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函館市史 通説編 第一巻
(地蔵堂)
地蔵堂
前記高竜寺持の
地蔵堂
のほか、尻沢辺(一説に享和2年創立のもの)、山背泊(文化のころから存在した /
地蔵堂
戸井町史
(四、瀬田来の墓地(地蔵堂の後))
四、瀬田来の墓地(
地蔵堂
の後) 四、瀬田来の墓地(
地蔵堂
の後) 瀬田来の墓地 / 四、瀬田来の墓地(
地蔵堂
の後)
戸井町史
(六、鎌歌の墓地(鎌歌地蔵堂の後の高台))
六、鎌歌の墓地(鎌歌
地蔵堂
の後の高台) 六、鎌歌の墓地(鎌歌
地蔵堂
の後の高台) (古い墓碑が多く、 / 六、鎌歌の墓地(鎌歌
地蔵堂
の後の高台)
南茅部町史 下巻
(〔寺院現況〕)
〔寺院現況〕 寺院現況(昭和六〇年) 木直仏教センター 明治始め
地蔵堂
建築 字木直一〇一一 青山隆善, 昭和二八生 昭和四七年仏教センターと改称 見日
地蔵堂
明治一五年 字尾札部二三一 (管理人, 荒木茂太郎) 尾札部
地蔵堂
大正五年堂宇建築 字尾札部一九五八 松井正司 大正一二生 昭和四八年広専寺説教所, 大正三生 大正六年六月三日寺号公称 近藤孝章 昭和二五生 曹洞宗 曹覚寺 明治三年五月八日
地蔵堂
,高橋崇行 昭和二六生 金毘羅堂 明治一九年一〇月二三日寺号公称 曹洞宗 大船寺 明治三〇年
地蔵堂
南茅部町史 下巻
(〔嘉永七年「六ヶ場所書上」にみる神社庵室〕)
境迄拾弐丁拾間 板木 稲荷小社 亀田村神主 藤山大膳持
地蔵堂
,禅宗箱館高龍寺末 熊泊 稲荷社 (二) 亀田村神主 藤山大膳持
地蔵堂
, 鹿部
地蔵堂
(一) 稲荷社 弐ヶ所 七重村神主,(神主 同) 一向集場(庵寺) 壱ヶ所 箱館浄玄寺末
地蔵堂
函館市史 通説編 第二巻
(稲荷社の廃絶の意味)
諏訪社、稲荷、弁天 弁天社 弁天社 弁天社、善光寺、金毘羅、観音堂 弁天社 弁天社 鎮守社、
地蔵堂
,弁天社 弁天社 諏訪社、阿弥陀堂、稲荷 観音堂、稲荷社 稲荷社 弁天、蛭子、善光寺
地蔵堂
,、稲荷、大黒、蛭子 弁天、阿弥陀堂 弁天社(
地蔵堂
を合殿) 義経大明神、弁天、天満、金毘羅、蛭子,弁天社 弁天社 弁天、稲荷社 弁天社 弁天社 弁天社 弁天、稲荷社 稲荷、弁天、
地蔵堂
,弁天、妙亀法鮫大明神 弁天、稲荷 弁天、稲荷、
地蔵堂
弁天社 弁天、稲荷、伊雑社 弁天社
南茅部町史 上巻
(さらし首)
旧川汲
地蔵堂
と墓地のところに曝し首がおかれたのである。
函館市史 通説編 第一巻
(寺院)
地蔵堂
『蝦夷実地検考録』には地蔵町にあって高龍寺持ちの
地蔵堂
で寛政7年建立とするが、
戸井町史
(三 恐山(むつ市))
露伴が恐山詣(もう)でをした時は、ちょうど宇曽利山
地蔵堂
の祭典の日であった。 ,になって狭くヨボヨボし橋の橋板に、古ぼけた欄干(らんかん)がこわれかかっている全然興趣のない橋を渡って、
地蔵堂
,
地蔵堂
のあたりに来て見ると、ここは一体どうしたものだろう。,ワヤワヤ、ガヤガヤ雑踏(ざっとう)して、「宇曽利山延命
地蔵堂
」と土地訛(なま)りだが立派な万葉假名で書,
地蔵堂
は相当広い建物だが、堂の中は参篭(さんろう)の者が充満して足を入れるところもないくらいである。
函館市史 銭亀沢編
(銭亀沢の火葬場)
現在ノヤキ場跡には
地蔵堂
が建てられている。
函館市史 通説編 第二巻
(明治時代の函館の寺院群)
一村中
地蔵堂
汐見町 浄土宗 称名寺 称名寺12世順応が享和2(1802)年に建立。,一村中
地蔵堂
地蔵町 曹洞宗 高龍寺 高龍寺10世燕嶺が、寛政7(1795)年に創建。,250人
地蔵堂
台町 函館各 寺院持 開創時は不詳。
函館市史 通説編 第一巻
(市街の拡張)
内陸寄りのはずれに位し、小商人、蝦夷地出稼ぎを業とする場所出稼人、漁師、職人などが住み、町名になった
地蔵堂
戸井町史
(二、汐首観音堂と円空仏)
明治四十年(一九〇七)に、地蔵町にあった
地蔵堂
に移転した。 ,昭和十二年(一九三七)、戸井線の鉄道工事が始まり、
地蔵堂
が鉄道敷地になったため、現在地に移転したのである,観音堂の観音様が
地蔵堂
に間借りしたため、現在は
地蔵堂
と呼ばれている。,
地蔵堂
には、観音、地蔵、竜神が同居して、何れが本尊かアイマイな状態で祀られているのである。
函館市史 通説編 第一巻
(乙二と「斧柄社」)
病没した翌年の天保12(1841)年、高龍寺末庵
地蔵堂
に「葉すくなの松よりさひし我姿」の彼の句を刻んで
戸井町史
(十六、終戦直前の米機の戸井空襲(昭和二十年))
七月十五日の空襲後、役場は危険だということになり、必要書類を鎌歌の
地蔵堂
に運び、
地蔵堂
で執務した。
函館市史 別巻 亀田市編
(警察の設置)
したがって兵備と警察は分離され、邏卒本営が富岡町(現在函館市元町)本願寺内に設置され、西浜町、地蔵町
地蔵堂
南茅部町史 下巻
(〔龍王寺 寺号公称〕)
〔龍王寺 寺号公称〕 明治以前、村々や小字の共同墓地に
地蔵堂
が建てられ、臼尻には庵室があった。
恵山町史
(2、東雲山『高岸寺』)
けた総代の赤井松助は、信徒らの協力を得て堂宇の再建に着手、明治22年6月1日、間口5間、奥行3間半の
地蔵堂
,さらに、赤井松助ら中心となった6人が世話役となり、これを機に
地蔵堂
を高龍寺の説教所にすることを協議、函館高龍寺十九世上田大法方丈
恵山町史
(3、龍穏山『高聖寺』)
沿革 高聖寺の創立は、初代住職芹田天隨の自叙伝によれば、明治30年5月、古武井村墓地内の
地蔵堂
,(1897)4月、芹田天隨は、尻岸内村字古武井村55番地斉藤吉五郎宅へ籍を移し、翌月より村の墓地内の
地蔵堂
戸井町史
([戸井の魚の根について])
次の根は、丸山と瀬田来の
地蔵堂
を結んだ線と笠山出しの線の交点でこれを松根といっている。,そのオカ(○○)のダラダラ山出しの根を地蔵根という、地蔵というのは鎌歌の
地蔵堂
のことである。
函館市史 銭亀沢編
(葬式と出棺)
新湊では国道筋に今はなくなった
地蔵堂
の軒先に小屋掛けして道具類を保管していた。
函館市史 通説編 第一巻
(北海道の学会)
遺物は住吉神社裏、尻沢辺
地蔵堂
(以上現住吉町)、開発(現在の杉並町)、湯川のほか亀田のサイベ沢、下石川野
函館市史 通説編 第一巻
(アメリカ艦隊の入港)
(午後二時)過より七ツ時(午後四時)までに異国船三艘乗込み、先船一艘は弁天沖に掛り、あと二艘は山瀬泊
地蔵堂
沖辺
函館市史 通説編 第二巻
(函館邏卒正式発足)
の屯所も先の仮本営が第1大区の屯所という位置付けとなり、これ以外に西浜町海岸(38番地の4)と地蔵町
地蔵堂
函館市史 通説編 第一巻
(箱館の町勢)
また、この町名の起こりである
地蔵堂
がある。,この
地蔵堂
から1丁ばかり先に、栄国橋という板橋があり、これを渡ってすぐ右に50間に60間の築島があり、
戸井町史
(九、体育・文化行事)
杉野 憲蔵 〃 139 矢立 吉田 兼房 〃 140 鰐口 金綱 ミヨ 〃 141 鉦鼓 汐首
地蔵堂
函館市史 別巻 亀田市編
([閏四月])
以上 戌四月廿九日
地蔵堂
(内澗町) 観音庵(在川村) 宝樹庵(茂辺地村) 光明庵(大野村
戸井町史
([戸井の鰮漁の沿革])
瀬田来墓地の墓碑群から離れて、
地蔵堂
の左わきに荘大な墓碑がある。
戸井町史
([戸井の地名考])
(汐首岬の高台より)地蔵町汐首岬の背後の海岸段丘の上に、明治の末期頃、人家が10軒くらいあり、ここに
地蔵堂
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