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椴法華村史
(女那川河口係留船の沈没)
女那川
河口係留船の沈没 昭和二十四年十一月十六日午後一時頃、尻岸内村字
女那川
河口で、仙台の漁船八絋丸十三屯 /
女那川
河口係留船の沈没
椴法華村史
(軍艦笠置の女那川座州)
軍艦笠置の
女那川
座州 大正五年七月二十日午後二時三十六分濃霧のため、海軍大佐桜井真清以下四百八十名乗艦,の軍艦笠置排水屯数五千三百屯、(排水量四九七八屯)が尻岸内村
女那川
沖六・七十間の所に座州する。 / 軍艦笠置の
女那川
座州
椴法華村史
(東京丸の女那川沖座礁)
東京丸の
女那川
沖座礁 明治五年二月二十九日東京品川を出航した兵部省汽船東京丸船長滝山正門は、海霧激浪,のため針路を誤り三月二日午後零時五分尻岸内村
女那川
海岸に坐礁する。 / 東京丸の
女那川
沖座礁
恵山町史
((4) 豊浦、大澗、女那川地区)
(4) 豊浦、大澗、
女那川
地区 図3−16に豊浦・大澗地区と
女那川
地区の等深線(2メートル間隔)を示,
女那川
地区の等深線についてみれぱ、8メートル等深線までは距岸距離110〜160メートルでほぼ海岸線と平行,
女那川
地区の海底勾配の状況は4線の13.5/450(3.0度)から8線の14.7/250(5.9度)の / (4) 豊浦、大澗、
女那川
地区
恵山町史
((4) 豊浦・大澗、女那川地区)
(4) 豊浦・大澗、
女那川
地区 尻岸内漁業協同組合の所轄地である豊浦・大澗、
女那川
地区を底生生物の調査域,調査線は日浦地区と豊浦地区の境界を基点として、大澗漁港にかけて100メートル間隔で1〜15調査線を、
女那川
漁港,る目的で、昭和59年10月23、24日と昭和60年2月25〜28日に豊浦・大澗地区の3、8、12線、
女那川
地区,表6-7 豊浦・大澗、
女那川
地区に出現した主な大型底生動物 表6-8 豊浦・大澗、
女那川
地区 / (4) 豊浦・大澗、
女那川
地区
恵山町史
(古武井熔鉱炉・女那川煉瓦製造所の研究論文)
古武井熔鉱炉・
女那川
煉瓦製造所の研究論文 古武井熔鉱炉・
女那川
煉瓦製造所(炉築造のための)の調査・研究,また、浜田らは、古武井熔鉱炉と
女那川
煉瓦製造所の本格的な学術調査の要請(跡地の発掘なども含めて)・文化財保護,その労が実り、価値が認められ、『古武井熔鉱炉跡』『
女那川
煉瓦製造所跡』という名称で1968年(昭和43,古武井熔鉱炉・
女那川
煉瓦製造所は、文化財として道の指定を受けるだけの歴史的、あるいは産業遺構として価値,これらの事を考慮にいれ、古武井熔鉱炉・
女那川
煉瓦製造所等の復元も含め、将来の調査・研究に資するため、まず / 古武井熔鉱炉・
女那川
煉瓦製造所の研究論文
恵山町史
([古武井熔鉱炉と女那川煉瓦製造所])
[古武井熔鉱炉と
女那川
煉瓦製造所] 本論は、尻岸内町史 第8章松前氏の復領そして再直轄への第4節『幕府 / [古武井熔鉱炉と
女那川
煉瓦製造所]
戸井町史
(一、女那川沖の東京丸坐礁事件)
一、
女那川
沖の東京丸坐礁事件 明治五年(一八七二)二月二十九日、東京品川から北海道の国道開さくの為の,して、函館に向けて出帆した、開拓使御用船東京丸が、濃霧のために針路を誤り、三月二日の昼過ぎ、尻岸内村字
女那川
沖 / 一、
女那川
沖の東京丸坐礁事件
恵山町史
((4) 豊浦・大澗、女那川地区)
(4) 豊浦・大澗、
女那川
地区 豊浦・大澗地区は日浦地区のサンタロナカセに隣接し、やや入江となっている,一方、
女那川
地区の調査線1〜8に距岸30〜130メートル位の平磯が発達し、その上にはアカバギンナンソウ,
女那川
地区の生物調査地点は74点(このうち砂底質は14点)であり、砂底質を除く1平方メートル当りの単純平均現存量,
女那川
地区を同様に距岸300メートルまでに限ってみると、全海藻の平均現存量は1,897.3グラム/平方 / (4) 豊浦・大澗、
女那川
地区
恵山町史
((4) 豊浦・大澗、女那川地区(調査期間‥昭和59年4月〜60年3月))
(4) 豊浦・大澗、
女那川
地区(調査期間‥昭和59年4月〜60年3月) 豊浦・大澗地区の調査線は、日浦,同様に、
女那川
漁港の北端を基点として寄貝歌にかけて11線を設け(磁針方位120度)
女那川
地区とした。,なお、調査点はおおむね水深20メートル(又は砂地帯)までとし、豊浦・大澗地区で283地点、
女那川
地区で,また、14線から
女那川
方向にかけては砂地帯が発達するが、ところどころに玉石地帯が分布する。,
女那川
地区は豊浦・大澗地区と同様に1〜8線にかけて平磯があり、距岸距離は30〜130メートルである。 / (4) 豊浦・大澗、
女那川
地区(調査期間‥昭和59年4月〜60年3月)
恵山町史
([女那川地区、川上地区、中浜地区、大澗地区])
[
女那川
地区、川上地区、中浜地区、大澗地区] 川上地区を除く3地区は、津軽海峡に面し恵山町内では少ない,
女那川
地区には、尻岸内川が津軽海峡に向かった河口を開き、その河口は冬期、凍結すること無く河口一杯に広がっている / [
女那川
地区、川上地区、中浜地区、大澗地区]
恵山町史
([盛況を極める海運業])
−根田内−椴法華 明石丸 ・尻岸内−
女那川
−古武井−椴法華−熊泊 保坂回漕店(押野鉱山汽船, 村田回漕店 福井丸 ・汐首−戸井−日浦−尻岸内−
女那川
福栄丸 ・戸井浜中−,日浦−尻岸内−
女那川
太古丸 ・根田内行 金比羅丸 ・日浦−尻岸内−
女那川
−椴法華−, 濱岡船舶部 第二寿丸 ・戸井−日浦−尻岸内−
女那川
−根田内 丸太回漕店, 栄宝丸 ・日浦−尻岸内−
女那川
−古武井−根田内 正生丸 ・汐首−瀬田来−戸井−鎌歌−
恵山町史
(5、恵山町の簡易郵便局)
日浦簡易郵便局
女那川
簡易郵便局(尻岸内郵便局監督) ・町議会設置決議 昭和39(1964,)年2月1日 ・設置場所(住所) 尻岸内町字
女那川
35番地 ・委任事務取扱主任担当者 福井 忠,
女那川
簡易郵便局 渡島御崎簡易郵便局(古武井郵便局監督) ・町議会設置決議 昭和40,大澗簡易郵便局 前頁の(註)昭和26年(1951)の規則により、日浦・
女那川
・大澗の簡易郵便局
恵山町史
(【写真・資料、提供者・関係機関】)
函館海洋気象台 町内小・中・高等学校 尻岸内郵便局 古武井郵便局 恵山郵便局 御崎簡易郵便局 大澗簡易郵便局
女那川
簡易郵便局,笹田家 〓松本家 〓伊藤家 〓佐藤家 〓佐々木家 二本柳家(御崎) 飯田家(元尻岸内小学校長) 村木家(
女那川
,) 伊藤家(日ノ浜) 高田家(日浦) 五十嵐家(中浜) 米沢家(日浦) 佐竹家(
女那川
) 新川家(
女那川
恵山町史
([尻岸内川と古武井川に架かる橋])
女那川
橋の建設(昭和42年・1967年)
女那川
橋は2級河川尻岸内川・道道(昭和45年に国道昇格・, 〈歩道〉川上側2.5メートル・川下側1.5メートル ・橋脚鉄筋コンクリート 鋼単純合成桁
女那川
地区
恵山町史
([部長規則の改正])
し(*従来の部名称は一~七部) 日浦部落 字日浦一円 尻岸内部落 字尻岸内一円
女那川
部落, 字
女那川
・メノコナイ・ヨリカイウタ一円 古武井部落 字古武井・複線・青盤・中小屋・暗渠・旧山二股,高橋常之助(大正四・七・二四~五・三・六死去) ②玉井長次郎*(大正五・三・一五~七・九・三〇)
女那川
部落, 島蔵 尻岸内西部 浜田 伊三郎 村会議員兼務 尻岸内東部 上田定右エ門
女那川
恵山町史
(昭和期の農業は稲作に始まる)
この水田は字
女那川
の三箇友次郎、字古武井の中森伊三郎が試作していたもので、反当たり収穫、約1石(2.5,殊に
女那川
流域には約二百町歩の水田適地を有す。,水田耕作賃借契約書の存在 明治34年(1901)11月17日付で、
女那川
・古武井地区の土地を借り受け水田耕作,契 約 書 今般尻岸内村字
女那川
及古武井ノ弐個所に於テ貴殿ノ所有ニ罹ル畑ヲシテ水田トシテ耕作スル契約,、村当局から議題「本村新田を設くること」が提案され水田耕作について論議されたことが、議事録に「将来、
女那川
椴法華村史
(下海岸航路の衰退)
函館日日新聞 (昭和八年六月九日) 新家丸、十日 尻岸内・
女那川
・古武井・根田内・磯谷・,昭和八年七月二十三日) 陰下海岸定期航路 ラヂオ備付客船 鐡船 昭星丸 尻岸内・
女那川
,古部・白井川・木直・見日・尾札部・川汲・板木・臼尻・熊泊・磯谷行 第二 忠福丸 日浦・尻岸内・
女那川
, 共益丸廿三・廿六 毎日午後十二時発 戸井・日浦・尻岸内・
女那川
恵山町史
([昭和8年の字名・地番の改正])
江戸時代末から明治に、これらは訛化したり音(おん)を漢字に当て嵌めたりして尻岸内・
女那川
・古武井・根田内,大部分、澗宮ノ後、宮後、宮ノ沢、村中、澗ノ沢、サツカイウタ沢、武井泊の一部 中浜 澗の一部、浜中、
女那川
,の一部、フリキの一部
女那川
女那川
(メナ川)の大部分、横澗、浜中フリキ、フリキの一部、ヨリカエウタ,、古武井ヲツケの一部 川上
女那川
の一部、一本橋、炭釜 高岱 古武井(ムサノ沢・ヲツケの一部・
戸井町史
([戸井及び近隣町村の災害事件(明治以降)])
[事件] 事件 年月日 ①
女那川
の東京丸坐礁事件 明治五、三、二 ②古武井鉱山の雪崩による大惨事,二九 ⑨汐首燈台官舎の火事 大正四、一、二三 ⑩汐首岬の鰮船転覆漁夫溺死事件 大正四、一二、一四 ⑪
女那川
,特に明治五年、開拓使御用船東京丸が
女那川
沖の岩礁地帯に坐礁難破した事件、大正五年帝国軍艦笠置(かさぎ),が
女那川
沖に坐洲した事件などは、近郷近在の人々がこれを見るために現地へ行った事件であり、北海道史や日本
恵山町史
((7)えさん漁業協同組合 (平成17年4月1日現在))
恵山支所(函館市恵山町 一二八番地) 椴法華支所(函館市新浜町五三番地)
女那川
出張所,(函館市
女那川
町四〇八番地) 御崎出張所(函館市御崎町五五番地) 施設 昆布種苗センター(函館市
女那川
町四
南茅部町史 下巻
(大正四年 函館港海運・回漕店)
本別行 弁天町二番地 〓橋谷回漕店 定期 良運丸 日浦・武井泊・尻岸内・
女那川
行, 電話八九二番 定期 正運丸 汐首・戸井・原木・日浦・尻岸内・
女那川
行 ,椴法華行 弁天町一番地 〓關川回漕店 発動汽船 慶正丸 戸井・日浦・尻岸内・
女那川
行,・浦河・様似・幌泉行 船場町三番 〓保坂回漕店 定航 礦運丸 尻岸内・
女那川
,・古武井・川口行 電話一三〇一番 定航 喜久丸 尻岸内・
女那川
・古武井・根田内行
恵山町史
((1)海浜砂鉄)
(1)海浜砂鉄 古武井・日ノ浜・
女那川
・中浜一帯の砂浜や小さな砂丘中に存在する砂鉄である。,これは古武井川沿岸の更新砂鉄(山砂鉄、後述)も
女那川
(中浜)砂丘も他の海浜砂鉄もほぼ同じ傾向がみられ興味深,操業開始5年目の昭和30年(1955)には日ノ浜の生産高と
女那川
現場「中浜」の埋蔵量・生産の見通しから,そして、同年、
女那川
現場(中浜)も採掘を開始し、翌年の昭和33年(1958)から同41年(1966)まで,
女那川
現場「中浜」の採掘は昭和32年(1957)に開始、同40年(1965)までで、翌41年に廃砂再処理
恵山町史
(〈道道41号函館恵山線〉)
〈道道41号函館恵山線〉 町道日浦
女那川
線の『道道』函館恵山線昇格 「広報えさん」昭和62年(1987,)2月号に町道日浦~
女那川
線、道道「函館恵山線」に昇格決定という記事が載っている。,昨年(昭和六十一)六月、豊浦バイパス完成により、国道(二七八号線)から町道路線となっていました日浦~
女那川
間,、旧国道(278号線)の日浦トンネル(1~7号)通称日浦洞門をくぐり、豊浦・大澗・中浜の市街地を通り
女那川
,従って、日浦・
女那川
間は豊浦バイパス完成後も、日浦トンネル箇所も含め(当区間は車掌も乗務)、路線バス(
恵山町史
(3、青年団活動 戦後の活動・昭和22年~40年代)
(1948)ごろ誕生した「下海岸青年同盟」、24年4月25日結成したといわれる「古武井海峡青年会」、
女那川
地区,青年研究会・文化研究会・育成会・愛互会等のグループを連絡調整するため、25年3月11日に結成された「
女那川
青年連絡協議会
南茅部町史 下巻
(命令航路)
六・一 函館新聞 蔭 下海岸室蘭定航船 鉄船 明星丸 ラジオ備付各船 尻岸内
女那川
,渡島丸 毎月三日 六日 九日 一二日 一五日 一八日 二一日 二四日 二七日 晦日 尻岸内
女那川
恵山町史
(1、北海道指定文化財)
女那川
煉瓦製造所跡 所 在 地/亀田郡尻岸内町字川上 規模数量等/指定面積1,250平方メートル, 指定年月日/昭和42年3月17日 所 有 者/井戸竹作
女那川
煉瓦製造所跡は、尻岸内川河口,恵山式土器 〈古武井熔鉱炉跡〉 [古武井熔鉱炉跡] 熔鉱炉基壇 〈
女那川
煉瓦製造所跡
恵山町史
(部落区長制の施行)
字日浦一円 尻岸内西区 字武井泊より字澗一七番地に至る一円 尻岸内東区 字澗一八番地より
女那川
,に至る一円
女那川
区 字
女那川
一円 古武井区 字古武井一円 根田内西区 古武井境より字根田内三三番地,16.2.24) 岩戸 仁太郎(5.7.30~11.4.1) 山崎 石太郎(5.7.30~11.3.31)
女那川
区
恵山町史
(4、簡易郵便局)
本町の日浦・
女那川
・御崎は従来から戸数が多い地区であるが、いずれも既設郵便局から3、4キロと遠く、近年,り町議会の議決を経て、「札幌郵政局長と尻岸内町との間で郵政窓口事務の委託契約を締結」(註)し、日浦・
女那川
恵山町史
(昭和61年(1986年)1月18日『豊浦バイパス』開通)
この区間、昭和55年(1980)11月着工以来、6年の歳月と日浦・
女那川
間3.654キロに総工費(トンネル・バイパス
恵山町史
(豊浦バイパス全長3,654.29メートル(内トンネル部分延長1,355メートル))
・昭和42年(1967)7月
女那川
橋(2級河川尻岸内川)の建設 ・昭和42年(1967)11,47年(1972)11月 弁才橋(戸井川)の建設 ・昭和47年(1972) 尻岸内町字
女那川
,・字川上・
女那川
地区の道路改良・舗装工事を実施 ・昭和48年(1973)3月 日浦トンネル(
南茅部町史 下巻
(渡島商船)
渡島丸 毎月 三日 六日 九日 一二日 一五日 一八日 二一日 二四日 二七日 尻岸内
女那川
恵山町史
([尻岸内村の戦後の道路復旧工事])
[表] (二)
女那川
護岸災害復旧工事 護岸災害箇所ノ本村字
女那川
ハ昭和二〇年九月一八日ノ大降雨,び恵山川護岸災害復旧工事 護岸災害箇所の本村字
女那川
及び恵山川は昭和二十二年十月十一日の大降雨のため,[表] (五)町村道
女那川
沿道路の荒砥冷水道路改良工事 本道路は地方費道函館・椴法華線より,[表] (三)町村道古武井磯谷線区間及
女那川
沿道産業道路改良工事 〈災害復旧工事理由〉, ○昭和二十六年 道路改良事業 古武井・磯谷線改良工事 三〇、〇〇〇円
女那川
恵山町史
(6、2級町村制施行当時の人口統計より)
また、
女那川
についても尻岸内川流域(荒砥)に鉱山関係者の寄留が含まれている。
恵山町史
([明治末頃の尻岸内村の道路状況])
施行区域ハ左ノ如シ 第一区 自戸井村境至尻岸内山頂中央 第二区 自尻岸内山頂至字
女那川
渡場, 第三区 自字
女那川
渡場至字古武井境(目下木標の建てある処) 第四区 自尻岸内小学校裏至字荒砥,(現尻岸内川沿林道) 第五区 自字
女那川
境至根田内境 第六区 自字古武井浜中至古武井複線
恵山町史
(5、網漁)
免許地域別 免許の延べ件数を地域別でみると、『地曳網』は日浦22件、澗2件、武井泊3件、
女那川
1件、,『角・落網』は日浦12件、澗5件、武井泊2件、
女那川
3件、古武井7件、根田内12件、尻岸内漁協同組合7
恵山町史
(水田の造成と農業の盛衰)
」を受け、昭和36年(1961)を初年度に『尻岸内村産業振興長期計画』を定め、その核として尻岸内川(
女那川
,表11 昭和36年度~41年度
女那川
地区造田面積及び事業 昭和42年(1967)10月27日調べ,*昭和41年度は町単独での客土事業のみ 表12 昭和36年度~41年度
女那川
地区造田事業受益者負担金内訳,表13
女那川
地区水稲栽培の経過 農水省函館統計事務所 農業生産調による
戸井町史
(四、戸井警察署で取扱った主な事件)
二九 13、汐首灯台官舎の火災 〃一、二三 14、戸井村瀬田来沖の漁船転覆事件 〃一二、一四 15、
女那川
沖
南茅部町史 下巻
(渡島汽船株式会社)
廿日、廿三日 廿六日 後一一時 出帆 芸陽丸 電気装置 戸井 日浦 尻岸内
女那川
, 木直 見日 尾札部 川汲 板木 臼尻 熊泊 磯谷 森 共益丸 戸井 日浦 尻岸内
女那川
恵山町史
(〈昭和60年4月1日より、尻岸内町、恵山町に〉)
〃豊浦 ムイトマリ 静かな入り江 〃大澗 シリケシナイ 山・下・川(山の下の沢・川) 〃
女那川
恵山町史
([海難事故])
大事業「札幌本道・現国道5号線の一部」開削の技術者・人夫、資材等を積んで明治5年東京品川を出帆、尻岸内村
女那川
沖
恵山町史
([町有文書に記された海難事故])
勇蔵 座礁 大破 傷1死3人 第48忠洋丸 206.73 座礁 全損 3.2
女那川
海岸,藤田勘之蔵 荒天 大破 11.25 山背泊港 貴丸 蝶野 東郷 荒天沈没 全損 11.27
女那川
沖, 大破 1.15 山背泊港 第3福寿丸 16.58 福沢 留蔵 荒天 大破 2.11
女那川
沖
恵山町史
(第四紀層)
新期段丘および尻岸内海岸に至る古期段丘の表面にはZ−M(銭亀−
女那川
降下軽石層)がのっている。
恵山町史
(5、村並から「尻岸内村」へ)
なお、郷土の史跡、古武井溶鉱炉と関連施設(冷水川仮溶鉱炉・
女那川
レンガ製造所)の築造は、幕府・箱館奉行
恵山町史
(冷害による農業被害)
ところで、恵山町で本格的な水田耕作が行われたのは、昭和4年(1929年)、
女那川
地区(尻岸内川流域)の,大正9年(1920年)、村議会の議事録に 「本村に新田を開くこと」が提案、水田耕作について論議、将来「
女那川
,水田が開かれたのは、先にも述べたように昭和4年、
女那川
地区の3戸の農家の努力によるものである。,年以降(1955年以降)の国の農業政策・造田開発事業を受け、昭和36〜39年(1961〜1964年)
女那川
地区
恵山町史
([恵山火山の地質])
また、この段丘上に厚さ2メートルの軽石を含む火山灰層を記載し、
女那川
(めながわ)火山灰層と呼んだ。,この中で、町田らは、恵山町
女那川
においてもZ−Mの下位100センチメートルの層位に厚さ1センチメートル,C、銭亀−
女那川
下降軽石層(Z-Mpfa) 中川(1961)は、恵山の基盤よりやや上位に厚さ3〜4,このテフラは銭亀−
女那川
テフラと命名され、給源は函館市汐泊川河口沖の海底で、14C年代測定と層位とから,なお、恵山地域で確認できる降下軽石層は銭亀−
女那川
下降軽石層(Z-Mpfa)と呼ばれる。
恵山町史
(戦後の飢餓状況と農業)
当町でも、渡島支庁(国・道)の行政指導により、昭和20年(1945)字日和山(空川)70町歩・
女那川
17,にして未開発の地積数百町歩余あり、且つ集団帰農者入殖予定地として支庁に於いて地方費有林空川七〇町歩、
女那川
一七町歩,森は、この開拓地に6年間過ごした後、生活の場を
女那川
に移したが通いながら耕作は続けた。
恵山町史
(夏)
1916年(大正5年)7月20日の濃霧による、巡洋艦「笠置」の
女那川
海岸付近での坐礁など、濃霧の犠牲となった
恵山町史
(昭和55年(1980年)豊浦・日浦間のトンネルいよいよ着工)
また、トンネル豊浦側口から
女那川
までをバイパス路線とする計画であった。
恵山町史
(恵山汽船合資会社)
金弐拾五円 亀田郡尻岸内村字澗一九番地 高橋常之助 金五拾円 亀田郡尻岸内村字
女那川
五七番地,松本出張店(代理経営者北村金助)同じく中里回漕店(経営者中里平作)、大澗の野呂回漕店(経営者野呂斧右エ門)、
女那川
, 若山常太郎 亀田郡尻岸内村字日浦五二番地 〃 柳本 三郎 亀田郡尻岸内村字
女那川
五九番地
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