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函館市史 通説編 第一巻
(エドワード・S・モース)
エドワード・S・モース エドワード・シュベスター・モースは、函館に来遊する前年の明治10年に東京の
大森
貝塚,を発掘し、明治12年に英文『
大森
貝塚』と邦文『
大森
介墟編』の2論文を東京大学理学部の最初の紀要に発表しているが,この2人の研究を読み比べると、ミルンは
大森
貝塚をアイヌ民族が北海道に来る前に残した貝塚と考えたのに対して,、モースはアイヌ人はエスキモー人やアリュート人と同じく土器を作らない人種で、
大森
貝塚人のように土器を作
函館市史 通説編 第一巻
(平野)
一方函館山南方を流走する流れは松倉川沖において二分し、その1は反流となって
大森
浜沿岸から立待岬に向けて,この函館湾に向う流れと
大森
浜の反流とは渡島山地の南と北を洗い、ついに尖(せん)角岬(三角形にとがった平面形,は風によって海岸付近に吹き上げられ、一部は
大森
浜付近の海岸砂丘を形成した。 ,この海岸砂丘は、万延元(1860)年の幕府による測量図によると
大森
山(
大森
山砂丘)の名で呼ばれており、,またこの図には
大森
山砂丘のほかにもその東方に砂丘が表わされている。
函館市史 通説編 第二巻
(廃棄物処理の諸相)
、塵芥については、明治3年2月29日の触書によれば「以来町々申合塵芥都て不潔の物等は山背泊り土取跡、
大森
道芥捨場両所, 函館市街塵捨場ノ儀是迄
大森
浜ヘ壱ヶ所相定置候得共、自然持運ビノ労ヲ厭ヒ各自居住地内或,またこれらによって収集された塵芥の一部は、
大森
浜にてかまを利用して焼却していたのである。 , 当区西川町六十三番地平民新妻鷲蔵儀、当区東川町海岸ヨリ
大森
浜沿岸迄波止ノ為メ自費ヲ,その後、明治22年度予算の中で塵芥については「
大森
浜砂地埴林見込所ノ内人家遠隔場所ヲ撰定シ、塵芥捨場ヲ
函館市史 銭亀沢編
(現在の海岸環境)
これらの砂州の成長とともに、その砂を母材にした砂丘の形成も進み、もっとも大きな砂丘(
大森
山砂丘)がかつて,
大森
浜に見られた。,一方、
大森
浜では、逆に海岸侵食により砂浜の狭小化が進行している。 ,五稜郭が今の場所に設置されたのは、その位置が、地形的に見れば
大森
浜の砂丘や函館段丘に隠され、しかも亀田川扇状地
函館市史 通説編 第二巻
(函館の町域)
の記録に、箱館を占拠していた榎本ら旧幕府脱走軍は「(明治元年)十一月より一本木町端に関門を建、夫より
大森
浜手,函館市史』史料2)とあり、一本木は箱館の区域内という認識が生まれ、箱館の町域の東端は一本木の町端から
大森
浜,なお
大森
浜側の尻沢辺町については、古くは尻沢辺村と呼ばれ、箱館とは別村と位置付けられてきたが、慶応期の
恵山町史
((2) 岬が作る渦)
北海道側では、福島沖、木古内沖、函館の
大森
湾、恵山沖に反時計回りの渦が、下北側では大間埼の南方佐井沖で
函館市史 銭亀沢編
(干場)
ノ佳ナラザルモノ一原因タルベシト雖トモ干場ノ不完全ナル亦其一原タラズンバアラズ若夫レ汐首ヨリ以西函館
大森
浜,これによると、銭亀沢を含む汐首から函館の
大森
浜に至る海浜部は、良好な昆布干場であったことが知られる。
函館市史 銭亀沢編
(鰯漁業)
三種トス」、「渡島ノ国各郡ニ於テハ平子及ビ丸鰛ヲ以テ重ナル種類トシ…上磯及函館湾内ニ於テハ夏鰛ヲ主トシ
大森
浜以東恵山岬迄,茅部郡ニシテ上磯郡コレニ次ギ亀田郡又之ニ次グ…夏鰛ニ於テハ上磯郡ノ知内、木古内ヲ第一トシ…秋鰛ニ於テハ
大森
浜,鰯の漁期は、夏鰯は、上磯が七月十五日に始まり、次いで函館の
大森
浜が二十日、そして戸井が八月十五日と、下海岸地方
函館市史 通説編 第二巻
(函館実地明細絵図)
亀田川についても切替工事により
大森
浜側に流路が変更されたこともわかる。
函館市史 通説編 第一巻
(鶴岡町海面埋立と蓬莱町排水)
に移転する計画で、松川弁之助ら組合埋立地の一部を購入したのに対し、その換地を与えるため、大工町地続き
大森
浜通
椴法華村史
(八幡丸の沈没)
八幡丸の沈没 昭和二年十月十二日 函館新聞 發動機八幡丸==惠山沖で沈没 市内
大森
町七六奈良利吉
函館市史 銭亀沢編
(漁網と漁船)
銭亀沢地域では、戸井や函館の
大森
浜で使用されていた長さ二〇〇間から一〇〇間の網が使われていたようである
函館市史 通説編 第二巻
(刻昆布)
6,000 3/10 名称 井 植田 森 阿保 所在地
大森
町,
大森
町
大森
町 東川町
大森
町 創立年月 明治37年8月 明治38年1月 明治38年9
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田)
このころの亀田の位置について『津軽一統志』によれば、あるう川、亀田、箱館、弁才天、亀田崎、しりさつふ、
大森
,箱館、弁才天、亀田崎、しりさつふは函館山のふもとで海岸に面していたが、更に
大森
、湯の川、しのりと函館の,
大森
家十軒、但しから家有。湯の川 小川有、家八軒。しのり 澗あり、家二十四、五軒、から家有。」,亀田村)は函館湾に注ぐ亀田川の川口から約八キロメートルさかのぼったところにあって戸数約二〇戸、函館に近い
大森
浜
函館市史 通説編 第一巻
(江戸期の生業(なりわい))
尻沢辺から
大森
、湯川、下海岸方面にかけては漁業で、ことに志海苔、石崎方面は昆布で活況をみせ、箱館はその
椴法華村史
(古部出港川崎船の遭難)
タナゴマ町二番地大問惣太郎所有川崎船三十五石積は今十九日午前三時頃茅部郡古邊(ママ)村より出漁の歸途
大森
濱沖合
函館市史 別巻 亀田市編
(その後)
眼下に日吉町地帯の新興住宅街と東山本通地区、函館山、巴港、
大森
浜、遠景に下北半島、津軽半島が展開する。
函館市史 通説編 第二巻
(5月11日の戦い)
作戦は、陸軍本隊は三方から五稜郭を包囲し、海軍は箱館港と
大森
浜側から箱館を挟撃、奇襲部隊が箱館山裏手から,まず陽春は箱館を挾撃すべく
大森
浜へ向かい、甲鉄と春日は陸軍の奇襲上陸作戦援助と弁天岬台場砲撃のために、,浮台場となって奮戦していた回天も、新政府軍奇襲部隊が箱館を占拠するに及んで背後からも銃撃され、さらに
大森
浜,しかし、山頂からの攻撃は圧倒的で、
大森
浜の陽春からも側面攻撃されて、一本木関門付近まで退き、さらに五稜郭
函館市史 別巻 亀田市編
(中川嘉兵衛と製氷事業)
此計画ハ幸ニ成功スヘク見ヘタルガ、不幸ニモ此年大風吹続キ、
大森
浜ヨリ土砂ヲ吹飛ハスコト非常ニシテ、切角凍結,とあり、慶応三年に願乗寺川わきで製造された氷は一応の成功は見たものの、天候のため薄く、また強風のため
大森
浜
函館市史 通説編 第一巻
(寛文の蝦夷乱と亀田・箱館)
一 箱館 澗有 古城有 から家あり 一 弁才天 一 亀田崎 一 しりさっぷ 小船澗あり 家七軒 一
大森
,「しりさっぷ」は尻沢辺でいまの住吉町付近に当り、
大森
浜や湯の川にも漁家があり、志海苔は、さすがに多く和人
函館市史 銭亀沢編
(大雨の災害)
また同計画の「高波・高潮・津波等危険区域」でも九区域中五区域が銭亀沢地区で、
大森
浜以東の全海岸線が指定
函館市史 銭亀沢編
(〈昭和六十二年八月三十一日の塩風害〉)
函館地方の植物にあたえた塩風害について」『渡島半島周辺の風』講演会予稿集)によれば、検出された塩分濃度は
大森
浜
函館市史 通説編 第二巻
(戸長の公選)
投票日 7月22日 投票日 7月23日 投票日 7月24日 4組 内澗町~亀若町 5組 地蔵町~
大森
町,恵比須 蓬莱 亀若 地蔵(1~3丁目) 5組 10町 汐留 蔵前 宝 豊川 真砂 龍神 西川 東川
大森
,弁天 西浜 幸 鰪澗 大黒 4 末広 東浜 船場 蓬莱 恵比須 5 地蔵 汐留 豊川 西川 東川 宝
大森
函館市史 通説編 第二巻
(墓地と埋葬)
11年11月6日付の記事として、当時、火葬場は山背泊1か所しかないので狭く、難渋していたため、5か寺が
大森
浜方面,市中寺院のこの火葬場増設要求は、明治12年10月3日、高
大森
(東川町裏手字高森)に認められ、それ以後、
函館市史 通説編 第二巻
(戸籍法の制定)
戸数人員生死出入等を把握することとし、そのための「戸籍区」を設定し、戸籍吏としての戸長、副戸長を置くこととした(
大森
佳一編
南茅部町史 下巻
(看護移送)
湯の川から
大森
浜に出ると、砂浜道がつづく。疲れた足が砂にとられて先に進まず苦労したものだという。
函館市史 通説編 第二巻
(亀田川転注工事)
モルトルの意見に従い、亀田川を函館湾ではなく、
大森
浜に転注したのである。
函館市史 別巻 亀田市編
(位置と地勢)
函館山のふもと近くまで水を引いたが、明治二十二(一八八九)年赤川上水道の完成と共に埋立てられ、中の橋から
大森
浜,また、亀田川の東方の沢などから流れ出てくる川は鮫川となり、南の低地帯から東に流れ、松倉川と共に
大森
浜に
函館市史 通説編 第二巻
(開拓使の神仏分離観の転換)
4,275戸 函館護国神社 青柳町 明治2年5月の箱館戦争の後、
大森
浜で官軍方戦没者の慰霊祭を行,函館市中
大森
稲荷神社
大森
町 無格社 勧請年不詳。明治7年再営。
函館市史 別巻 亀田市編
(発展推移の大要)
中野の一部 第二分団 鍛治・神山・本通・中道・東山・陣川・赤川通 第三分団 赤川・水元・
大森
函館市史 銭亀沢編
(函館市街地・銭亀沢の海岸段丘面)
今では見られない
大森
浜と湯川の間に連なっていた砂丘は、その例である。
函館市史 銭亀沢編
(〈アワビ〉)
これは函館の
大森
町の問屋から購入した。
椴法華村史
(箱館より木直までの道)
八月迠昆布水ヨシ 城下大泊川ヨリ筥(ママ)館マテ二拾五里六丁二拾四間、箱館村ヨリ外海江砂道行キ
大森
此所,温泉アリ是ヨリ野道行キ濱行キ シノリ村 産物五月ヨリ八月迠昆布、引網ニテ雜魚水ワルシ、
大森
恵山町史
(『蝦夷巡覧筆記』より箱館よりヲサツベまでのようす)
城下大泊川ヨリ筥館マテ 二拾五里六丁二拾四間 箱館村ヨリ外海江砂道行キ
大森
(通称
大森
浜) 此所,野道行キ濱行キ シノリ村(函館市志海苔町) 産物五月ヨリ八月迄昆布 引網ニテ雑魚 水ワルシ、
大森
函館市史 別巻 亀田市編
(昭和二十四年の発掘)
畑であったころ、貝塚の貝はその大半がハマグリとアサリで、それも現在の函館湾や
大森
浜では見られない程大きな
函館市史 銭亀沢編
(広い台地)
長い目で見ると、函館市内の
大森
浜の土砂を養い、砂丘を成長させてきたのは、かなりの程度、銭亀沢の海食崖後退
函館市史 銭亀沢編
(銭亀沢周辺の地名)
あり 一 辨才天 一 亀田崎 一 しりさつふ 小船 澗あり 家七軒 一
大森
函館市史 通説編 第二巻
(山ノ上遊里の誕生)
とすることになり、同島に遊女屋一同が火事の際の退去場として購入していた1区画の上地が命じられ、代替地として
大森
浜通
函館市史 通説編 第一巻
(人物と衣装)
日吉遺跡より時期が下がる青森県の
大森
勝山遺跡の土偶は、上衣が毛皮で毛の方を内側にして胸から裾までの間を
函館市史 通説編 第二巻
(戸長役場統合から廃止へ)
~亀若町8町 恵比須町100番地 ※末広町68番地 竹内与兵衝 島田岩吉 5組 地蔵町4~6丁目~
大森
町
函館市史 通説編 第二巻
(幕末期の埋立)
の埋築、町会所の弁天岬台場から地蔵町に至る一帯の海岸の埋立(完成は明治維新後)が実現し、大工町地続き
大森
浜畑地
函館市史 通説編 第二巻
(3区の設定)
地蔵町 古築島町 蓬莱町 亀若町 恵比須町 蔵前通 鶴岡町 一本木町 豊川町 龍神町 西川町
大森
町,亀若町 恵比須町 地蔵町4~6丁目 蔵前通り 鶴岡町 一本木町 音羽町 豊川町 龍神町 西川町
大森
町
恵山町史
(2、恵山町教育推進重点目標策定委員)
中村 康雄 尻岸内中学校長 田部 寛晴 恵山高等学校長 高 悦夫 尻岸内小学校教頭
大森
函館市史 銭亀沢編
(マコンブと昆布食の歴史)
によるようで、水産上は「ホンコンブ」(本昆布)、あるいは砂原から椴法華までのマコンブを元昆布、汐首岬から函館の
大森
浜
椴法華村史
(津軽一統志とアイヌ人)
から家あり 一 辨才天 一 亀田崎 一 しりさつふ 小船、澗あり、家七軒 一
大森
函館市史 銭亀沢編
(宇賀昆布)
これを見ると
大森
浜から銭亀沢付近にかけての地を地元では宇賀の浦と呼んでいたのではないかと思われる。
椴法華村史
(椴法華村最初の土器)
住吉町遺跡とは
大森
浜から立待岬に行く途中の赤石浜、住吉浜にある高台にあった遺跡で、網干場などがあったところである
椴法華村史
(明治二十三年烏賊漁船の大遭難)
なり過る六日は午後より東風(やませ)吹起り空模様は何となく平日と異(かは)りたれバ區内烏賊漁業者の内
大森
濱住吉町
函館市史 通説編 第一巻
(函館考古会の設立気運)
この会は函館中学校の学生が中心になっていたもので、高
大森
(現在の高盛町、日乃出町)の砂丘(通称砂山)、
函館市史 通説編 第二巻
(五稜郭開城)
次いで21日には清水谷以下が
大森
浜へ出馬、招魂祭が挙行された。
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