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恵山町史
((4) 豊浦・大澗、女那川地区)
(4) 豊浦・
大澗
、女那川地区 尻岸内漁業協同組合の所轄地である豊浦・
大澗
、女那川地区を底生生物の調査域,調査線は日浦地区と豊浦地区の境界を基点として、
大澗
漁港にかけて100メートル間隔で1〜15調査線を、女那川漁港,なお、豊浦・
大澗
地区の第1線は日浦地区の第12線と重復する。,さらに海藻の現存量の推移を知る目的で、昭和59年10月23、24日と昭和60年2月25〜28日に豊浦・
大澗
地区,表6-7 豊浦・
大澗
、女那川地区に出現した主な大型底生動物 表6-8 豊浦・
大澗
、女那川地区 / (4) 豊浦・
大澗
、女那川地区
恵山町史
((4) 豊浦、大澗、女那川地区)
(4) 豊浦、
大澗
、女那川地区 図3−16に豊浦・
大澗
地区と女那川地区の等深線(2メートル間隔)を示,豊浦・
大澗
地区の等深線は複雑に入り組んでいる。 / (4) 豊浦、
大澗
、女那川地区
恵山町史
(1、尻岸内(大澗)郵便局)
1、尻岸内(
大澗
)郵便局 〈等級〉 3等郵便局(明治16 1883・8・16) 集配特定局(,〈名称〉 尻岸内郵便局(明治16 1883・8・16) 所在地 亀田郡尻岸内村澗
大澗
郵便局,(改称)(昭和10 1935・11・ 1) 所在地 亀田郡尻岸内村字
大澗
27番地,昭和10年(1935)新築の局舎 この年
大澗
郵便局に改称 尻岸内郵便局(改称)(昭和43,に改称、 住所字名地番改正により字
大澗
27番地−2 11年(1936)11 / 1、尻岸内(
大澗
)郵便局
恵山町史
((4) 豊浦・大澗、女那川地区)
(4) 豊浦・
大澗
、女那川地区 豊浦・
大澗
地区は日浦地区のサンタロナカセに隣接し、やや入江となっている,豊浦・
大澗
地区の生物調査点は189点で、このうち底質が砂底のために海藻が生育できなかったのは13点であった,で5、510グラム/平方メートル(水深6.5メートル)と主にガゴメとチガイソにより得られたが、豊浦・
大澗
地区,図6−18は豊浦・
大澗
地区の調査地点を距岸300メートルまでに限って模式的に現存量を緑藻、褐藻、紅藻と / (4) 豊浦・
大澗
、女那川地区
恵山町史
((4) 豊浦・大澗、女那川地区(調査期間‥昭和59年4月〜60年3月))
(4) 豊浦・
大澗
、女那川地区(調査期間‥昭和59年4月〜60年3月) 豊浦・
大澗
地区の調査線は、日浦,と尻岸内漁業協同組合の境界線を基点とし、これより
大澗
漁港にかけて海岸線に沿って100メートル間隔で定点,なお、調査点はおおむね水深20メートル(又は砂地帯)までとし、豊浦・
大澗
地区で283地点、女那川地区で,豊浦・
大澗
地区は1〜7線にかけて平磯が発達しており、その距岸距離は25〜100メートルとなっている。,女那川地区は豊浦・
大澗
地区と同様に1〜8線にかけて平磯があり、距岸距離は30〜130メートルである。 / (4) 豊浦・
大澗
、女那川地区(調査期間‥昭和59年4月〜60年3月)
恵山町史
([女那川地区、川上地区、中浜地区、大澗地区])
[女那川地区、川上地区、中浜地区、
大澗
地区] 川上地区を除く3地区は、津軽海峡に面し恵山町内では少ない,古武井川河口から尻岸内川河口を経て
大澗
漁港まで砂浜地が続いている。,主に
大澗
漁港の外側、岩礁地帯にいて採餌に忙しいが、海が時化ると尻岸内川河口に避難し、キタヨシの根方に体 / [女那川地区、川上地区、中浜地区、
大澗
地区]
恵山町史
(5、恵山町の簡易郵便局)
渡島御崎簡易郵便局 渡島御崎簡易郵便局
大澗
簡易郵便局(尻岸内郵便局監督) ,・町議会設置決議 昭和43年(1968)3月1日 ・設置場所(住所) 尻岸内町字
大澗
25番地,
大澗
簡易郵便局 前頁の(註)昭和26年(1951)の規則により、日浦・女那川・
大澗
の簡易郵便局
恵山町史
([町有文書に記された海難事故])
敷島丸 16.18 田辺儀一郎 座礁 大破 7.26
大澗
港 天童丸 17.52 荻原 ,第2明神丸 15.45 坂下 昭 座礁 大破 9.26
大澗
港 栄丸 6.00 岸本 ,浪弥 15号台風 大破 9.26
大澗
港 第1金比羅丸 18.83 島六 文平 15号台風 大破, 9.26
大澗
港 第3八幡丸 11.16 荒木 太作 15号台風 大破 9.26
大澗
港,八幡丸 16.00 三箇 与四次郎 15号台風 大破 9.26
大澗
港 栄丸 14.14 越前
椴法華村史
(明治八年椴法華近海の難破船)
九月廿七日 無之 無之 無之 永福丸 仝 八拾 石 陸奧國北郡
大澗
村, 四厘 金拾三銭 七厘 緑丸 仝 七拾七石 陸奥國北郡
大澗
村
椴法華村史
(主な郵便役所(郵便局)の開設)
戸井郵便取扱所 明治八年三月十八日 鹿部郵便取扱所 明治九年十一月二日 尻岸内(
大澗
恵山町史
((7)えさん漁業協同組合 (平成17年4月1日現在))
高谷 成基 設立 平成一五年四月一日(日浦・尻岸内・古武井・恵山漁協合併による) 本所 函館市
大澗
町五一番地,古武井支所(収容冷蔵一・五t) 恵山支所(冷凍冷蔵庫、冷蔵四t) ・燃油タンク
大澗
漁港
恵山町史
([恵山町で行われた主な発掘調査])
主な発掘調査] 第1図 恵山町内の遺跡分布図 恵山町内では恵山貝塚、日の浜遺跡、川上遺跡、
大澗
,;8月 5日 武内収太 川上遺跡 昭和39年11月29日 吉崎昌一
大澗
恵山町史
(【聞き取り協力者】)
野呂家(
大澗
) ・尻岸内の野呂家(1783年に移住)。,野呂家(
大澗
) ・野呂家(1738年に移住、野呂平四郎)に伝わる話と品々について、掛軸(谷文晁の名,西村家(
大澗
) ・西村家は1720年下北佐井村から最初に移住した西村善次郎の子孫、同家に残されていた,荒木房雄氏(
大澗
) ・戦前の神社の格式について、八幡神社(郷社)稲荷・海積・厳島神社の無格社
恵山町史
(〈湊町政の町行政事務組織〉)
住民相談の六係) (恵山総合センターの一施設) ・保育所 (恵山保育所・日ノ浜保育所・
大澗
保育所
椴法華村史
(椴法華村の電話開通)
△電話呼出地域 尻岸内字古武井泊・同
大澗
・同メナ川・同メノコナイ 尻岸内村字古武井・同山背泊
椴法華村史
(明治初期の商業)
このような船には、函館船や津軽船などがあり、青森県
大澗
町の元町長山根談によると「自分の先祖山根吉三司は,、明治十年頃から同十九年にかけて、
大澗
港より米・味噌・塩を積み入れ椴法華に向かい、販売後鰯粕・昆布等を,買い入れ、十月から十一月頃
大澗
港に帰航した」と云うことである。
恵山町史
([町内の遺跡分布と立地])
遺跡の多くは尻岸内川や古武井川などの大きな河川の河口流域と、豊浦から
大澗
および恵山の海岸に面した台地上,前期から中期の遺跡もまた、主に尻岸内川と古武井川河口流域の台地や
大澗
などのような海岸に面した台地上にその
恵山町史
(函館バス御崎へ運行)
御崎へ運行 函館からの郷土への定期バスの運行は、昭和4年日浦を皮切りに、道路の改良とともに、同5年
大澗
椴法華村史
(文化四年箱館沖の出没)
更にこの日南部領
大澗
岬辺にも外国船が現われたとの報があり、箱館奉行所の役人はもとより、各藩の藩兵、箱館及
恵山町史
((5)昭和42年当時の尻岸内村の漁港)
全国的なもの 第4種漁港 離島・辺境の地にあって漁場の開発、漁船の避難上特に必要なもの
大澗
漁港,その岩のある所が現在の
大澗
漁港なのである。 ,旧字名澗、現在は
大澗
、その名が示すとおり、浜は岩礁と砂地の格好の船入澗であった。,従って山背泊船入澗の築設工事は
大澗
港の修築より遥か以前の、戦前の昭和8年(1933)6月に始められ、翌,女那川漁港 女那川漁港は町の中央部、
大澗
漁港と山背泊漁港の中間点に位置している。
恵山町史
((2) 岸断崖地の植生)
(2) 岸断崖地の植生 サンタロトンネルの日浦側入口付近、サンタロ岬、
大澗
漁港付近、恵山山塊東海岸の
恵山町史
(根田内村・古武井村・尻岸内村の神社と寺院)
古武井村・尻岸内村の神社と寺院 根田内村(字恵山)、古武井村(字古武井・日ノ浜)、尻岸内村(字豊浦・
大澗
恵山町史
([湯川・椴法華間の乗合自動車の運行])
乗合自動車を走らせ、昭和3年下海岸自動車に代わってから8年目の昭和4年の4月ようやく日浦まで、翌5年5月5日
大澗
,下海岸自動車株式会社 尻岸内村日浦まで運行』 昭和五年五月五日 ○『下海岸自動車株式会社 尻岸内村
大澗
恵山町史
(1、尻岸内八幡神社)
所在地 恵山町字
大澗
194番地。この一帯は移住者が最も早く定住したところである。 ,氏子 旧尻岸内本村の字豊浦・
大澗
・中浜・女那川・川上の人々が主で約650戸。
恵山町史
(5、(御崎)八幡神社)
なお、尻岸内八幡神社(
大澗
)、稲荷神社(日浦)、海積神社(古武井)、厳島神社(恵山)の4社については宗教法人
恵山町史
([縄文時代早期])
ノダップⅠ式、5~10、中野A式、11~16、住吉町式、17、沼尻・東釧路Ⅱ式、18、虎杖浜式、19、
大澗
式
戸井町史
([郵便局の沿革])
尻岸内町で最も開局の早い
大澗
郵便局の前身尻岸内郵便局は明治一〇年一一月一日の開局であるので、尻岸内郵便局
恵山町史
(〈昭和60年4月1日より、尻岸内町、恵山町に〉)
字日浦 ファラウエン 悪い臭いのする所・寄せ浜 〃豊浦 ムイトマリ 静かな入り江 〃
大澗
函館市史 通説編 第一巻
(異国船津軽海峡に現わる)
この船は夕刻汐首岬の沖にかかり、まもなく東に向かって帆影を没したが、この日南部領
大澗
沖でも外国船1隻を
恵山町史
(〈役場事務機構の改正、参事・主幹制の導入〉)
戸籍住民台帳・国民年金・住民相談・職業斡旋 ・生活保護・社会福祉に関する事項 保 育 所 ・
大澗
保育所
函館市史 別巻 亀田市編
(明治初期の馬)
又馬三百一頭ヲ管下人民ニ貸与ス 〔十三年〕 以来函館港ト青森県
大澗
港ノ間、馬ヲ載ル専業ノ船アリ、往復常
恵山町史
(戦没者名簿)
S20.5.1 沖縄本島 松本 郁美 〃32 秋田 勝男 S19.5.3 中国河南省 秋田 陽市
大澗
,ノモンハン 阿部 達弥 千葉県 荒木 佑三 S29.3.29 中部ルソンクラー西方地区 荒木 房雄
大澗
,ソロモン群島イサベル島 野呂 昌人 〃17-1 野呂 勇市 S20.8.2 エトロフ 野呂 きみゑ
大澗
恵山町史
(【写真・資料、提供者・関係機関】)
恵山岬灯台 函館海洋気象台 町内小・中・高等学校 尻岸内郵便局 古武井郵便局 恵山郵便局 御崎簡易郵便局
大澗
簡易郵便局
恵山町史
([古武井小学校沿革誌より「青年学校行事の記録」])
軍事美談講演会(合同)・出征軍人家族慰問(合同)・第二次戦捷祝賀会並び旗行列(合同) 三月十日まで
大澗
監視哨慰問行進
椴法華村史
(木造官船の増強)
航路は前松前藩時代には主として三厩・松前間の航路がとられていたが、享和三年(一八〇三)ごろから箱館・
大澗
又
函館市史 通説編 第一巻
(江戸交易と東回り航路の発達)
によっていたが、この路線は箱館ならびに東蝦夷地に赴くのに、迂遠であったので、寛政11年南部の佐井または
大澗
恵山町史
(〈道道41号函館恵山線〉)
道道函館恵山線とは、日浦から、旧国道(278号線)の日浦トンネル(1~7号)通称日浦洞門をくぐり、豊浦・
大澗
,特に豊浦・
大澗
・中浜間は市街地であり、児童生徒の登下校や住民の通行の最も多い区間である。
恵山町史
([豊浦地区、日浦地区])
[豊浦地区、日浦地区] 豊浦地区は、第2種
大澗
漁港とサンタロナカセ岬に挟まれた内湾に面し、静穏度の高,
大澗
漁港の西側、豊浦地区は湾の1番深いところに位置し、漁港から続く岩礁帯はほどよく湾を包み込み、湾を風浪
恵山町史
((2) 日浦地区(調査期間‥昭和58年7月〜59年4月))
また、1・2線の中間または
大澗
を境にして日浦漁港方向は砂底質に、サンタロナカセ方向は岩盤底に大別される
恵山町史
([3地区における水温と潮位])
尻岸内町古武井、日ノ浜地区)、昭和60年8月 〈文献8〉 昭和59年度浅海漁場調査報告書(尻岸内町豊浦・
大澗
南茅部町史 下巻
(南茅部八景)
鷗島煙檣(おうとうえんしょう) 西川雍(にしかわよう) 渡島の人 山陽の門人 号棋山
大澗
遊鷗
恵山町史
((5)第四期恵山町総合計画(平成八年度~平成一七年度))
○本町には、日浦漁港(第一種)、
大澗
漁港(第二種)、女那川漁港(第一種)、 山背泊漁港(第四種)、,④
大澗
漁港修築事業(外防波堤)と多目的漁港としての整備を目指し、蓄養漁場を組み入れた施設整備の促進に努,第4種 山背泊漁港 第1種 日浦漁港 第1種 恵山漁港 第2種
大澗
漁港
南茅部町史 下巻
(〔戦没者慰霊祭〕)
戸井村遺族会 役場 26・9・24 水戸 敬蔵 一五八 尻岸内村
大澗
遺族会
恵山町史
(恵山汽船合資会社)
松本回漕店(経営者松本専太郎)、武井泊の松本出張店(代理経営者北村金助)同じく中里回漕店(経営者中里平作)、
大澗
,また、同9年には、
大澗
の野呂回漕店は経営を字尻岸内に移し「尻岸内共同回漕店」と改称した、と記されている
恵山町史
(3、発足当時の郵便業務)
明治16年3月「駅逓編成法」が公布され、翌16年8月16日「尻岸内3等郵便局」(一時、
大澗
郵便局と改称
恵山町史
([昭和8年の字名・地番の改正])
)武井泊の一部、武井泊沢の一部 豊浦 武井泊の大部分、武井泊沢の一部、横澗、澗の一部、吉ノ沢
大澗
恵山町史
(豊浦バイパス全長3,654.29メートル(内トンネル部分延長1,355メートル))
月 サンタロトンネル(延長1,355メートル)の開通 ・昭和61年(1986)1月
大澗
恵山町史
(〈村長・町長・助役・収入役〉)
上田定義は本町字
大澗
の出身、郷土の小学校を卒業、庁立函館中学校へ進学したが健康優れず大正15年に中退、,郷里尻岸内へ帰村、漁業を営んだが昭和25年には尻岸内漁業組合理事に推され、翌26年には組合長理事を務め
大澗
漁港早期完成,太平洋戦争が熾烈を極めた昭和18年1月から、民間防空・函館防空監視隊
大澗
監視所副哨長、後哨長として哨員,野呂は昭和5年字
大澗
の生まれ、昭和20年3月戦争の末期、尻岸内国民学校高等科を卒業(この年の4月から国民学校尋常科
恵山町史
(1、津軽一統志にみる郷土の地名・ようす)
郷土についてみれば、ひゝら(日浦)・尻岸ない(豊浦・
大澗
)・ゑきしない(女那川)・こふい・ねたない(恵山
恵山町史
((3)恵山町の縄文時代早期の遺跡)
住吉町遺跡に類例が求められる吹切沢(ふっきりざわ)式系の土器(第12図6~9)、貝殻条痕文が施文された
大澗
式
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