お経岩』について]
戸井町史 ([戸井の地名考])

昔からいい伝えられている戸井町の地名は、北海道各地の地名と同じように、殆(ほと)んど蝦夷(えぞ)が名づけたものである,(おそ)い、大ダコと大鮫の血戦が始ったが、タコが負けてこの島を去り、大鮫がこの洞穴を占領してこの島の主(,、館主岡部(○○)の名をとったものであることは明瞭である。,釜谷側では『小安と釜谷の境は、昔から源吾川である』と主張したため、小安側が折れて、水死人を葬った。,「オヤス」という名で伝承された地名である。 / [戸井の地名考]
恵山町史 (〈尻岸内町・椴法華村境界問題の解決と町名変更の確認〉)

 明治以来、尻岸内町と椴法華村との境界線については、両町村とも互いに主張を譲らず、“百年戦争”などと揶揄,町名を恵山町に変更する事の確認 町村の名称については、昭和39年以来両町村の懸案事項であったが、境界線問題,本町の町名変更条例 『尻岸内町の名称を恵山町に改める条例』は、昭和45年12月22日に議決しており、町,昭和三十九年に、町制施行審議と平行して、町名変更についても協議され、議会に町名変更特別委員会が置かれ、,その結果、町民の皆さんは、町名変更を望んでいるご意見が多く、昭和四十四年の六月の定例議会に町名変更に関 / 〈尻岸内町・椴法華村境界問題の解決と町名変更の確認〉
戸井町史 (一 戸井町出身の戦没者と遺族の氏名)

一 戸井町出身の戦没者と遺族の氏名 一 戸井町出身の戦没者と遺族の氏名 戦没者 遺族 官等 氏名,戦没年月日 戦没場所 氏名 続柄 住所 陸軍兵長 古谷義幸 昭二〇、四、一二 沖縄本島西原村 古谷亀太郎,陸軍軍属 佐々木力雄 昭二〇、六、二一 択捉島丹根前西方十哩 佐々木太吉 甥 二見町二〇 海軍上等主計曹長,佐藤寿雄 兄 浜町二四三 陸軍兵長 福本久一 昭二〇、三、二四 東支那海 福本直太郎 兄 浜町 派軍主長 / 一 戸井町出身の戦没者と遺族の氏名
恵山町史 (1、尻岸内(大澗)郵便局)

)14名 (局長1・主事主任1・一般内務7・一般外務5)  37年(1962)13名 (局長1・主事主任,)16名 (局長1・主事主任2・一般内務9・一般外務4)  44年(1969)17名 (局長1・主事主任,)16名 (局長1・代理1・主事主任3・一般内務7・一般外務4)  48年(1973)17名 (局長,1・代理1・主事主任3・一般内務8・一般外務4)  49年(1974)17名 (局長1・代理1・主事主任,;9名 (局長1・主事主任3・一般内務2・一般外務3)  56年(1981)10名 (局長1・主事主任
函館市史 別巻 亀田市編 ([九月])

九月十八日   一 亀田村名主 鍛次村名主 同村六郎 上山村名主   赤川村名主 大川村名主 七重村名主, 藤山郷頭取   峠下村名主 市ノ渡村名主 本郷頭取 大野村名主   文月村名主 濁川村名主 一本木郷頭取,戌九月廿三日                  熊 谷 類 太     在々六ヶ場所      名主,猶例年の通上山村名主中乗馬六疋上  山村出し、同壱疋当村名主馬出し右の通赤川村迄継送申  候。,九月廿六日   一 御城下湯殿沢金比羅社御普請ニ付、此度社主藤枝殿名  代上下弐人、箱館附在々六
函館市史 別巻 亀田市編 (村役人と仕事)

しかしこの時代に入るや村々に、名主―年寄―小頭が在村して仕事をするようになり、この名主制度は途中多少の,第一 名主ノ設置人員受持撰挙退職給料等ノ概略  名主・年寄・百姓代ハ村方ノ三役ト称ス。,名主其上役ナリ。各村皆同ジ。 ○名主ノ撰挙ハ地方ニ依テ同一ナラズ。,名称ハ大抵村役場ト称ス。 ○名主ハ事務取扱ノ為メ役場ニ日勤スルニ非ラズ。,○名主ノ職務条件ハ大凡左ノ如シ。
戸井町史 ((参考)康正三年(一四五七)の下北地方豪族配置図)

コシャマインの乱以前の下北の村々の名、下北地方の城、館、柵(さく)などの名や領主、館主などの名が細かく,この地図によって、この頃の地名を知ることができるし、城主、館主、柵主の姓が、後世そのまま地名になったものもあることがわかる,○大間から東、尻屋崎まで 地名 城主又は館主 摘要 大間 牛一五〇〇頭 トツロ内 三、七〇〇人,蛇沼 蠣崎主説 秋田外記、久城三郎兵衛 兵糧一八二、〇〇〇石 湯野沢 蠣崎主税領、北川突呂賢 一二,  ○難波崎(尻屋崎)から南 地名 城主又は館主 摘要 ヒモトリ浜 大湊 大湊三太夫 大幣
椴法華村史 (村役人の仕事)

第一 名主ノ設置人員受持撰挙退職給料等の概略   ○名主・年寄・百姓代ハ村方ノ三役ト称ス。,名主其上役ナリ。,ンデ名主トス。,○名主ハ事務取扱ノ為メ役場ニ日勤スルニ非ラズ。村用アレバ之ヲ弁理スルニ止ル。   ,函館近在〔茅部上磯亀田及山越各郡村々〕村名主ハ年始ニハ麻上下ニテ函館役所ニ出頭ス。
函館市史 別巻 亀田市編 ([閏四月])

以上    閏四月朔日  当月当社御神酒代百文、名主徳三郎殿より借用仕候。,右の通仮名主  六郎申達候。,以上                町役所当番名主    戌閏月十一日      鍛次村名主中,  一 道橋普請人足拾弐人、名主代六郎差添、亀田村助勢差  出し申候。,鍛次村      上山村 御名主所      赤川村   猶々申上候。
函館市史 通説編 第一巻 (町役所・町会所)

町役所も後には町会所と改められ、その役人は町年寄・名主、および町代といい、その下に組合頭があって5人組,前の松前藩の時代には名主を主席とし、町年寄はその下に立ったが、幕府直轄時代からこれが転倒して、町年寄を,主席とし名主がその下に属するようになった。
恵山町史 (2、古武井郵便局)

)14名 (局長1・主事主任2・一般内務7・一般外務4)  37年(1962)14名 (局長1・主事主任,3・一般内務6・一般外務4)  41年(1966)15名 (局長1・主事主任3・一般内務7・一般外務,)16名 (局長1・主事主任2・一般内務9・一般外務4)  46年(1970)15名 (局長1・主事主任,1981)10名 (局長1・主事主任3・一般内務2・一般外務4)  57年(1982)11名 (局長,1・主事主任3・一般内務3・一般外務4)  59年(1984) 9名 (局長1・主事主任3
南茅部町史 上巻 (鮪網漁場歩方)

規定の内容の主なものを挙げれば、収獲魚類の売買はすべて漁場主が売買先の商店を選定して、漁場主及びその代理人,漁場の役職は、船頭一名、下船頭一名、漁夫取締一名、賄(まかない)一名、書記(帳場)一名で、船頭は漁場主,下船頭ほかの役人(やくびと)は、漁場主と船頭が協議して指名するが、ときには歩方一同が選挙できめることもできるとなっている,一、下舟頭 壱名      一、漁夫取締 壱名 一、賄 壱名      一、書記 貳名   拾壱,(女名 今津テイは、今津家の当主である。
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