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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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椴法華村史 (天然痘と隔離病舎)

天然痘と隔離病舎 大正十二年九月三十日、函館に入港した日魯漁業所有汽船第二富美丸六百八十七屯、船客四百十九名,下海岸地域では、明治三十年代以後流行することのなかった天然痘が流行し、大正十三年一月二十三日、本村にも,村民の語るところによれば、天然痘発生が知られるや役場は直ちになま水・なま物の飲食を禁止し、警察によって,(なお村内の天然痘は隔離病舎が完成する以前の一月中に終息していた。),函館下海岸の天然痘患者数(「北海道痘瘡流行記」より作成) 椴法華村で発生した伝染病 椴法華 / 天然痘と隔離病舎
函館市史 通説編 第一巻 (疫病)

疫病 蝦夷地において最も恐れられたのは、天然痘の流行であった。,こうした天然痘の流行は、処女地である蝦夷地に入り、猛威を振い、蝦夷の人口に大打撃を与えた。  ,天然痘のほか、寛政3(1791)年に渡来した、筑後柳川藩医淡輪(たんわな)元朔の『東奥遊記』によると、
椴法華村史 (明治時代の伝染病)

・明治八年二月二十三日、函館支庁、天然痘予防仮規程を定める。,・明治九年五月、函館・福山・江差に天然痘流行する。,・明治十九年七月十三日、函館にコレラ発生九月天然痘流行、このため函館より下海岸地域へ避難する者あり、しかしこのように,、天然痘患者七千七十七名、死亡者二千五百五十七名   ・明治二十六年、前年より引き続き天然痘流行、患者二千四百五十四名,、死亡者九百五十四名   ・明治三十年、天然痘全道的に流行、患者千二十三名、死亡者二百九十八名   
椴法華村史 (蝦夷地の病気)

寛永の天然痘流行  寛永元年(一六二四)初夏から二、三年にかけて天然痘が流行し、和人・蝦夷人で死ぬ者,が多く、ことに小児が多く死亡した(『新北海道史第二巻』)  万治元年の天然痘流行  万治元年(一六五八,)春・夏の間、天然痘が流行し、死亡者が多く、秋には亀田に蔓延する(『新北海道史第二巻』)  寛政十二年
南茅部町史 上巻 ([アイヌの戸口])

アイヌが最も恐れたのは、和人の増大によって持ち込まれた痲疹・梅毒・疥癬・天然痘などの伝染病であった。,伝染病に抵抗力のなかったアイヌの人たちは、痲疹や天然痘の蔓延によって激減したといわれる。
函館市史 通説編 第二巻 (種痘の普及)

種痘の普及 天然痘は古く奈良時代から日本人を苦しめてきた病気である。,9年になると天然痘予防規則が布達されて、初めて強制種痘の制度が設けられるに至った。,函館の天然痘の流行年(患者が100以上の年)を調べてみると、19年が患者数1247人で翌20年が192,   表12-3 種痘接種人員  区分 \ 年次  種 痘 接 種 人 員 天然痘
南茅部町史 下巻 (公立病院開設を建議)

このときに同年一一月、尾札部村木直に天然痘が発生して多くの罹患者がでたことが尾札部村戸長役場より郡役所,猶不日巡回医相沢良恂、其感否ヲ検シ、残員接種可致旨ヲ示ス」  村岡院長は二六日帰途につき、臼尻では天然痘患者二本柳某,同人は幸い種痘済であったが、木直の天然痘患者の家と交流があったという。  
南茅部町史 下巻 (〔保健衛生〕)

〔保健衛生〕 文化年間、臼尻・尾札部の地域に疱瘡(天然痘)が流行し、多くのアイヌが罹患して死亡した。,明治一九年一月、臼尻・木直にジフテリアが流行、一一月、同地区に天然痘が流行した。,昭和二一年、尾札部地区に天然痘が発生した。
函館市史 通説編 第一巻 (種痘の先駆)

五郎治はのちに足軽となり、松前や箱館に勤務したが、文政7年天然痘が流行すると実際に種痘術を行ったのを始,五郎治の実施した方法は、天然痘の種苗を大野村の牛に植え、その痘苗を男子は左腕に、女子は右腕に、それぞれ
南茅部町史 下巻 (チサンケ川)

或ル年天然痘流行スルヤちさんけ真先ニ之ニ冒サル。
椴法華村史 (伝染病からの避難)

下海岸の人々の中には、なんとか伝染病からのがれようと、現代の医学知識で考えるとこっけいとも思われる、天然痘
函館市史 通説編 第一巻 (種痘の普及)

種痘の普及 ゑぞ人うゑほうそうの図  安政4年箱館奉行はアイヌが天然痘で多く死ぬのを憂い、桑田立斎
函館市史 通説編 第二巻 (痘苗の製造)

丸山浪人の『北門名家誌』に記されているところによれば、明治13年に函館で開業したが、天然痘が猛威をふるい
椴法華村史 (大正時代の医療)

また予防方法や消毒方法の発達により、かつてのようにコレラや天然痘に罹患することは、ほとんど無くなっていた
椴法華村史 (大正十三年)

大正十三年 ・一月 椴法華村浜中に天然痘患者三名発生。  ,のため使用に耐えなくなったが、その後大きな伝染病も発生しなかったためそのままにしておかれ、大正十三年の天然痘患者
椴法華村史 (明治二十年)

・二月 全道的に天然痘流行、患者四千二百四名、内死亡者千三百五十余人に達す。  
椴法華村史 (明治初期の医療)

その上発病した場合、医療機関がないため適切な処置をとることが出来なく、天然痘・コレラ・腸チフス・悪性感冒
椴法華村史 (明治二十五年)

(函館の相場) ・この年、北海道内で天然痘流行する。
南茅部町史 下巻 (〔郷土の医療(医師)年表〕)

一六名中一三名死亡          戸長篠田順、郡長桜庭為四郎に病院開設を建議   11・23    木直で天然痘一八名発生,死亡三・重症三・軽症一二、木直村民一二九名に種痘          臼尻村で二本柳某天然痘          
南茅部町史 上巻 (臼尻村二代目戸長 篠田順)

当時、伝染病が流行し、ジフテリアや天然痘が発生していた。
戸井町史 ([旧家の系図])

全道或は道南で、コレラ、天然痘、赤痢などの伝染病で多くの人々が死亡した年が、歴史に記録されている。
函館市史 通説編 第二巻 ([目次])

…1382    産婆の免許制/薬剤師と看護婦  第三節 伝染病とその流行…1384   一 天然痘
椴法華村史 (目次)

………………………………1011      大正時代の医療/スペイン風の大流行/椴法華病院の焼失/天然痘
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