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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (鱈漁)

これも従来は乾燥して干鱈で江戸に輸出したが、寛政の初めころから塩鱈で輸出するようになった。,塩鱈の製法は腹を割かずに腸(はらわた)を抜き、これをツボヌキといって塩に漬け、その年内に早く江戸に送り
椴法華村史 (昭和十一年以後の鱈・スケトウ鱈)

なお、この時代の鱈の加工品としては、塩鱈・干鱈胃、干鱈、塩鱈子等が主なものであった。
函館市史 通説編 第一巻 (漁業の発展)

享和元(1801)年、新たに村並としたため、来住して漁業を営む者もいよいよ多く、特に江戸に移出される塩鱈,の出産が増大し、その正確な産額はつまびらかでないが、享和3年11月難船した奥州牛滝村の船が臼尻村の塩鱈
椴法華村史 (干鱈と新鱈)

をもたらすようになるや塩を利用した保存が可能となり、東蝦夷地では天明年間(一七八一-一七八九)に至り、新鱈(別名、塩鱈又,『松前史略』によれば、寛政元年(一七八九)に尾札部の塩鱈が初めて江戸へ送られたと記されている。
南茅部町史 上巻 (ヲサツベの新鱈)

最上徳内はその著「松前史略」の寛政元年(一七八九)の条に、「東部ヲサツベ初(はじめ)て塩鱈を江戸に出す,この塩鱈は、腹を裂かずに腸をツボ抜きして塩漬にしたものであった。
椴法華村史 (牛滝村慶祥丸の難船)

によれば享和三年(一八〇三)十一月、南部領牛滝村百姓源右衛門持船慶祥丸五百八十二石積、十四人乗組臼尻村塩鱈三万餘積入,去享和三亥年九月南部領脇之澤村出帆同月下旬箱立ヘ入津仕船御改ヲ請右荷主共ヨリノ上乗源次郎乗組同十月同所出帆臼尻村ヘ着岸同所ニ於テ塩鱈三万千百三十本積入右
函館市史 通説編 第一巻 (箱館商人の成長)

集散地として急激にクローズ・アップされ、その移出入商品も従来の昆布中心型から鰊〆粕、数の子、塩鮭、干鱈、塩鱈
椴法華村史 (明治二十三年)

(鱈一束は二十尾)   ・この年、亀田郡・茅部郡の塩鱈粗製のため値段が下落する。  ,塩鱈の一部製品中に塩量の不足していたものがあり、これが原因となって変色や腐敗が発生し良品の塩鱈までが暴落
恵山町史 (航路の進歩と官営の廃止)

従来、蝦夷地の産物は箱館六ケ場所の塩鱈以外の産物は、他国に直移出することを許されなかったが、この時代に
南茅部町史 下巻 (〔郷土の森林〕)

ヲサツベ場所の新鱈(塩鱈)は、天明の末から寛政の初めに、江戸へ積み送られるようになったという。
南茅部町史 上巻 (昆布検査)

臼尻漁業組合では明治三九年、昆布のほかに塩鱈・煎海鼠などを検査品目に加え、検査員を増員した。  
函館市史 通説編 第二巻 (主要移出品)

塩鮭 石炭 雑貨 身欠鰊 胴鰊 棒鱈 鰊鯑 魚類締粕 鰊笹目 魚油 鰊白子 塩鱈,鰊製品についでは、第2位の塩鮭14万円余のほか、第7位棒鱈3万円余、第13位塩鱈7000円とみえている,鰮締粕の移出も19万円余と多く、第4位を占め、下位には棒鱈、塩鱈の鱈製品もみられる。
恵山町史 (5、江戸時代の鱈漁)

江戸への移出については、最上徳内の著『松前史略』寛政元年(1789)の条に「東蝦夷地ヲサツベで初めて塩鱈,[表]  塩鱈20尾で1束、300束(6千尾)で、米百石の価格に相当するということであるから、当時,塩鱈1435,880石、乾鱈111,875石、鱈の胃21.9石、鱈の子3.6石。,『塩鱈』  塩鱈は先に述べた「新鱈」のことであり、漁獲高の殆どがこの塩鱈に加工され出荷されている。,この塩鱈も、北前船で大量の塩が蝦夷地へ運ばれるようになった、宝暦以降であり「松前史略」によると1789
恵山町史 (尻岸内への物資の移出入『尻岸内村累年統計・大正3年~同7年』より)

タラ・ブリ・カレイ・マグロ・カスベ・サメ・メヌキ・タイ・イワシ・ホッケ・ソイ・アブラコ・ホッケ・ガヤ・オヒョウ・サバ・タコ・ウニ・イカ・ナマコ)  加工品(スルメ・開鱈・塩鱈
椴法華村史 (漁船)

ニ浴スルノミ   製品ノ種類及産額(産額は省略)    製品ヲ大別シテ三種トス曰ク乾鱈・鹽乾鱈・鹽鱈是,       丸乾 祝津地方丸こぼしト稱ス        開鱈    鹽乾鱈{        鹽鱈,   鹽鱈  新鱈   右ノ内丸乾・鹽鱈ノ二種ハ製造盛ナラス開鱈モ衰退シ昔日ノ盛ヲ見ス廿六年ノ産額七十三石
南茅部町史 上巻 ([明治初期の昆布場])

一五二名 二三一筆 三 七軒     六四名 六七筆 一一 一一軒 塩鱈, 四一名 } 四一名 干鱈 四一名   六八名 七七筆 一二 一八軒 塩鱈 三九名,} 三九名 干鱈 三九名   五〇名 九二筆 七 一軒 塩鱈 三五名 } 三五名
函館市史 通説編 第二巻 (移出入品の内容)

これについで身欠鰊、鰊鯑などの鰊食用品や鯣、塩鱈、あるいは魚油、鹿皮などが、その主なものであった。
南茅部町史 上巻 ([慶祥丸漂流])

享和三年(一八〇三)、南部領牛瀧村(青森県佐井村)百姓源右衛門の持船慶祥丸が、六箇場所臼尻村の新鱈(塩鱈,弁天島の沖に澗掛りして、臼尻・尾札部辺の新鱈(塩鱈)三万一、一三〇本を積んだ。,ヲ請   右荷主共ヨリノ上乗 源次郎乗組  同一〇月 同所出帆 臼尻村ヘ着岸   同所ニ於テ 塩鱈三万千百三十本積入
南茅部町史 下巻 (戸口及諸物品調)

漬物多寡 一 漬物  ナシ   魚類多寡及輸出入高 一 乾鱈  百七拾三石   輸出高 一 塩鱈
函館市史 通説編 第二巻 (亜米利加四番船の進出)

は大町の物産商小島武八を始め、大町(三国)松五郎、弁天町平左衛門、弁天町栄蔵、水戸藩、彦根藩であり、塩鱈
函館市史 通説編 第二巻 (商取引の実態と商人の諸相)

明治11年度「函館商況原稿」(北海道立文書館蔵)より  1.魚粕 2.昆布 3.塩鮭 4.塩鱒 5.塩鱈
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