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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第二巻 (開港直後の入港外国船)

開港直後の入港外国船 安政2年3月は、いよいよ箱館開港の月である、すでに2月からアメリカ捕鯨船の入港,がみられたが、これも含めて箱館開港以降の外国船の入港状況を安政2~3年の2か年間についてみると表序-2,まず船名別入港船数を国別にみると、計43艘のうちアメリカ船23艘、イギリス船13艘、フランス船3艘、ロシア,寄港地とするというペリーの目的からして当然の結果であったが、捕鯨船に次いで商船の入港が多かったのは、後述,戦争で、主戦場はクリミヤ半島と黒海であった、戦火は極東にまで広がり、極東では、英仏連合艦隊がロシアの背後を / 開港直後の入港外国船
函館市史 通説編 第二巻 (維新前後の外国船の状況)

維新前後の外国船の状況 開港以来、わが国は外国貿易の急激な伸長に伴い、国内の物資流通の輸送も急増する,開港後、幕府は民間の大船の所有、製造を認め、外国商船の購入も許すことにした。,「明治初期の外国海運と三菱会社」『世界経済分析』)とあるように、開港後にわが国に進出し、国内の開港場と,外国間との輸送を担当していた外国商船が国内の沿岸輸送-特に太平洋岸-にも就航するようになってきた。,この事情については後述する。 / 維新前後の外国船の状況
恵山町史 ([神道国教策以後の郷土の神社])

[神道国教策以後の郷土の神社] 明治政府の神道国教策により郷土の4神社はどのように変わったのか、菊池重賢,』(明治政府・開拓使による神社調べ)以降の郷土の神社の実態については、明治12年6月調の文書、『渡島国亀田,開拓使函館支庁管下渡島国亀田郡尻岸内村字澗五三番地の一                       ,一、管轄庁距離 九里余                    以上    以上、この文書(『渡島国亀田,住民の手による“廃仏毀釈”という行動は伝聞にも記録にもないが、郷土もまた、明治政府の神道国教化の波をかぶったことは / [神道国教策以後の郷土の神社]
南茅部町史 上巻 (後期)

後期 中期終末の混沌とした情勢の中で、やがて、東北地方に沈線文を主体とした後期文化が萌芽し、強い勢力,第40図 繩文時代後期の住居跡 第41図 繩文時代後期の住居跡 第42図 繩文時代後期,第43図 繩文時代後期の土器  また、これらの位置関係から、繩文時代後期においても、男女による性的空間分割,この土偶は重要文化財に指定されており、高さ四三センチメートル、幅二〇・一五センチメートルと国内で最大である,第45図 繩文時代後期の中空土偶 繩文時代後期の中空土偶 第46図 遺跡分布図(繩文時代晩期 / 後期
函館市史 通説編 第一巻 (乱後の箱館)

乱後の箱館 コシャマインの乱後の箱館地方の状勢を見ると、小林良景の戦死によって、その子、小林弥太郎良定,更に茂別館の下国家政も、これよりさき文亀元(1501)年に没し、孫の下国八郎師季が嗣いでいたが、これまた,の子小三郎景宗は、同12年蠣崎光広に臣事し、また河野季通の1女(3歳)は、乳母に負われて松前に逃れ、後に / 乱後の箱館
椴法華村史 (日華事変後の行政)

日華事変後の行政 満州事変以来道民の経済状態は悪化していたが昭和九年再び冷害・凶作に襲われ、更に強力,このような情勢下にあって北海道庁長官は七月『召集・徴発事務の遂行・銃後の後援の万全・防空態勢と治安維持,に赴き、入りては自主本道の防護に任じ、愈々銃後の護りを固くして出征将兵の慰藉激励と遺家族の擁護に万全を,事変後、国民精神総動員運動が強くさけばれ、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」などの精神的統一がはかられ,こうした中で市町村においては、軍人後援会・在郷軍人会・愛国婦人会・国防婦人会・青年団等の活動が活発化され / 日華事変後の行政
函館市史 別巻 亀田市編 (開港後の様子)

開港後の様子 ペリーがはじめて来航した安政元年四月には前記のような布達が出され、官民ともに不安な毎日,市在はあたかも火の消えたごとき状態となり、ペリーをして、和親のかいなしと言わしめたほどであったが、一年後の,今歳安政二乙卯年夏六月松前箱館の港に休帆する異国船は、北アメリカ、イキリス、フランス、トイツ、の四ケ国,船の製造は大卒(ヲヲムネ)同様にして、たゞ籏印を以て其国々を分かてるとなり。,又銀銭なきものは両家の内に頼んで品物を持行、後日代料払ふも有とぞ。     / 開港後の様子
函館市史 通説編 第一巻 (戦後の推移)

戦後の推移 第2次大戦の終了した昭和20年には、世帯数39,397、人口181,531人と昭和5年当時,その後復員者の増加、海外からの引揚者の増加により昭和22年には戦前までの規模に復調し、24年には戦前の,昭和25年の第7回国勢調査では、世帯数47,736、人口228,994人となり、5年前の終戦時の世帯数,昭和30年代には人口が25万人台に達したが、同30年代の後半から隣接する亀田地域の宅地化が進められると,しかし、世帯数は全国的な核家族化の進行を反映して増加している。 / 戦後の推移
恵山町史 ([戦後の砂鉄])

[戦後の砂鉄] 前述のように明治初期、北海道の開拓のため開拓使の手により詳細な調査を行った砂鉄であったが,、実際に日の目を見るようになったのは、戦後の産業復興期を迎えてからである。,就中、朝鮮動乱による特需に端を発し全国の製鉄・製鋼業が活気を呈し、外貨の乏しいなか、大手企業が国内の鉄鉱山 / [戦後の砂鉄]
椴法華村史 (戦後の社会保障)

戦後の社会保障 戦前からあった国民健康保険は、戦後の物価上昇やさまざまな混乱の中で、その大半が事業不振,国民健康保険関係では、昭和二十三年、従来の組合方式から市町村公営方式の原則に変えられ、昭和二十六年、国民健康保険税,その後、昭和三十四年一月から、新国民健康保険法が施行され、市町村による国民皆保険の実施が義務づけられ、 / 戦後の社会保障
椴法華村史 (戦後の椴法華港)

戦後の椴法華港 昭和二十一年十一月七日、前椴法華村長谷内久吉と助役小畑定夫との間で引き継がれた「事務引継,ニ関スル件」の文書によれば、戦後復興途上の椴法華村が、切に大漁港の建設と船入澗修築を希望していたことがわかる,一、國費大漁港築設の件    本村は太平洋に面する一大漁田を有するも未だ漁港の築設なき為其の開発遅々,たるものあるを以て國費支辨により之れが築設方に付御努力を煩したい。      / 戦後の椴法華港
南茅部町史 下巻 (〔三五年ぶり中国より帰国〕)

敗戦後、混乱の中国に残されて三〇年の歳月を生き抜いた竹内ユキヱは、許可をえて三〇年ぶりに臼尻の母(81,臼尻尋常高等小学校を卒業後、一七年のとき上京して親戚の家で暮らしていた。,二年後の昭和一九年、大連にいる知人を頼って満洲へ渡った。  ,それから六年後、昭和五四年八月、母危篤の電報をうけたが日本への帰国が許されなかった。,竹内ユキヱの戦後は、三八年の長い戦後であった。 / 〔三五年ぶり中国より帰国〕
恵山町史 ([戦後の教育改革])

[戦後の教育改革] 昭和20年8月15日、無条件降伏の敗戦を契機とし、わが国の国政全般は連合国最高司令官総司令部,したがって戦後のわが国の教育も、この占領というきびしい条件のもと、敗戦という荒廃の中で大きな改革を迫られることになった / [戦後の教育改革]
椴法華村史 (満州事変後の行政)

満州事変後の行政 外地における昭和六年九月満州事変の発生同七年の満州国建国、そして国内における昭和六年七年,の恐慌・冷害・凶作等は、国民生活を圧迫し社会不安は日に日に増し、道民に非常時到来を痛感させたばかりでなく,またこのような内外非常時に当たり政府及び道庁は、強力に町村に対し行政指導をするとともに、国民精神運動・,その後道庁では、昭和七年二月道庁部課の廃合が行われ、更に昭和十年一月から総務部・経済部・学務部・警察部 / 満州事変後の行政
恵山町史 ([戦後の陸上交通])

[戦後の陸上交通] 昭和20年(1945年)8月15日、天皇の玉音放送により世界を相手とした我が国の,敗戦を迎えた我が国は、滿州事変(1931)、日華事変(1937)、そして4年間ものアメリカとの太平洋戦争,戦後の我が国の復興は諸外国の目を見張らせた。,GHQ(連合軍総司令部・米国)の物的・制度的援助を受けたとはいえ、国民の熱意と勤勉さは平和産業をいち早,く復活させ、政府は物資の流通を促進するため交通網・国鉄や幹線道路の復興を重点政策とした。 / [戦後の陸上交通]
函館市史 通説編 第二巻 (明治後期の昆布貿易)

明治後期の昆布貿易 このように、明治前期を通して、昆布などの清国向け海産物輸出に特化してきた函館港の,外国貿易は、明治期後半に至り、昆布以外の輸出品の台頭や漁業貿易の進展で新たな展開をみせるようになったが,、明治後期においても、昆布の輸出は首位を占め、昆布の清国輸出の消長とその商況は、依然、函館の経済界のみならず,   表6-33  本邦商人と清国商人の昆布取扱実績 年 次 本邦商人 清国商人 合,こうして、昆布取引実権は再び清国商人の手中に帰し、20年頃には昆布輸出高の約90パーセントが清国商人の / 明治後期の昆布貿易
函館市史 通説編 第一巻 (開港前後の観測)

開港前後の観測 日本における気象観測の歴史は新しいが、西欧諸国では、すでに、16世紀ないし17世紀あたりから,日本では長年にわたる鎖国政策のため、西欧の文明から遠ざかっていたが、安政元(1854)年の神奈川条約によって,、下田、箱館に外国船の入港が許されて以来、国内でも次々に気象観測が始められるようになった。  ,その後の調査でアルブレヒトに先んずること5年前の安政元(1854)年から安政5(1858)年までの間、,対清、対露の貿易に従事したイギリス人トーマス・ライト・ブラキストンが、文久3(1863)年の初夏、開港後間 / 開港前後の観測
椴法華村史 (国民健康保険)

国民健康保険 昭和三十六年国民健康保険法が成立し、以来本村では順調に発展を続け、昭和四十五年度には全村人口三千七十九人中,しかしその後、沿岸漁業の不振、景気の低迷などにより出稼者が続出し、これにともなって昭和五十五年度には、,更に五年後の昭和六十年三月三十一日の統計によれば、全村人口二千三百三十七人中加入者七百八十七人(三十三,、函館、戸井、につぎ後から三番目に加入割合が低い)。  ,国民健康保険の今後の課題としては、医療技術の進歩や医療機器、薬品の進歩開発等により高額医療費のものが増加 / 国民健康保険
南茅部町史 上巻 ([戦後の村政])

[戦後の村政] 敗戦は全国民に大きな戸惑いと混乱をもたらしたが、民心の安定に当たる村当局は、行政をすすめる,現下行政ノ重点ニ関スル件    戦後復興ニ対スル第一線行政責任者ノ責務ハ愈々加重セラレ候処就中食糧(,戦争中、村長の役職にあった者は、戦後戦争協力者のリストに挙げられ、尾札部村長藤本卯太郎と、臼尻村長東出快次郎,この公職追放で全国約一〇万人の市町村長がその地位を去ったという。   / [戦後の村政]
恵山町史 ([戦後の漁業])

[戦後の漁業] 戦前、北海道で漁業の操業ができる沿岸は1,360里と言われてきたが、終戦とともに千島,乱獲、船舶・施設設備の不備、資材不足等による生産額が激減する最中(さなか)、樺太(サハリン)や色丹、国後,戦後わが国が直面したのが、先ず“飢え”であった。 / [戦後の漁業]
南茅部町史 下巻 (戦後、川汲山道再開)

戦後、川汲山道再開 戦時中、乗合自動車の運行は中断したが、戦後、尾札部村は函館市の協力を得て川汲山道,、昭和二二年銚子口駅を迂回する路線から函館への距離は近くなったが、冬期間は積雪のため同じく鹿部経由で国鉄,昭和三〇年末、函館市の協力のなかで道や国に請願をつづけ、昭和三九年、川汲山道森・南茅部線、川汲山道部分 / 戦後、川汲山道再開
函館市史 通説編 第一巻 (嘉兵衛の帰国)

嘉兵衛の帰国 文化10年春、解氷期を待ってディアナ号はカムチャツカを出帆、嘉兵衛、リコルドが国後島に,嘉兵衛を、シベリア総督の弁明書を得るためにオホーツクに連行しようとしたが、嘉兵衛はこれをしりぞけ、自ら国後島 / 嘉兵衛の帰国
椴法華村史 (国民学校令と椴法華国民学校)

国民学校令と椴法華国民学校 昭和十六年三月『国民学校令』が公布され、同年四月一日より実施されることになった,これによって従来の尋常小学校及び尋常高等小学校は、すべて『国民学校』と改称された。  ,椴法華尋常高等小学校もこの法令により、『椴法華国民学校』と改称され、以後次第に戦時体制に即応し、学校では,聖旨奉戴・八絋一宇などの皇国思想を中心とする精神訓話や錬成を、また集団訓練といわれる防火避難訓練・持久走訓練,初等科 修業年限六年  高等科 修業年限二年   教科名  国民科(修身・国語・国史・地理) / 国民学校令と椴法華国民学校
函館市史 通説編 第二巻 (清国人職工)

清国人職工 明治8年従来の靴や馬具用を使途とする製革の製法のみでは需要に限度があるとの判断から毛皮のなめし,同年5月西村貞陽は清国に視察にでかけたが、その際に張尚有と王直金の2名をなめし皮の職工として雇用することにした,半年の契約満了後、王は帰国したが、張はさらに契約を延長し、10年11月30日まで在函した。,張のなめし皮の製法については開拓使のお雇い外国人の黄宗祐が聞き取りして記録したものがあり、それには干皮,張の帰国後は囚人のうち製法を少々会得したものがあり、なめし業を継続できた。   / 清国人職工
南茅部町史 下巻 (〔戦後の学校教育〕)

〔戦後の学校教育〕 戦争に敗れて、食糧物資も乏しく、窓ガラスに板を打ちつけ、昨日までの軍国教育を民主主義,戦後、学校が最初におこなったことは、空襲被害をうけた校舎の修理であった。とにかく応急の仮修繕である。,教室から軍国主義的な掲示板などのとりはずしである。,翌昭和二一年四月には、国民学校から、もとの小学校の校名が復活した。 / 〔戦後の学校教育〕
南茅部町史 上巻 (戦後の昆布市場)

戦後の昆布市場 戦後昭和二四年、戦時の経済統制が解除され、自由経済が復活した。  ,昭和四七年、中国産昆布の輸入が実現した。日本昆布協会が設立される。  ,この年、韓国産昆布の輸入が大きく報道される。  ,昭和五五年、品薄となった大衆向け昆布原藻市場に、中国産昆布二、〇〇〇トンが緊急輸入される。   / 戦後の昆布市場
椴法華村史 (昭和十年以後の漁業組合)

昭和十年以後の漁業組合 昭和八年政府は漁業組合の経済事業の強化を目標として漁業法の改正を行い、各漁業組合,その後政府の指導により漁業組合の全国組織化が図かられることになり、まず昭和十二年各漁業組合を会員とした,「北海道漁業協同組合連合会」が結成され、更に昭和十三年には全国漁業組合会が設立されて全国組織ができあがることになった,その後昭和十八年には「水産業団体法」が公布され、漁業組合は国策に協力する機関となっていった。,しかし二年後明治以来延々と発達してきた椴法華漁業組合は、昭和二十年の終戦と同時に法の規制及び国や道の指導 / 昭和十年以後の漁業組合
恵山町史 (2、国定教科書)

郷土の学校創立以前、教育の場で用いられていた教科書・読本類については第1節に述べたが、公立学校の開校後の,最初の教科書 日本で厳密な意味で教科書が作られたのは、明治5年(1872)の『学制』制定以後のことで、,、その後、昭和20年(1945)の終戦まで42年間続き、その間、5回改定された。  ,・大正7年(1918) 第3期の国定教科書  第3期の国定教科書は、第1次世界大戦後の大正デモクラシー,,小学校教科書は明治36年に国定制度となり,以後,戦後の新教育になるまで続いた。   / 2、国定教科書
函館市史 通説編 第一巻 (日露国境問題)

後なので、これを拒む理由はなかったが、ただロシアとの間には懸案として、国境問題が横たわっていた。,、ついに従来のごとく国境をおかず共同管理にまかせることになった。,  第二条 今より後、日本国と魯西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし。,魯西亜国の間において、界を分たず、是迄仕来の通たるべし。,   ここにおいて、多年日露両国間の問題となっていた、千島列島における国境は確定されたのである / 日露国境問題
椴法華村史 (戦後の鰮漁業)

戦後の鰮漁業 ・昭和二十一年から四十年頃まで  明治、大正時代下海岸地域は、昆布、鰮等の漁獲によって,「マイワシ」の昭和三十年代から四十年代にかけての漁獲量の推移は、全国的に減少の傾向が見られ、椴法華村では,「カタクチイワシ」  「マイワシ」に比較し沿岸性の魚であり、全国的に分布し、産卵時期についても、ほぼ,全国的に同時期である。   / 戦後の鰮漁業
椴法華村史 (明治以後の歩み)

明治以後の歩み 明治以後において恵山硫黄鉱山の歩みと暦年をたどって記して見ることとする。,・明治三年より陸奥國津軽弘前商宮本金平、採掘高の一割を税として納入することを条件に開拓使の許可を受け、,・その後泉藤兵衛は製硫に従事すること五年、明治十三年十二月得失相償わず恵山硫黄鉱山を廃業する。,・明治十九年二月根田内村大坂力松は泉藤兵衛のあとを借区し採鉱に従事し、その後明治二十年六月に竹内綱に譲,(要約)       恵山鑛山   位置 渡島國亀田郡椴法華村・尻岸内村   鑛区 採掘登録第三九號 / 明治以後の歩み
函館市史 通説編 第一巻 (騒乱後の商品流通)

騒乱後の商品流通 さてこの間、箱館・志海苔のように康正年間以来、およそ1世紀にわたる永い歳月、現地ではおそらく,ただ、ここで永禄8(1565)年、わが国に在留した宣教師ルイス・フロイスが、同年2月28日付をもって、,インドの教父に送った書面によると、「日本の極北にて、都より約三百リーグを隔つる所に一大国あり、野獣の皮 / 騒乱後の商品流通
函館市史 通説編 第一巻 (外国船再出現)

外国船再出現 松前藩復領後の箱館地方が、前述のような政治・経済の経過をたどるなかで、文化10(1813,)年以来およそ10年ばかりその姿を見せなかった外国船が、文政年間に入ると早くもその船影を現わし、ときには,すなわち、復領後2年目の文政6(1823)年8月5日、1隻の外国船が幌泉に現われ上陸して水を汲んでいるという,更に天保2(1831)年2月20日、1隻の外国船が厚岸場所ウラヤコタンに停泊、ときどき発砲するので、厚岸勤番谷梯小右衛門,に敵は擒(とりこ)の2人に書簡および食物を持たせて陸に送り返し、翌日帆をあげて東方に去ったという(『国泰寺日鑑記 / 外国船再出現
函館市史 別巻 亀田市編 (森林の国有化)

森林の国有化 前にも記したように、明治十一年「森林監護仮条例」により官有林と私有林に大別し、その後、,明治十九年「北海道土地払下規則」等により徐々に国有林を明確にする政策をとりはじめ、かくて北海道庁は明治三十二年四月,「北海道官林種別調査規程」を布達し、この布達に基づいて、将来国有林とすべき土地、将来公有林とすべき土地,、将来私有地とすべき土地、将来森林として不必要地の四種類に区分する調査を行い、明治四十一年からの国有林確立期 / 森林の国有化
函館市史 別巻 亀田市編 (戦後の道路事情)

戦後の道路事情 昭和二十二年以降、終戦処理、経済復興のため、また食糧自給のための資源増産が強く要求されていた,昭和二十五年「国土総合開発法」が制定され、二十六年には「北海道開発庁」が発足して、道路整備は北海道総合開発計画 / 戦後の道路事情
椴法華村史 (戦後の出来事)

戦後の出来事 ・昭和二十一年末、闇価格急上昇し、全国的に、空き巣、こそ泥、多発する。 / 戦後の出来事
函館市史 銭亀沢編 (戦後の漁業協同組合)

戦後の漁業協同組合 敗戦の結果、戦争遂行のための国策推進組織として作られた漁業会などの水産統制団体は,、全面的な改廃を迫られ、漁業者団体については、戦後の民主化政策の下に制定された水産業協同組合法(昭和二十四年十二月公布 / 戦後の漁業協同組合
恵山町史 ([編集後記])

が再び蝦夷地を直轄地(安政元年・1854)とした後のことである。,当時、わが国は右肩上がりの驚異的な経済成長を続け、郷土尻岸内町の行政も大いに充実した時期であった。,しかし、当時は明治維新後までの資料は蒐集・掌握・整理してはいたものの、明治中期から戦後・今日までについては,−以下内容例−    第11章 迎えた北海道庁時代/金子大書記官の巡視と道庁設置/国会開設要求と市制町村制,産業の展望/生産量を誇る硫黄鉱/林政行政に逆行した大量消費/馬匹の放飼から舎飼へ/実利主義の明治教育/国家主義下 / [編集後記]
函館市史 銭亀沢編 (露国人ノ農業)

露国人ノ農業 本村大字志苔村大字笹流ニ浦塩ニ本籍ヲ置ケル露国人フ、デー、サウエリエフ同人妻クセニヤ及長女,同人等ハモト函館新川町ニ居住シ後本村ニ移リシモノニテ、該地ハ函館区ノ人、澤克巳ノ所有地ナリ。 / 露国人ノ農業
恵山町史 (1、復領後の施策)

1、復領後の施策 幕府は松前藩の復領に際し、直轄時の施策北辺警備を怠ることなく、また、各種制度を維持,したがって、復領後も、依然として姑息(一時凌ぎ的)な施政をおこない、せっかく幕府によって蝦夷地開発の基盤,これに加えて、この時代、噴火・地震・洪水・天候不順による飢饉等、災害が頻発、さらには外国船の出没も度を / 1、復領後の施策
南茅部町史 下巻 (国道二七八号線)

国道二七八号線 昭和四五年四月一日、森・南茅部・戸井・函館の沿岸線が国道(二七八号線)に昇格した。,戦後、道々尾札部・戸井・函館線、ならびに函館(川汲山道)・臼尻・森線に区別されていた沿岸線である。,沿岸道路の国道昇格により、川汲山道は道々函館・南茅部線となった。 / 国道二七八号線
函館市史 通説編 第一巻 (外国貿易の開始)

此二人は上陸のうえ、偶然自分の商店の前に佇(たたず)み商品中の寒天及椎茸を一覧したる後、懐中より畳紙に,六十八両にして、之を箱館に積来りて百両に売るは、非常の困難とする所なりき、自分は此場合に於て、船手上越後権右衛門,斯くて陳は出帆の際、我が二分金三千両を自分に託し、今後何程にても、昆布を買置くべしと言いて、同月二十日解纜,の際は、陳の掛引にて直に港内に入らず、台場沖山背泊に投錨し、船影を市人に見せしめず、昆布の商談成りて後始,是より後、英国デンデコンパニーの支配にポーターと云える英人あり、箱館に来り昆布買付をなし、居留諸外人も / 外国貿易の開始
函館市史 通説編 第一巻 (外国人医師と施療)

外国人医師と施療 安政5年2月、米人医師G・M・ヘーツが来箱、同国貿易事務官ライスと共に浄玄寺に止宿,し、9月にはロシアから医師ゼレンスキーが同国の領事と共に来て居住した。,これら外国人医師は、自国人の診療のみならず、箱館市中の希望者の診療も行いたい旨申し出た。,#160; 救命の儀ニ候得ば無二余儀一事情にも相聞候得共、終ニは其恩儀を感じ、深く信じ親しミ候処より、後弊,をも可レ生道理ニ付、右医師より御国の医師修業候儀は格別、夷人より療治受候もの共ハ、追々ニ相止、後害無レ / 外国人医師と施療
恵山町史 (戦後の飢餓状況と農業)

戦後の飢餓状況と農業 昭和20年(1945)8月15日終戦となる。,第2次世界大戦後、昭和22~25年(1947~50)にかけてGHQ(連合国最高司令官総指令部)の指令によりおこなわれた,事務引継書(抜粋)            前任社 元尻岸内村長     井上悟            後任者,森は、この開拓地に6年間過ごした後、生活の場を女那川に移したが通いながら耕作は続けた。,戦後の農業入殖者(開拓農家)についての町有の記録はみつからない。 / 戦後の飢餓状況と農業
函館市史 通説編 第一巻 (縄文後期の土器)

縄文後期の土器 この時期になると土器も新たに壷(つぼ)、深鉢、注口土器というように用途別の器形が現われる,後期の土器が黒色を帯びるのは焼成法に大きな変化があった結果と考えられる。,土器の焼成法は穴を掘って小枝を厚く敷き、成形後陰干ししてよく乾燥した土器を置き、更に小枝で覆って焼くと,この黒色土器は、縄文後期の中ごろになると急速に普及して、西日本の九州から東日本や北海道で一般化する。,この現象を中国の龍山(ロンシャン)文化の黒陶土器の影響であると考えた人もいるが、龍山文化の土器の器形や / 縄文後期の土器
函館市史 通説編 第二巻 (清国商人の登場)

そのなかで長崎唐館内に在留の清国人は旧来のしきたりもありそのまま在留を認め、また条約締結国の外国人が清国人,  …成記号ハ松筠、徳澄ナルモノ長崎ニ来リ初メ些少ノ資本ヲ以テ商売ヲ為セシカ、其後当港ニ,資本を蓄積した階層ではなく、海産物貿易によって利を占めて、日本国内で資産を形成した後に上海を拠点とし、,ちなみに東和号は20名前後で構成されていることから成記号の成り立ち自体は三好らの報告にあるように小さい,その大半の清商は大町(後に仲浜町に町名変更)の居留地に居住した。 / 清国商人の登場
恵山町史 (1、異国船の来航)

っていた国際情勢も、1820年代に入ると諸外国の船が頻繁にやって来るようになり、活発に動き始めた。,ここでは特に、蝦夷地への外国船・異国船の来航とその状況ついて、松前町史年表より蝦夷地に関わる主な事項を,を構築し、さらに勤番所を、東蝦夷地の山越内(現八雲町字山越)・絵鞆(室蘭)・様似・釧路・厚岸・根室・国後,町奉行見分後逃亡するが、即捕らえられ安泰丸で長崎へ護送される。,の乗組員マクドナルド利尻島ノッカに短艇で着岸、遭難者を装い救助され、松前に護送、江良村抑留所に収容、後長崎抑留所 / 1、異国船の来航
恵山町史 (戦後の遭難)

戦後の遭難 いか釣り船衝突「四名が行方不明」   昭和22年(1947)9月9日『北海道新聞』  ,七日午後十一時十分頃、尻岸内村字恵山中野由太郎氏所有漁船「高栄丸」(五トン)船長三国常蔵さん乗組員一七名,二三件、一・五日に一件、九月中もキジア台風襲来までに七件を数え、二日に一件の割で発生していたが、その後は,なおこうした事故の発生率はおそらく、全国的に見ても珍しいとされているが、事故原因はやはり漁にあせる漁民,『北海道新聞』  函館ドックで完工したリベリア船籍「マリア・エル号」(一二、五〇〇重量トン)は、米国へ / 戦後の遭難
椴法華村史 (昭和三十七年前後の保健実態)

昭和三十七年前後の保健実態 戦後医学の進歩により、しばらくの間、死亡数は大きく減少を示したが、昭和三十七年前後,昭和三十五年から三十九年に至る間の五ヶ年の平均死亡率では、全国が七・三、道南が六・八、椴法華村が五・六,と椴法華村の死亡率は、全国・道南のいずれの平均よりも低くなっている。  ,※伝染病は終戦直後の一時期を除き、本村では長く伝染病の発生がなく、次の表のように結核以外の伝染病は、昭和三十五年,戦後結核はいちじるしい減少を示し、当時の日本全体の死亡順位では第七位となっており、かつてのような恐れの / 昭和三十七年前後の保健実態
南茅部町史 上巻 ([戦後のイカ釣り漁])

[戦後のイカ釣り漁] 戦争の末期、国籍不明の潜水艦の襲撃、魚雷の危険などで一時期中断したが、終戦後、,戦後の村の経済を支えたのはイカ漁の収入であった。 / [戦後のイカ釣り漁]
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