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椴法華村史
(松前藩の対蝦夷政策)
すなわち前にも記したように、従来から
和人地
に居住しているアイヌ人は別として、和人は蝦夷地へ、アイヌ人は,
和人地
へ居住してはいけないと定めていた。,昆布をはじめとする海産物を求めた和人達は、なんとかこれらの地に進出しようとしており、またこの地方は極く
和人地
戸井町史
(一、運上屋時代(場所請負時代))
和夷の居住現状により、汐首岬以東、熊石以西を蝦夷地とし、東蝦夷地、西蝦夷地と名づけ、熊石から汐首までを
和人地
,そして次の布令を
和人地
と蝦夷地に出した。 ,「一、
和人地
には、従来居住している蝦夷の外は、蝦夷の居住を禁ずる。 ,この布令によって、
和人地
に居住していた蝦夷が死んだり、蝦夷地に移住して、次第に
和人地
の蝦夷が減少して行,又蝦夷地に居住していた和人も次第に
和人地
に移り、蝦夷地は和人の住まない土地になった。
函館市史 通説編 第一巻
(領土の確定)
にこのことによって、これまでみた和人の自由な蝦夷地侵略に歯止めをかけ、渡島半島知内川の以西天ノ川までの境域を、正式に
和人地
,と定め、和人の領土として、アイヌ人側が最終的に承認したことを示すものであり、明確なかたちでの「
和人地
」
函館市史 銭亀沢編
(アイヌの存在形態)
アイヌの存在形態 この頃の
和人地
における和人人口およびアイヌ人口の変化をみてみると享保元(一七一六),銭亀沢は中世末期に形成されていた上ノ国から知内間の初期
和人地
が、寛文期(一六六一~一六七三年)頃までに,、西は熊石、東は石崎村あたりまでと次第に拡大され、
和人地
に含まれるようになった地域である。 ,寛文九(一六六九)年の段階では、「上ノ国-知内間の初期
和人地
内では、両端におけるごく少数の存在を除き、,もはやアイヌの居住はみられなくなっているものの、上ノ国-関内間、及び知内-石崎・ヤケナイ間の新たな
和人地
内
函館市史 通説編 第一巻
(請負制度発生の原因)
商場知行制とは、その名のごとく家臣に蔵入地以外の蝦夷地および
和人地
に、給地に相当する商場を分与する制度,すなわち、
和人地
の給地にあっては、給地内の漁民から物成としての現物税を徴収する権利を有し、その限りにおいては,地方知行と類似しているが、
和人地
は藩主の蔵入地が圧倒的に多く、家臣の知行地としては、まことに例外的なものであった
恵山町史
(2、人馬賃銭と宿料)
宿料については
和人地
と蝦夷地、別料金となっており、定めでは実費を賄いきれない状況にあったが、これも次第,
和人地
の大野村・鷲の木村・落部村の場合、従来『一食に付、銭一〇〇文』であったが、米価高騰により、大野村,そこで安政5年(1858)には、山越内(村並)・長万部・室蘭・幌別の4つの場所は料金を
和人地
並としている
函館市史 通説編 第一巻
(蠣崎氏の独立)
蠣崎氏の独立 蠣崎氏が各館主やその子孫を臣下につけ、原住民アイヌと地域協定を結び「
和人地
」を確定、渡島半島西部,しかもその政権は、あくまで
和人地
における和人に限定されたものであり、アイヌ民族に関しては、商品流通機構
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田番所の行政区域と法令)
亀田番所の行政区域と法令 亀田番所の主な仕事は(1)
和人地
と蝦夷地の出入者を検査し、税を徴すること、,更に
和人地
の拡大に伴い、亀田奉行の行政地域も広められ、最初は知内以東、亀田までであったものが、汐首、戸井
戸井町史
(二、松前時代前期の概観)
藩主慶広は蝦夷との紛争を緩和し、軋轢を回避するために、東は汐首岬、西は熊石を境界として
和人地
と蝦夷地に,によって藩内の状況を報告するため、或は自藩統治の必要上、村々の役人に命じ、或は藩士を各地に派遣して、
和人地
,この時代の寛永初年頃から、小安、釜石(ウカ川附近)、汐首(汐首岬の東部)の
和人地
に和人が定住し始め、従来,又この時代から幕府や松前藩の役人が屢々
和人地
、蝦夷地の実地踏査を行い、下海岸諸村の地勢、地形、戸数、人口
椴法華村史
(駅逓制度の充実)
駅逓の仕事は普通
和人地
の村落では、村役人により村役人の自宅で取り扱われ、蝦夷地の請負場所では請負人によって,この時の
和人地
の村落における一般客の宿泊料は、はじめ銭百文であったが、これでは賄(まかない)きれず、大野
椴法華村史
(六箇場所の支配人・番人)
寛政十二年(一八〇〇)以前は、椴法華は蝦夷地内の尾札部場所の集落として存在して来たが、この年から山越内が
和人地
,と蝦夷地との境界となり、椴法華は
和人地
内村並の尾札部村の支郷椴法華村ということになったのである。
函館市史 銭亀沢編
([松前における土地所有の形態との比較])
[松前における土地所有の形態との比較] 次に銭亀沢地域と同じように古くからの
和人地
であった松前地域における
函館市史 別巻 亀田市編
(松前藩の蝦夷地統一と番所の設置)
や旅人より税を徴収するようになり、天文二十(一五五一)年には武田季広は東西の蝦夷と講和し、松前周辺の
和人地
,制書を受け、名実ともに蝦夷地の支配者となり、松前氏は政治の中心を本拠地松前の地に置き、その支配地である
和人地
椴法華村史
(安東氏より独立)
このように松前藩は、蝦夷地に支配地を持つようになったのであるが、最初の実支配地は、普通
和人地
と呼ばれた,なぜ松前藩は
和人地
、蝦夷地と分割していたのであろうか、その理由は、蝦夷人(アイヌ人)と和人とのトラブル,なお松前藩は、
和人地
の西端の熊石と、東端の亀田には番所を設置して、出入者、出入船の検査を行っている。
函館市史 通説編 第二巻
(その特色-馬車道)
近世の松前藩は、
和人地
の内部でさえ、海運を以て交通手段としていた。,
和人地
以外は他国であり、アイヌ人は、和人でなくて外国人だった。
南茅部町史 上巻
(村並)
当時、六箇場所の各場所には出稼ぎに来る漁業者が多く、そのまま定住する者も増加して
和人地
と同じ状態になっていた
恵山町史
([蝦夷地の馬])
、急いで申し付けるべきである』と記されていることから、松前藩の給地内(東は石崎村から西は熊石村までの
和人地
,・享保2年(1717年)に、東西
和人地
で馬を飼育していると『松前蝦夷記』に記されている。,・寛延3年(1750年)の調査では、
和人地
の亀田郷だけでも893頭を数えている。 ,以上については
和人地
、松前地での馬の飼育・使役状況である。以下、東西蝦夷地の状況について記す。 ,因みに、
和人地
73ケ村中、馬持村46ケ村で、馬の飼育・使役は、初めは和人の間だけで行われていたが、この
函館市史 通説編 第一巻
(疫病)
のほか、寛政3(1791)年に渡来した、筑後柳川藩医淡輪(たんわな)元朔の『東奥遊記』によると、このころ
和人地
椴法華村史
(場所)
できなかったので、場所を与えられた家臣(上級武士は知行地を与えられ、下級武士は切米取と称して米を与えられる)は、
和人地
戸井町史
([蝦夷地と馬])
『松前蝦夷記』には、享保二年(一七一七)に東西
和人地
で馬を飼育していたと書かれている。,ドサンコ馬 寛延三年(一七五〇)に
和人地
の馬の頭数を調査したところが、亀田郷だけでも八九三頭に,以上のことは、
和人地
の馬の飼育状況であるが、馬が蝦夷地にはいったのは、寛政元年(一七八九)の蝦夷乱討伐,
和人地
七十三ケ村中、馬持村四十六ケ村となっている。,然し
和人地
には、寛永十年(一六三三)以来、将軍が代変り毎に巡見使が派遣され、その一行が馬に乗り、大行列
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田番所と諸役)
)に亀田番所を設置したようであるが、このときは奉行を置かず、亀田の地侍である白鳥孫三郎を検断に任じ、
和人地
椴法華村史
(亀田番所の設置)
職務内容も木古内以東亀田に至る間の行政及び蝦夷地内の漁業や商業の監督、取締りにまで及ぶようになり、のちには
和人地
函館市史 通説編 第二巻
(東浜上陸所)
ただし、それは北海道全体が
和人地
と蝦夷地に区分され、和人の支配は
和人地
に限るという松前藩の政策(幕府承認済
函館市史 通説編 第一巻
(亀田番所の設置)
従って慶広は、現状によって
和人地
を知内川以東亀田まで伸ばし、亀田をもって蝦夷地と
和人地
の境として、
和人地
函館市史 通説編 第一巻
(藩財政と俸禄制度)
して直領地と知行地に分ち、藩主は、その直領地における交易をはじめとし、沖ノ口諸役および口銭、あるいは
和人地
函館市史 別巻 亀田市編
(蝦夷蜂起)
上ノ国町)の二館を残すのみとなったが、この時花沢館にいた武田信広がようやくコシャマイン父子を射殺し、
和人地
戸井町史
(一、十八世紀後半の戸井の状態)
この時代の下海岸は、まだ小安村の汐首が和人と蝦夷の居住地の境界になっており、汐首岬以西が
和人地
で、以東,に享保年間から「場所請負制度」がつくられ、それが定着し、軌道に乗って来た時代であるが、和人の人口は、
和人地
,然しオヤスといっても
和人地
のオヤスではなく、オヤス村内の蝦夷地シオクビを指していることが明らかである。
函館市史 通説編 第一巻
(生産および流通の変化)
松前藩の財政ならびに知行制の内容が、商人による場所請負制度への構造的な変化を遂げたぱかりではなく、一方、
和人地
椴法華村史
(近村への道)
蝦夷地境界となり、野田追迠の六ヶ場所(小安、戸井、尻岸内、尾札部《含椴法華》、茅部、野田追)は村並となって
和人地
内
函館市史 銭亀沢編
([海産干場からみた銭亀沢の産業と階層性])
これらのことを銭亀沢と同じように古くからの
和人地
であった松前、福島地域の漁村における土地の所有形態、利用方法
函館市史 銭亀沢編
(短冊状地割と境界について)
再び和人の権力が函館付近にまで進出するのは中世末期で、寛永頃に
和人地
東在東境が汐泊・石崎に定められた。,石崎より東側の小安は、以降和人居住が進み、村並となったが、法制的には石崎が東境であった(榎森進「
和人地
,一方、
和人地
東在東境に目名町・谷地町など町のつく字名がみられるのは、この東境に交易をおこなう町場的な機能
椴法華村史
(村並となった六箇場所)
、六ヵ場所に出稼(漁業)に来る者が増加し、中には土着する者も出てくるようになり、これらの地方はやがて
和人地
同様
函館市史 通説編 第二巻
(6藩分領と奉行「御預所」)
にあたらせたことにより(『幕外』27-138、『維新史料綱要』)、奉行の「御預所」は、松前藩領以外の箱館を中心とする
和人地
椴法華村史
(松前より宗谷まで人馬継立)
松前より宗谷まで人馬継立 次に「文化七庚午年(一八一〇)従二松前一東地通ソウヤ迠行程」により
和人地
から
函館市史 通説編 第二巻
(箱館奉行の再置)
した蝦夷島本島への接近)を軸とした外圧に対する対応策としての東蝦夷地の仮上知と、それに続く知内川以東の
和人地
,再置それ自体は、箱館開港への対応とそれに伴なう箱館を中心とした5~6里四方の幕領地(箱館を中心とした「
和人地
,の地の幕領期(第1期)、(2)安政2年2月22日から同6年9月26日までの木古内村以東、乙部村以北の
和人地
函館市史 銭亀沢編
(敷地割にみる村落社会と生業)
銭亀沢地区は漁村地帯であったが、江戸時代には汐首岬が
和人地
の東境であったため、巡検使などの交通の要地でもあり
函館市史 銭亀沢編
(松前・福島地域の産物)
松前・福島地域の産物 では、銭亀沢地域と同じように古くからの
和人地
である道南の松前町周辺では、どのような
戸井町史
(一、汐首の革新性)
一、汐首の革新性 汐首は対岸下北半島の大間と最短距離にあり、昔は
和人地
と東蝦夷地との境界として、日本
恵山町史
([地理的位置])
周知のごとく、亀田半島を含む渡島半島は、近世において
和人地
ないしはその影響が濃厚だった地域である。,からみえる「恵山」の地名は、東蝦夷地箱館六ケ場所の一つ尾札部場所のうちに見いだされ、1800年(寛政12)
和人地
函館市史 銭亀沢編
(〈石崎〉)
字石崎の場合、
和人地
の東境という条件から、かなり早い段階での村落の拡大が考えられるが、当初の空間構成が
恵山町史
(2、箱館六ケ場所の成立)
それが、和人の土着(定住は認められていない)、出稼ぎ人の増加という実情に照らし
和人地
と追認「村並」とし,松前藩はこれまで、蝦夷島を
和人地
と蝦夷地の2地域に区分し、和人の蝦夷地への定住を禁止しており、その往来,東蝦夷は、元禄13年(1700)の「松前島郷帳」に記されているように、これまで蝦夷地であったヲヤス領を
和人地
,翌寛政12年(1800)六ケ場所が「村並」となったのも、このような実態を前提としていることであり、
和人地
,なお、小安については土着の和人が多く、蝦夷地ではあるが
和人地
と見做(みな)されていた。
恵山町史
(1、古い記録にみる、郷土のようす)
松前藩は、藩の財政を支えるために、蝦夷地を
和人地
とアイヌ居住地に区分し、商場知行(あきないばちぎょう),1700年(元禄13年)『松前島郷帳』より、
和人地
・蝦夷地(アイヌの居住地) 1697年(元禄10, ねたない おさつへ おとしつへ のたへ これによると、松前藩は、近世初期の
和人地
函館市史 通説編 第二巻
(政務の引継)
「地方演説書」は、
和人地
のうち松前藩領を除いた箱館奉行所直轄50町村(箱館町から長万部村まで)の現況、
函館市史 通説編 第一巻
(畜産)
は、蝦夷地においては、官馬および警衛諸藩の用馬のほか、住民が馬を飼うことは従来通り禁止されていたが、
和人地
函館市史 通説編 第二巻
(沿岸型開教と内陸型開教)
とすれば、近代における基本的な開教形態として、先発地=
和人地
の寺院による沿岸型開教と、中央政府=中央教団
函館市史 通説編 第二巻
(蝦夷地と箱館と)
」田中健夫編『日本前近代の国家と対外関係』)から窺えるごとく、その主要な任務は、(イ)箱館を核とした
和人地
椴法華村史
(亀田奉行の定)
るだけ他国人の土着を許さないためであり、また入国する他国人からは、入役銭《越年役、蝦夷地入稼銭など》を
和人地
内
戸井町史
(二、会所時代)
東蝦夷地の六ケ場所にも和人の移住者が増加したので幕府は小安、戸井を含めた六ケ場所を「村並」とし、
和人地
恵山町史
([明治・大正時代の漁業])
江戸時代、蝦夷島(北海道)の主権を握った松前氏は、福山(松前)に居城を構え、西は熊石(関内)東は小安までを
和人地
,については厳しく守られてきたが、東海岸、小安以東のいわゆる下海岸・陰海岸については、古くから、隣接の
和人地
函館市史 銭亀沢編
(〈志苔〉)
銭亀沢地区は
和人地
の村のなかでも、干場の個人所有が早くから進んだが(鈴江英一『北海道町村制度史の研究』
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