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函館市史 通説編 第二巻
(函館の町域)
の記録に、箱館を占拠していた榎本ら旧幕府脱走軍は「(明治元年)十一月より一本木町端に関門を建、夫より
大森浜
手,函館市史』史料2)とあり、一本木は箱館の区域内という認識が生まれ、箱館の町域の東端は一本木の町端から
大森浜
,なお
大森浜
側の尻沢辺町については、古くは尻沢辺村と呼ばれ、箱館とは別村と位置付けられてきたが、慶応期の
函館市史 通説編 第二巻
(廃棄物処理の諸相)
函館市街塵捨場ノ儀是迄
大森浜
ヘ壱ヶ所相定置候得共、自然持運ビノ労ヲ厭ヒ各自居住地内或,またこれらによって収集された塵芥の一部は、
大森浜
にてかまを利用して焼却していたのである。 , 当区西川町六十三番地平民新妻鷲蔵儀、当区東川町海岸ヨリ
大森浜
沿岸迄波止ノ為メ自費ヲ,(明治十九年五月一日「函新」) 明治10年代の
大森浜
方面 これに対し糞尿,その後、明治22年度予算の中で塵芥については「
大森浜
砂地埴林見込所ノ内人家遠隔場所ヲ撰定シ、塵芥捨場ヲ
函館市史 銭亀沢編
(現在の海岸環境)
これらの砂州の成長とともに、その砂を母材にした砂丘の形成も進み、もっとも大きな砂丘(大森山砂丘)がかつて
大森浜
,一方、
大森浜
では、逆に海岸侵食により砂浜の狭小化が進行している。 ,五稜郭が今の場所に設置されたのは、その位置が、地形的に見れば
大森浜
の砂丘や函館段丘に隠され、しかも亀田川扇状地
函館市史 銭亀沢編
(干場)
ノ佳ナラザルモノ一原因タルベシト雖トモ干場ノ不完全ナル亦其一原タラズンバアラズ若夫レ汐首ヨリ以西函館
大森浜
,これによると、銭亀沢を含む汐首から函館の
大森浜
に至る海浜部は、良好な昆布干場であったことが知られる。
函館市史 通説編 第二巻
(函館実地明細絵図)
亀田川についても切替工事により
大森浜
側に流路が変更されたこともわかる。
函館市史 銭亀沢編
(鰯漁業)
三種トス」、「渡島ノ国各郡ニ於テハ平子及ビ丸鰛ヲ以テ重ナル種類トシ…上磯及函館湾内ニ於テハ夏鰛ヲ主トシ
大森浜
以東恵山岬迄,茅部郡ニシテ上磯郡コレニ次ギ亀田郡又之ニ次グ…夏鰛ニ於テハ上磯郡ノ知内、木古内ヲ第一トシ…秋鰛ニ於テハ
大森浜
,鰯の漁期は、夏鰯は、上磯が七月十五日に始まり、次いで函館の
大森浜
が二十日、そして戸井が八月十五日と、下海岸地方
函館市史 通説編 第一巻
(鶴岡町海面埋立と蓬莱町排水)
に移転する計画で、松川弁之助ら組合埋立地の一部を購入したのに対し、その換地を与えるため、大工町地続き
大森浜
通
函館市史 銭亀沢編
(漁網と漁船)
銭亀沢地域では、戸井や函館の
大森浜
で使用されていた長さ二〇〇間から一〇〇間の網が使われていたようである
椴法華村史
(古部出港川崎船の遭難)
タナゴマ町二番地大問惣太郎所有川崎船三十五石積は今十九日午前三時頃茅部郡古邊(ママ)村より出漁の歸途
大森濱
沖合
函館市史 別巻 亀田市編
(その後)
眼下に日吉町地帯の新興住宅街と東山本通地区、函館山、巴港、
大森浜
、遠景に下北半島、津軽半島が展開する。
函館市史 通説編 第二巻
(5月11日の戦い)
作戦は、陸軍本隊は三方から五稜郭を包囲し、海軍は箱館港と
大森浜
側から箱館を挟撃、奇襲部隊が箱館山裏手から,まず陽春は箱館を挾撃すべく
大森浜
へ向かい、甲鉄と春日は陸軍の奇襲上陸作戦援助と弁天岬台場砲撃のために、,浮台場となって奮戦していた回天も、新政府軍奇襲部隊が箱館を占拠するに及んで背後からも銃撃され、さらに
大森浜
,しかし、山頂からの攻撃は圧倒的で、
大森浜
の陽春からも側面攻撃されて、一本木関門付近まで退き、さらに五稜郭
函館市史 別巻 亀田市編
(中川嘉兵衛と製氷事業)
此計画ハ幸ニ成功スヘク見ヘタルガ、不幸ニモ此年大風吹続キ、
大森浜
ヨリ土砂ヲ吹飛ハスコト非常ニシテ、切角凍結,とあり、慶応三年に願乗寺川わきで製造された氷は一応の成功は見たものの、天候のため薄く、また強風のため
大森浜
函館市史 銭亀沢編
(大雨の災害)
また同計画の「高波・高潮・津波等危険区域」でも九区域中五区域が銭亀沢地区で、
大森浜
以東の全海岸線が指定
函館市史 銭亀沢編
(〈昭和六十二年八月三十一日の塩風害〉)
函館地方の植物にあたえた塩風害について」『渡島半島周辺の風』講演会予稿集)によれば、検出された塩分濃度は
大森浜
函館市史 通説編 第一巻
(平野)
一方函館山南方を流走する流れは松倉川沖において二分し、その1は反流となって
大森浜
沿岸から立待岬に向けて,この函館湾に向う流れと
大森浜
の反流とは渡島山地の南と北を洗い、ついに尖(せん)角岬(三角形にとがった平面形,このようにして津軽海峡方面および函館湾、
大森浜
から運搬された土砂はトンボロ形成の材料となったが、この供給土砂,は風によって海岸付近に吹き上げられ、一部は
大森浜
付近の海岸砂丘を形成した。
函館市史 通説編 第二巻
(亀田川転注工事)
モルトルの意見に従い、亀田川を函館湾ではなく、
大森浜
に転注したのである。
南茅部町史 下巻
(看護移送)
湯の川から
大森浜
に出ると、砂浜道がつづく。疲れた足が砂にとられて先に進まず苦労したものだという。
函館市史 別巻 亀田市編
(位置と地勢)
函館山のふもと近くまで水を引いたが、明治二十二(一八八九)年赤川上水道の完成と共に埋立てられ、中の橋から
大森浜
,また、亀田川の東方の沢などから流れ出てくる川は鮫川となり、南の低地帯から東に流れ、松倉川と共に
大森浜
に
函館市史 銭亀沢編
(函館市街地・銭亀沢の海岸段丘面)
今では見られない
大森浜
と湯川の間に連なっていた砂丘は、その例である。
函館市史 別巻 亀田市編
(昭和二十四年の発掘)
畑であったころ、貝塚の貝はその大半がハマグリとアサリで、それも現在の函館湾や
大森浜
では見られない程大きな
函館市史 銭亀沢編
(広い台地)
長い目で見ると、函館市内の
大森浜
の土砂を養い、砂丘を成長させてきたのは、かなりの程度、銭亀沢の海食崖後退
函館市史 通説編 第二巻
(山ノ上遊里の誕生)
とすることになり、同島に遊女屋一同が火事の際の退去場として購入していた1区画の上地が命じられ、代替地として
大森浜
通
函館市史 通説編 第二巻
(幕末期の埋立)
の埋築、町会所の弁天岬台場から地蔵町に至る一帯の海岸の埋立(完成は明治維新後)が実現し、大工町地続き
大森浜
畑地
函館市史 通説編 第一巻
(寛文の蝦夷乱と亀田・箱館)
「しりさっぷ」は尻沢辺でいまの住吉町付近に当り、
大森浜
や湯の川にも漁家があり、志海苔は、さすがに多く和人
椴法華村史
(椴法華村最初の土器)
住吉町遺跡とは
大森浜
から立待岬に行く途中の赤石浜、住吉浜にある高台にあった遺跡で、網干場などがあったところである
函館市史 銭亀沢編
(宇賀昆布)
これを見ると
大森浜
から銭亀沢付近にかけての地を地元では宇賀の浦と呼んでいたのではないかと思われる。
函館市史 銭亀沢編
(マコンブと昆布食の歴史)
によるようで、水産上は「ホンコンブ」(本昆布)、あるいは砂原から椴法華までのマコンブを元昆布、汐首岬から函館の
大森浜
函館市史 通説編 第二巻
(五稜郭開城)
次いで21日には清水谷以下が
大森浜
へ出馬、招魂祭が挙行された。
椴法華村史
(明治二十三年烏賊漁船の大遭難)
なり過る六日は午後より東風(やませ)吹起り空模様は何となく平日と異(かは)りたれバ區内烏賊漁業者の内
大森濱
住吉町
函館市史 通説編 第一巻
(箱館六箇場所)
箱館六箇場所 これまで箱館港に入荷する産物は、亀田、箱館、尻沢辺、
大森浜
、志海苔、小安などの近郷の零細出稼人
函館市史 通説編 第一巻
(鰊漁)
20日ころから石崎、銭亀沢、志海苔の各村の浜や、
大森浜
にも群来があり、相当の漁獲を挙げた。
函館市史 通説編 第二巻
(墓地と埋葬)
11年11月6日付の記事として、当時、火葬場は山背泊1か所しかないので狭く、難渋していたため、5か寺が
大森浜
方面
函館市史 通説編 第二巻
(蓬莱町遊里の出現)
移転先は″恵比須町裏手″つまり幕末に株仲間が新築島に購入した土地の代替地として与えられていた「大工町地続
大森浜
通
函館市史 銭亀沢編
(漁業資本と金融)
「通常貸借」は、上磯郡有川および函館区
大森浜
から湯川、そして石崎に至る各浜で多くおこなわれた方法で、すべてが
函館市史 銭亀沢編
(昆布採取)
元昆布志苔昆布細目等ノ数種アリテ各々産地ヲ異ニス則チ元昆布ハ茅部郡砂原ヨリ椴法華…志苔昆布ハ亀田郡小安ヨリ函館区
大森浜
恵山町史
((2)箱館港防備の意見上申)
がれば多数の兵員を必要とすることになるが、それには南部・津軽藩の兵を以って勤番させ、海軍調練を施し、
大森浜
函館市史 通説編 第二巻
(脱走軍支配下の箱館)
また、市中取締まり強化のため「外海岸
大森浜
より箱館澗へ柵を結廻し、町端に関門を拵へ往来を喰留め通行の人
恵山町史
(日浦・武井泊(豊浦)間開通(昭和5年3月))
に繰上げのあかつきは、従来の函館市内元標より電車線路に添い湯川へ至る道路は市道に変更し、それに替わる
大森浜
函館市史 通説編 第二巻
(その他の製造業)
このほか、利吉は銭亀沢村の白土を泑薬とし、
大森浜
の黒土による着色で煎茶茶碗、花瓶、かめ、植木鉢、燈籠などを
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田)
亀田村)は函館湾に注ぐ亀田川の川口から約八キロメートルさかのぼったところにあって戸数約二〇戸、函館に近い
大森浜
函館市史 通説編 第二巻
(同業者の出現)
この
大森浜
番外地(後に東川町274番地となる)での事業も始めの1、2年は泥砂の混入や結氷の状態が悪く市中
函館市史 通説編 第二巻
(清掃規則の変遷)
其都度掃除スヘシ 第十一条 下水ニ堰ヲ設塵芥ヲ滞積シ流通ヲ妨ク可ラス 第十二条 斃タル獸類ハ従前ノ手続ニテ
大森浜
斃獸埋没塲
椴法華村史
(明治二十年代の昆布漁業)
大槪之ヲ支那ニ輸出シ之ニ反シ南海岸茅部亀田地方ニ産スル元揃昆布ハ大坂地方ニ輸出シ又亀田郡小安以西函館
大森浜
戸井町史
([戸井の医療機関の沿革])
生活をし、昭和二十九年十二月クリスマスの寒い夜に、酒にしたたか(・・・・)酔って、ただ一人啄木ゆかりの
大森浜
,た昭和四十六年九月十八日、鈴木磐(へき)、天江富弥等の友人知己が、片平の詩碑を建立することを発起し、
大森浜
函館市史 通説編 第二巻
(開拓使の神仏分離観の転換)
4,275戸 函館護国神社 青柳町 明治2年5月の箱館戦争の後、
大森浜
で官軍方戦没者の慰霊祭を行
恵山町史
(箱館戦争と郷土尻岸内村)
これらの人々は、榎本軍が新政府軍を撃退するために建設する四稜郭、
大森浜
砲台、海岸保塁等の工事に駆り出されたわけである
函館市史 通説編 第二巻
(諸施設の移転と都市形態)
まず、遊郭については明治4年の大火により山の上町より、幕末時に整地されていた大工町地続
大森浜
通の蓬莱町
恵山町史
(『蝦夷巡覧筆記』より箱館よりヲサツベまでのようす)
城下大泊川ヨリ筥館マテ 二拾五里六丁二拾四間 箱館村ヨリ外海江砂道行キ 大森(通称
大森浜
) 此所
恵山町史
(7、鰯(鰮)漁業経営)
「通常貸借」も全道的には少数であったが、上磯郡有川・函館区
大森浜
・亀田郡湯の川より石崎に至る間では多く
函館市史 通説編 第二巻
(烏賊釣漁業の発展と入稼漁民)
尻沢辺、
大森浜
、鶴岡町、若松町および山背泊等に居住する地元漁民は、烏賊漁の時期になると2人もしくは3人
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