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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 別巻 亀田市編 (函館大火応援)

函館大火応援 昭和九年三月二十一日の函館大火の際は、風速四〇メートルを越え、瞬間風速が六〇メートルに,大火の翌日、亀田村消防組は食糧などを荷馬車で搬送して被災者を救護したり、また新川などで焼死した人々を川 / 函館大火応援
函館市史 通説編 第二巻 (大火と校舎の焼失)

大火と校舎の焼失 12年7月旧会所学校内に第一公立女学校が開校し、函館の公立小学校は松蔭・内澗・常盤,しかし市街を一掃した同年12月の大火に、焼失区域から離れていた宝学校と住吉学校は難を免れたが、中心部に,こうして軌道に乗り始めていた函館の初等教育は、大火による校舎の焼失によって再び出発にもどることになったのである,図10-2 12年大火直前の区内小学校分布状況    大火をはさんで、12年と14年,大火前後で街区改正があるため、便宜上戸長役場担当ブロックで区分し、焼失した常盤・松蔭・第一公立女・内澗各学校 / 大火と校舎の焼失
函館市史 通説編 第二巻 (大火による社会的事象)

大火による社会的事象 これまでは、都市形成という面から、大火を契機とする街区改正とそれに関連する事項,しかし、その大火と都市民との関連性についてはほとんどふれてこなかった。,ここでは特に明治12年の大火と罹災民救助を中心にその他の社会的事象についてもふれることにする。  ,明治12年の大火は、焼失戸数が全体の約4割にも及ぶ大きな被害であったばかりでなく、その焼失範囲がほとんど,そしてこの明治12年の大火による罹災窮民は当初、罹災戸数の3分の1程度と考えられていたが、結果的に救助金 / 大火による社会的事象
函館市史 別巻 亀田市編 (函館大火と煉瓦建築)

函館大火と煉瓦建築 その後明治五年開拓使により茂辺地村に煉瓦及び瓦製造所が開設され、七年九月には函館豊川町,その理由は函館は以前からたびたび大火に見舞われることが多く、原因の主なものとしては、道路が狭く、屈曲していること,ったが、又もや明治十二年十二月六日、民家二、二四五戸、その他官舎、学校、社寺等三一か所焼失という未曽有の大火 / 函館大火と煉瓦建築
椴法華村史 (大正十二年島泊の大火)

大正十二年島泊の大火 大正十二年五月二日午前三時、島泊中村理髪店から出火したが、当時村内には少数の手動,椴法華火災損害が八万円       原因は七輪の火から    去る三日の椴法華村大火は既報の如くなるが / 大正十二年島泊の大火
函館市史 通説編 第二巻 (明治11、12年の大火による街区改正)

明治11、12年の大火による街区改正 明治11、12年の大火にともなう街区改正は、それまでの都市形態,このことは、明治11年の大火における街区改正の有効性が、12年の大火において証明されたことを意味している,図4-13 明治11年大火後の街区改正 図4-14 明治12年大火後の街区改正  このような,   表4-20 街区改正にともなう経費   明治11年大火 明治12年大火,による土蔵の移転 明治11年大火 明治12年大火 弁天町 大町 大黒町 神明町 仲町 / 明治11、12年の大火による街区改正
戸井町史 (十四、椴法華、島泊の大火(大正十二年))

十四、椴法華、島泊の大火(大正十二年) 大正十二年五月二日午前三時、椴法華村字島泊、中村幸次郎(理髪職 / 十四、椴法華、島泊の大火(大正十二年)
函館市史 通説編 第一巻 (文化3年の大火と消防体制)

文化3年の大火と消防体制 文化3年10月4日の夜弁天町河岸の市店から出火し、折から西北の風にあおられて / 文化3年の大火と消防体制
戸井町史 (四、古武井鉱山の大火(明治四十一年))

四、古武井鉱山の大火(明治四十一年) 明治四十一年六月十一日午後三時三十分、尻岸内村字古武井元山、山県硫黄鉱山 / 四、古武井鉱山の大火(明治四十一年)
戸井町史 (八、戸井村弁才澗の大火(大正三年))

八、戸井村弁才澗の大火(大正三年) 大正三年九月二十九日午前八時、戸井村字弁才澗一番地物品販売業伊藤,弁才町の大火   後藤 亀雄(明治三九年九月一五日生)談  大正四年、私はこの時日新小学校の二年生であった / 八、戸井村弁才澗の大火(大正三年)
戸井町史 (七、古武井、大滝の沢の大火(明治四十三年))

七、古武井、大滝の沢の大火(明治四十三年) 明治四十三年四月十三日午前十一時頃、尻岸内村字古武井、大滝 / 七、古武井、大滝の沢の大火(明治四十三年)
函館市史 通説編 第二巻 (街区改正がもたらした諸相)

街区改正がもたらした諸相 明治11、12年大火後の街区改正は道路の整備を集中的に行う契機となったばかりでなく,この家屋改良については、大火以前においても次のような達しが明治8年に出されていた。,これにより明治11年大火後での件数は土蔵造29棟であり、同12年大火後では煉瓦造1棟、土蔵造12棟の実績,明治11年大火後の復興の様子 北大図書館北方資料室蔵 明治12年大火後の耐火建築  ,最後に明治12年大火後の街区改正を機に町の機能性が規定された事実にふれておきたい。
函館市史 通説編 第一巻 (寺院)

) 宝永のころは方50間の寺地に、本堂、庫裡、三十三観音堂、経蔵、鐘楼門など整っていたが、文化3年の大火,浄玄寺(浄土真宗大谷派) 天明6(1786)年に表門を楼門に造り替えているが、文化の大火で焼け、文政12,実行寺(日蓮宗) 文化3年の大火で類焼。
函館市史 通説編 第二巻 (東本顧寺の移転)

それゆえ、12年の大火後の移転先をめぐっては、前の実行寺とはまた別の次元の難題を背負うこととなった。,大火後に再建された東本願寺 「函館実地明細絵図」より    この移転論争は結局、道路改正,いっぽう、明治12年の大火には直接見舞われなかったものの、本願寺派函館別院=願乗寺も災火には悩まされ続,本堂の完成をみたのは同12年のことであったが、同32年と同40年にも大火に遭って烏有に帰している。,その点、曹洞宗高龍寺だけは、市中の名刹として比較的、大火から免れることができた。
戸井町史 (四、戸井警察署で取扱った主な事件)

八 4、椴法華沖における汽船衝突事件 〃四一、三、二三 5、尻岸内村古武井山県(やまがた)硫黄鉱山の大火,の漁夫争闘、殺傷事件 〃一二、一九 10、尻岸内村役場事件 〃四三、 11、尻岸内村古武井、大滝沢の大火,〃四、一三 12、戸井村字弁才澗の大火 大正四、九、二九 13、汐首灯台官舎の火災 〃一、二三 14
函館市史 通説編 第二巻 (内陸部の埋立と市街整備)

内陸部の埋立と市街整備 明治11年、12年の大火の街区改正は、現在の十字街あたりから西側にあたる当時,これ以降この改正に追随する形でその他の市街地も、大火・道路改正・埋立などによって整備されていくのである,当地は明治11年の大火後にあっては「道敷地坪買上ヨリ宅地差支ヲ生スル者ハ懇致ニ説諭シ、谷地頭埋立地竣工,しかし大火にともなう他の工事の増大によるものか、この事業は遅れを生じ明治14年10月竣工している。  ,への通り(現在の十字街の電車通り)が改正されており、明治20年の大火では西川町から地蔵町へぬける道路の
函館市史 通説編 第二巻 (実行寺は再建か廃寺か)

北海道開拓ないしは開教に余念のなかった函館仏教界も、明治12年12月6日、堀江町より出火した思いも寄らぬ大火,開港後、一時ロシア領事館の開設までの仮止宿所となったりしていた日蓮宗の実行寺は、その大火の直後、廃寺か,6人組によるこの画策も、実は大火以前から芽生えていた。,してみれば、実行寺と説教所との反目は、中央と地元における教導職布教をめぐる矛盾に端を発し、それが明治12年の大火,箱館奉行交代の際の仮本陣やイギリス領事館の開設までの仮止宿所にも当てられていた浄土宗称名寺も、明治12年の大火
函館市史 別巻 亀田市編 (非常出動)

昭和四年六月の駒ケ岳噴火および昭和九年三月の函館大火に際しての救援出動の状況については、すでに第四章第一一節,三 森町大火災応援  昭和三十六年十月二十三日午後十一時過ぎ、森町字本町駅前マーケット内飲食店より出火,間もなく森町大火の報に接した当町警防団は、直ちに消防ポンプ自動車二台と団員六〇名を非常召集して森町大火応援隊
函館市史 通説編 第二巻 (支場の設立)

支場は12年の大火に類焼し一時休場していたが、3年ほどたった15年4月、台町の世話方から昨年来しばしば,なお幸いなことに、この12年の大火に本場は類焼を逃れている。
戸井町史 ([戸井及び近隣町村の災害事件(明治以降)])

古武井鉱山の雪崩による大惨事 明治四一、三、八 ③椴法華沖の汽船衝突事件 明治四一、三、二三 ④古武井鉱山の大火,明治四二、一、二四 ⑥小安の網子別(あごわか)れの殺傷事件 明治四二、一二、一九 ⑦古武井、大滝の沢の大火,明治四三、四、一三 ⑧戸井町、弁才澗の大火 大正三、九、二九 ⑨汐首燈台官舎の火事 大正四、一、二三,銚子岬沖の磯舟転覆事件 大正七、一、一八 ⑬汐首岬の漁船遭難事件 大正一一、一一、八 ⑭椴法華、島泊の大火
椴法華村史 (火防宣伝)

火防宣伝 大正十二年の大火後昭和時代に入っても、消防組や婦人会は意気込みも強く火防宣伝に活躍した。,昭和二年十二月八日  函館日日新聞    過年本村大火三十六戸を焼失せしめし以来各自火防に注意、今日
函館市史 通説編 第二巻 (諸施設の移転と都市形態)

まず、遊郭については明治4年の大火により山の上町より、幕末時に整地されていた大工町地続大森浜通の蓬莱町,図4-17 市街地拡大と諸施設移転の概念図 港内より山腹を望む(明治12年大火)  次,これまでは寺社施設の移転は大火との関連の中で説明されてきた。,もちろん移転の直接的契機となったのは、明治11年および同12年の大火であることを否定するものではない。,しかし高龍寺や八幡宮移転については大火以前より計画がすすめられていた。
函館市史 通説編 第二巻 (私塾・寺子屋から私立小学校へ)

明治6年「市中請願伺届留」より作成  寺子数の( )内は男・女の内訳    12年の大火後,さらに12年の大火後の再興まもない14年4月には、これらの私塾・寺子屋を一掃する「私学開業規則」(『布類,大火後の学校不足のために子供たちを受け入れてくれる学校が不足していた函館では、親たちも学校が新築されるまで,大火後丸1年半たっても公立学校が再興しないため、廃業した私塾の経営者の中には「私学開業規則」に基づき私立学校,開校が続くようになると、通学児童数は停滞し、私塾から代わった私立小学校の中には経営難になる物も現れ、大火後急増
函館市史 通説編 第二巻 (市街地租改正と新旧税表)

その直後大火により街区改正が行われ、先の等級に変更が生じることになった。,さらに明治12年12月の大火により街区改正が広げられるため、翌年になり再度調査をし、5月に地主総代鑑定人,つまりこれらの大火は、地租改正の施行時期を遅らせるとともに、街区の様子を大きく変えることになったのである,までどおり納め、地租改正がなされた時に不足分を納めるという内容のため、明治11年の市街の景況と明治12年大火後,また崖地も数字化されているのは、明治12年大火後の街区改正などとの関連で、明治13年4月21日に布達された
函館市史 別巻 亀田市編 (駒ケ岳噴火救援)

駒ケ岳噴火救援 昭和四年六月十七日午前零時三十分ころ、道南の秀峰駒ヶ岳は、夜空に大火柱を吹き上げ大爆発,まった人家の発掘に努め、他の一班は飲料水確保のため爆発、地鳴り、降りしきる灰の下で、火口より吹き上げる大火柱
函館市史 通説編 第二巻 (函館市街全図)

明治4年の大火により蓬萊町に移転した遊郭の範囲は同町の堀割によっても認められる。
函館市史 通説編 第二巻 (新刻/函館港全図)

児玉永成編大倉弥兵衛出版明治15(1882)年 木・銅版50×72cm この時期は、明治11、12年大火後
椴法華村史 (椴法華病院の焼失)

椴法華病院の焼失 大正十二年五月二日、島泊に発生した大火により三十戸を焼失する。
函館市史 通説編 第二巻 (私立遺愛幼稚園)

函館幼稚園廃園後は区内唯一の幼稚園となり入園者も多数いたが、40年の大火に類焼、廃園となった。
函館市史 通説編 第二巻 (北海通誌)

ところが、同年12月6日の大火で罹災し、「明治十二年三月四日発行免許ヲ蒙、是迄発行致来候処、今般本社類焼,結局、11月30日発売の第16号の広告が函館新聞に載ったのを最後に大火後再刊された様子はなく、そのまま
椴法華村史 (大正十二年)

・道路の充実と大火。  ,大正十二年は道路交通が充実し始めようとした年であったが、一方では二度と経験したくない、してはならない大火災,・島泊の大火  大正十二年五月二日午前三時 島泊中村理髪店から出火し折からの風に煽られ、島泊の現在の,福永商店から川森旅館まで付近一帯二十六棟・三十六戸を焼失、損害額約八万円と云われる大火災が発生した。
函館市史 通説編 第二巻 (書籍館の閉鎖)

されたりはしたものの、『函館区史』によれば、「再興謀りしも未だ成らずして四十年被災」と記されているように明治40年の大火
函館市史 通説編 第二巻 (計画の変更)

計画の変更 12年の大火により、出願者はいずれも罹災したため、とりあえずは各自の営業復旧に従事した。,この肥田の助言と大火という2つの要素から事業方針の転換がなされた。  ,大火の罹災により埋立計画が流れ船渠開設は当面不可能な状態となったので、代替地を真砂町に求めた。
函館市史 通説編 第一巻 (春)

として日本海で低気圧が発達して当地に近づくことがあり、猛烈な春のあらしになり、前節 3 に述べた函館大火,の際の測器被害や、本節、次節で後述するように大火発生の要因ともなる。
戸井町史 (九、汐苜燈台官舎の火事(大正四年))

上原は泥酔していたので、体の自由がきかず、逃げおくれて全身に大火傷を受けた。
函館市史 通説編 第一巻 (昭和前期の推移)

昭和9年3月21日住吉町で出火した火災は函館の家屋の約半分を焼失させる史上最大の大火となった。,昭和11年には大火前の人口を取りもどしたが、戸数はその後10数年間4万2,000台にもどることはなかった
函館市史 通説編 第二巻 ([第4章 都市形成とその構造])

本章では、この都市空間そのものを対象としており幕末より明治40年大火以前頃までの都市形成を説明する。
函館市史 通説編 第一巻 (消防組の設置)

消防組の設置 箱館にはこれまで消防組の設けがなかったが、この大火を機会にこれが設けられたもののごとく
函館市史 通説編 第二巻 (公立小学校の再興)

公立小学校の再興 大火を切っ掛けに街区改正に着手した開拓使は、焼失した神社や学校の移転を民選の街区改正委員,大火後に新築・開校した公立弥生小学校    しかし常野正義・渡辺熊四郎・今井市右衛門
函館市史 通説編 第二巻 (全科併設校)

町外れに位置し12年の大火の災難を免れた宝小学校は、市街の東部地区への発展も関係し、以後函館の学校教育,大火後の校舎不足と男女混同の弊害解除のために是非女学校を開校したいとう石黒源吾の「女学校設立願」(15
函館市史 通説編 第二巻 (社屋の移転)

北溟社は社屋を11年5月内澗町魁文社内の仮住まいから大町84番地へと移転したが、翌12年12月の大火
函館市史 通説編 第二巻 (経済基盤の移動と出張所への降格)

このため、明治39年8月20日、小樽出張所を小樽支店と改め、北海道支店を函館出張所(明治40年8月25日大火
函館市史 通説編 第二巻 (洋々たる前途)

明治40(1907)年8月の大火である。,「偶々明治四十年八月の大火災によって、営業倉庫中金森倉庫は六棟を、安田倉庫は五棟を類焼し、また一時運送貨物
函館市史 通説編 第一巻 (消防組織の確立)

火災に出動する専門的な消防組織が確立されたのは、次に述べる文化3(1806)年10月4日の大火以降のことであった
南茅部町史 下巻 (七飯村の記録)

役場・消防組・学校職員・青年団員などが出動して、大火鉢に番茶を用意して接待につとめた。
椴法華村史 (防火への関心)

防火への関心 大正十二年の大火で火災の恐しさを身にしみて知らされた椴法華村民は、以後消火設備・器具・
函館市史 通説編 第二巻 (函館の初期の女教育)

女子ニ必需ナル学科ノ一班」を教授するため、第一公立女学校(小学校)内に女子手芸科が開設されが、翌月の大火
函館市史 銭亀沢編 (石崎火葬場)

昭和九年の函館大火の時に漂着した遺体を荼毘に付したのもこの火葬場であろう。
函館市史 通説編 第一巻 (風)

ちなみに、昭和9年3月21日の函館大火の際の風速については、『函館大火史』に函館消防組調として「発火時
函館市史 通説編 第二巻 (発起人会と請願書)

(2)明治12年の大火の際に市街復興に開拓使付属船の果たした役割は大きかった。,ころに道内からの出資により安全社と称する海運会社の創設を函館区民の有志が企画していたが11、12両年の大火
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