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椴法華村史
(蝦夷人の大畑漂着)
蝦夷人の
大畑
漂着 宝暦元年(一七五一)蝦夷二人天下森浜(
大畑
)へ漂着有しに水粮を与かて(ママ)へす / 蝦夷人の
大畑
漂着
椴法華村史
(蝦夷国私記)
蝦夷国私記 文化十三年(一八一六)の「蝦夷国私記」に南部領
大畑
より江山を目標に渡海してきた南部の杣人,江山、年中焼ル、檜葉材木杣人など南
大畑
より此所江渡り是ヨリ山道シ山小屋ヘ行也、
大畑
ヨリ此處迠三十里
函館市史 銭亀沢編
(大間鉄道着工と工事中止)
大間鉄道着工と工事中止 昭和十一年、大間鉄道は国鉄大間線として第一工区の田名部、
大畑
間約一八キロメートル,その後昭和十六年完成をめざして、第二工区の
大畑
、大間間約二三キロメートルが着工されたが、太平洋戦争開始,この時すでに土工は
大畑
から桑畑までの約一七キロメートルが完成していたという(『国鉄の車両③東北線Ⅰ』),その後、大間線は
大畑
線と名称が変更、国鉄第一次廃止対象線の特定地方交通線として挙げられ、昭和六十年七月,に地元民間バス会社の下北交通が運営を継承し
大畑
線として営業されている。
椴法華村史
(小船による海峡横断)
・文化十年(一八一三)箱館の漁師、丸木船で
大畑
釣屋浜に漂着する『下北地方史年表』 ・文化十二年(一八一五,「下北の海運と文化」 ・文化十三年(一八一六)の『蝦夷國私記』によれば、南部領
大畑
より江山を目標,江山、年中焼ル、檜葉材木杣人など南
大畑
ゟ此所江渡リ是ヨリ山道シ山小屋ヘ行也、
大畑
ヨリ此處迠三十里。
函館市史 銭亀沢編
(田名部大間間鉄道)
走る鉄道として、釜谷鉄道と同じく大正十一年の改正鉄道敷設法予定線の本州の部「一」に「青森県田名部ヨリ
大畑
,鉄道」(大正十一年「公文類聚第四十六編巻二十四」国立公文書館蔵)として挙げられた、大湊軽便線田名部から
大畑
経由,「鉄道敷設法予定線路一覧」(前掲)には同線の重要貨物として輸出の部に「活鮮魚、乾魚、木材、硫黄(
大畑
)
函館市史 銭亀沢編
(大間鉄道と函館大間間航路)
また、大間鉄道沿線にある
大畑
町(昭和九年町制施行)では、同線の着工が目前となった昭和十一年十一月、拡張工事中,の
大畑
港と函館、室蘭航路の開設を目論み、
大畑
港湾期成同盟会を設け軍部などに陳情をおこなっている(昭和十一年十一月二十八日付
函館市史 銭亀沢編
(私設大間鉄道敷設計画)
された大間鉄道は、当初は昭和三年七月三十一日付けで田名部、大奥村(大間)間が申請されていたが、田名部町、
大畑
村間,が国有鉄道建設線に該当するという理由から田名部町、
大畑
村間を除いた
大畑
村、大奥村(大間)間として昭和三年十二月
椴法華村史
(繩とじ船・丸木船の海峡横断)
元文元年(一七三六)松前より三百石積繩緘(なわとじ)船入津(
大畑
港)『原始謾筆風土年表』 天明四年,(一七八四)尻屋の孫四郎なるもの丸木舟で松前から
大畑
につく『下北地方史年表』
恵山町史
(3、泉藤兵衛の供養塔)
大畑
町史には北海道開発の先覚者の1人と題し、次のように記述している。,以下抜粋 泉藤兵衛、文政十二年(一八二九)
大畑
村に生まれる。,泉藤兵衛は事業を広げるとともに農業を重視、明治13年(1880)亀田郡大野村に田畑100町歩、故郷
大畑
椴法華村史
(鱈釣船の尻労漂着)
鱈釣船の尻労漂着 文化十年(一八一三)箱館鱈釣舟二艘尻労(
大畑
)へ当冬も漂着(原始謾筆続編年表四十七
椴法華村史
(多賀丸の漂流)
多賀丸の漂流 延享元年(一七四四)佐井の竹内徳兵衛、多賀丸十六人乗、大豆・昆布・鰯カスを
大畑
で積み入
椴法華村史
(椴法華村サガ釣船の遭難)
大正三年三月三日 函館毎日新聞 ▲
大畑
沖の遭難船 先月二十一日午前一時頃下北郡
大畑
村字木野部
函館市史 銭亀沢編
(ネブタ)
現在では、青森市のネブタや弘前市のネプタが有名であるが、菅江真澄が寛政五(一七九三)年に、
大畑
(青森県
大畑
町,でもおこなわれていたことを「まきのあさつゆ」(『秋田叢書別集菅江真澄著作集第六』昭和八年)で記しているように、対岸の
大畑
戸井町史
(三、道南の館主と政季、信広の渡島(新羅之記録抜萃))
工藤祐長の外に、蠣崎の土豪、酒井七内、石黒喜多右衛門、布施新六、麿呂市兵衛、細谷品右衛門等七人がつき従って
大畑
,蠣崎武田若狭守信広朝臣、相原周防守政胤、阿野加賀右衛門尉越智政通、計略を以て、享徳三年(一四五四)八月二十八日、
大畑
,「註」 安東政季、蠣崎信広等が、享徳三年(一四五四)八月二十八日に
大畑
から蝦夷地に渡ったということは誤
戸井町史
(三 蠣崎の錦帯城趾の伝説(川内町))
不意を討たれた信純は、戦わずして敗れ、錦帯城を捨て、僅かの従者を連れて、地下道から城を逃れ、
大畑
に走って,これが南部氏の記録による蠣崎信純渡島の経緯(けいい)であるが、松前氏の記録では、
大畑
よりの信広の船出が,何れにしても、南部政経に攻められて錦帯城を逃れ
大畑
から松前に渡った蠣崎信純が後の信広であることは確かだと
戸井町史
(二、和人の館)
武田信広といわれる人物)が、北部王家(きたべおうけ)義純を殺したため、根城(ねじょう)南部 政経に攻められ
大畑
,この時安東政季も別な船で同時に
大畑
を船出した。 ,(南部側の記録) 松前側の記録には「享徳三年(一四五四)八月二十八日、
大畑
を出船して狄(てき)の,南部側の記録では「安東政季、蠣崎信純等が
大畑
から蝦夷地へ逃れたのは、康正三年二月二十五日(○○○○○○
南茅部町史 上巻
(屋号)
生国(出身地)から名付けた飯田屋、能登屋、加賀屋、
大畑
屋など。
椴法華村史
(和人の館)
、享徳三年(一四五四)八月二十八日、下國安東政季は武田(蠣崎)信広、相原政胤、河野政道らを従え、南部
大畑
戸井町史
([私設教育機関])
鈴木屋由松は青森県
大畑
の生まれで、汐首村の〓鈴木家の初代である。 ,由松の生家は
大畑
の船問屋であったという。
函館市史 通説編 第一巻
(江戸交易と東回り航路の発達)
このため幕府は早くも寛政11年、蝦夷地御用として政徳丸を交付し、凌風丸を買上げ、次いで浦賀、
大畑
および,西部の福山~三厩線とともに本道の重要な航路として、箱館のために多大の便益を加え、襟裳以東の航海のために
大畑
恵山町史
(海運の官業)
寛政11年、まず、官船政徳丸の交付を受け続いて凌風丸を買上げ、浦賀で大船神風丸を、南部
大畑
で数艘の小船
椴法華村史
(椴法華と近村の海運)
岩石之出崎を廻る洋ニて椴法花村より直ニ道々己しから 左ニイワウ山稼一所有專烟立登る下り切て根田内渡辺向ニ南部
大畑
間近
函館市史 通説編 第一巻
(近江商人の排除)
栖原久次郎、田中屋伊助、京都では越後屋利右衛門、大坂では多田清左衛門、伊丹屋四郎兵衛、小山屋吉兵衛、南部
大畑
椴法華村史
(鱈釣船の漂流)
の漂流 「原始謾筆続編年表四十七」によれば、文化十年(一八一三)冬、箱館の鱈釣舟二艘が尻労(青森県
大畑
南茅部町史 下巻
(大正四年 函館港海運・回漕店)
鹿島丸 尻岸内直行 定期 先山丸 易国間・下風呂・
大畑
行,弁天町一番地 〓能戸回漕店 定期 大正丸 青森・川内・虻浦・易国間・下風呂・
大畑
行,幸町六番地 〓若山回漕店 定航 稲荷丸 大間・奥戸・佐井・虻浦・易国間・下風呂・
大畑
行
恵山町史
(蝦夷日誌(巻之五)椴法華村の項より)
此処に上るや西の方汐首岬を越て箱館山・木古内浜まで一望し、東ヱトモ岬、南部尻矢岬、南
大畑
、下風呂サキ、
椴法華村史
(繩とじ船)
『原始謾筆風土記』によれば、元文元年(一七三六)に「松前より三百石積繩緘船入津」(現在の
大畑
港)という
函館市史 通説編 第一巻
(安東政季らの渡海)
年武田若狭守信広、相原周防守政胤、河野加賀右衛門尉(又は加賀守)政通(まさみち)らが、ひそかに計って政季を擁し、
大畑
椴法華村史
(大正三年)
二月二十日 椴法華村石川留吉外五名、恵山沖へサガ釣に出漁中北西の強風により遭難二十一日午前一時、青森県下北郡
大畑
村字木野部
恵山町史
(【主な参考図書】)
上磯町史(平成9) 〈青森県〉 むつ市史(昭和61) 佐井村史(昭和47) 大間町史(平成9)
大畑
町史
戸井町史
([下北半島の景勝地と伝説])
同一文化圏(ぶんかけん)であり、和人の移住が始ってからは、下北地方の佐井、大間、風間浦(かざまうら)、
大畑
函館市史 銭亀沢編
(イワシ漁)
『
大畑
町誌』(笹澤魯羊 昭和三十八年改訂五版)の「鰮漁」によると
戸井町史
(四、汐首観音堂の大鐘皷(しょうご))
下北、
大畑
町の心光寺に、延命地蔵尊像が安置されているが、この仏像に「元文三年 江戸西村和泉作」と刻まれている
南茅部町史 上巻
(志海苔で古銭の大甕出土)
)になると松前家の祖となる武田信広がのちの箱館の館主河野政通らと、潮潟政季(下国政季)に従って南部の
大畑
函館市史 通説編 第二巻
(矢越丸による海運業の創始)
18年7月4日の「函館新聞」は矢越丸が近日中に試験航海をして
大畑
、大間、佐井、脇ノ沢など青森方面への航海
南茅部町史 上巻
(姉妹町友好(昭和五〇年))
時に昭和四二年、函館下北協議会が発足し、下北郡下佐井村、大間町、風間浦村、
大畑
町と函館市、戸井町、恵山町
戸井町史
((参考)北海道と青森県の円空仏)
から円空仏が発見されたことから、「寛文七年頃、北海道と本州の最短距離の汐首から船出して、対岸の異国間か
大畑
,んでここに納め、八月に内浦岳(駒ケ岳)に登り、大沼を経て汐首に着き九月か十月頃、汐首から下北の異国間か
大畑
戸井町史
((参考)康正三年(一四五七)の下北地方豪族配置図)
一四五七)の下北地方豪族配置図 錦帯城主蠣崎信純渡島直前の下北豪族配置図 この地図は、下北
大畑
戸井町史
(二、汐首観音堂と円空仏)
おこっぺ)に渡っていること、佐井村に円空仏があることなどから、円空は帰路、戸井の汐首か松前から、下北の
大畑
,、九月か十月に汐首を訪れて、観音像を納め、汐首から大間崎を目ざして、漁船に身を托して船出し、易国間か
大畑
戸井町史
(三、戸井に移住した人々)
南部のうちでも戸井の対岸である大間、佐井、風間浦、
大畑
、東通(ひがしどおり)などの町村からの移住者が最
戸井町史
([戸井の万体仏と貞伝上人])
この時南部の
大畑
からこのコタン(村)に来ていた伝七という者が、貞伝上人作の万体仏を持っていたために、その
椴法華村史
(椴法華近辺の道)
此処に上るや西の方汐首岬を越て箱館山、木古内浜まで一望し、東ヱトモ岬、南部尻矢岬、南
大畑
、下風呂サキ、
函館市史 銭亀沢編
(安藤康季の渡道と「道南の十二館」)
享徳三(一四五四)年、安藤政季は晴れて武田信広・相原政胤・河野政通らを従え、南部
大畑
より、蝦夷島に渡った
恵山町史
([船舶遭難原因])
下北
大畑
の発動汽船「尻矢丸」馬場軍太郎船主外、十人乗組は強風の為め尻岸内トドリ岬に乗上げるが、地元中里回漕店
恵山町史
(2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より)
此処に上るや西の方汐首岬を越えて箱館山、木古内浜まで一望し、東ヱトモ岬、南部尻矢岬、南
大畑
、下風呂サキ
恵山町史
((4)古武井高炉と一連の施設)
南部の史話「宇曾利百話」に、対岸
大畑
付近で行われていたタタラ吹製法について述べられているので、「山カセ,且つ、風景は後はエサン山を構え前は渺々(びょうびょう)たる滄海(そうかい)、遥かに南部
大畑
シリヤを望み,下北半島の津軽海峡に面した沿岸に砂鉄が堆積していたことや、
大畑
の山中に山砂鉄が埋蔵されていたことは古くから,
大畑
町誌には、鉄吹立(踏鞴吹き)のある場所を俗に『かな山』、鉄吹立所を『銅屋』と呼んでおり、銅屋は六〇
函館市史 別巻 亀田市編
([六月])
名主引受八戸三太、八戸志や〆弐人 三太郎引受横濱倉松、
大畑
福松、同所亀松〆三人 六郎引受三戸多助
恵山町史
(6、蝦夷日誌に見る郷土のすがた)
ここからの眺めは、西は汐首岬を越え箱館山、木古内浜まで一望し、東エトモ岬、南部尻矢岬、南
大畑
、下風呂岬
南茅部町史 上巻
(松浦武四郎)
此処に上るや西の方汐首岬を越て箱館山・木古内浜まで一望し、東ヱトモ岬、南部尻矢岬、南
大畑
、下風呂サキ、
恵山町史
(5、江戸時代の鱈漁)
また、同記録『原始謾筆続編年表四十七』には、1813年(文化10)冬、箱館の鱈釣船が2艘、尻労(青森県
大畑
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