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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (幕府の諭書)

松前奉行服部備後守貞勝が携えて福山に来任し、その旨をゴロウニンに通じ、別に一書をゴロウニンの筆による訳文をつくって、国後島,かくてこの諭書は早速国後に送られ嘉兵衛の手によってリコルドに渡された。,それによって7月11日、松前奉行所から吟味役高橋三平、柑本兵五郎が、露囚シモーノフとアレキセイを伴って国後,もちろん、この時も嘉兵衛が彼我の間に立って交渉の進行をはかり、結局リコルドはこれを承諾し、7月14日国後島
函館市史 通説編 第一巻 (高田屋の登用)

当時わが商船の航路は国後島まで延びていたが、国後・択捉間は和船の往来はなく、ただアイヌが日和を待って小船,嘉兵衛はまず、国後の北端アトイヤの高所に登り、波浪の順逆を調べ、丸木舟を浮かべて潮流の緩急をはかること
函館市史 通説編 第一巻 (択捉航路開発)

嘉兵衛は欣然これを引受け、購買の荷物を水戸に輸送させ、自らは重蔵に従って国後島の東端アトイヤに向かった,由来、国後島と択捉島の間の潮流は速く、アイヌ船で渡海するのは全く命掛けであり、従って大船の通航などは、,の船に堅牢な波よけをつけ、ついに択捉島へ乗切り、紗那を中心に、会所を建てるべき所や漁場などを見立てて国後
函館市史 通説編 第一巻 (嘉兵衛の帰国)

嘉兵衛の帰国 文化10年春、解氷期を待ってディアナ号はカムチャツカを出帆、嘉兵衛、リコルドが国後島に,嘉兵衛を、シベリア総督の弁明書を得るためにオホーツクに連行しようとしたが、嘉兵衛はこれをしりぞけ、自ら国後島
南茅部町史 下巻 (【資料二-③】 明治九年九月一八日 函館郵便局課より札幌本庁駅逓課御中 北海道郵便出発定日 日割表)

川汲下湯ノ川出発ヲ除キ外一般午前六時出発之事     厚別ヨリ紋別迄    六ノ日     別海ヨリ国後迄,    二八日出発     国後ヨリ別海迄    一八日出発
函館市史 通説編 第一巻 (リコルドの再航)

フォストフに捕えらわた五郎次および文化7年漂流した、摂津の商船歓喜丸の乗組員与茂吉ほか5名を連れて再び国後,の泊に来たが、国後在勤調役並太田彦助らがこれを見て厳重な陣固めしてこれを迎えたので、リコルドはこれを遠望
函館市史 通説編 第一巻 (ゴロウニンの捕縛)

警備を厳重にして備えていたところ、同8年に至り、ロシアの軍艦ディアナ号の艦長ゴロウニン少佐以下8名を、国後島,ゴロウニンは通訳として、アレキセイを伴い出帆したが、択捉島内の振別に向わず国後島に向った。,彼は、別に当時存在が疑問とされていた根室海峡確認の目的をもっており、また、薪水も国後島の方が得やすいと,考えたからである、5月26日には国後島の泊に達し、翌日ボートをおろして湾内水深の測量を始めた。  
恵山町史 (新たに設けられた19の支庁 明治30年(1897年)10月)

・上川・十勝・中川・広尾・当縁 根室支庁 根室国根室郡常盤町    根室・花咲・野付・標津・目梨・国後,択捉島    <根室・紗那支庁の管轄区域・郡について>  明治2年の国郡制定11カ国の1つ千島国(国後島,・択捉島・色丹島)の国後(くなしり)郡(国後島)・択捉(えとろふ)郡・振別郡・紗那(しゃな)郡・蘂取(,つまり、明治30年の支庁制では、北方4島(歯舞・色丹・国後・択捉)を含む千島(ロシア名クリル)列島全島
函館市史 通説編 第一巻 (幕府の蝦夷地調査)

蝦夷地調査 幕府では、ロシア人の北方諸島進出の確認、たび重なる蝦夷地近海の外国船の出没や、あるいは国後,まり、大河内政寿は東蝦夷地を巡回して様似に至り、その別動隊として配下の近藤重蔵は最上徳内を案内として国後
恵山町史 (定雇船頭高田屋嘉兵衛)

択捉島(金三五両) 色丹島(金三一両) 根室・国後島(金二五両)  十勝(金一八両) 山越内(金一〇,より大阪上り(金二〇両) 江戸より箱館迄(金八両)  箱館より夏荷物江戸上り(金二五両)  根室・国後,より秋味積仙台行(金三三両) 同銚子行(金四〇両)  根室・国後より秋味積江戸上がり(金四三両)
恵山町史 (航路の進歩と官営の廃止)

箱館六ケ場所の塩鱈以外の産物は、他国に直移出することを許されなかったが、この時代に入ってからは根室・国後,このことは直捌(官営)が廃止された後も、請負人(商人)の出願により根室・国後・択捉等の鮭を江戸に直送することが
椴法華村史 (帆走船順速丸の破船)

帆走船順速丸の破船 国後島より函館へ向け航行中の西洋形帆走船、順速丸八十八屯、乗客船員二十三名乗組明治二十四年一月十四日
函館市史 通説編 第一巻 (寛政の蝦夷乱)

この蝦夷乱は、すなわち寛政元(1789)年5月、飛騨屋久兵衛の請負地である、国後および霧多布場所の一環,、目梨アイヌによって起こされた動乱で、その直接の導火線となったのは、藩の足軽竹田勘平が上乗役で国後に到着,かくて国後では竹田勘平をはじめとする22人、更に野付水道を越えて目梨に渡り、同地のアイヌを扇動し各地で
函館市史 通説編 第一巻 (箱館役所)

またこの年、小納戸頭取格戸川藤十郎安論、小納戸大河内善十郎政良が命を受けて、蝦夷地を巡察して国後に至り
函館市史 通説編 第一巻 (幕府の物資輸送)

11年、幕府が東蝦夷地を直轄すると、奥州酒田から幕府の必需品を箱館に回漕すること2回、更に厚岸、根室、国後
函館市史 通説編 第一巻 (ロシア人の南下)

いたのは、これより先、宝暦9(1759)年のことで、松前藩士湊覚之進が、厚岸に派遣されて滞留中、択捉および国後
恵山町史 ([道路開削の嚆矢])

重蔵は10月、国後・択捉島を調査、タンネモイの丘にロシア人の建てた木柱があるのを見て倒し、次のような標柱,       従  者                              (以下略)     国後
函館市史 通説編 第一巻 (奏檍丸の記録)

幕府の蝦夷地調査隊に絵図師として参加した秦檍丸の『蝦夷島奇観』-寛政12(1800)年-に、国後、択捉
函館市史 通説編 第一巻 (気象観測)

これは奉行の蝦夷地巡回中も行われ、単に箱館のみならず、広く道南、西海岸、東海岸、果てはオホーツク沿岸から国後
恵山町史 (蝦夷地の航路を開く)

箱館奉行支配役近藤重蔵は寛政11年(1799)、国後・択捉間の水路開拓を高田屋嘉兵衛に命じた。,嘉兵衛は国後島の北端、アトイヤの高地から潮筋を読み夷舟を浮かべて観察を重ねた。
南茅部町史 上巻 (ヲサツベ場所知行主・新井田知貞)

その息孫三郎正寿は勘定奉行を勤め、寛政元年五月、国後(くなしり)の蝦夷騒擾のとき、責任者として現地に派遣
函館市史 通説編 第一巻 (場所請負人の交替)

厚岸   一、三七五両二朱   松前 畑屋七左衛門 根室   三、六〇〇両   箱館 高田屋金兵衛 国後
南茅部町史 下巻 (〔郷土の森林〕)

   松前国中記は、記述された年代が不詳(または天保年間)といわれるが、知行主新井田孫三郎は、寛政蝦夷国後
函館市史 通説編 第二巻 (清国人職工)

張の帰国後は囚人のうち製法を少々会得したものがあり、なめし業を継続できた。  
函館市史 通説編 第一巻 (種痘の先駆)

ロシア人に捕えられてシベリアに拘引された者であるが、たまたま文化9年、リコルドがゴロウニンの釈放を求めて国後
函館市史 通説編 第一巻 (箱館の場所請負人)

一、六八八両三分   福山 米屋藤兵衛 根室   金 五、六三四両三分   福山 材木屋七郎右衛門 国後
恵山町史 ([戦後の漁業])

乱獲、船舶・施設設備の不備、資材不足等による生産額が激減する最中(さなか)、樺太(サハリン)や色丹、国後
恵山町史 (郵便の創業)

なお、前島は一旦、駅逓司の長官の任を解かれ紙幣制度視察のためヨーロッパに派遣されたが、明治4年8月帰国後
函館市史 通説編 第一巻 (堀・村垣の復命)

よって北蝦夷地・択捉・国後をはじめ島々ならびに東西蝦夷地一円、西は乙部、東は知内村まで上知するように、
函館市史 通説編 第二巻 (函館支庁の設置)

十勝郡、当縁郡、広尾郡 北海道庁根室支庁 根室国根室郡常盤町 根室郡、花咲郡、野付郡、標津郡、目梨郡 国後郡,正式名称は亀田上磯茅部山越郡役所であり、根室支庁となった地域も郡役所の正式名称は根室花咲野付標津目梨国後色丹得撫新知占守郡役所,はさらに網走斜里常呂紋別郡長及び紗那振別択捉蕊取郡長を兼ね、正式な彼の肩書きは、根室花咲野付標津目梨国後色丹得撫新知占守郡長兼網走斜里常呂紋別郡長紗那振別択捉蕊取郡長
函館市史 通説編 第二巻 (共同運輸の体制が整う)

紋鼈、横浜~神戸~馬関~函館~根室、横浜~函館~根室~千島、函館~青森、森~室蘭(定期)、函館~根室、国後諸島
函館市史 通説編 第二巻 (函館訓盲院)

37年のワドマン夫妻の帰国後は、訓盲会の卒業生でありキリスト教の信者である篠崎清次へ引き継がれた。
函館市史 通説編 第一巻 (観世丸の拿捕)

丁度この時、たまたま高田屋嘉兵衛が手船観世丸に水産物を積んで択捉から箱館に向かう途中、8月14日早朝、国後島,嘉兵衛はまた国後島の役人にも書簡を送り、国法の禁ずる海外行きのやむを得ない事情を報告した。
函館市史 通説編 第二巻 (北海道関係の航路)

であり、それに北海道沿海諸港の間となっているが、これらはいずれも不定期路線であり、この他に森・室蘭間と国後諸島間,・根室、東京-函館・鰺ヶ沢・舟川・酒田・新潟、函館-小樽・根室・択捉、函館-青森、森-室蘭(定期)、国後諸島
恵山町史 ([幕府の蝦夷地直轄と道路行政])

東蝦夷地(知内村から箱館銭亀沢村・小安村以東の下海岸・噴火湾沿岸を経て太平洋沿岸から納沙布岬をまわり、国後
恵山町史 (1、異国船の来航)

を構築し、さらに勤番所を、東蝦夷地の山越内(現八雲町字山越)・絵鞆(室蘭)・様似・釧路・厚岸・根室・国後
函館市史 通説編 第一巻 (箱館及び蝦夷地の警衛)

一方、蝦夷地全域の取締り、警備については、安政3年東蝦夷地は室蘭、様似、厚岸、国後、択捉の5か所、西蝦夷地
函館市史 通説編 第二巻 (日本昆布会社開業後の昆布取引)

には22万8000円に増加しているが、地区別の前貸金の貸出し状況は表6-34にみられるように、釧路から国後,まず、先に述べた22年の最初の直立会議における協定価格をみると、新冠以東、国後に至る14郡の価格は100
恵山町史 ([後松前藩時代の道])

海軍少佐ゴロウニンが、クリール諸島(南千島)・韃靼(だったん)海峡(間宮海峡)沿岸の測量中、上陸した国後島
函館市史 通説編 第二巻 (西村貞陽の清国視察)

帰国後の9年3月笠野は、上申書を提出して、政府の保護下で上海に国産売捌所を設けて、上海等で昆布等を売却
恵山町史 ((4)国際連合への加盟)

硫黄諸島 1972年(昭和47年)沖縄・琉球諸島 ・復帰未定 北方地域、色丹島・歯舞諸島・国後島
函館市史 通説編 第一巻 (幕吏の文人)

享和3(1803)年羽太正養に従って東蝦夷地国後まで行き、和歌を配してきわめてうるわしい文章の行程記『
函館市史 通説編 第二巻 (主要輸出品の構成)

産地は恵山、古武井、岩内、釧路、斜里、国後等であった。,てがサンフランシスコに積み出されているが、品質はそれ以前の輸出品と比較してはるかに良質であり、主として国後産,当時の硫黄は釧路、斜里産のものが北海道ではもっとも良質の製品であり、国後産はそれよりは劣っていたと述べて
戸井町史 (六、刀工、研師 芳賀国賀(くによし))

帰国後、郷里戸井において刃物鍛治を業としていたが、国賀の造った刃物の切れ味は、他の追随を許さないくらい
函館市史 通説編 第二巻 (麦酒)

会社の経営者であったので、明治20年渡米、サンフランシスコのバーリヤ麦酒会社で研究に従事し、24年の帰国後
函館市史 通説編 第一巻 (赤人ノッカマプに来る)

赤人ノッカマプに来る ことにこれが安永年間に入り、国後場所請負人飛騨屋久兵衛の通詞林右衛門の口書によると
函館市史 通説編 第一巻 (釈放の交渉会見)

二人の長官は返事の代りに微笑を浮べ、そのうちの国後島へ出張した上席の方が、低頭して左手からにじり寄った
恵山町史 ([渡島半島“みち”のはじめ])

そして、亀田以東の内浦湾・襟裳岬・根室半島、国後・択捉島を加え知床岬までを「東蝦夷地」、熊石以北宗谷から
恵山町史 ([恵山町の鳥相])

北海道の北方にはサハリン(旧樺太)があり、東方には、北方領土の国後、択捉の大きな2島を含む歯舞、色丹の
恵山町史 ((2)サンフランシスコ講和会議)

日本開国の当時千島南部の二島択捉(えとろふ)・国後(くなしり)両島が日本領土であることについては、帝政
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