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函館市史 通説編 第二巻
(開港直後の入港外国船)
開港直
後
の入港外
国
船 安政2年3月は、いよいよ箱館開港の月である、すでに2月からアメリカ捕鯨船の入港,がみられたが、これも含めて箱館開港以降の外
国
船の入港状況を安政2~3年の2か年間についてみると表序-2,まず船名別入港船数を
国
別にみると、計43艘のうちアメリカ船23艘、イギリス船13艘、フランス船3艘、ロシア,寄港地とするというペリーの目的からして当然の結果であったが、捕鯨船に次いで商船の入港が多かったのは、
後
述,戦争で、主戦場はクリミヤ半島と黒海であった、戦火は極東にまで広がり、極東では、英仏連合艦隊がロシアの背
後
を / 開港直
後
の入港外
国
船
函館市史 通説編 第二巻
(維新前後の外国船の状況)
維新前
後
の外
国
船の状況 開港以来、わが
国
は外
国
貿易の急激な伸長に伴い、
国
内の物資流通の輸送も急増する,開港
後
、幕府は民間の大船の所有、製造を認め、外
国
商船の購入も許すことにした。,「明治初期の外
国
海運と三菱会社」『世界経済分析』)とあるように、開港
後
にわが
国
に進出し、
国
内の開港場と,外
国
間との輸送を担当していた外
国
商船が
国
内の沿岸輸送-特に太平洋岸-にも就航するようになってきた。,この事情については
後
述する。 / 維新前
後
の外
国
船の状況
恵山町史
([神道国教策以後の郷土の神社])
[神道
国
教策以
後
の郷土の神社] 明治政府の神道
国
教策により郷土の4神社はどのように変わったのか、菊池重賢,』(明治政府・開拓使による神社調べ)以降の郷土の神社の実態については、明治12年6月調の文書、『渡島
国
亀田,開拓使函館支庁管下渡島
国
亀田郡尻岸内村字澗五三番地の一 ,一、管轄庁距離 九里余 以上 以上、この文書(『渡島
国
亀田,住民の手による“廃仏毀釈”という行動は伝聞にも記録にもないが、郷土もまた、明治政府の神道
国
教化の波をかぶったことは / [神道
国
教策以
後
の郷土の神社]
南茅部町史 上巻
(後期)
後
期 中期終末の混沌とした情勢の中で、やがて、東北地方に沈線文を主体とした
後
期文化が萌芽し、強い勢力,第40図 繩文時代
後
期の住居跡 第41図 繩文時代
後
期の住居跡 第42図 繩文時代
後
期,第43図 繩文時代
後
期の土器 また、これらの位置関係から、繩文時代
後
期においても、男女による性的空間分割,この土偶は重要文化財に指定されており、高さ四三センチメートル、幅二〇・一五センチメートルと
国
内で最大である,第45図 繩文時代
後
期の中空土偶 繩文時代
後
期の中空土偶 第46図 遺跡分布図(繩文時代晩期 /
後
期
椴法華村史
(日華事変後の行政)
日華事変
後
の行政 満州事変以来道民の経済状態は悪化していたが昭和九年再び冷害・凶作に襲われ、更に強力,このような情勢下にあって北海道庁長官は七月『召集・徴発事務の遂行・銃
後
の
後
援の万全・防空態勢と治安維持,に赴き、入りては自主本道の防護に任じ、愈々銃
後
の護りを固くして出征将兵の慰藉激励と遺家族の擁護に万全を,事変
後
、
国
民精神総動員運動が強くさけばれ、「挙
国
一致」「尽忠報
国
」「堅忍持久」などの精神的統一がはかられ,こうした中で市町村においては、軍人
後
援会・在郷軍人会・愛
国
婦人会・
国
防婦人会・青年団等の活動が活発化され / 日華事変
後
の行政
函館市史 通説編 第一巻
(乱後の箱館)
乱
後
の箱館 コシャマインの乱
後
の箱館地方の状勢を見ると、小林良景の戦死によって、その子、小林弥太郎良定,更に茂別館の下
国
家政も、これよりさき文亀元(1501)年に没し、孫の下
国
八郎師季が嗣いでいたが、これまた,の子小三郎景宗は、同12年蠣崎光広に臣事し、また河野季通の1女(3歳)は、乳母に負われて松前に逃れ、
後
に / 乱
後
の箱館
函館市史 別巻 亀田市編
(開港後の様子)
開港
後
の様子 ペリーがはじめて来航した安政元年四月には前記のような布達が出され、官民ともに不安な毎日,市在はあたかも火の消えたごとき状態となり、ペリーをして、和親のかいなしと言わしめたほどであったが、一年
後
の,今歳安政二乙卯年夏六月松前箱館の港に休帆する異
国
船は、北アメリカ、イキリス、フランス、トイツ、の四ケ
国
,船の製造は大卒(ヲヲムネ)同様にして、たゞ籏印を以て其
国
々を分かてるとなり。,又銀銭なきものは両家の内に頼んで品物を持行、
後
日代料払ふも有とぞ。 / 開港
後
の様子
恵山町史
([戦後の砂鉄])
[戦
後
の砂鉄] 前述のように明治初期、北海道の開拓のため開拓使の手により詳細な調査を行った砂鉄であったが,、実際に日の目を見るようになったのは、戦
後
の産業復興期を迎えてからである。,就中、朝鮮動乱による特需に端を発し全
国
の製鉄・製鋼業が活気を呈し、外貨の乏しいなか、大手企業が
国
内の鉄鉱山 / [戦
後
の砂鉄]
函館市史 通説編 第一巻
(戦後の推移)
戦
後
の推移 第2次大戦の終了した昭和20年には、世帯数39,397、人口181,531人と昭和5年当時,その
後
復員者の増加、海外からの引揚者の増加により昭和22年には戦前までの規模に復調し、24年には戦前の,昭和25年の第7回
国
勢調査では、世帯数47,736、人口228,994人となり、5年前の終戦時の世帯数,昭和30年代には人口が25万人台に達したが、同30年代の
後
半から隣接する亀田地域の宅地化が進められると,しかし、世帯数は全
国
的な核家族化の進行を反映して増加している。 / 戦
後
の推移
椴法華村史
(戦後の社会保障)
戦
後
の社会保障 戦前からあった
国
民健康保険は、戦
後
の物価上昇やさまざまな混乱の中で、その大半が事業不振,
国
民健康保険関係では、昭和二十三年、従来の組合方式から市町村公営方式の原則に変えられ、昭和二十六年、
国
民健康保険税,その
後
、昭和三十四年一月から、新
国
民健康保険法が施行され、市町村による
国
民皆保険の実施が義務づけられ、 / 戦
後
の社会保障
椴法華村史
(戦後の椴法華港)
戦
後
の椴法華港 昭和二十一年十一月七日、前椴法華村長谷内久吉と助役小畑定夫との間で引き継がれた「事務引継,ニ関スル件」の文書によれば、戦
後
復興途上の椴法華村が、切に大漁港の建設と船入澗修築を希望していたことがわかる,一、
國
費大漁港築設の件 本村は太平洋に面する一大漁田を有するも未だ漁港の築設なき為其の開発遅々,たるものあるを以て
國
費支辨により之れが築設方に付御努力を煩したい。 / 戦
後
の椴法華港
南茅部町史 下巻
(〔三五年ぶり中国より帰国〕)
敗戦
後
、混乱の中
国
に残されて三〇年の歳月を生き抜いた竹内ユキヱは、許可をえて三〇年ぶりに臼尻の母(81,臼尻尋常高等小学校を卒業
後
、一七年のとき上京して親戚の家で暮らしていた。,二年
後
の昭和一九年、大連にいる知人を頼って満洲へ渡った。 ,それから六年
後
、昭和五四年八月、母危篤の電報をうけたが日本への帰
国
が許されなかった。,竹内ユキヱの戦
後
は、三八年の長い戦
後
であった。 / 〔三五年ぶり中
国
より帰
国
〕
恵山町史
([戦後の教育改革])
[戦
後
の教育改革] 昭和20年8月15日、無条件降伏の敗戦を契機とし、わが
国
の
国
政全般は連合
国
最高司令官総司令部,したがって戦
後
のわが
国
の教育も、この占領というきびしい条件のもと、敗戦という荒廃の中で大きな改革を迫られることになった / [戦
後
の教育改革]
椴法華村史
(満州事変後の行政)
満州事変
後
の行政 外地における昭和六年九月満州事変の発生同七年の満州
国
建
国
、そして
国
内における昭和六年七年,の恐慌・冷害・凶作等は、
国
民生活を圧迫し社会不安は日に日に増し、道民に非常時到来を痛感させたばかりでなく,またこのような内外非常時に当たり政府及び道庁は、強力に町村に対し行政指導をするとともに、
国
民精神運動・,その
後
道庁では、昭和七年二月道庁部課の廃合が行われ、更に昭和十年一月から総務部・経済部・学務部・警察部 / 満州事変
後
の行政
恵山町史
([戦後の陸上交通])
[戦
後
の陸上交通] 昭和20年(1945年)8月15日、天皇の玉音放送により世界を相手とした我が
国
の,敗戦を迎えた我が
国
は、滿州事変(1931)、日華事変(1937)、そして4年間ものアメリカとの太平洋戦争,戦
後
の我が
国
の復興は諸外
国
の目を見張らせた。,GHQ(連合軍総司令部・米
国
)の物的・制度的援助を受けたとはいえ、
国
民の熱意と勤勉さは平和産業をいち早,く復活させ、政府は物資の流通を促進するため交通網・
国
鉄や幹線道路の復興を重点政策とした。 / [戦
後
の陸上交通]
函館市史 通説編 第二巻
(明治後期の昆布貿易)
明治
後
期の昆布貿易 このように、明治前期を通して、昆布などの清
国
向け海産物輸出に特化してきた函館港の,外
国
貿易は、明治期
後
半に至り、昆布以外の輸出品の台頭や漁業貿易の進展で新たな展開をみせるようになったが,、明治
後
期においても、昆布の輸出は首位を占め、昆布の清
国
輸出の消長とその商況は、依然、函館の経済界のみならず, 表6-33 本邦商人と清
国
商人の昆布取扱実績 年 次 本邦商人 清
国
商人 合,こうして、昆布取引実権は再び清
国
商人の手中に帰し、20年頃には昆布輸出高の約90パーセントが清
国
商人の / 明治
後
期の昆布貿易
函館市史 通説編 第一巻
(開港前後の観測)
開港前
後
の観測 日本における気象観測の歴史は新しいが、西欧諸
国
では、すでに、16世紀ないし17世紀あたりから,日本では長年にわたる鎖
国
政策のため、西欧の文明から遠ざかっていたが、安政元(1854)年の神奈川条約によって,、下田、箱館に外
国
船の入港が許されて以来、
国
内でも次々に気象観測が始められるようになった。 ,その
後
の調査でアルブレヒトに先んずること5年前の安政元(1854)年から安政5(1858)年までの間、,対清、対露の貿易に従事したイギリス人トーマス・ライト・ブラキストンが、文久3(1863)年の初夏、開港
後
間 / 開港前
後
の観測
椴法華村史
(国民健康保険)
国
民健康保険 昭和三十六年
国
民健康保険法が成立し、以来本村では順調に発展を続け、昭和四十五年度には全村人口三千七十九人中,しかしその
後
、沿岸漁業の不振、景気の低迷などにより出稼者が続出し、これにともなって昭和五十五年度には、,更に五年
後
の昭和六十年三月三十一日の統計によれば、全村人口二千三百三十七人中加入者七百八十七人(三十三,、函館、戸井、につぎ
後
から三番目に加入割合が低い)。 ,
国
民健康保険の今
後
の課題としては、医療技術の進歩や医療機器、薬品の進歩開発等により高額医療費のものが増加 /
国
民健康保険
恵山町史
([戦後の漁業])
[戦
後
の漁業] 戦前、北海道で漁業の操業ができる沿岸は1,360里と言われてきたが、終戦とともに千島,乱獲、船舶・施設設備の不備、資材不足等による生産額が激減する最中(さなか)、樺太(サハリン)や色丹、
国
後
,戦
後
わが
国
が直面したのが、先ず“飢え”であった。 / [戦
後
の漁業]
南茅部町史 上巻
([戦後の村政])
[戦
後
の村政] 敗戦は全
国
民に大きな戸惑いと混乱をもたらしたが、民心の安定に当たる村当局は、行政をすすめる,現下行政ノ重点ニ関スル件 戦
後
復興ニ対スル第一線行政責任者ノ責務ハ愈々加重セラレ候処就中食糧(,戦争中、村長の役職にあった者は、戦
後
戦争協力者のリストに挙げられ、尾札部村長藤本卯太郎と、臼尻村長東出快次郎,この公職追放で全
国
約一〇万人の市町村長がその地位を去ったという。 / [戦
後
の村政]
函館市史 通説編 第一巻
(嘉兵衛の帰国)
嘉兵衛の帰
国
文化10年春、解氷期を待ってディアナ号はカムチャツカを出帆、嘉兵衛、リコルドが
国
後
島に,嘉兵衛を、シベリア総督の弁明書を得るためにオホーツクに連行しようとしたが、嘉兵衛はこれをしりぞけ、自ら
国
後
島 / 嘉兵衛の帰
国
椴法華村史
(国民学校令と椴法華国民学校)
国
民学校令と椴法華
国
民学校 昭和十六年三月『
国
民学校令』が公布され、同年四月一日より実施されることになった,これによって従来の尋常小学校及び尋常高等小学校は、すべて『
国
民学校』と改称された。 ,椴法華尋常高等小学校もこの法令により、『椴法華
国
民学校』と改称され、以
後
次第に戦時体制に即応し、学校では,聖旨奉戴・八絋一宇などの皇
国
思想を中心とする精神訓話や錬成を、また集団訓練といわれる防火避難訓練・持久走訓練,初等科 修業年限六年 高等科 修業年限二年 教科名
国
民科(修身・
国
語・
国
史・地理) /
国
民学校令と椴法華
国
民学校
南茅部町史 下巻
(戦後、川汲山道再開)
戦
後
、川汲山道再開 戦時中、乗合自動車の運行は中断したが、戦
後
、尾札部村は函館市の協力を得て川汲山道,、昭和二二年銚子口駅を迂回する路線から函館への距離は近くなったが、冬期間は積雪のため同じく鹿部経由で
国
鉄,昭和三〇年末、函館市の協力のなかで道や
国
に請願をつづけ、昭和三九年、川汲山道森・南茅部線、川汲山道部分 / 戦
後
、川汲山道再開
函館市史 通説編 第二巻
(清国人職工)
清
国
人職工 明治8年従来の靴や馬具用を使途とする製革の製法のみでは需要に限度があるとの判断から毛皮のなめし,同年5月西村貞陽は清
国
に視察にでかけたが、その際に張尚有と王直金の2名をなめし皮の職工として雇用することにした,半年の契約満了
後
、王は帰
国
したが、張はさらに契約を延長し、10年11月30日まで在函した。,張のなめし皮の製法については開拓使のお雇い外
国
人の黄宗祐が聞き取りして記録したものがあり、それには干皮,張の帰
国
後
は囚人のうち製法を少々会得したものがあり、なめし業を継続できた。 / 清
国
人職工
南茅部町史 下巻
(〔戦後の学校教育〕)
〔戦
後
の学校教育〕 戦争に敗れて、食糧物資も乏しく、窓ガラスに板を打ちつけ、昨日までの軍
国
教育を民主主義,戦
後
、学校が最初におこなったことは、空襲被害をうけた校舎の修理であった。とにかく応急の仮修繕である。,教室から軍
国
主義的な掲示板などのとりはずしである。,翌昭和二一年四月には、
国
民学校から、もとの小学校の校名が復活した。 / 〔戦
後
の学校教育〕
恵山町史
(2、国定教科書)
郷土の学校創立以前、教育の場で用いられていた教科書・読本類については第1節に述べたが、公立学校の開校
後
の,最初の教科書 日本で厳密な意味で教科書が作られたのは、明治5年(1872)の『学制』制定以
後
のことで、,、その
後
、昭和20年(1945)の終戦まで42年間続き、その間、5回改定された。 ,・大正7年(1918) 第3期の
国
定教科書 第3期の
国
定教科書は、第1次世界大戦
後
の大正デモクラシー,,小学校教科書は明治36年に
国
定制度となり,以
後
,戦
後
の新教育になるまで続いた。 / 2、
国
定教科書
椴法華村史
(昭和十年以後の漁業組合)
昭和十年以
後
の漁業組合 昭和八年政府は漁業組合の経済事業の強化を目標として漁業法の改正を行い、各漁業組合,その
後
政府の指導により漁業組合の全
国
組織化が図かられることになり、まず昭和十二年各漁業組合を会員とした,「北海道漁業協同組合連合会」が結成され、更に昭和十三年には全
国
漁業組合会が設立されて全
国
組織ができあがることになった,その
後
昭和十八年には「水産業団体法」が公布され、漁業組合は
国
策に協力する機関となっていった。,しかし二年
後
明治以来延々と発達してきた椴法華漁業組合は、昭和二十年の終戦と同時に法の規制及び
国
や道の指導 / 昭和十年以
後
の漁業組合
函館市史 通説編 第一巻
(日露国境問題)
後
なので、これを拒む理由はなかったが、ただロシアとの間には懸案として、
国
境問題が横たわっていた。,、ついに従来のごとく
国
境をおかず共同管理にまかせることになった。, 第二条 今より
後
、日本
国
と魯西亜
国
との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。,魯西亜
国
の間において、界を分たず、是迄仕来の通たるべし。, ここにおいて、多年日露両
国
間の問題となっていた、千島列島における
国
境は確定されたのである / 日露
国
境問題
南茅部町史 上巻
(戦後の昆布市場)
戦
後
の昆布市場 戦
後
昭和二四年、戦時の経済統制が解除され、自由経済が復活した。 ,昭和四七年、中
国
産昆布の輸入が実現した。日本昆布協会が設立される。 ,この年、韓
国
産昆布の輸入が大きく報道される。 ,昭和五五年、品薄となった大衆向け昆布原藻市場に、中
国
産昆布二、〇〇〇トンが緊急輸入される。 / 戦
後
の昆布市場
函館市史 通説編 第一巻
(外国船再出現)
外
国
船再出現 松前藩復領
後
の箱館地方が、前述のような政治・経済の経過をたどるなかで、文化10(1813,)年以来およそ10年ばかりその姿を見せなかった外
国
船が、文政年間に入ると早くもその船影を現わし、ときには,すなわち、復領
後
2年目の文政6(1823)年8月5日、1隻の外
国
船が幌泉に現われ上陸して水を汲んでいるという,更に天保2(1831)年2月20日、1隻の外
国
船が厚岸場所ウラヤコタンに停泊、ときどき発砲するので、厚岸勤番谷梯小右衛門,に敵は擒(とりこ)の2人に書簡および食物を持たせて陸に送り返し、翌日帆をあげて東方に去ったという(『
国
泰寺日鑑記 / 外
国
船再出現
函館市史 別巻 亀田市編
(森林の国有化)
森林の
国
有化 前にも記したように、明治十一年「森林監護仮条例」により官有林と私有林に大別し、その
後
、,明治十九年「北海道土地払下規則」等により徐々に
国
有林を明確にする政策をとりはじめ、かくて北海道庁は明治三十二年四月,「北海道官林種別調査規程」を布達し、この布達に基づいて、将来
国
有林とすべき土地、将来公有林とすべき土地,、将来私有地とすべき土地、将来森林として不必要地の四種類に区分する調査を行い、明治四十一年からの
国
有林確立期 / 森林の
国
有化
椴法華村史
(明治以後の歩み)
明治以
後
の歩み 明治以
後
において恵山硫黄鉱山の歩みと暦年をたどって記して見ることとする。,・明治三年より陸奥
國
津軽弘前商宮本金平、採掘高の一割を税として納入することを条件に開拓使の許可を受け、,・その
後
泉藤兵衛は製硫に従事すること五年、明治十三年十二月得失相償わず恵山硫黄鉱山を廃業する。,・明治十九年二月根田内村大坂力松は泉藤兵衛のあとを借区し採鉱に従事し、その
後
明治二十年六月に竹内綱に譲,(要約) 恵山鑛山 位置 渡島
國
亀田郡椴法華村・尻岸内村 鑛区 採掘登録第三九號 / 明治以
後
の歩み
函館市史 通説編 第一巻
(騒乱後の商品流通)
騒乱
後
の商品流通 さてこの間、箱館・志海苔のように康正年間以来、およそ1世紀にわたる永い歳月、現地ではおそらく,ただ、ここで永禄8(1565)年、わが
国
に在留した宣教師ルイス・フロイスが、同年2月28日付をもって、,インドの教父に送った書面によると、「日本の極北にて、都より約三百リーグを隔つる所に一大
国
あり、野獣の皮 / 騒乱
後
の商品流通
椴法華村史
(戦後の鰮漁業)
戦
後
の鰮漁業 ・昭和二十一年から四十年頃まで 明治、大正時代下海岸地域は、昆布、鰮等の漁獲によって,「マイワシ」の昭和三十年代から四十年代にかけての漁獲量の推移は、全
国
的に減少の傾向が見られ、椴法華村では,「カタクチイワシ」 「マイワシ」に比較し沿岸性の魚であり、全
国
的に分布し、産卵時期についても、ほぼ,全
国
的に同時期である。 / 戦
後
の鰮漁業
函館市史 別巻 亀田市編
(戦後の道路事情)
戦
後
の道路事情 昭和二十二年以降、終戦処理、経済復興のため、また食糧自給のための資源増産が強く要求されていた,昭和二十五年「
国
土総合開発法」が制定され、二十六年には「北海道開発庁」が発足して、道路整備は北海道総合開発計画 / 戦
後
の道路事情
函館市史 銭亀沢編
(戦後の漁業協同組合)
戦
後
の漁業協同組合 敗戦の結果、戦争遂行のための
国
策推進組織として作られた漁業会などの水産統制団体は,、全面的な改廃を迫られ、漁業者団体については、戦
後
の民主化政策の下に制定された水産業協同組合法(昭和二十四年十二月公布 / 戦
後
の漁業協同組合
函館市史 銭亀沢編
(露国人ノ農業)
露
国
人ノ農業 本村大字志苔村大字笹流ニ浦塩ニ本籍ヲ置ケル露
国
人フ、デー、サウエリエフ同人妻クセニヤ及長女,同人等ハモト函館新川町ニ居住シ
後
本村ニ移リシモノニテ、該地ハ函館区ノ人、澤克巳ノ所有地ナリ。 / 露
国
人ノ農業
南茅部町史 下巻
(国道二七八号線)
国
道二七八号線 昭和四五年四月一日、森・南茅部・戸井・函館の沿岸線が
国
道(二七八号線)に昇格した。,戦
後
、道々尾札部・戸井・函館線、ならびに函館(川汲山道)・臼尻・森線に区別されていた沿岸線である。,沿岸道路の
国
道昇格により、川汲山道は道々函館・南茅部線となった。 /
国
道二七八号線
椴法華村史
(戦後の出来事)
戦
後
の出来事 ・昭和二十一年末、闇価格急上昇し、全
国
的に、空き巣、こそ泥、多発する。 / 戦
後
の出来事
函館市史 通説編 第一巻
(外国人医師と施療)
外
国
人医師と施療 安政5年2月、米人医師G・M・ヘーツが来箱、同
国
貿易事務官ライスと共に浄玄寺に止宿,し、9月にはロシアから医師ゼレンスキーが同
国
の領事と共に来て居住した。,これら外
国
人医師は、自
国
人の診療のみならず、箱館市中の希望者の診療も行いたい旨申し出た。,#160; 救命の儀ニ候得ば無二余儀一事情にも相聞候得共、終ニは其恩儀を感じ、深く信じ親しミ候処より、
後
弊,をも可レ生道理ニ付、右医師より御
国
の医師修業候儀は格別、夷人より療治受候もの共ハ、追々ニ相止、
後
害無レ / 外
国
人医師と施療
函館市史 通説編 第一巻
(外国貿易の開始)
此二人は上陸のうえ、偶然自分の商店の前に佇(たたず)み商品中の寒天及椎茸を一覧したる
後
、懐中より畳紙に,六十八両にして、之を箱館に積来りて百両に売るは、非常の困難とする所なりき、自分は此場合に於て、船手上越
後
権右衛門,斯くて陳は出帆の際、我が二分金三千両を自分に託し、今
後
何程にても、昆布を買置くべしと言いて、同月二十日解纜,の際は、陳の掛引にて直に港内に入らず、台場沖山背泊に投錨し、船影を市人に見せしめず、昆布の商談成りて
後
始,是より
後
、英
国
デンデコンパニーの支配にポーターと云える英人あり、箱館に来り昆布買付をなし、居留諸外人も / 外
国
貿易の開始
恵山町史
([編集後記])
が再び蝦夷地を直轄地(安政元年・1854)とした
後
のことである。,当時、わが
国
は右肩上がりの驚異的な経済成長を続け、郷土尻岸内町の行政も大いに充実した時期であった。,しかし、当時は明治維新
後
までの資料は蒐集・掌握・整理してはいたものの、明治中期から戦
後
・今日までについては,−以下内容例− 第11章 迎えた北海道庁時代/金子大書記官の巡視と道庁設置/
国
会開設要求と市制町村制,産業の展望/生産量を誇る硫黄鉱/林政行政に逆行した大量消費/馬匹の放飼から舎飼へ/実利主義の明治教育/
国
家主義下 / [編集
後
記]
恵山町史
(1、復領後の施策)
1、復領
後
の施策 幕府は松前藩の復領に際し、直轄時の施策北辺警備を怠ることなく、また、各種制度を維持,したがって、復領
後
も、依然として姑息(一時凌ぎ的)な施政をおこない、せっかく幕府によって蝦夷地開発の基盤,これに加えて、この時代、噴火・地震・洪水・天候不順による飢饉等、災害が頻発、さらには外
国
船の出没も度を / 1、復領
後
の施策
恵山町史
(戦後の飢餓状況と農業)
戦
後
の飢餓状況と農業 昭和20年(1945)8月15日終戦となる。,第2次世界大戦
後
、昭和22~25年(1947~50)にかけてGHQ(連合
国
最高司令官総指令部)の指令によりおこなわれた,事務引継書(抜粋) 前任社 元尻岸内村長 井上悟
後
任者,森は、この開拓地に6年間過ごした
後
、生活の場を女那川に移したが通いながら耕作は続けた。,戦
後
の農業入殖者(開拓農家)についての町有の記録はみつからない。 / 戦
後
の飢餓状況と農業
函館市史 通説編 第二巻
(清国商人の登場)
そのなかで長崎唐館内に在留の清
国
人は旧来のしきたりもありそのまま在留を認め、また条約締結
国
の外
国
人が清
国
人, …成記号ハ松筠、徳澄ナルモノ長崎ニ来リ初メ些少ノ資本ヲ以テ商売ヲ為セシカ、其
後
当港ニ,資本を蓄積した階層ではなく、海産物貿易によって利を占めて、日本
国
内で資産を形成した
後
に上海を拠点とし、,ちなみに東和号は20名前
後
で構成されていることから成記号の成り立ち自体は三好らの報告にあるように小さい,その大半の清商は大町(
後
に仲浜町に町名変更)の居留地に居住した。 / 清
国
商人の登場
恵山町史
(1、異国船の来航)
っていた
国
際情勢も、1820年代に入ると諸外
国
の船が頻繁にやって来るようになり、活発に動き始めた。,ここでは特に、蝦夷地への外
国
船・異
国
船の来航とその状況ついて、松前町史年表より蝦夷地に関わる主な事項を,を構築し、さらに勤番所を、東蝦夷地の山越内(現八雲町字山越)・絵鞆(室蘭)・様似・釧路・厚岸・根室・
国
後
,町奉行見分
後
逃亡するが、即捕らえられ安泰丸で長崎へ護送される。,の乗組員マクドナルド利尻島ノッカに短艇で着岸、遭難者を装い救助され、松前に護送、江良村抑留所に収容、
後
長崎抑留所 / 1、異
国
船の来航
椴法華村史
(昭和三十七年前後の保健実態)
昭和三十七年前
後
の保健実態 戦
後
医学の進歩により、しばらくの間、死亡数は大きく減少を示したが、昭和三十七年前
後
,昭和三十五年から三十九年に至る間の五ヶ年の平均死亡率では、全
国
が七・三、道南が六・八、椴法華村が五・六,と椴法華村の死亡率は、全
国
・道南のいずれの平均よりも低くなっている。 ,※伝染病は終戦直
後
の一時期を除き、本村では長く伝染病の発生がなく、次の表のように結核以外の伝染病は、昭和三十五年,戦
後
結核はいちじるしい減少を示し、当時の日本全体の死亡順位では第七位となっており、かつてのような恐れの / 昭和三十七年前
後
の保健実態
函館市史 通説編 第一巻
(縄文後期の土器)
縄文
後
期の土器 この時期になると土器も新たに壷(つぼ)、深鉢、注口土器というように用途別の器形が現われる,
後
期の土器が黒色を帯びるのは焼成法に大きな変化があった結果と考えられる。,土器の焼成法は穴を掘って小枝を厚く敷き、成形
後
陰干ししてよく乾燥した土器を置き、更に小枝で覆って焼くと,この黒色土器は、縄文
後
期の中ごろになると急速に普及して、西日本の九州から東日本や北海道で一般化する。,この現象を中
国
の龍山(ロンシャン)文化の黒陶土器の影響であると考えた人もいるが、龍山文化の土器の器形や / 縄文
後
期の土器
椴法華村史
(戦時下の国民生活)
戦時下の
国
民生活 戦争の長期化は
国
民生活の全ての面に大きな影響を与えた。,すなわち昭和十五年七月より叫ばれはじめた「新体制」の中で、産業報
国
会・在郷軍人会・警防団・青年団・大日本婦人会,その
後
ますます戦雲が深まる中で、こんどは
国
は
国
民に人的資源である兵員と労働者を求めはじめた。,
国
は各種の動員令を発して「
国
のため」という一語で
国
民に犠牲を強いるようになっていった。 ,この
後
昭和二十年には、ついに学校の授業が一年間停止となるような有様であった。 / 戦時下の
国
民生活
南茅部町史 上巻
([戦後のイカ釣り漁])
[戦
後
のイカ釣り漁] 戦争の末期、
国
籍不明の潜水艦の襲撃、魚雷の危険などで一時期中断したが、終戦
後
、,戦
後
の村の経済を支えたのはイカ漁の収入であった。 / [戦
後
のイカ釣り漁]
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