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函館市史 通説編 第二巻
(大町築出地における分割問題)
大町
築出地における分割問題 函館は安政5(1858)年日米修好通商条約の締結により、翌年には貿易港として,具体的に言えば
大町
築出地の性格、分割問題、地所規則、地代などの事項である。 ,
大町
築出地についての一番の問題点は分割についてであった。,
大町
居留外国人 このようになかなかまとめることができなかった
大町
築出地の分割も文久元(1861,この取り決めは、
大町
築出地を媒介にした外国側提出の規則案へ箱館奉行が署名したものであった。 /
大町
築出地における分割問題
函館市史 通説編 第二巻
(大町外国人居留地化の意味と課題)
大町
外国人居留地化の意味と課題
大町
築出地の意味はその性格を明確にしえないまでも、漠然とした雑居の様相,この応対により逆に
大町
築出地の性格およびこれまでの応対の矛盾などが露呈することになった。 ,当然ポーターは、
大町
築出地に借地を保有しているのであるから、山ノ上新地への家作は認められないのが奉行側,つまり、
大町
築出地だけの居留地化から1人2か所の貸渡しを許容しない考え方への変更であり、そのために物理的,さらに、幕府側の
大町
築出地の外国人居留地としての認知は外国側にとって新たな疑問を生むことにもなる。 /
大町
外国人居留地化の意味と課題
函館市史 通説編 第一巻
(外国人居留地問題)
外国人居留地問題 外国人の居留地は
大町
の海面2000坪(長さ40間、幅50間)を埋め立ててこれにあてることにし,
大町
の埋立地も文久元年4月これを10区画に分かって、アメリカ人6、イギリス人3、ロシア人1に貸渡した。,文久元酉年四月貸渡 一 合坪三百五坪二合八才 一ケ年地税 洋銀百九弗九十一セント四
大町
築島,文久元酉年四月貸渡 一 合坪七百七坪七合六勺 一ケ年地税 洋銀二百五十四弗八十八セント五
大町
築島,文久元酉年四月貸渡 一 合坪二百十三坪八合七勺 一ケ年地税 洋銀七十七弗二セント一
大町
築島
函館市史 通説編 第二巻
(外国人居留地の性格)
函館に最初に外国人が居住したのは、安政4(1857)年のアメリカ人ライスであり、当時
大町
にあった浄玄寺境内,また、運上所付蔵所もないのでこれも兼ねた
大町
の裏手海岸を2000坪埋立て蔵所にあて、余分の地は当所商人,前伺書をうけてか、その直後の万延元(1860)年正月に箱館奉行から老中へ、
大町
海岸を埋立し貸渡地に造成,さて、
大町
の居留地埋立以降も居留外国人は増え、
大町
以外の船着きの便利な海岸地を望む者が多くなった。,地所貸渡関係書類によれば、
大町
外国人居留地については「当箱館港において外国人借用の場所として取極めし地
函館市史 通説編 第一巻
(新興仲買人)
万延元年七月現在 仲買人名
大町
与三郎
大町
藤吉
大町
要吉
大町
喜左衛門
大町
,勝太郎
大町
平吉 大工町 茂左衛門 地蔵町 孝作 内澗町 徳兵衛 内澗町 源次郎 大黒町 忠吉 (,
大町
の藤吉とは多分柳屋藤吉のことであると思われる。
函館市史 通説編 第一巻
(市街の拡張)
それを中心に海岸に沿って西に弁天町、
大町
、東に内澗町、地蔵町が一列に並んでいた。,それに続く
大町
は産物会所、交易会所から、内陸の旅人、商品の出入を取締まる沖ノ口役所および問屋、小宿、諸商人,また弁天町の坂上には神明社および高龍寺があり、
大町
の坂上には実行寺、称名寺、浄玄寺等の大寺が門を並べて
函館市史 通説編 第二巻
(町屋敷経営の変容と職業構成)
つまり、それまでは弁天町通り、
大町
通りという具合に1本のメイン通りに面して町家が形成されていた。,図4-5 函館
大町
家並絵図 このことを裏づけるように町家地区を数値から見てみると、文政3(1820,)年の屋敷数と戸数の比は、内澗、
大町
などでは1.5倍でこれが万延元(1860)年になると内澗町では3.7,倍に増えており、
大町
でも明治2(1869)年の「函館
大町
家並絵図」(図4-5)から3倍の数値を得ている
函館市史 通説編 第二巻
(町と町に準ずるもの)
われる人口戸数等の統計上に見られる町名としては、寛政期(1790年代)にはその存在が確認できる弁天町、
大町
, 表2-20 町代表(明治2年12月現員) 担当町名 町代名
大町
伊藤弥太郎 常野与兵衛,
大町
、内澗町、弁天町、地蔵町、三町、大黒町、山上町、尻沢辺町がその8町である。,この内、三町というのは鰪澗町、仲町、神明町を総称したもので、箱館の表通りの町(弁天町、
大町
、内澗町)の,つまり町政上の町は、
大町
、内澗町、弁天町、地蔵町、大黒町、山上町、尻沢辺町、鰪澗町、仲町、神明町の10
函館市史 通説編 第二巻
(開港以前の様相)
前直轄時代の市中には名主が9人置かれており、それぞれ地蔵町、山ノ上町、
大町
、弁天町、大黒町、内澗町、仲町,そして、これらの町の職業構成は、弁天町、
大町
、内澗町などは場所請負人、問屋、小宿などを業種とする有力商人,これらの職業の違いを反映してか、当時の土地所有における坪割銭によれば内澗町、弁天町、
大町
が1か年地面1,つまり、店役および家役から
大町
、弁天町が特に高い比率を占め、土地生産性が高いことがわかるし、人別銭での,さらに、前直轄時代の函館の都市機能として重要な沖の口役所が
大町
より弁天町へ移転した。
函館市史 通説編 第二巻
(異人仲買)
氏 名 住 所 氏 名 松陰町15 天神町 青柳町 上大工町36 会所町5 弁天町97
大町
,82
大町
81
大町
34
大町
17 松 岡 宇 吉 淀 川 庄兵衛 山 崎 権次郎 桜 庭, 藤五郎 村 山 宇 吉 村 田 駒 吉 原 常 吉 前 田 治三郎 福 地 善 六
大町
函館市史 通説編 第一巻
(消防組織の確立)
○
大町
官庫は
大町
人足二十人受持。 ○内澗町官庫は内澗町人足三十人受持。
函館市史 通説編 第一巻
(町費)
内澗町、弁天町、
大町
一箇年地面一坪銭十文ずつ 大黒町、山ノ上町 同六文ずつ 地蔵町, 一 二百九貫五百三文 八幡神輿附惣社迄の入用 一 三百九十三貫二十七文
大町
恵比須山入用, 二貫九百七十文 地蔵町 一貫九百四十四文 内澗町 一貫三百七十七文
大町
函館市史 通説編 第二巻
(地蔵町築出地の居留地化)
地蔵町築出地の居留地化
大町
築出地は、居留外国人だけの空間として箱館地所規則の調印により、一応の居留地,その後、居留外国人も増え文久2年頃になると、在留官吏より
大町
築出地の築増の申立が再々行われるようになった,しかしこの件については、
大町
築出地の近辺に住む人たちの業務上の支障や埋立経費などを考慮すると受け入れることがなかなか,結果的に函館では、政府と居留外国人との地代契約は、
大町
築出地、地蔵町築出地、山ノ手と大きく3段階となり,そして地蔵町築出地の居留地化の動きは、結果的には、運上会所を中心とする西側の
大町
築出地ばかりでなく、東側
函館市史 通説編 第一巻
(箱館支店開設)
箱館支店開設 嘉兵衛が箱館
大町
に支店を設け、弟金兵衛を支配人とし、根拠を置くようになったのは寛政10
椴法華村史
(開運丸二ツ岩の破船)
開運丸二ツ岩の破船 安政六年(一八五九)三月一日、箱館
大町
長兵衛所有の開運丸百六石壱斗三舛四合積、五人乗組
椴法華村史
(第二礦運丸の沈没)
第二礦運丸の沈没 大正十一年六月九日 函館新聞 濃霧の為め第二礦運丸沈没 區内
大町
渡島汽船會
函館市史 通説編 第二巻
(官許/箱館全図)
第弐図では、特に地蔵町の新築島にみられるように海面の埋立地や
大町
の外国人居留地の位置がわかるし、願乗寺川
函館市史 通説編 第二巻
(運上会所設置と海岸道路普請)
この運上会所が、産物会所とともに
大町
の御作事場に建設されることに決まったのが安政5(1858)年10月,この工事の経費については、これまでに出来た弁天町、
大町
、地蔵町の埋立地を払い下げその代金によることにし,その後、海岸道路に関連しての
大町
海面の埋立は明治3年3月18日付の「右は海岸地尻の地自分入費を以埋立皆出来,以上から、海岸道路の普請は開港後の安政期より個々の商人や町会所などの埋立にはじまり、
大町
築出地や地蔵町築出地
函館市史 通説編 第二巻
(経済力と土地所有)
つまり仲浜町の倉庫地は
大町
の三井物産が、船場町については末広町の渡辺熊四郎が多くを保有していることがその,このことから町別の経済力については未だ
大町
、末広町にその中心があることが理解できるのである。,5.45 0.97 1.39 12.44 0.95 0.48 30.55 (2) 弁天町
大町
,602,156 12.69 6.34 46.33 2.59 67.95 (2) 弁天町
大町
,47.82 12.50 100.00 小計 7,815 160 56.20 (2) 弁天町
大町
函館市史 別巻 亀田市編
(函館の電話)
町別では末広町五四、東浜町二九、
大町
二六、蓬来町一二、弁天町一一などは多い方で、一つもない町は春日町など
恵山町史
(箱館港の整備と船造場の建設)
享和元年(1801)、役所は補助金を出し町人を使役し、内澗町(現
大町
)に掘割りを造り寄州の埋立てを行い
函館市史 通説編 第一巻
(遊歩区域)
安政6年11月には
大町
の料理屋重三郎が出願して西洋料理店を営んだが、これが本道最初の西洋料理店であった
函館市史 通説編 第一巻
(天保12年の戸口)
箱館
大町
一二九戸 六四三人 内澗町 一七六戸 八七
函館市史 通説編 第二巻
(3区の設定)
山上町 新天神町 神明横町 鍛冶町 三町代地 駒止町 山背泊町 台町 代地竪通 浜町
大町
上通,下大工町 尻沢辺町 2区 鰪澗町 鰭横町 神明町 仲町 弁天町 西浜町 喜楽町 七軒町 大黒町
大町
,下汐見町 尻沢辺町 2区 鰪澗町 鰭横町 神明町 仲町 弁天町 西浜町 喜楽町 七軒町 大黒町
大町
,仲新町23 上新町1 三町代地 代地竪通 浜町 船見町西側 仲新町45 上新町2 元新町
大町
上通
函館市史 通説編 第二巻
(硝子)
また、明治20年佐野寅之助が
大町
に、23年中村平吉が東川町に、34年島本由太郎(東京でイギリス人につき
函館市史 通説編 第二巻
(社屋の移転)
社屋の移転 北溟社は社屋を11年5月内澗町魁文社内の仮住まいから
大町
84番地へと移転したが、翌12年
函館市史 通説編 第一巻
(機械)
安政4年箱館
大町
に機織場を設け、上野国伊勢崎から工女を呼んでこれに当たらせ、機三組をもって業務を開始した
函館市史 通説編 第一巻
(官費埋立)
通商貿易のため開港するに至り、幕府は外国人にその居留地を供給しなければならなくなり、箱館奉行は、そのために
大町
函館市史 通説編 第二巻
(市街地の拡大と地価決定因子)
して決めた土地標準価格は、1坪につき東浜町71円、西浜町、末広町65円、仲浜町、船場町60円、地蔵町、
大町
,これが33年の等級表では
大町
、地蔵町、恵比須町が同じ等級であり、弁天町はそれ以下に下降している。 ,14 20 30 5 23 18 12 5 21 23 8 (2) 弁天町
大町
函館市史 通説編 第二巻
(明治11、12年の大火による街区改正)
具体的には明治11年の街区改正では「一、弁天町及
大町
等ノ如キ大道ハ道幅十間以上トシ一直線ヲ要ス 一、山, 表4-21 大火による土蔵の移転 明治11年大火 明治12年大火 弁天町
大町
,大黒町 神明町 仲町 西浜町 鍛冶町 16 11 7 3 1 1 1
大町
函館市史 通説編 第二巻
(町年寄・名主の廃止)
1856)年 注1 担当町名 五十嵐荘八 注6 小島又次郎 白鳥半十郎 定兵衛 堺新三郎
大町
,堺新三郎 松代伊兵衛 蛯子武兵衛 注8 内澗町 大工町 地蔵町 三町 大黒町
大町
,松代伊兵衛 注10 蛯子武兵衛 石川茂作 太右衛門 地蔵町 内澗町 大黒町
大町
,1868)年 注4 担当町名 五十嵐荘八 小島屋又次郎 岩井屋茂作 池田屋新左衛門 能登屋惣吉
大町
函館市史 通説編 第一巻
(名主)
大町
弁天町 鰪澗町 名主 新十郎 山ノ上町 神明町 同 次兵衛 内澗町 地蔵町
函館市史 通説編 第一巻
(箱館に本店を置く)
その後、箱館
大町
の支店を本店に改め、倉屋敷を内澗町ならびに宝町および蓬莱町に設け、別に長屋数棟を恵比寿町
函館市史 通説編 第二巻
(函館馬車鉄道株式会社の設立経過)
一 亀田郡亀田村字万年橋を起点とし、函館海岸町、若松町、鶴岡町、地蔵町、末広町、
大町
,路線は同年11月23日に弁天町、
大町
、末広町、恵比須町、蓬莱町を経て東川町本社に達する1線が竣工し、続
函館市史 通説編 第二巻
(漁網)
取扱っていたが、はじめての漁網製造会社が北海道機械網株式会社の名称で、資本金15万円をもって、34年
大町
,北海道の販売は函館
大町
に所在の三井物産会社に委託したが、漁網の種類が多く、注文も繁雑、しかも掛売が多くて,北海道機械網会社工場別製造高 工場別 所在地 主要製品 製造高 本社工場 亀田分工場 同 仙台分工場 同
大町
函館市史 通説編 第二巻
(ロシア軍艦の乗組員)
そのうち難破船の乗員たちは
大町
の築島でロシア商人ピョートル・アレクセフの経営する「ロシアホテル」に逗留,ここは、
大町
の埋立地(築島)が完成して分割した時に、領事ゴシケヴィッチが確保していた所で、元治元年にピョートル,
大町
の居留地規則には宿屋や酒屋を作ってはならないとあるため、他の外国人が連名で抗議の書を提出したのである
函館市史 通説編 第一巻
(五稜郭付近及び山の手方面)
安政5年市中で官金100両を借り、内澗町と
大町
の境に木戸を建てたが、すこぶる太い柱で堅固なものであったという
函館市史 通説編 第二巻
(新しい商人層の台頭)
沖之口役銭延納額の関係で万延元年7月頃に記録されている仲買商人名は、
大町
与三郎、
大町
藤吉ら11名が,知られるが(『函館市史』通説編第1巻)、藤吉が、柳田藤吉(安政4年、箱館
大町
に開店、のち、開拓使管下の
函館市史 通説編 第二巻
(運動の再開と函館商業会議所の設立認可)
5 末広町19 船場町3 富岡町5 末広町46 末広町26 末広町94 末広町24
大町
,19 東浜町5
大町
17 鶴岡町58 弁天町63 船場町25 函館商業会議所『第一回事務報告
函館市史 通説編 第二巻
(都市形態の特徴とそのイメージ化)
当初
大町
築出地の地代決定についても、当地の商人の取引高に見合わせて決めるという方針を説明していたことは,」)、当時の山の手地区の相対による貸渡地代は、前掲の図4-2にみられる金額とそれ程違いがなかったが、
大町
築出地
函館市史 通説編 第二巻
(郵便網の拡充と改定)
この頃
大町
85番地ノ2の新庁舎に移ったようである。
函館市史 通説編 第二巻
(開港による市街の二分化)
1857)年には大工町や尻沢辺、山ノ上町の拝借地の願いが増えており、その願人は大工町では地蔵町、山ノ上では
大町
,町名 150文 125 120 110 100 90 80 70 60 50 45 35 30 25
大町
函館市史 銭亀沢編
(八幡宮の祭礼)
依之惣町四組に相成り、祭山と相唱ひ、弁天町・
大町
・内澗町・山之上町。
函館市史 通説編 第二巻
(函館郵便役所の設置)
当分仮役所ノ積ヲ以海関所ノ内間仕切イタシ郵便役所御取開ノ都合取計申度」ということに落ち着き、海関所の一隅(現
大町
函館市史 通説編 第一巻
(心学講釈所)
安政4年には、その道場を
大町
沖ノ口前(いまの西警察署前)に新設したが、晩翠はついに落成を見ないで死亡した
函館市史 通説編 第一巻
(貞治の碑)
貞治年中の古碑は、宝暦二(一七五二)季壬申八月、
大町
の榊といへる者の宅の後の崖下に
函館市史 通説編 第一巻
(箱館の町勢)
「内澗町」 地蔵町に続き本通り
大町
役所下の坂まで、およそ3丁の間を内澗町といい、ここには場所請負人の和賀屋,御役所の坂 一般にいい習わされたもので、この坂は内澗町と
大町
の境から御役所にのぼる坂で、ここを登れば役所,「
大町
」 御役所の坂から沖ノ口門までをいい、問屋、小宿、諸商人などの家作が美々しく、長崎屋といって長崎俵物会所,沖ノ口役所 ここは四つ角になっており、西は仲町、東は
大町
、北は沖ノ口の門通りである。
函館市史 通説編 第二巻
(その他の出版物)
また、村尾元長の編纂による『現今北海道要覧』は道内諸般の状況を簡明に叙述したもので、明治13年9月に
大町
,この頃になると、函館市街の・中心部を占める内澗町(後の末広町)、
大町
には書店も増えて種々雑多の書籍が次々
椴法華村史
(牛滝村慶祥丸の難船)
南部領牛瀧村船方之者共 魯西亜國江漂流上申書 箱立辨天町濱屋次郎兵衛同所
大町
辰巳屋七郎兵衛方ヨリ
椴法華村史
(椴法華村春日丸の漂流)
され七日午後一時室蘭港に曳船救助された何れも凍傷に冒されなかにも王村勇助(21)君は最も甚だしく室蘭市
大町
田中病院
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