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函館市史 通説編 第一巻
(大坂の問屋組織)
大
坂
の問屋組織 また、
大
坂
方面との交易は、早くから昆布の移出が盛んに行われていたが、この時代に入ると,これは蝦夷地各場所の漁場における生産が上昇してきたことにもよるが、そのため従来
大
坂
では、干鰯商仲間が松前物,を取扱っていたが、この期にはその取扱量が極めて増
大
したため、仲間同志の矛盾も激化し、文化3(1806) /
大
坂
の問屋組織
函館市史 通説編 第二巻
(坂井フタの自由廃業訴訟)
坂
井フタの自由廃業訴訟 蓬莱町遊郭入り口 三楼の建物が目につく、明治35年頃のものと思われる, 33年2月
大
審院は、函館の娼妓
坂
井フタが貸座敷主山田精一に対し起こしていた娼妓廃業届書,この事件は、娼妓
坂
井フタが貸座敷主山田精一より金銭を借り、この返済のために向こう30か月の間山田方へ寄留,しかし
大
審院は「金銭貸借上の契約に関し身体の拘束を目的とする契約をしても、両者(金銭貸借上の契約と身体,そしてこの
坂
井フタの判決が全国的に拡
大
しつつあった自由廃業・廃娼運動への
大
きな布石となり、33年10月 /
坂
井フタの自由廃業訴訟
南茅部町史 上巻
(川汲の吉野堂と坂本龍馬の膳)
川汲の吉野堂と
坂
本龍馬の膳 明治維新から五〇年余を経て、世人はようやく箱館戦争を見直していた頃である,或ヒハ
大
和ノ出身者カト聞クニ関係ハ国デナイ。,
大
鳥軍ニ参加シタ旧津軽藩士デ、寺小屋時代ノ昔ニサカノボルト珍日
大
使、一戸将軍等トハ竹馬ノ友デ、今日デハ,全ク隔世ノ感禁ズル能ハズト云ッテ呵々
大
笑シ……菓子屋主人公トナッテ居ルト。 ,夫レハ誰アロウ維新ノ際二西郷南洲、勝海舟等ト倶ニ、東奔西走見事ニ尽シタ天下ノ志士、
坂
本龍馬ト云フ高潔ノ / 川汲の吉野堂と
坂
本龍馬の膳
南茅部町史 上巻
(選抜紅白野球大会)
選抜紅白野球
大
会 一、日 時 九月一九日 午前十時 尾札部中学校グランド ,紅 軍 監 督 佐藤政五郎 助監督小原 淳 主 将 上川原昭吾 投 手 水口 信
坂
井, 勉 熊谷 要 山中 司 内野手 木下 洋二 飯田 忠美
大
須賀俊雄 渡辺, 吉増 義郎 佐藤 順一 外野手 浅地 弘一 中山 正秀 飯田 満 船登 弘道
坂
井,春一 工藤 久 秋本 米勝 佐藤 俊秀 白 軍 監 督 小川 幸雄 助監督
大
坂
/ 選抜紅白野球
大
会
椴法華村史
(昭和三十二年度村政報告(村長 松坂幹太郎))
昭和三十二年度村政報告(村長 松
坂
幹太郎) (昭和三十二年三月定例議会会議録を参考とする。) ,三十三年度は少なくとも三十二年度程度の予算額は確保出来ると思いますし、またこれよりも増額することも考えられ
大
いに,本村の
大
津氏宅前より避難港までの道路は村道になっており、補修その他の費用一切村費負担でありました。,
大
体九分通り昇格される見込でありますから御了承下さい。 / 昭和三十二年度村政報告(村長 松
坂
幹太郎)
函館市史 銭亀沢編
(大間鉄道敷設速成運動)
大
間鉄道敷設速成運動
大
間鉄道敷設運動は、
大
湊軽便線開通後の
大
正末期から下北地域で盛んに行われ、当時,昭和七年十月に「北海道函館港と本州との最近連絡地点たる青森県下北郡
大
間港迄東北本線
大
湊鉄道線を田名部より,のほか函館市長
坂
本森一、函館商工会議所会頭
坂
本作平らが署名している(昭和七年十月二十四日付「函新」)。,また、釜谷、
大
間間連絡航路開設を前提とした
大
間鉄道速成運動では、
大
間村付近の町村が函館市に対して協力を,要請し(昭和九年五月十日付「函新」)、昭和十一年八月には
大
間鉄道と
大
間港の国による修築速成に関する請願 /
大
間鉄道敷設速成運動
椴法華村史
(明治中頃の鰮漁について(古老の話・故人坂本玉三郎))
明治中頃の鰮漁について(古老の話・故人
坂
本玉三郎) 明治時代の中頃には矢尻浜附近で盛んに地引網で鰮が,一ヶ統の網はおよそ四十二、三人の人を必要とし
大
部分はやとい人を使用した。 / 明治中頃の鰮漁について(古老の話・故人
坂
本玉三郎)
椴法華村史
(昭和二十七年の施策方針(村長 松坂幹太郎))
昭和二十七年の施策方針(村長 松
坂
幹太郎) (昭和二十七年三月椴法華村臨時議会会議録を参考とする),伝染病については特にその筋からの注意もありますので最
大
の関心を払って居りましたので幸い今迄は何等の発生 / 昭和二十七年の施策方針(村長 松
坂
幹太郎)
南茅部町史 下巻
(大硯「鶴泉記」)
大
硯「鶴泉記」
大
正五年、詩文家斎藤
大
硯川汲温泉来遊す。 ,函館の詩文家齋藤
大
硯は夙に名を成していたが、名勝川汲温泉の風趣を求めて来村した。,その滞留中溪谷温泉を歎賞して鶴泉記(鶴の湯温泉の記)を草し、之を
大
幅に揮毫して館主山中幾太郎に与えた。,鶴泉記 下川汲峠峻
坂
険路﨑嶇□羊腸降來半里豁然洞開常緑之境一廓一戸層樓臨水温泉出山即是鶴泉矣往昔有鶴飛去飛来入泉出泉一日飛翔白雲揺曳去不知行鶴實浴泉醫其創痍遂鳴謝去乎泉故有鶴湯之称爾來百七十餘年連綿山中氏之所領也泉者無色透明玲瓏如玉質刺度性百病多験春夏秋冬人常不絶東西南北各夙頭泉量豊潤懸瀑數條旁有薬王殿函館深瀬氏之建立也距泉半里則噴火湾一望五火山是非地文學上之名,
大
硯 □ 斉藤
大
硯 書 山中治所蔵 /
大
硯「鶴泉記」
函館市史 別巻 亀田市編
([主な工場(大正・昭和前半)])
[主な工場(
大
正・昭和前半)] [主な工場(
大
正・昭和前半)] 設立年 工 場 名 主 製 品,所在地 経 営 者
大
正五年 合名会社 半田造船所 船舶修理 本町二五六 半田 文夫
大
正八年 星野工業株式会社,機械用鋳鉄器 本町一〇九 星野 亮治
大
正一五年 三友刻昆布製造所 水産食料品 港町一八一 白鳥 トシ,アイスクリー厶 本町七 酪連 昭和九年 港製材所 木材 港町三〇〇 函館合板工業株式会社 昭和九年 保
坂
水, 産加工場 水産食料品 港町三四 保
坂
道郎 昭和一〇年 株式会社 ウロコ鉄工所 機械器具 港町 / [主な工場(
大
正・昭和前半)]
椴法華村史
(六大区一小区の村役人)
六
大
区一小区の村役人 前に記した法令に基づき改正された村役人について「明治六季 戸井往復」(北海道蔵,明治六年第九月 開拓使管轄渡島ノ國六
大
區茅部郡 一ノ小區小安村 , 同 尻岸内村 副戸長 増輪半兵衛 村用掛
坂
井善次,以上の記録を検討して気付く点は、六
大
区一小区に属する村々には、副戸長として小安村飯田藤吉、戸井村池田六助 / 六
大
区一小区の村役人
椴法華村史
(大正十四年)
大
正十四年 ・二月二十一日 押野弘喜、恵山硫黄鉱山の権利を常盤鉱業所へ譲る。,・七月二十五・六日 根田内・椴法華付近烏賊
大
々漁、七八百より千二三百尾漁獲でき、このため他地域より出稼人,
大
正十二年起工、国費十八万千七百七十五円、湯川・川汲間延長八里五十三間、この工事により従来の急
坂
は
大
改良,(教室一、廊下〇・七五坪、玄関四坪) ・十一月 椴法華村、鰮・烏賊
大
漁。 ,
大
正14年椴法華村勢一班 /
大
正十四年
恵山町史
([明治・大正時代])
明治維新の体制の変革は産業や経済にも多
大
の影響を与えたのであろう。 ,明治8年から5か年間、泉藤兵衛、同19年、根田内の
大
坂
力松、同20年から3か年間神奈川県の事業家、竹内綱,同19年の
大
坂
力松は、単年度のしかも小規模の表層採掘であったからか、65%と歩留まりもよくそれなりの利益,
大
正4年4月21日押野常松、鉱業権を設定生産を再開、鉱業権は、娘の押野アカ、息子の押野貞次郎へ移譲し
大
正,11年まで操業を継続するが、
大
正12年の関東
大
震災による物価の急変で休業する。 / [明治・
大
正時代]
函館市史 通説編 第一巻
(諏訪大明神絵詞)
諏訪
大
明神絵詞 当時、この地に渡り住んだものは、渡党(わたりとう)の名で呼ばれていたものらしく、すなわち,、延文元(1356)年小
坂
円忠の手になる、『諏訪
大
明神絵詞』によると、「蝦夷が千島というのは、わが国の,東北に当る
大
海の中央にあって、そこには日(ひ)の本(もと)、唐子(からこ)、渡党の3種の住民がおり、その,言語は俚(り)野だが
大
半は通ずる。」と記述している。,この『諏訪
大
明神絵詞』の宇曽利鶴子がウソリケシで函館の古名であり、万堂宇満伊犬はマトウマイヌで松前の古称 / 諏訪
大
明神絵詞
南茅部町史 下巻
(大正神楽の内容)
大
正神楽の内容 神唄 獅子舞 (1) ヨーホー ご祈禱にや 千代にや み神楽 舞らすのや,三番舞 とうとうなるにや 滝の水 とうとうなるにや 滝の水 陽は照るとも常に
大
泉,はたわむれども 幸い これまで 舞いらせたもう 鳥舞 唐衣にやは 唐衣にやは
大
和,道の案内不案内につき… 一里上れば何の
坂
二の
坂
下れば何の
坂
今晩ここへ泊って明朝七ッ立ちに,各々お滕元まで御礼に罷り越す(あがるところ)なれど(も)、ご覧の通り(の)楽屋
大
とり混みにつき、私一人 /
大
正神楽の内容
椴法華村史
(大正三年の海運広告(椴法華来航の船))
大
正三年の海運広告(椴法華来航の船)
大
正三年十二月二十四日 函館毎日新聞 観音丸 戸井日浦尻,廿四日後拾時 三井古武井鉱山貨物取扱所 船場町三番地 電話一三〇一番 〓 保
坂
回漕店 /
大
正三年の海運広告(椴法華来航の船)
南茅部町史 下巻
(〔大正・昭和初期の商業〕)
〔
大
正・昭和初期の商業〕 商工業者等の名簿(昭和四七年調・商工会)に拠れば、明治末から
大
正・昭和の初, 四〇 森野商店 六八 布川商店 六七
坂
田呉服店 四五 吉野堂菊地商店六七, 四〇 遠山清治の行商の木箱 竹中重蔵の記録に、
大
正一三年二月二六日、尾札部村商業組合が,明治末から
大
正年間にかけて各地に中小企業のための信用組合が設立されている。 ,
大
正年間来住して臼尻に店をもち、のち、尾札部に店舗を移してからも行商に力を入れた。 / 〔
大
正・昭和初期の商業〕
函館市史 通説編 第一巻
(文化3年の大火と消防体制)
文化3年の
大
火と消防体制 文化3年10月4日の夜弁天町河岸の市店から出火し、折から西北の風にあおられて,官では早速町会所に命じて
大
量の粥を炊かせ、罷災者に給与し、とりあえず山ノ上町の芝屋小屋をあけて仮りにここに,もとったが、時あたかも寒さに向う季節であるのに、窮民らには小屋掛の手当も出来ない者が少なくなかったので、
坂
下倉庫 / 文化3年の
大
火と消防体制
南茅部町史 下巻
(木直大正神楽公演活動の歩み)
木直
大
正神楽公演活動の歩み (昭和三年までは、渡辺竹次郎翁の参考書より主に公演の記録を抜萃)
大
正元年,
大
住福一 浜林武世 佐藤勝雄 西谷義治 (会員一一名)
大
正12・ 2・17 ポン木直 〓佐藤,安田亀太郎 浜林武世
坂
本佐太郎 西谷定二 (会員一二名)
大
正, 西谷定二 安田亀太郎 浜林武世 西谷梅春 佐藤幸次郎
坂
本佐太郎 石川久四郎 佐藤友作 村松勝太郎, 木直報国青年団継承 今川幸四郎 松村多一郎 小田原作次郎 松村政一 西谷政治 石川久四郎
坂
本佐太郎 / 木直
大
正神楽公演活動の歩み
函館市史 通説編 第二巻
(大火と校舎の焼失)
大
火と校舎の焼失 12年7月旧会所学校内に第一公立女学校が開校し、函館の公立小学校は松蔭・内澗・常盤,しかし市街を一掃した同年12月の
大
火に、焼失区域から離れていた宝学校と住吉学校は難を免れたが、中心部に,その他中心部にあった私立小学校や夜学校なども
大
半が焼失してしまった。,図10-2 12年
大
火直前の区内小学校分布状況
大
火をはさんで、12年と14年,年 町 名 就学率 町 名 就学率 町 名 就学率 松蔭 片 船見 鍛冶 神明横
坂
/
大
火と校舎の焼失
函館市史 通説編 第二巻
(巨大な艦船)
巨
大
な艦船 こうして、以後ペリーと松前藩役人との間で具体的な交渉が行われることとなるが、その過程をみる,千石積弁財船の5~13倍強、「火輪船」たるポーハタン号・ミシシッピー号にあっては、17~24倍強の巨
大
船,当時、箱館-江戸間の太平洋航路(東廻り航路)は、箱館-敦賀間、あるいは箱館-下関-
大
坂
間の日本海・瀬戸内航路,とりわけ2艘の艦船が松前藩の役人のみならず箱館の住人に
大
きなショックを与えたことは、「亜墨利加一条写」,に「火舟図の如く造り方
大
丈夫にして、
大
筒小筒厳重ニ備へ、舟中にて石炭を焚、海上ニおゐてハハ自侭に見得たり / 巨
大
な艦船
南茅部町史 下巻
(木直大正神楽六十五年会員名簿)
木直
大
正神楽六十五年会員名簿 師神永徳平
大
正元 笛 〓 渡辺竹次郎 〃 山の神,〓 西谷与三郎 〃 小松金蔵 〃 〓 佐々木徳次郎 〃 ツ 沖津伊三郎
大
正,
大
正11 盆舞 剣舞 〓 安田亀太郎 〃 三番舞 〓 浜林武世
大
正12 鳥舞牛若丸三本剣,〓 桜井秀太郎
大
正10 (女) 〓 西谷義治
大
正12 剣二本三本 〓 汐谷石太郎,
大
正13 笛 牛若丸 〓
坂
本佐太郎
大
正15 剣舞 〓 西谷定二 〃 笛 / 木直
大
正神楽六十五年会員名簿
戸井町史
(十、汐首岬の鰮船転覆漁夫溺死事件 (大正四年))
十、汐首岬の鰮船転覆漁夫溺死事件 (
大
正四年)
大
正四年十二月十四日午前五時三十分頃、瀬田来の小柳吉太郎,をしていたが、狂濤激浪のため長さ四十五尺の起し船が転覆し、乗組員十二名のうち左記の八名が一挙に溺死するという
大
惨事,戸井村
大
字小安村 港 七之助 (三七才) 〃 小山内 巳之作(二五才,) 〃 児玉 幸吉 (三七才) 〃 小
坂
/ 十、汐首岬の鰮船転覆漁夫溺死事件 (
大
正四年)
南茅部町史 下巻
(上磯式 奴振り)
赤
坂
1
大
阪府南河内郡東部の村。今、千早赤阪村に編入。,赤
坂
城趾 2 岐阜県不破郡の町。赤
坂
の金生(きんしょう)山から産する赤
坂
大
理石で有名。,鹿部
大
岩奴っ子振り 南部八戸の赤
坂
奴っ子道中振りが源。 ,後志管内 倶知安 赤
坂
奴 昭和八年から神社
大
祭のみこし行列に加わる。 ,留萌管内 羽幌 越中赤
坂
奴舞
大
正期富山県から道具一式を入れる。
函館市史 通説編 第二巻
(渡島国を7大区とする企画)
渡島国を7
大
区とする企画 亀田上磯茅部の3郡及び胆振の山越郡に
大
小区制が導入されたとき、開拓使函館支庁,その後開拓使は
大
蔵省から戸籍表に関して1郡1
大
区制との指摘を受けた。,愛宕町 天神町1丁目 仲新町1丁目 富岡町1、2丁目 元町1丁目の内 茶屋町 常盤町西側
坂
町,梅枝町 芝居町東側 花谷町 愛宕町 天神町1丁目 仲新町1丁目 富岡町 茶屋町 常盤町西側
坂
町,
大
黒町
大
町 仲浜町 内澗町 東浜町 16
大
区 地蔵町1~3丁目 恵比須町 堀江町 船場町 / 渡島国を7
大
区とする企画
南茅部町史 上巻
(歴代村会議員)
卯吉
大
正3・6・1 (臼尻村 定員八名) (尾札部村 定員一〇名) , 松永 量助 早川半之助 斉藤 政治
大
正, 卯吉
大
正11・6・1(定員八名) (定員一〇名) (6・5,早川半之助
坂
本 卯吉
大
正13・6・1(定員八名) (定員一〇名), 飯田清次郎
坂
本 卯吉
大
塚政太郎 佐藤円太郎 斉藤仁太郎
南茅部町史 下巻
(木直大正神楽)
木直
大
正神楽 明治四五年七月三〇日、明治天皇が五九歳で崩御なされ、年号は
大
正と改元された。 ,川汲の〓
坂
本から笛を借り、神主から鈴を借りてやった。 ,感謝状
大
正3年 以来、旧正月行事として地域の青年たちが公演して代々、
大
正神楽を継承してきたものである,こうして公演は地域の共感を呼び、浄財がつのられ、たびたびの国防献金に対して、海軍
大
臣、陸軍
大
臣より何枚,昭和四〇年、今川幸四郎を代表に、木直
大
正神楽保存会を結成し、後世に
大
正神楽を継承するため後継者の養成につとめた / 木直
大
正神楽
南茅部町史 下巻
(駄馬の運送)
〓 越前 〓小中 高見 〓酒井 尾札部 工藤三蔵 上
坂
本,板木 〓砂田 〓 川汲 〓仙石 尾札部 ヌ今津 滝口 作蔵 〓
坂
本亀吉,〓影沼沢 船 〓能戸 明治四四年 川汲 〓小板 尾札部 五
坂
井,工藤三蔵 水上 水木三平 明治四五年 川汲 〓 伊藤
大
正, 二年 尾札部 王
坂
本 鮪の
大
漁のときは村の駄付馬が足りなくなり、古武井、根田内から
南茅部町史 下巻
(大正四年 函館港海運・回漕店)
大
正四年 函館港海運・回漕店 (
大
正四・二・八付函館毎日新聞「広告」より) 川口回漕店 , 鹿島丸 尻岸内直行 定期 先山丸 易国間・下風呂・
大
畑行,定期 八幡丸
大
間・奥戸・佐井・青森行 豊川町 高榮組 , 命令航路 十勝丸 門別・下下方・三石・浦河・様似・幌泉行 船場町三番 〓保
坂
回漕店,・眞岡・海馬島行
大
禮丸 小樽・
大
泊行 /
大
正四年 函館港海運・回漕店
函館市史 通説編 第一巻
(箱館の町勢)
さて、ここから1丁ばかり行って道は左り山手にわかれて
大
工町があり。,「内澗町」 地蔵町に続き本通り
大
町役所下の
坂
まで、およそ3丁の間を内澗町といい、ここには場所請負人の和賀屋,御役所の
坂
一般にいい習わされたもので、この
坂
は内澗町と
大
町の境から御役所にのぼる
坂
で、ここを登れば役所,「
大
町」 御役所の
坂
から沖ノ口門までをいい、問屋、小宿、諸商人などの家作が美々しく、長崎屋といって長崎俵物会所,ここに3つの
坂
があり、芝居
坂
、糀屋
坂
、地獄
坂
という。
函館市史 通説編 第一巻
(市街の拡張)
役所正門から海岸に向かって広い
坂
道が通り、貿易港としての表玄関である運上所、産物会所および交易会所につき,それを中心に海岸に沿って西に弁天町、
大
町、東に内澗町、地蔵町が一列に並んでいた。,ならびに場所請負人らの
大
家屋が軒を連ね、その東に続く内澗町とともに商港箱館の中心をなしていた。,また弁天町の
坂
上には神明社および高龍寺があり、
大
町の
坂
上には実行寺、称名寺、浄玄寺等の
大
寺が門を並べて,寺町通りを成し、その裏には天神社、その前には天神町および箱館山に祀られた薬師、愛宕社に登る
坂
があった。
南茅部町史 上巻
(郷土の名字)
大
化の改新後、氏の中でも家系や地域を同じくするものが、土地や山荘の名を特号するようになり名字集団を形成,七名 7 金 沢 六名 8 秋元(秋本)七名 8 杉 谷 七名 8
大
,
坂
五名 9
坂
本(阪本)七名 9 西 谷 六名 9 東 出 五名 10,小 板 五名 ・ 福 島 三名 19 飯 田 五名 能 戸 三名 20
大
,・小田原・
大
住・松村・前野・
坂
井・飯田・沢中・竹原などである。
南茅部町史 上巻
([国勢調査員任命])
[国勢調査員任命]
大
正九年七月二五日 北海道庁告示第五一九号 (公報第四一七号
大
正九・八・,佐藤藤七 下池與太郎 杉林金弥 村辰三郎 飯田清次郎 飯田市太郎 吉川与三郎 高
坂
信次郎,
坂
本六三郎 能戸忠蔵 鈴木初茂 杉林政吉
坂
本卯吉 松永量助 新井田精一, 山中幾太郎 船登富蔵
坂
本啓次郎 戸田栄作 前野常八 臼尻村 一二名,この国勢調査が国において実施された最高の権威のある調査であったことを名実ともに全国に普及、啓蒙する
大
きな
函館市史 通説編 第一巻
(ロシア使節との応接)
更にプチャーチンは、これから
大
坂
に行くが、もし江戸で応接するならば、その旨
大
坂
で通告されたいと述べ、9,月7日
大
坂
に向け出帆したが、
大
坂
において下田で応接すべき旨の通告を受け、10月15日下田に到着した。,幕府は、
大
目付筒井肥前守、勘定奉行川路左衛門尉および浦賀奉行伊沢美作守に命じて応接に当らせ、また、たまたま,かくして11月1日プチャーチンを福泉寺に引見、会談は同月3日から開かれたが、翌4日はからずも
大
津波が起
函館市史 通説編 第一巻
(会所の設置地)
前幕府直轄時代の産物会所の例に準じ、2、3年試みようという指示を与えて発足したが、会所は、箱館、松前のほか江戸、
大
坂
,、京都、兵庫、堺、敦賀、下関、新潟に設置され、江戸の会所は新
大
橋際植物場内に、
大
坂
は劒先町、兵庫は北浜川崎町
南茅部町史 上巻
(村網)
熊泊(
大
船)・臼尻・板木(安浦)・川汲・尾札部・木直・古部でも経営していた。 ,加我兼太郎 吉川幸次郎 小林 喜蔵 小林金三郎 新井田元八 松永藤次郎
大
槌, 吉蔵
大
槌 玉吉 加我与太郎 加我 佐吉
坂
本 由蔵 加我 久吉 西田, 作蔵 吉村桃太郎 加我久太郎 加我 久作 加我喜代治
坂
本 長吉 斉藤, 政治 永井 方吉 仙石喜三郎
坂
本平太郎 今津 善作 港 幸七 小板
函館市史 通説編 第一巻
([函館段丘について])
函館段丘の前面の段丘崖は、駒場町から湯川町に下る
坂
、柏木町から川原町に下る
坂
、梁川町から宮前町に下る
坂
,、千代台町から新川町に下る
坂
、人見町から金掘町に下る
坂
等で表わされている。 ,これは函館段丘に対比されるもので、日吉町段丘堆積物を切って、極めて薄く、1.5センチメートル
大
以下の礫
椴法華村史
(箱館より木直までの道)
四里二拾五丁三拾二間 銭亀澤村 産物五月ヨリ八月迠昆布、引網雑魚水ヨシ、當所村端ノ小
坂
上,リ野道七八丁程行ク、此邊山近ク木ナシ夫ヨリ壁
坂
下リ夫ヨリ シホトマリ川有、幅五六間川越ヱ澤道四五丁行,當所ヨリ砂濱道五十間計リ行キ急ナル小
坂
上ル至テ難所
坂
上ルヿ(コト)一丁余夫ヨリ山キシツタヱ二丁余行キ小
坂
百間程下,ル至テ難所ナリ道中カ場ヨリ木立夫ヨリ山ノタヱ二百間程行キ、夫ヨリ
大
崩険阻
坂
五六十間程下リ夫ヨリ。 ,リ夫ヨリタヱ半里位行キ又
坂
半里余下ル此山中木立原トトホツケ江出ル 子タナヱゟ日影濱迠之海岸
函館市史 通説編 第一巻
(三港の比較)
右昆布積に来る、
大
坂
船、下之関船等八艘づゝ年々極り来り、
大
坂
又は長崎へ積上り申候。,
大
方八百斛位積候船のよし。八百石に昆布八千駄積申す由。右の外諸国近国の小船昆布積に来る。,百石積の船に昆布千駄積申
大
概のよし。直段年々相場相立申す由。,右昆布積に来る、
大
坂
船、下之関船等八艘づゝ年々極り来り、
大
坂
又は長崎へ積上り申候。,百石積の船に昆布千駄積申
大
概のよし。直段年々相場相立申す由。
恵山町史
(『蝦夷巡覧筆記』より箱館よりヲサツベまでのようす)
城下
大
泊川ヨリ筥館マテ 二拾五里六丁二拾四間 箱館村ヨリ外海江砂道行キ
大
森(通称
大
森浜) 此所,ル至テ難所
坂
上ルコト一丁余リ 夫ヨリ山キシツタヱ二丁余リ行キ 小
坂
百間程下リ濱ヱ出小流有リ 夫ヨリ濱道百間程行,ル至テ難所ナリ 道中カ場ヨリ木立 夫ヨリ山ノタヱ二百間程行キ、夫ヨリ
大
崩険阻
坂
五六十間程下リ、夫ヨリ,
坂
道を180メートル下り海辺へとでる。,ダラダラ
坂
を登ること4キロメートル、立ち木の多い高原をさらに2キロメートル行き、
坂
道を2キロメートル下
南茅部町史 上巻
(尾札部漁業組合役員)
明治三八年一〇月二七日申請 明治三九年一二月一一日認可 字尾札部六五番地 組合長理事 高
坂
,・13) 高
坂
信次郎(
大
正10・4・11~昭和3・ 死亡) 能 戸 忠 蔵(昭和3・11・1~,・28~
大
正7・4・9) 長谷川 忠次郎(
大
正7・4・9~
大
正13・5・3) 前 野 常 八(
大
正,7・4・9~昭和5・4・28) 斉 藤 仁太郎(
大
正12・2・8~
大
正13・5・3)
坂
本 卯 ,4・4・8) 能 戸 忠 蔵(
大
正4・4・8~
大
正3・11・1) 下 池 与太郎(
大
正9・2・1~
函館市史 通説編 第一巻
(商取引)
、依然東回りより西回りが多く、移入品中の主位を占める米は、津軽、羽後、越後、越中などから、酒は出羽(
大
山,)、越後、
大
坂
、縄筵類は敦賀、津軽、塩は瀬戸内海の各地および金沢付近から入り、木綿その他の雑貨類は
大
坂
,移出品も多くはこれらの諸港に向けられるものが多く、ことに
大
坂
、兵庫などは重要な移出先になっている。,また東回りの取引は、それほど増
大
したとはいえないが、東蝦夷地各場所産の秋味鮭の多くは、各場所から直接江戸,、塩鰤、新鱈、昆布、鯣、鰯粕なども江戸に送られるようになっているが、なかでも箱館六箇場所の生産力の増
大
と
函館市史 通説編 第二巻
(産物会所の設置)
も確保、拡張して行く、というのがその構想で、安政4(1857)年、箱館のほか江戸に会所を設置、翌年に
大
坂
,両余の取扱額で、手当、経費を除いた利益788両余、同6年で、取扱額7万3000両、利益金2872両余、
大
坂
,
大
坂
では与力、問屋、仲買がこぞって、「故障」を申立て、様々な悪評を言いふらしている。,では現金取引しかできないので低価格の取引ばかり多くなる、魚肥類はどこでもよい値で売れるので会所のある
大
坂
,蝦夷地産物が
大
坂
、兵庫の会所による規制を避けて他の港へ廻ってしまうのを把握するという意味からである。
南茅部町史 上巻
(臼尻村二代目戸長 篠田順)
大
正六年、上川郡士別で没した。七四歳であった。 , 片岡助作 角田広業 森田和平次 山越内村 湊 治□衛 (
坂
本菊松,) 村上忠蔵 石田 連
坂
本菊松 粂林丘衛 長谷川重蔵 竹内 直 吉田□□太郎 竹内才助 , 吉川重四郎 吉川留松 金丸与四郎 千石吉兵衛
坂
本要作, 佐藤宇佐吉 加我熊蔵 尾札部村 (今津甚蔵)
坂
井五兵衛
函館市史 通説編 第一巻
(各会所用達)
大
坂
は加島屋作次郎を用達とし、会所付仲買として松前問屋13軒を任じ、そのうち伊丹屋四郎兵衛、近江屋熊蔵,兵庫では北風荘右衛門、堺では和泉屋伊助、石割作左衛門が用達に、
大
和屋徳次が用聞になっている。,納めて、荷主に渡すことが主な仕事であったが、その他蝦夷地の馬鈴薯などの新産物をも販売し、また、京都、
大
坂
函館市史 通説編 第一巻
(江戸交易と東回り航路の発達)
その結果、江戸・
大
坂
間の流通が著しく発展した。,東回り航路の発展を招く
大
きな原因になった。 ,様似などにおいて造船、その他高田屋嘉兵衛に命じて
大
坂
で官船5艘を建造、箱館にも造船所を設けて兵庫・
大
坂
,から船
大
工を雇入れて造船作業に従事させた。,便益を加え、襟裳以東の航海のために
大
畑が重要な寄港地となった。
函館市史 別巻 亀田市編
([功労者の表彰])
一 歴代村長 (故)
大
瀧信孝
坂
本克爾 宇野親和 河野孝忠 志水平五郎 小野総次郎 (現)中島有郷,厚谷政治 照井兵之助 五 教 員(村内勤続十五年以上) (故)羽賀友一郎 荒武夫 (現)
大
沼保徳,松本留吉 青島芳太郎 岩山時太郎 平田仙太郎 水島菊太郎 水島吉太郎 水島多七 水島義則 小柳忠蔵
坂
初太郎,
坂
円蔵 丸山金次郎 石亀喜一 金沢元春 金浜石雄 蛯子初義 佐藤仁三郎 高橋清治 田村常次 ,安川和一 佐藤文七 高橋菊松 川原馬之助 山本朝一郎 深田源太郎 深田豊三郎 桜井藤松 中村久次郎
大
島伍平
函館市史 通説編 第一巻
(貝塚の分布)
函館公園から西へ約100メートル
坂
を下ると亀井勝一郎の文学碑を囲む小公園があり、ここから宝来町に下る
坂
,この貝塚は
坂
下の天祐寺境内にまで広がる規模の
大
きな貝塚で、近年まで道路上に貝塚が散らばっていたのが見られた,青柳町貝塚はかつてアサリ
坂
貝塚と共に山麓部に広く分布していた。,これらの貝塚は函館山山麓の北向き斜面にあって、それぞれ3、400メートル離れ、比較的
大
きな貝塚が3か所,この遺跡は標高14メートルの段丘上にあって、平坦な地形が東から南へと続いて広
大
な畑地であった。
南茅部町史 上巻
(まきあげ)
鰮旋網漁獲高(石) 経営者
大
正五年 昭和四年 五年 六年 七年 八年 石 石 , 張磨市太郎 九〇〇 一、〇〇〇 九〇〇 一、八〇〇 一、四〇〇
坂
井重太郎, 一、七〇〇 一、二〇〇 小板 末吉 一、六〇〇 一、一〇〇
坂
本
函館市史 別巻 亀田市編
(東照宮の建立と焼失・遷座)
元ハ上山村ナリシモ改メテ
大
神ノ鎮座ヨリ神山村ト称ス 御用達杉浦嘉七ヨリ数百両御宮御造営ニ献納ス。,一 手水鉢 是ハ
大
坂
御影石ニテ其目形七百貫目長六尺巾三尺余 壱個 一 水屋 是ハ九尺弐間惣銅葺木材,ケヤキ菊惣浮彫 壱棟 箱館奉行小出
大
和守藤原實殿奉納ナリ。 ,一 アマ狛コマ 狛
大
坂
名産生石 台ハ
大
坂
御影石 弐個 箱館奉行組頭調役平山謙次郎其外, 一
大
石鳥居
大
坂
御影石 壱基 箱館奉行御付常役中ヨリ
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