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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 銭亀沢編 (浄土宗大願寺)

浄土宗大願寺 当初念称庵と称し、上湯川村に位置した称名寺の末寺であったが、その創立年は不明である。,明治八(一八七五)年に再度移転し、明治四十年、いずれも大字志苔村の住民であった木村兵太郎、木村兵次郎から,大願寺 / 浄土宗大願寺
恵山町史 (東本願寺の開拓出願)

東本願寺の開拓出願 政府は明治元年以来北海道開拓の為に役所を新設し官吏を任命したのであるが、何分にも,茲に於いて東本願寺は大勇猛心を以て国恩報謝の為めに、明治2年(1869年)6月5日、北海道開拓を政府に,出願するに至ったのである。  ,出稼之者も異教に流不申様仕、報御国思度奉存候、以上    (明治二年)六月五日            本願寺東門主使, 弁事  御 役 所    この出願には本山の坊官(門跡寺院の執事)たりし下間頼一(大蔵卿)同頼稼及 / 東本願寺の開拓出願
函館市史 銭亀沢編 (近代の勝願寺)

『北海道寺院沿革誌』で、この勝願寺の来歴について、その建立の年時と開基名、本寺名を確認したが、勝願寺が,この明治二十七年は、勝願寺にとって、「本堂庫裏」の大改築を実施した画期的な年であった。,この「旧墳墓地」の請願書といい、前の「未開地売払願」といい、いうなれば、求道庵の寺勢拡大以外の何ものでもない,北村のこうした寺勢拡大の策が功を奏してか、明治二十七年には一八〇戸であった壇家数が、二三年後の大正六年,地内の壇信徒に支えられた着実な寺勢の拡大の結果、大正八(一九一九)年十二月二十六日に、「求道庵」改め「 / 近代の勝願寺
函館市史 銭亀沢編 (浄土宗勝願寺)

浄土宗勝願寺 明暦二(一六五六)年に僧の求道によって現在の地に開かれたのがその始まりであり、当初は求道庵,その後称名寺の末寺となり、勝願寺と改称している。  ,また、同寺には大正期に建てられた切妻造りの四脚門がある。 勝願寺 勝願寺平面図 / 浄土宗勝願寺
函館市史 銭亀沢編 (真宗興正寺派西願寺)

真宗興正寺派西願寺 大正七(一九一八)年十一月に鶴野の説教所として創立。,昭和二十三(一九四八)年に寺号公称で真宗興正寺派西願寺となり、その際に集会所形式であった建物を寺院建築,本堂に使われた材料は虻田郡喜茂別町から運ばれ、上磯郡木古内町在住の宮大工によって建設された。,西願寺 / 真宗興正寺派西願寺
函館市史 別巻 亀田市編 (東本願寺と桔梗野)

東本願寺と桔梗野 安政六(一八五九)年二月、東本願寺箱館御坊役僧開明らの実地調査に基づき、四月東本願寺本山使僧斎聖寺徳善,東本願寺の開拓地は最初後志地方となっていたが、同寺では桔梗野の開拓について次のように箱館奉行所に願い出,移住者の大部分は気候、風土に不慣れであり、更に経済的にも不安定で、これらの人々に対して東本願寺箱館御坊, 小人十四名 女二十三名 大人十八名 小人五名    移住者の住居を確保した本願寺は、次の事業として,桔梗野別院は最初広大寺と公称していたが、後に宝皇寺(ほうおうじ)と改め、詰番一名、伴僧一名、下男一名の / 東本願寺と桔梗野
函館市史 通説編 第一巻 (願乗寺川の開削)

願乗寺川の開削 堀川乗経  箱館において広大な面積を占める砂頸部の地には、当時地蔵町の一部分を,そこで願乗寺(いまの西別院)の堀川乗経はこれを慨嘆し、安政6年本山の許可を受けて官に出願して新渠を開き,俗にこれを願乗寺川または堀川と称し、住民に3つの利便を与えた。第一は飲料水を沿岸の住民に与えたこと。,このため人々もようやくこの溝渠の付近に集まり住むようになり、また願乗寺でも少なからぬ土地を賜わり、これを,のためには大きく貢献している。 / 願乗寺川の開削
恵山町史 (東本願寺の道路建設)

東本願寺の道路建設 明治3年(1870年)7月、東本願寺大谷派の信徒らは当時19歳の法嗣・現如上人大谷光螢,に率いられ、本願寺道路の建設に着手した。  ,これを打開するため、東本願寺は19歳の若い現如新門主(法嗣)を総責任者とし、明治3年2月京都本山を出発,、一行が通過する東海・東山・北陸・奥羽の東本願寺門徒に寄付を依頼した。,100数10名に加え、仙台支藩の武士や多くの門徒らに工事への協力(労力)を呼び掛け参加を得て渡道、「本願寺道路 / 東本願寺の道路建設
函館市史 通説編 第一巻 (東本願寺の桔梗野開拓)

東本願寺の桔梗野開拓 安政6年、箱館御坊浄玄寺役僧の世話で、東本願寺では箱館奉行に桔梗野の開拓を出願,、許されて「東本願寺開発場桔梗野」(別称、六条郷安寧村)と称して開墾した。,1,500間、奥行軍川村境に至る数里(耕地約700町歩、秣(まぐさ)場約56万8,000坪)という広大さで,これが現在の桔梗の宝皇寺である。同村こそ東本願寺によって出現した村である。 / 東本願寺の桔梗野開拓
恵山町史 ([東本願寺の道路建設])

[東本願寺の道路建設] 開拓使に先駆けて北海道の道路建設に着手したのは、若干19歳の法嗣、現如上人に,率いられた東本願寺大谷派の信徒らであり、開削した道路は本願寺道路と呼ばれている。  ,このことについて『東本願寺北海道開教史』は次のように記している。 / [東本願寺の道路建設]
椴法華村史 (大龍寺)

大龍寺 明治十九年七月、渡会定孝師が本道布教の際椴法華村に来て、杖を留め地理人情を観察したるところ、,そこでまず、明治二十一年十月九日、説教所妙法寺として出願し、明治二十二年七月五日許可せられ、仏事を営み,、数年を経て函館高龍寺上田大法師を開山とし、同寺の末寺となし、その筋に明治二十五年十二月出願し、明治二十六年九月一日大龍寺,として寺号公称を許可される。,(大龍寺沿革史要約)  本尊 釋迦牟尼仏  祭典行事   一 御施餓鬼  一月十六日   二  / 大龍寺
恵山町史 (幕末の東本願寺開発場・桔梗野)

幕末の東本願寺開発場・桔梗野 明治政府から開拓許可を受けた東本願寺は総力を上げて事に当たることになったが,、東本願寺の北海道開拓はこれが初めてではなかった。,〈桔梗野の開発〉 安政6年(1859年)東本願寺は幕府に願出、「東本願寺開発場」として“桔梗野”(現函館市桔梗町,ここは別称「六条郷安寧村」と呼ばれ、農場開発・附属施設として用水路・道路(本願寺道路と呼ばれた)の大規模,これら幕末に東本願寺が開発・建設した桔梗野の農場、付属施設、本願寺道路は明治4年に維新政府・国家に返上 / 幕末の東本願寺開発場・桔梗野
函館市史 別巻 亀田市編 (宝皇寺(真宗大谷派))

宝皇寺(真宗大谷派) 宝皇寺  創立は安政六年四月、開基は厳如上人、はじめは「東本願寺別院広大寺,」と称し、翌万延元年五月、箱館奉行小出大和守の差図により「東本願寺別院宝皇寺」と改称した。  ,前記のように安政六年、本願寺二十一世大谷光勝法主が使僧斉聖寺をもって箱館奉行堀織部正に出願し、国恩に報,いるため自費をもって能登・越中の民を数十戸移住させ、桔梗野を開拓して、「東本願寺開発場桔梗野」と称した,その後移民が増加して道場が狭くなったので、当時の住職間瀬徳温の所有地一、二〇〇坪を寄付し転住を願い、明治十五年五月六日 / 宝皇寺(真宗大谷派)
戸井町史 (四、大宣寺(館町))

四、大宣寺(館町) 館町の大宣寺は真宗大谷派の寺院で、本山本願寺の末寺である。  ,を出願、明治三十四年(一九〇一)十月九日、寺院を創建し、寺号は住職寺西大宣の名をとり、大宣寺と命名した,この寺院の本尊は阿弥陀如来で、函館別院の荒木源理師が京都の某店から購入したものを、大宣寺開基、寺西大宣師,大正十三年(一九二四)五月十日、開基寺西大宣師が、六十五才で逝去し、寺西粂丸師が二代目住職を継承して現在,大宣寺 / 四、大宣寺(館町)
戸井町史 (三、大隆寺(館町))

三、大隆寺(館町) 館町の大隆寺は浄土宗の寺院で、函館称名寺の末寺である。,上法務所設置を出願した。  ,爾来毎年鰮の大漁が続き、戸井村が異常に発展し、信徒も増加したので、大正八年(一九一九)十一月十二日、称名寺住職及,大正八年(一九一九)十一月二十三日、法開山徹心院大隆寺の寺号公称を許可された。    ,  菊 崎 隆 乗    二 代  吉 本 正 道        三代   横 島 儀 導 大隆寺 / 三、大隆寺(館町)
函館市史 通説編 第一巻 (寺院)

寺院 『箱館夜話草』に「惣じて箱館の寺々は他国の寺院に対しては、実に御朱印地あるいは大地に比すべし」,またこの年浄玄寺が本山の掛所となり、本願寺箱館御坊浄玄寺と改称した。,願乗寺(浄土真宗 現本願寺派本願寺函館別院) 安政4年、本願寺休泊所として建ち、万延元年、本願寺掛所願乗寺,西本願寺は東本願寺末寺の専念寺に拒まれて、永く蝦夷地に寺宇を建立することを禁じられていたが、幕府再直轄,明治10年本願寺別院となった。   / 寺院
戸井町史 (「附」大宣寺の記録)

「附」大宣寺の記録 「附」大宣寺の記録 西暦 年月日 事蹟 一九一〇 明治四三、七、一八 客殿新築,明治四五年一月、新築出願。 同年五月、落成。 大正二年(一九一三)六月一二日竣工届出。,、寺西大宣師が譲り受けて安置したものである。,一九二四 大正一三、五、一〇 開基寺西大宣住職が逝去した。享年六十五才。,一九三七 昭和一二、五、九 本堂再建許可願を、函館要塞司令部、本山、道庁に提出した。 / 「附」大宣寺の記録
函館市史 銭亀沢編 (寺院の姿)

の観意寺、曹洞宗の善宝寺・西願寺、浄土宗の勝願寺・大願寺)のうち、浄土宗の大願寺を除く五か寺が、石崎に,地区内に現存する六か寺のうち、『北海道寺院沿革誌』が登載しているのは、この妙応寺と勝願寺および大願寺だけである,ただ、この勝願寺・大願寺の記事も、妙応寺に比べてかなり簡略なものとなっている。,『北海道寺院沿革誌』は、このように、勝願寺と大願寺についてそう多くを語らないが、それでも近世の明暦二年,寺号を「大願寺」と公称したと伝えている。   / 寺院の姿
函館市史 通説編 第二巻 (実行寺は再建か廃寺か)

き込まれ、実行寺・東本願寺(浄玄寺)・称名寺などの名刹が一瞬のうちに灰燼に帰してしまった。  ,開港後、一時ロシア領事館の開設までの仮止宿所となったりしていた日蓮宗の実行寺は、その大火の直後、廃寺か,そしてこうした事態を受けて、実行寺の450名もの檀徒が実行寺の再建か廃寺かを賭けて日蓮宗大教院管長に請願書,彼らの請願の骨子は、「説教所へ寺号ヲ公称セシムルハ六名ノ過チヲ飾ルニ過ギズ、実行寺ニ職ヲ復セザレバ四百五十名,廃寺か再建かで揺れた実行寺の騒動も、檀信徒の熱い請願が功を奏し、松尾日隆の復権も叶い、また仮堂建設中に / 実行寺は再建か廃寺か
函館市史 通説編 第二巻 (払下げ出願)

払下げ出願 明治5年以降10か年の期限を決めて進められてきた開拓使による北海道開拓計画は、14年末で,開拓使廃止が目前に迫ったことを認識した開拓使では、大書記官安田定則、権大書記官折田平内、金井信之、鈴木大亮,この願書を受理した黒田長官は、7月21日「諸工場其他払下処分ノ儀ニ付伺」を太政官へ提出、4書記官の請願,4書記官の願書は次のとおりである。,第百十九国立銀行預 用達貸渡 商務局貸渡 函館支庁材木払代 函館支庁衣類払代 函館支庁高龍寺移転跡地払代 / 払下げ出願
椴法華村史 (法龍寺)

法龍寺 明治三十四年六月布教を開始し、明治三十五年十一月眞宗大谷派本願寺所属説教所として設置を許可され,以来、漸次信徒を増したるにより大正十五年七月十五日、亀田郡椴法華村字島泊百七十五・六番地へ眞宗大谷派法龍寺創立,の件を出願する。,その後昭和二年四月五日許可を受け、昭和二年十月一日、寺院創立を完了する。   / 法龍寺
函館市史 通説編 第二巻 (政府首脳への請願)

、大木参議…平田文右衛門方、徳大寺宮内卿…勝田弥吉方)(14年8月18日「函新」)に入った。  ,を提出しながら、開拓使の対応に行き詰まりを感じていた請願者達は、やむを得ず政府高官への請願に踏み切った,この時提出したといわれる大隈参議あての建言書が2通残っている(「大隈文書」早稲田大学図書館蔵)。,山本らの請願書(左大臣有栖川熾仁親王、大隈参議、大木参議)に対しては、14年12月大木参議から却下された,この彼らの行動は開拓使を大いに刺激、9月10日、再願書に対する前述の指令が但書付きで出されたものと思われる / 政府首脳への請願
南茅部町史 下巻 (〔龍王寺 寺号公称〕)

日蓮宗龍王寺の大過去帳に記される創立開山当時の起原書並びに由緒の記録は貴重な文言である。  ,日蓮宗 龍王寺    「大過去帳」   当山創設者 明治十五年十一月七日   開山    日盛 ,          創立開山   南無妙法蓮華經 日盛 花押     南無日蓮大菩薩   及見仏功徳盡回向仏,上場等有志        金ヲ積集及          並秋本長吉外有志中          本願施主,之有也         熊泊村改宗檀中         拾余戸ニテ□鏡         寄附致ス本願主 / 〔龍王寺 寺号公称〕
函館市史 銭亀沢編 (寺院の立地と建物)

寺院の立地と建物 銭亀沢地区には現在六つの寺院が存在している。,に大願寺(浄土宗)、石崎町に勝願寺(浄土宗)・観意寺(真宗大谷派)・妙応寺(日蓮宗)そして鶴野町に善宝寺,(曹洞宗)・西願寺(真宗)といった具合にかたよって分布している。,また、勝願寺・観意寺・善宝寺の三寺に関しては、いずれも敷地を隣り合わせて建っており、寺町の様相を呈している,この原因としては、寺院の運営は、檀家の経済によって維持されるため、比較的人口の多い村に各宗派の寺院が集中 / 寺院の立地と建物
函館市史 銭亀沢編 (近代の妙応寺)

近代の妙応寺 大正期の妙応寺(北海道立文書館蔵)  明治五(一八七二)年、明治政府の「神仏分離,日蓮宗の寺院には、壇家の菩提寺とともに、もろもろの祈願などをする祈祷寺もあることを考慮したからであろう,なぜなら、石崎のほかの浄土宗の念称庵(大願寺の前身)や、求道庵(勝願寺の前身)には、神官菊池は出向いていないのである,明治十二年九月二十六日、この経石庵が庵号を改めて「日持山妙応寺」と寺号を公称したい旨の願書が開拓使へ「,奉願」され、翌十月四日に「聞届」けられた(「庵号改称願」妙応寺蔵)。   / 近代の妙応寺
函館市史 通説編 第二巻 (東本顧寺の移転)

東本顧寺の移転 東本願寺=函館別院は、明治初年にはアメリカの仮領事館に当てられたのみならず、同9年の,大火後に再建された東本願寺 「函館実地明細絵図」より    この移転論争は結局、道路改正,17日付)であったというが、当時の檀信徒の再建に向けてのエネルギーは相当なもので、例えば、彼らは東本願寺信徒,いっぽう、明治12年の大火には直接見舞われなかったものの、本願寺派函館別院=願乗寺も災火には悩まされ続,そうした中で、明治40年の大火によって、大谷派函館別院・本願寺派函館別院・称名寺そして実行寺が悉く再焼失 / 東本顧寺の移転
函館市史 通説編 第二巻 (北海道における近代寺院の造立と函館)

函館高龍寺 本願寺 本願寺 本願寺 磐城郡大雄寺 札幌中央寺 札幌中央寺 武蔵国蔵福寺,熊石門昌庵 山形大日坊 函館高龍寺 小樽能徳寺 有珠善光寺 本願寺 越後静明院 寿都法界寺,札幌中央寺 本願寺 本願寺 伊勢高田専修寺 伊勢高田専修寺 島牧千走寺 本願寺 真宗大谷派,真宗大谷派 真宗大谷派 真宗大谷派 曹洞宗 真宗仏光寺派 曹洞宗 真谷派 真谷派,真宗大谷派 真宗大谷派 曹洞宗 曹洞宗 真宗本願寺派 浄土宗 浄土宗 曹洞宗 真宗大谷派 / 北海道における近代寺院の造立と函館
函館市史 通説編 第二巻 (明治時代の函館の寺院群)

万延元(1860)年、本願寺掛所願乗寺と 改称。明治6年、豊川町からの出火により焼失。,1,828人 浄土真宗 東派別院 元町 浄土真宗 大谷派 東本願寺 松前専念寺6世の浄玄が、寛永18,7,500人 宝皇寺 桔梗村 浄土真宗 大谷派 東本願寺 本願寺21世光勝が、安政6(1859)年、,箱館奉行所の許可を得て、桔梗村に越前国の農民数10戸を移住させ、東本願寺開発場桔梗野とし、同地に本願寺別院広大寺,南新町 新義 真言宗 羽前国 注連寺 慶応4年に龍神町に注連寺出張所を創置し、大日如来を安置したのに / 明治時代の函館の寺院群
函館市史 通説編 第一巻 (下海岸方面の社寺)

下海岸方面の社寺 志海苔八幡神社は天正年間(1573 1591)、銭亀沢八幡神社は正保元(1644),石崎の勝願寺(浄土宗称名寺末)は明暦2年に、僧求道が建て求道庵といい(大正9年寺号)、銭亀沢の大願寺(,称名寺末)は創立年代は不明だが、もと上湯川にあって念称庵といい、明和2年に現地に移った(大正7年寺号) / 下海岸方面の社寺
恵山町史 (4、戒雲山『禅龍寺』)

  沿革  禅龍寺は大正15年(1926)11月27日、高岸寺三世渡会元孝和尚が根田内(現字恵山,)にも禅寺をとの檀信徒の願いに応え、これらの人々の浄財を基に30坪の伽藍を設置し『高岸寺根田内法務所』,・昭和22年(1947)5月19日、二世大鑑元明(渡会元明)寺号公称を北海道長官に願い出、認可を得て『,・昭和60年(1985)には、「子孫のために立派な本堂を」との願いから本堂新築を発願。,15年~昭和22年(戒雲元孝大和尚)   禅龍寺本堂建立之碑について  禅龍寺の境内に見事な御影石 / 4、戒雲山『禅龍寺』
函館市史 銭亀沢編 (戦時下の寺院)

国内が戦時色一色に染めぬかれる昭和十七年の頃になると、宗教世界も、「宗教報国会」のもと、戦争勝利の祈願ないしはその,真宗大谷派 觀 意 寺 字石崎 120    - 曹 洞 宗 善 寶 寺 字石崎 110    -,浄 土 宗 勝 願 寺 字石崎 230    - 浄 土 宗 大 願 寺 字銭亀 263    -,これについては後述することにして、ここでは大正十年から昭和九年の段階で、氏子数五〇五戸を擁する宗教団体,この石崎説教所(今日の西願寺の前身)が、大正九年から昭和九年の間に石崎地区に進出していたことになる。 / 戦時下の寺院
恵山町史 (2、東雲山『高岸寺』)

この庵は翌年の暴風雨で破壊してしまったが、村民の強い願いを受けた総代の赤井松助は、信徒らの協力を得て堂宇,に願出、『高龍寺説教所』としての認可を得る。  ,願いの適った大滝孝全住職は、日夜布教に伝導に、また作務衣を着ては池を掘り地下水を抜き境内の整備をし、村内唯一,そして、明治26年4月には寺号を『東雲山高岸寺』とするべく願出、同年12月3日公認認可を得る。  ,・昭和62年(1987) 大滝孝全(当山二世開創法地開闢卍宗孝全大和尚)70回遠忌記念に念願の報恩銅像 / 2、東雲山『高岸寺』
戸井町史 (二、法泉寺(館町))

二、法泉寺(館町) 館町の法泉寺は、曹洞宗の寺院で、函館高竜寺の末寺である。,明治二十四年(一八九四)十二月二十五日許可を得て、新寺創建を出願し、翌二十五年三月二十五日新築許可を得,本尊  釈迦牟尼仏      伝大蓮作の木造仏二体、伝貞伝作(今別の僧)の金銅仏が一体ある。  ,歴代住職  初 代  佐 藤 大 雪    二 代  佐 藤 大 麟        三 代  佐 藤, 大 円    四 代  佐 藤 孝 順 法泉寺 / 二、法泉寺(館町)
函館市史 通説編 第一巻 (寺院)

寺院 箱館の寺院については、前記のごとく随岸寺が松前に移ったあと、しばらくして亀田に2か寺が建立された,  高龍寺(曹洞宗) 寛永10(1633)年松前法源寺4世芳龍が亀田に1宇を建立(寺号公称年代不明,松前光善寺の末寺で、『福山秘府』(寺院本末部)には元禄3年箱館(いまの弥生小学校西側)に移したとあるが,』には裏町(「大町、弁天町、本町通りの裏なれば、かく呼びしとなり」)にあったように述べられており、そこは,  浄玄寺(浄土真宗、現大谷派本願寺函館別院) 宝永7年に泉沢から、いまの弥生小学校東側辺 / 寺院
函館市史 別巻 亀田市編 (潜龍寺(曹洞宗))

潜龍寺(曹洞宗) 潜龍寺  中野町一三六番地にある。  ,明治三十一年、高龍寺説教所を設けて布教した。,その後ようやく信徒を増し、堂宇再築につき、一同協議の上、大正六年十二月二日、創立について出願し、同八年三月三十一日許可,住職は高橋大徹である。 / 潜龍寺(曹洞宗)
函館市史 別巻 亀田市編 (和合寺(日蓮宗))

和合寺(日蓮宗) 和合寺  富岡町一九番地にある。  ,大正五年のことであった。  ,を出願し、本堂と庫裡を新築した。  ,得、七福山和合寺と称し、同十五年十月創立完了の届出をした。,その後大法宣伝の道場として現在にいたっている。   / 和合寺(日蓮宗)
函館市史 銭亀沢編 (伝承にみる仏教寺院)

第二次世界大戦時下から戦後の前後には、この寺院機構を活用した僧侶と共同の「読経会」も催されており、寺院,また、善宝寺でも、大正時代から戦時中までは、悪性感冒などの流行病を防ぐため、数珠廻しや百万遍などの供養,同じ町内の、浄土真宗大谷派観意寺と壇家による寺院機構は、「僧侶」、「責任役員」(二人)、「壇家惣代」(,か寺(妙応寺・観意寺・善宝寺・勝願寺)が共同で事に当たった。  ,病気と家内安全を祈願するこの祭りは、女性中心の祭りであるが、毎年一五〇人前後の参拝者がある。 / 伝承にみる仏教寺院
函館市史 別巻 亀田市編 (函館大谷学園と短期大学)

函館大谷学園と短期大学 大谷女子短期大学  函館大谷学園は明治二十一年、在函六寺院の協力による,ついで東本願寺の単独経営となり、以来八十余年、現在函館大谷高等学校(男子部・女子部)を経営し、在校生一,こうした中で本短期大学は学園の将来と女子教育の総合的完成を期するため、東本願寺並びに学園関係者が中心となり,、昭和三十八年四月、道南唯一の女子大学として発足した。  ,四 学舎と設備   短大専用校地 三万三、〇〇〇平方メートル   学園グランド 七、九四〇平方メートル / 函館大谷学園と短期大学
恵山町史 (3、龍穏山『高聖寺』)

能化庵の再三の要請に、高龍寺の常任布教師大道弾隨は、秋田県の(曹洞宗の)宗務支局取締北村亮仙に僧侶の派遣,芹田は、部落・斉藤の熱意を感じとり、その願いを快く引き受ける。  ,芹田は村の主だった人達と相談し、千坪余りの墓地と10間四方の火葬場の新設を、明治36年5月戸長役場に出願、,・大正4年(1915)10月28日 大正御大典記念事業として、法務所施設1ケ棟を増設し、『龍穏山高聖寺,』と寺号公称を願出、許可を得、新寺を創立する  ・昭和3年(1928)8月 高聖寺本堂を建立する。 / 3、龍穏山『高聖寺』
恵山町史 (1、興徳山『豊國寺』)

総本山は京都東山華頂山大谷寺   沿革  現存する「棟札」によると豊国寺の創建は、文化8年(1811,表  白  維時昭和三年二月十五日、西方願王阿弥陀仏ノ御宝前ニ於テ仮御遷座ノ式ヲ奉ル。,願クハ建立常念無衰無変ニシテ寄付芳志者各家祖先累代ノ冥福ヲ祈リ、現当二世哀愍加祐シ給ハンコトヲ謹言。,(浄土宗大本山の一)の末寺で将軍家の「葵の紋」が許されていた寺院である。  ,境内の子安地蔵尊「子育祈願・水子供養」について  この地蔵尊は、彫刻家でもある蔦龍明住職が製作したものである / 1、興徳山『豊國寺』
函館市史 通説編 第二巻 (私塾・寺子屋から私立小学校へ)

私塾・寺子屋から私立小学校へ    表10-7 明治6年の私塾・寺子屋 経営者名 流,」より作成  寺子数の( )内は男・女の内訳    12年の大火後から15年の公立小学校再興,さらに12年の大火後の再興まもない14年4月には、これらの私塾・寺子屋を一掃する「私学開業規則」(『布類,』)が布達され、既存の私塾・寺子屋経営者はいったん廃業の上、この規則に基づき新たに私学開業を願い出ることになった,から「私塾廃業延期願」が提出された(明治14年「願伺届録」道文蔵)。 / 私塾・寺子屋から私立小学校へ
戸井町史 (一、広福寺(小安))

広福寺の分家として生れた石崎善宝寺、戸井法泉寺、尻岸内高岸寺、椵法華大竜寺は広福寺の末寺ではなく、何れも,し、同寺十一世華重浄海大和尚が豊眠大和尚を勤請開山として現在地に草庵を造営し能化庵と命名した。,、寺号改称と堂宇再建願を提出した。,歴代住職   初 代  燕嶺豊眠大和尚(箱館高竜寺十世)開山   二 代  華重浄海大和尚(  〃,(石崎、戸井、尻岸内、椵法華に新寺創建)   十 代  大応董林(とうりん)大和尚(大正十一年二月十一日歿 / 一、広福寺(小安)
恵山町史 (『資料』 現如大谷光螢上人の銅像建設)

『資料』 現如大谷光螢上人の銅像建設 昭和44年(1969)、本願寺道路建設の総責任者、現如上人の渡道開教百年,に当たり、上人を始めこの工事に携わった多くの人達の労苦に感謝し、その功績を顕彰せんがために真宗大谷派北海道教区,頌徳文  現如、大谷光螢上人ハ東本願寺、第二十一世嚴如上人ノ法嗣、明治三年二月勅命を蒙ッテ京都ヲ出発,、一百余名ノ部下ヲ率イテ本道ニ渡リ、新道切開、教化普及及ビ移民奨励ノ三大目標達成ニ、粉骨砕身努メラレタ / 『資料』 現如大谷光螢上人の銅像建設
函館市史 通説編 第二巻 (社寺争いの現実)

社寺争いの現実 前引(北海道開拓と神社)の史料(A)で少しく垣間見たように、函館八幡宮は、幕末以来、,自らを「蝦夷地惣鎮守」あるいは「箱館惣社」をもって任じていたが、札幌神社が明治2年に大国魂神・大名牟遅神,開拓神新規被為在勅祭候御儀も御坐候ニ付、出格ノ御処分を以テ(中略)当社、勅祭神社ノ部ニ御差加ノ上、御普請被成下候様、此段奉懇願候,;     開拓使御中 (「開公」五四八二)   八幡坂にあった函館八幡宮 北大蔵,箱館惣社」=「蝦夷地惣鎮守」の自覚をもって、札幌神社と同じように勅祭扱いを主張している点に思いを致すなら、寺院 / 社寺争いの現実
函館市史 通説編 第二巻 (寺院にみる開拓・開教の論理)

寺院にみる開拓・開教の論理 北海道における近代開拓=開教の歴史は、明治期に入ってから始まったのではなく,松前城下の法源寺と龍雲院は、幕府の開拓奨励策を、おのれの寺勢回復ないし拡大のエネルギーにスイッチすべく,  西蝦夷地ノ内ヘ拙僧共自力を以庵室一宇宛取結弘法作善相営、天下奉平、国土安穏ノ祈願専ら,の寺院は、函館であれ札幌であれ、その地域の別を越えて、共通して前の松前城下寺院のような開教エネルギーを,その具体的結晶が前掲の函館の寺院による14か寺の末寺形成であり、総和としての91か寺の近代寺院建立であった / 寺院にみる開拓・開教の論理
函館市史 通説編 第二巻 (神社と寺院の反目)

神社と寺院の反目 実はそうではない。,函館市中の既存寺院と神官との対立は確認されないけれども、次にみる開拓を目的に函館市中への進出を企てた天台宗,東西御場所ヘ末院取建申度儀、兼念願ニ奉存候所、倩承伝仕候得共、今般御開拓使御出張以来、諸宗ハ東西御場所,ヘ弐拾四ヶ寺ノ末寺取建仕候趣、(中略)北海道渡島国御開拓御盛功御満足ノ御儀ニ奉祈念度奉存候間、右ニ付十,、左候ハヾ、御開拓ノ御趣意ニ基キ取締リ方相立可申ト奉存候、(中略)右為末院取建仕度奉存候 (『神道大系北海道 / 神社と寺院の反目
函館市史 通説編 第一巻 (堀川乗経の活躍)

堀川乗経の活躍 明治初年ころの願乗寺  乗経は南部下北郡川内の願乗寺に生れ、はじめ法恵と言い、,天保12(1841)年17歳で蝦夷地に渡り、西本願寺の寺院が1か寺もないのを憂えて、本山に開教の策を進言,本山は初め但馬国専福寺の僧入真房大虫を派遣して、奉行所から貸与された濁川の土地55万坪の開拓を進めていたが,ここにも願乗寺休泊所を設け、宣法庵と称したが、明治11年江差に移り江差別院となった。,この功により願乗寺は幕府から墓地のほかに、1万2,118坪の土地を与えられた。
函館市史 通説編 第一巻 (諏訪大明神絵詞)

諏訪大明神絵詞 当時、この地に渡り住んだものは、渡党(わたりとう)の名で呼ばれていたものらしく、すなわち,、延文元(1356)年小坂円忠の手になる、『諏訪大明神絵詞』によると、「蝦夷が千島というのは、わが国の,言語は俚(り)野だが大半は通ずる。」と記述している。,1468)年2月、安東師季が紀州熊野神社に納めた、「津軽外浜宇楚里鶴子遍地悉く安堵せられん事」を祈った願文,蝦夷に関する最古の絵 「聖徳太子絵伝」より(茨城県那珂町 上宮寺蔵) / 諏訪大明神絵詞
函館市史 銭亀沢編 (大漁と出稼ぎの安全を祈って)

大漁と出稼ぎの安全を祈って 銭亀沢の近代における宗教は、大局的にいえば、神社と寺院を宗教施設として、,神社や寺院(例えば、「観音講」など)が身近かな存在となる。,それだけに銭亀沢の住民にとっては、「近代天皇制」の中核である「皇室尊崇」よりも、より身近かな安全操業と大漁祈願,漁師にとって、豊漁ももちろん大事だが、それ以上に、安全な操業が大事である。,銭亀沢において、大正九年から昭和初年に、二つの「新宗教」が既存の神社や寺院に加えて受容されたのは、戦時体制 / 大漁と出稼ぎの安全を祈って
函館市史 銭亀沢編 (石崎町の二つの講)

これは、戦時中の一時を除いて明治から現代まで続いており、その目的は女性の安産祈願にある。,「観音講」は、昭和から現代まで存続しており、地内の人は宗派に関係なく、勝願寺に毎月十七日に集まり、航行,昭和十年に、勝願寺に観音様を建立した。お盆と正月には、盛大な祭りを催すという。,この観音講は、前の勝願寺のところで確認した昭和六年の二三三名にのぼる「西国丗三番石像観音尊芳名帳」と全
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