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椴法華村史
(青森県六ヵ所村の大海難)
青
森
県六ヵ所村の
大
海難 この事件について、明治四十三年十二月三日付の『函館日日新聞』は次のように記している,○二百五十名不明 ▼青
森
漁民の遭難 去三十日夜青
森
縣六ヶ所村字泊海面に於て出漁中の漁船三十隻,は暴風のため流失し乗組漁夫二百五十名は行方不明となりたるが或は本道各海岸に漂着するやも知れずとて青
森
縣廳 / 青
森
県六ヵ所村の
大
海難
函館市史 銭亀沢編
(森林組合)
森
林組合 銭亀沢地区の後背地には
森
林があり、これを管理運営するための団体が、石崎や鶴野などの地区を単位,銭亀沢村
大
字石崎の住民に一一〇〇町歩の
森
林が北海道庁から払い下げられ、
大
正二年五月二十二日に石崎植林組合,そして現在では、各世帯が三〇〇〇円ずつ払い、函館
森
林組合に植林を依頼している。 ,この五、六のかたまり一つは「ひとなた」とも呼ばれ、
大
正から昭和にかけてひとなた一円くらいであった。,鶴野では、この
森
林を管理運営するために鶴野愛林組合が昭和七年に設立された。 /
森
林組合
南茅部町史 下巻
(森町の記録)
森
町の記録 六月一七日 砂原方面から
森
町へ避難する人たちも陸続と増し、
森
停車場前は混乱を極めた。,
森
町役場の記録 六月一七日 12時30分 軽石流駒ノ背を越え、ただちに止る。,14時0分
森
町土橋からみると、三条の軽石流れ下るも
大
流とならず。,15時0分
大
沼方面からみると、剣ヶ峰右肩と馬ノ背の中間から、軽流奔流。,この頃、
森
町からみると、軽石流流出して東背面をおおい、やがて西前面をも包んだ。 /
森
町の記録
函館市史 別巻 亀田市編
(森林の国有化)
森
林の国有化 前にも記したように、明治十一年「
森
林監護仮条例」により官有林と私有林に
大
別し、その後、,し、この布達に基づいて、将来国有林とすべき土地、将来公有林とすべき土地、将来私有地とすべき土地、将来
森
林 /
森
林の国有化
函館市史 別巻 亀田市編
(函館・森間の開通経過)
函館・
森
間の開通経過 函館・本郷(
大
野)間は明治三十五年六月一日起工、同年十一月竢工、十二月十日函館,、桔梗、七飯、本郷(現渡島
大
野駅)の四駅を開業、運輸を開始した。 ,本郷・
森
間は明治三十五年七月一日起工、翌三十六年五月二十八日運輸を開始した。,この時の停車場は
大
沼、駒ケ岳、
森
の三か所で、その後明治三十七年十月十五日赤井川停車場が設けられた。,(明治四十四年『北海道鉄道概況』によれば、
大
沼、赤井川、駒ケ岳、
森
駅の開業年月日を明治三十六年六月二十八日 / 函館・
森
間の開通経過
函館市史 通説編 第二巻
(金森回漕組と改称)
金
森
回漕組と改称 こうして対外的には函館器械製造所所有船として運航していたわけであるが、実際の貨物・,さらに22年になると、それを金
森
回漕組と改めて本格的に海運業に乗り出しはじめた。,22年1月4日の「函館新聞」に「汽船取扱所、船場町の汽船恵山丸及矢越丸の取扱所は去る一日より金
森
回漕組,ちなみに
大
手の海運会社は全てこの発想で行っている。,従来の道内便重視から青
森
や、新潟方面の道外航路へものりだしていくのである。 / 金
森
回漕組と改称
函館市史 通説編 第二巻
(函館から森村まで)
函館から
森
村まで 『開拓使事業報告』第2編から、おおまかに新道建設の経過説明をしてみたい。,その前に簡単にこの道路の概観を述べると、起点は函館でここから
森
に至り、
森
から室蘭までは海路、室蘭から苫小牧,、千歳を経て札幌に至るもので、延長57里14町30間(
森
・室蘭間の25海里は陸里に改め合算)であった。,これにより函館の物価は
大
いに騰貴し、商売繁盛し、益々の繁栄をみた。,6月、
森
までの測量を完了、7月ついに函館
森
間11里18町の新道が落成した。 / 函館から
森
村まで
函館市史 別巻 亀田市編
(森林の保護と植林)
森
林の保護と植林 明治初期における開拓使の政策は、前時代と同じように
森
林の保護禁令政策に重点が置かれ,故ニ
大
害ヲ為ス者ハアルヘカラス。又徒ラニ伐木スル者ナカルヘシ。,現今ニテハ材木生育栽殖ニ
大
金ヲ費スハ良策ニアラス。札幌近傍猶然リ。,この外人らの政策は、北海道奥地の
大
森
林地帯であるならば、妥当な意見であるかもしれないが、早くから開け伐採,が行われ荒廃していた亀田、
大
野、七重、茂辺地等の山々では少し無謀な考え方であった。 /
森
林の保護と植林
戸井町史
((参考)北海道と青森県の円空仏)
(参考)北海道と青
森
県の円空仏 道南における円空仏は早くから注目され、安永九年(一七八〇)に完成した,七飯町
大
中山の円空仏(富原喜久夫所蔵) 汐首の円空仏 徳川幕府に代った新政府は、慶応四年,現在までに北海道と青
森
県で発見された円空仏を列挙して見ると次の通りである。,(
大
中山)に滞留した。,を経て汐首に着き九月か十月頃、汐首から下北の異国間か
大
畑に渡ったものと思う。 / (参考)北海道と青
森
県の円空仏
椴法華村史
(大正十二年島泊の大火)
大
正十二年島泊の
大
火
大
正十二年五月二日午前三時、島泊中村理髪店から出火したが、当時村内には少数の手動,ポンプがあるのみで、折からの風に煽られ島泊現在の川
森
旅館から〓福永商店の付近までの両側一帯、三十六戸が,火災の損害について、
大
正十二年五月四日の「函館新聞」は次のように記している。 ,椴法華火災損害が八万円 原因は七輪の火から 去る三日の椴法華村
大
火は既報の如くなるが,住宅破壊二棟、物置破壊一棟、総坪数二千七百坪其他、損害八万円、類焼中重なる建物、椴法華病院、〓旅館、川
森
旅館 /
大
正十二年島泊の
大
火
函館市史 銭亀沢編
(大間鉄道敷設速成運動)
大
間鉄道敷設速成運動
大
間鉄道敷設運動は、
大
湊軽便線開通後の
大
正末期から下北地域で盛んに行われ、当時,昭和七年十月に「北海道函館港と本州との最近連絡地点たる青
森
県下北郡
大
間港迄東北本線
大
湊鉄道線を田名部より,延長敷設速成せられんことを望む」として関係当局に出された
大
間鉄道の敷設速成請願には、青
森
県下北郡の関係町村長,のほか函館市長坂本
森
一、函館商工会議所会頭坂本作平らが署名している(昭和七年十月二十四日付「函新」)。,また、釜谷、
大
間間連絡航路開設を前提とした
大
間鉄道速成運動では、
大
間村付近の町村が函館市に対して協力を /
大
間鉄道敷設速成運動
函館市史 銭亀沢編
(田名部大間間鉄道)
田名部
大
間間鉄道 田名部、
大
間間の鉄道は、下海岸と目と鼻の先に位置する青
森
県下北半島北部を走る鉄道として,、釜谷鉄道と同じく
大
正十一年の改正鉄道敷設法予定線の本州の部「一」に「青
森
県田名部ヨリ
大
畑ヲ経テ
大
間ニ,から
大
畑経由で
大
間に至る全長二八哩の鉄道である。,東北線野辺地から下北半島方面へ分岐する
大
湊線は、
大
正五年九月に軽便線として着工、
大
正十年九月二十五日に,野辺地、
大
湊間が全通しているが(『
大
間町史』)、さらに北端の
大
間までの鉄道として計画されたものである。 / 田名部
大
間間鉄道
南茅部町史 上巻
(大小区画制)
大
小区画制 明治五年戸籍編成が実施され、政府はさらに
大
小区画の制を定めた。,開拓使は
大
小区画を本庁、支庁ごとに実施することとした。 , 浦 誠 村々役人中 (「支庁布達々書原稿」・
森
町史,一
大
区 二
大
区 現函館区内 三
大
区 四
大
区=亀田郡(小区一ヨリ七ニ至ル村三十) ,尾札部村支郷椴法華 二小区=熊泊村、尾札部村、臼尻村、鹿部村、砂原村、掛澗村 三小区=尾白内村、
森
村 /
大
小区画制
椴法華村史
(蝦夷人の大畑漂着)
蝦夷人の
大
畑漂着 宝暦元年(一七五一)蝦夷二人天下
森
浜(
大
畑)へ漂着有しに水粮を与かて(ママ)へす / 蝦夷人の
大
畑漂着
椴法華村史
(大正十二年)
・三月 近海航路の高栄組、函青汽船株式会社と改組し下海岸・陰海岸及び
森
方面の海運を行う。,・四月一日 道庁命令定期船函館・
森
線新設され沿岸諸港に寄港する。,・道路の充実と
大
火。 ,福永商店から川
森
旅館まで付近一帯二十六棟・三十六戸を焼失、損害額約八万円と云われる
大
火災が発生した。,このとき類焼した主な建物は、椴法華病院・〓旅館・川
森
旅館・宮本湯屋などであった。 /
大
正十二年
函館市史 通説編 第一巻
(大野)
大
野
大
野町はその中心部まで函館市から鉄道距離にして約18キロメートルの位置にあり、町の中央を函館から,当町の北部は
森
町、北西部は中山峠を境として厚沢部町、南西部は上磯町、東部は七飯町にそれぞれ接し、東西27,までは本道最
大
の穀倉地帯といわれた。,純農村であるだけに、人口減少が続いているが、さほど
大
きな減少は示していない。,周辺町の人口の推移(上磯・七飯・
大
野各町の町勢要覧による) /
大
野
南茅部町史 上巻
(北海道大小区画)
北海道
大
小区画 明治九年九月八日、開拓使は、本庁支庁ごとの
大
小区画を全道一本にまとめ、北海道
大
小区画,椴法華役所の公印 明治10年(「山岸喜三司文書」より) 函館支庁管下
大
小区画 茅部郡 ,一八
大
区 一小区=小安、戸井、尻岸内、椴法華 二小区=尾札部、臼尻、熊泊、鹿部、砂原、掛澗, 三小区=
森
、尾白内、鷲ノ木、蛯谷、石倉、落部、宿野辺 一九
大
区 一小区=山越内村 / 北海道
大
小区画
椴法華村史
(大正三年)
大
正三年 ・一月 アメリカ代理領事キングの購入した五人乗り、乗用車が函館に入る。,・二月二十日 椴法華村石川留吉外五名、恵山沖へサガ釣に出漁中北西の強風により遭難二十一日午前一時、青
森
県下北郡
大
畑村字木野部,・第一次世界
大
戦の勃発。 ,・十二月 函館駅竣工、函館・青
森
間貨車航送開始。,・この年、前年の
大
凶作の影響を受け、本道、本州各地より
大
正二年から多くの入稼者が来村する、しかしこの年 /
大
正三年
戸井町史
(十四、椴法華、島泊の大火(大正十二年))
十四、椴法華、島泊の
大
火(
大
正十二年)
大
正十二年五月二日午前三時、椴法華村字島泊、中村幸次郎(理髪職,ここは椴法華村の目抜の場所で、原病院、川
森
旅館、山田旅館も全焼した。 / 十四、椴法華、島泊の
大
火(
大
正十二年)
南茅部町史 下巻
(大正四年 函館港海運・回漕店)
青
森
・川内・虻浦・易国間・下風呂・
大
畑行 電話一三〇五番 ,定期 八幡丸
大
間・奥戸・佐井・青
森
行 豊川町 高榮組 ,定航 福榮丸
大
間・奥戸・佐井・虻浦・易国間行 噴火湾汽船株式会社廣告
森
室蘭間郵便定期, 金
森
合名会社 吹雪丸
森
・室蘭 電話一五〇番・五七七番, 神龍丸 青
森
行 命令航路 東福丸 廣尾・
大
津・釧路行 /
大
正四年 函館港海運・回漕店
椴法華村史
(大小区画制の改正)
大
小区画制の改正 明治九年九月八日、開拓使によりそれまで開拓使本庁・支庁ごとに施行されてきた
大
小区画制,・尻岸内村とともに第拾八
大
区壱小区に属することになった。,第拾八
大
区壱小区 渡島国茅部郡・同上小安村・戸井村・尻岸内村・椴法華村 第拾八
大
区貳小区 渡島国茅部郡,にしたほどであるのに、こんどは小安村・戸井村・尻岸内村・椴法華村の四村とその他茅部郡の村々を管轄する区務所を
森
村,川汲峠を越えたり、積雪のため川汲越えができない時は、函館へ出てそののち札幌本道(現在国道五号線)を経て、
森
に /
大
小区画制の改正
椴法華村史
(〔大龍寺遺跡〕)
〔
大
龍寺遺跡〕 椴法華遺跡に接する
大
龍寺遺跡は、境内から裏の台地斜面に広がっている。,縄文中期の終末から縄文後期初頭の時期は、北海道でもようやく研究されて、北海道と青
森
との文化の接触が明らかになっているが,、中期に青
森
と北海道南部に共通する円筒上層式の文化がある。,この文化のあとに東北地方の
大
木系の文化が入ってくるが、北海道特有の余市式と呼ぶ文化が道南に広まって、青
森
県,この遺跡の縄文晩期の資料は、下北島の福浦崎でも採取したことがあり道南地方では一般的でないが、青
森
県の下北半島 / 〔
大
龍寺遺跡〕
函館市史 銭亀沢編
(大雨の災害)
大
雨の災害 前項の「気候」で述べたように、銭亀沢の年間雨量は函館市内と比べてやや少ないと推定される。,しかし、災害に結びつくような短時間の
大
雨はその限りでなく、これに銭亀沢の地形が作用して被害を生ずることが,また同計画の「高波・高潮・津波等危険区域」でも九区域中五区域が銭亀沢地区で、
大
森
浜以東の全海岸線が指定,冒頭に述べたように昭和二十五年以降の四〇数年間に、銭亀沢地域での
大
雨災害は一九例を数える。,次に、その中から被害の
大
きかった土砂崩れや崖崩れを紹介する。 /
大
雨の災害
恵山町史
([大正期の尻岸内村村会議員])
以下、郷土尻岸内村の
大
正期の村会議員の選挙の実態・議会活動・議員名について記す。,林七 ③福沢 留蔵 ③沢口 又四郎 ③中
森
伊三郎 松本 専太郎 玉井 長次郎 仲村 松蔵 湊谷 保司,④佐々木 才太郎 ③中
森
伊三郎 ③浜田 伊三郎 浜田 栄助 仲村 松蔵 平島 林七 工藤 八十吉,川畑 興作 ③梅川 金五郎 ③石田 覚蔵 吉岡 喜作 谷内 嘉門 工藤 八十吉 ④赤井 幸一郎 ③中
森
,福沢留蔵、沢口又四郎、浜田伊三郎、中
森
伊三郎、梅川金五郎、石田覚蔵、山田長平、以上3選(断続を含む)4 / [
大
正期の尻岸内村村会議員]
南茅部町史 下巻
(〔大舟上の温泉〕)
〔
大
舟上の温泉〕 この温泉の起原年月は不詳。,天保年間の初め、臼尻の
大
倉
大
蔵が
森
林を伐り、荊棘を拓いて浴場を設ける。,下の湯よりさらに
大
舟川の上流の左岸にある。 ,のち、
大
正末期に板木の〓工藤家が浴舎を建てて経営した。,
大
舟上の湯温泉絵葉書 昭和10年ごろ 中本家所蔵
大
舟上の湯温泉 「観光の道南」昭和12年版 / 〔
大
舟上の温泉〕
南茅部町史 下巻
(大噴火の直下を行く)
森
駅に着いた。
森
で一泊するため下車したが、人の波で街に出ることが出来ない。,
森
駅を発車すると、窓外の沿道は子供を背負った者、荷馬車に荷物を積んで避難するもので、石倉駅までの三里の,
森
警察署に問いあわせると、依然、前日同様で少しは鳴りを鎮めたとのことである。,午後一時五〇分の上り列車に乗り
森
に着いたのは四時である。駅から道路へかけて避難者の群で一ぱいである。,「降雨あれば
森
も危険」との号外があった。 /
大
噴火の直下を行く
椴法華村史
(大小区画制の実施)
大
小区画制の実施 中央集権国家の完成及び国民掌握をめざしてきた新政府は、明治五年に至り戸籍編成と
大
小区,(椴法華村の「壬申戸籍簿」は現在迄発見されていない) 函館支庁は明治五年二月函館を三
大
区十五小区に,分け、戸長及び副戸長を置き翌六年五月には、亀田・上磯・茅部・山越の四郡に
大
小区を実施している。,六
大
区 茅部郡一小区一ヨリ三ニ至ル村十四 一小区 小安村 戸井村 尻岸内村 尾札部村支郷椴法華村, 二小区 熊泊村 尾札部村 臼尻村 鹿部村 砂原村 掛澗村 三小区 尾白内村
森
村 鷲木村 /
大
小区画制の実施
椴法華村史
(大海難陸奥丸と秀吉丸の衝突)
大
海難陸奥丸と秀吉丸の衝突 明治四十一年三月二十三日、午前二時、椴法華沖(銚子沖)において、青
森
から,室蘭へ向け航行中の青
森
・室蘭間定期船陸奥丸(日本郵船所有、九百十四屯)と室蘭から函館へ向け航行中の秀吉丸,戸井町史は、戸井警察分署(明治二十年代から
大
正初期まで、尻岸内・椴法華・一時的に尾札部駐在所を管轄する,は船員を督励し、
大
小三隻の端艇を下ろして救援につとめ、船員二十八名・郵便係員二名・乗客三十二名を救助した,なお『青
森
市史年表』では乗客二百八十九名中、二百二十六名溺死と記されている。 /
大
海難陸奥丸と秀吉丸の衝突
南茅部町史 下巻
(木直大正神楽公演活動の歩み)
入会 昭和六年 浜林武蔵 佐々木菊雄 入会 昭和七年 島
森
豊次郎 西谷武雄 竹原竹蔵 長谷川繁雄,昭和40・ 7・15 保存会結成 今川幸四郎 小田原作次郎 木沢賢一郎 松村政一 浜林武蔵 島
森
豊次郎,七飯好日院慰問 5・7~8 観光キャラバン隊参加(椴法華、尻岸内、戸井、銭亀沢、亀田、函館、
森
、, 9・ 亀田市制一周年記念式(亀田市) 昭和49・12・20 浜林武蔵 松村多一郎 島
森
豊次郎,2 木直神社祭典奉納 昭和53・ 1 現在保存会メンバー 松村多一郎 浜林武蔵 佐々木定雄 島
森
豊次郎 / 木直
大
正神楽公演活動の歩み
椴法華村史
(大正二年)
大
正二年 ・一月 豪雨三日間続く。,(後、
大
正四年この鉱業権を三井鉱山に譲る。),・八月二十七日、二十八日 台風のため全道的な
大
暴風雨となる。,・この年、夏季低温のため未曽有の
大
凶作となり米価上昇する。,本州からの入稼者の
大
部分は、青
森
県・新潟県・石川県などからであり、裏日本から来る人々の中には例年のように /
大
正二年
南茅部町史 下巻
(〔大舟下の温泉〕)
〔
大
舟下の温泉〕 もとは臼尻下の温泉といい、通称下の湯という。,
大
舟橋より一五町、
大
舟川上流の左岸に湧出する温泉である。 ,び掘鑿して浴屋・浴場を設け、人馬通行の道路をつくり、温泉地六四一坪を官に願い拝借してから、その周辺の
森
林,明治から
大
正にわたり、冬から早春にかけて、赤川村の農家の人たちが山越えして湯治に来た。 ,
大
舟下の湯温泉
大
正7年「町村誌」北海道所蔵 / 〔
大
舟下の温泉〕
南茅部町史 上巻
(大正期の村税の納入実態)
大
正期の村税の納入実態
大
正期の各町村の納税の成績を当時の新聞によりみると、「渡島支庁管内町村に於ける,(
大
正)十一年度町村税納入成績は、左の如くなるが、農家の不景気の為一般に成績面白からず、而して歩合低下,納期日納入歩合 △松前郡
大
島 六四・三一 小島外四村 九九・八七, 福山 二六・二七
大
沢 七九・九三 吉岡, 鹿部 六一・六五 砂原 七〇・六三
森
/
大
正期の村税の納入実態
戸井町史
((6)大正五年に締結された水電会社の契約書)
(6)
大
正五年に締結された水電会社の契約書 契 約 書 今般亀田郡戸井村尻岸内村銭亀沢村ノ三ケ村,費用ハ会社成立ノ暁創立費用ヲ以テ支弁スル事 右契約証十一通ヲ作リ各壱通ヲ保有スルモノナリ
大
正五年三月七日, 鈴木 敬策 北海道茅部郡
森
村
大
字
森
村字柳原百十五番地, 宇美 第吉 同 亀田郡戸井村
大
字小安村字小安二番地, 中宮 亀吉 同 亀田郡
大
字銭沢村字白石十四番地 / (6)
大
正五年に締結された水電会社の契約書
南茅部町史 下巻
(大船農耕地)
大
船農耕地
大
正一二年の秋、万畳敷から三キロメートル下がった泣面山の東山麓、白井川・ガロー川とよばれる,
大
舟川の支流白井川を遡ってムジナ崖を境に二つの地区に分かれ、上段(うわだん)と下段(しただん)と呼ばれた,翌昭和四年四月、第二回を開催した時には、湯川
森
林事務所から所長や監守吏員を招待し、また、地元臼尻村長、,
大
正一五年、湯川への山間の道路も開削され、生活は次第に便利になっていった。 ,旭川 渡辺幸太所蔵 第2回
大
船農耕地立毛品評会 旭川 渡辺幸太所蔵
大
船農耕地と入植者氏名 /
大
船農耕地
函館市史 通説編 第二巻
(渡島国を7大区とする企画)
しかし、この内旧館県管轄の4郡は、青
森
県に併合されていたときに区画の設定が行われており、後志国の各郡は, 蓬莱町 亀若町 地蔵町4~6丁目 汐止町 蔵前通 豊川町 真砂町 船場町 龍神町 西川町
大
森
町, 戸井村 尻岸内村 椴法華村 熊泊村 尾礼辺村 臼尻村 鹿部村 砂原村 掛澗村 尾白内村
森
村,豊川町 真砂町 龍神町 西川町
大
森
町 東川町 第17
大
区(渡島国亀田郡 除函館市街, 戸井村 尻岸内村 椴法華村 熊泊村 尾札部村 臼尻村 鹿部村 砂原村 掛澗村 尾白内村
森
村 / 渡島国を7
大
区とする企画
函館市史 別巻 亀田市編
(発展推移の大要)
発展推移の
大
要 一 明治三十八年五月、公立亀田消防組を創設、村役場に事務所を置く。,三
大
正五年四月一日、本町設置の支部を昇格、第四分団とし、三分団制を四分団制に拡充強化。,中野の一部 第二分団 鍛治・神山・本通・中道・東山・陣川・赤川通 第三分団 赤川・水元・
大
森
/ 発展推移の
大
要
函館市史 通説編 第二巻
(大火による社会的事象)
大
火による社会的事象 これまでは、都市形成という面から、
大
火を契機とする街区改正とそれに関連する事項,明治12年の
大
火は、焼失戸数が全体の約4割にも及ぶ
大
きな被害であったばかりでなく、その焼失範囲がほとんど,明治12年12月14日「函新」) 開拓使による原価販売は木材にも及び、「当支局管内ハ勿論根室及青
森
等各町,労働者移入の件については、官吏の出張前において秋田、青
森
両県に労働者の賃金および需給の状況などの照会の,これに対して青
森
県においては「御焼失以来陸続キ(ママ)職工ノ者御地ヘ出働、且客歳ヨリ諸色ノ高価等ニテ非常 /
大
火による社会的事象
函館市史 通説編 第一巻
(諏訪大明神絵詞)
諏訪
大
明神絵詞 当時、この地に渡り住んだものは、渡党(わたりとう)の名で呼ばれていたものらしく、すなわち,、延文元(1356)年小坂円忠の手になる、『諏訪
大
明神絵詞』によると、「蝦夷が千島というのは、わが国の,東北に当る
大
海の中央にあって、そこには日(ひ)の本(もと)、唐子(からこ)、渡党の3種の住民がおり、その,言語は俚(り)野だが
大
半は通ずる。」と記述している。,った願文を引用し、「津軽外ヶ浜、宇楚里、鶴子遍地(つるべこち)と読んでいる説もある(『西津軽郡史』『青
森
県 / 諏訪
大
明神絵詞
函館市史 銭亀沢編
(大小区画割制から郡区町村制)
その後、明治九年に全道を統一的に
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小区画で整理することになり、全道は三〇
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区に区画された。,亀田郡は一四
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区から一七
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区に区画され、銭亀沢の諸村は一七
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区に属することとなった(表1・1・6)。,宿野辺村(現
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町) 5 上磯 1 有川村、戸切地村、中ノ郷、濁川村、清水村(以上現上磯町) 2 吉田村,尾札部村、臼尻村(以上南茅部町)、鹿部村(現鹿部町)、砂原村、掛澗村(以上現砂原町) 3 尾白内村、
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村,、鷲木村(以上現
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町)、落部村(現八雲町) 7 山越 1 山越内村(現八雲町) 2 長万部村(現長万部町 /
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小区画割制から郡区町村制
椴法華村史
(大正十一年)
・二月 椴法華村
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雨に襲われる。 ・三月三十一日
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沼、道立公園に指定される。,しかし
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戦終了後徐々にヨーロッパの生産が回復して来るにつれ、日本の輸出は次第に不振となり、
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正十一年頃,
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正十一年十一月二十六日 函館新聞 柔魚と鱈の
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漁 発動機で東北・東京へ ,青
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と東北筋一帯の地へ出るのと、遠く東京方面へ出て行くのだからイカニ値段が安くとも販路が拡い丈に ,
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正十一年の椴法華村の一戸当りの収入はわずか五百八十円という有様で、これは
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正二年から十三年までの実質的 /
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正十一年
椴法華村史
(大正四年)
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正四年 ・三月 三井鉱山部、赤井川鉱山を借山し経営を始め、その後
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正六年十二月休山する。,こうした情勢を受け、例年時期になれば来村する入稼者の数が減少し、
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不景気の
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正二年には及ばなかったが、,
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正二年の凶作により多数の入稼者が有ったが、この年は不漁で収入が少なく
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正三年十一月欧州
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戦の影響により,・八月十八日
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阪で第一回全国中学校優勝野球
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会が開催される。,かれ得べし ・この年、
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鷗外「山椒太夫」・芥川竜之助「羅生門」が世に出される。 /
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正四年
南茅部町史 下巻
(〔大正・昭和初期の商業〕)
〔
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正・昭和初期の商業〕 商工業者等の名簿(昭和四七年調・商工会)に拠れば、明治末から
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正・昭和の初, 四〇
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野商店 六八 布川商店 六七 坂田呉服店 四五 吉野堂菊地商店六七, 四〇 遠山清治の行商の木箱 竹中重蔵の記録に、
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正一三年二月二六日、尾札部村商業組合が,明治末から
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正年間にかけて各地に中小企業のための信用組合が設立されている。 ,
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正年間来住して臼尻に店をもち、のち、尾札部に店舗を移してからも行商に力を入れた。 / 〔
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正・昭和初期の商業〕
南茅部町史 下巻
(木直大正神楽)
木直
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正神楽 明治四五年七月三〇日、明治天皇が五九歳で崩御なされ、年号は
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正と改元された。 ,感謝状
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正3年 以来、旧正月行事として地域の青年たちが公演して代々、
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正神楽を継承してきたものである,当時一七歳から二〇歳までの青年達を集め、青
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県陸奥横浜の馬場正二郎を招いて指導を受け、神楽舞を再現した,こうして公演は地域の共感を呼び、浄財がつのられ、たびたびの国防献金に対して、海軍
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臣、陸軍
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臣より何枚,昭和五五年一月三〇日、保存会一行八名で研修旅行に青
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県横浜町を訪れた。 / 木直
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正神楽
南茅部町史 下巻
(木直大正神楽六十五年会員名簿)
木直
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正神楽六十五年会員名簿 師神永徳平
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正元 笛 〓 渡辺竹次郎 〃 山の神,
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正11 盆舞 剣舞 〓 安田亀太郎 〃 三番舞 〓 浜林武世
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正12 鳥舞牛若丸三本剣,〓 桜井秀太郎
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正10 (女) 〓 西谷義治
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正12 剣二本三本 〓 汐谷石太郎,
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正13 笛 牛若丸 〓 坂本佐太郎
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正15 剣舞 〓 西谷定二 〃 笛,の神翁舞 〓 島
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豊次郎 昭和7 剣舞 〓 西谷武雄 〃 剣舞 丁 竹原竹蔵 / 木直
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正神楽六十五年会員名簿
恵山町史
((2) 海底にゆらぐ褐色の大きい葉)
津軽海峡では、函館側と青
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側の両沿岸に生えるコンブのなかまは、ツルモ、マコンブ、ホソメコンブ、ガゴメ、,また、函館の東側の海岸にはミツイシコンブ、西側の白神岬から桧山沿岸と龍飛岬などにはホソメコンブ、青
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側,
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きい葉に比べて小さく目立たないが
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事な部分である。 ,北上し、現在の津軽海峡にもう一度目を向けると、ホンダワラ類は函館側に約10種、青
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側に約15種が生育している,深いところでは、ウガノモク、フシスジモク、アカモクなどが林のように立ち上がって、海の中に
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を作っている / (2) 海底にゆらぐ褐色の
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きい葉
函館市史 別巻 亀田市編
(造林奨励)
造林奨励については、 「農業経営の基礎をなす土地の生産力を増
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し、一面生産生活資材需給の円滑,
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林愛護については、 「
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林効用は誠に
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であるが、林業は長年たゆまぬ育成と愛護が必要なので,、植林による緑化と共に
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林の愛護を推進する」。 ,而してこれら一連の事業推進に
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きな役割を果している農業協同組合、開拓農業協同組合、土地改良区、
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林組合,
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林面積(昭和二六年三月三一日現在)
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林面積(昭和二七年四月三〇日現在)
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林面積
函館市史 通説編 第一巻
(エドワード・S・モース)
エドワード・S・モース エドワード・シュベスター・モースは、函館に来遊する前年の明治10年に東京の
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貝塚,を発掘し、明治12年に英文『
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貝塚』と邦文『
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介墟編』の2論文を東京
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学理学部の最初の紀要に発表しているが,この2人の研究を読み比べると、ミルンは
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貝塚をアイヌ民族が北海道に来る前に残した貝塚と考えたのに対して,、モースはアイヌ人はエスキモー人やアリュート人と同じく土器を作らない人種で、
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貝塚人のように土器を作,更に人骨が野猪や鹿の骨に混っていたことから、日本古代人に食人の風習があると述べ、当時の日本人に
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きな衝撃
函館市史 別巻 亀田市編
(北海道教育大学附属函館小学校)
北海道教育
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学附属函館小学校 北海道教育
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学附属函館小学校 一 亀田町に校地を求める 昭和四十一年附属小学校用地買収計画,三 新校舎での生活 『創立六十年史』 (北海道教育
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学函館分校)の中に附属小学校について左記のように,生活を豊かにし、体力づくりをめざす自由時間と四〇分授業 工 自由的で創造的な児童会活動 かくて
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正十二年亀田,の
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に誕生した八幡町の旧校舎も亀田町赤川通町二二九の一にその居を移し、伝統ある教育方針をつぎながらも、 / 北海道教育
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学附属函館小学校
南茅部町史 上巻
([北海道の大謀網])
開鑿ス鰤曳網ヲ下ス文政二年東蝦夷地樽前及長万部等ノ各地ニ漁場ヲ新開シ鰯引網ヲ設ク同五年又落部ノモノタイ
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ノ,小川幸吉事蹟 函館縣渡嶋國茅部郡臼尻村平民 追賞金十圓 故 小川幸吉 幸吉ハ青
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縣陸奥國下北郡佐井村幸右衛門,鰯引網 一ヶ統 ①② 〃 幸吉 銭亀沢 鰯引網 一ケ統 ①② 文政五年(一八二二) 三代 与五左衛門
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新川,
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正中期まで尺目の
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網を用いた鮪網は、ただ
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鮪専用の漁網であった。 , 二 七三〇 尾白内
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小 二 八五〇
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二 九五〇 鷲ノ木 / [北海道の
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謀網]
椴法華村史
(大政奉還と箱館裁判所)
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政奉還と箱館裁判所 慶応三年(一八六七)十月十四日徳川慶喜により
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政奉還がなされ、二百五十年間に渡,明治新政府は同日付で総督には仁和寺宮嘉彰親王、副総督には清水谷公考(きんなる)・土井能登守利恒(越前
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野藩主,釜谷村・泉沢村・札刈村・木古内村・下湯川村・上湯川村・志苔村・銭亀沢村・石崎村・鍛冶村・神山村・赤川村・
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川村,・七重村・藤山郷・峠下村・市之渡村・文月村・濁川村・中野村・本郷・
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野村・千代田郷・一本木郷・石川郷・, 六ヶ場所 小安村・戸井村・尻岸内村・尾札部村・臼尻村・鹿部村・砂原村・掛り澗村・鷲木村・
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村 /
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政奉還と箱館裁判所
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