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南茅部町史 上巻
(宇賀昆布)
宇賀昆布
延暦一六年(七九七)に成る続日本紀(しょくにほんぎ)四〇巻(菅野真道ら)に、元正天皇の霊亀年間,この庭訓往来に記す
宇賀昆布
を、マコンブの名が全国に知られる始めとしてよく引用される。 ,室町末期の註釈本「庭訓往来註」に、
宇賀昆布
について「夷嶋弁才天ノ御座所也」と記す。 /
宇賀昆布
函館市史 銭亀沢編
(宇賀昆布)
宇賀昆布
ところで一四世紀中葉に書かれたとされる「庭訓往来」(『続群書類従』巻三六一)に諸国の産物が,その中に「
宇賀昆布
」も並んでいる。,に松前広長が書いた「松前志」(『北門叢書』第二冊)では穀類部で「コンブ並アラメ」を取り上げ、「庭訓、
宇賀昆布
,志苔から噴火湾沿岸の各地が良品質の昆布産地(特に尾札部)として著名になるにしたがって、
宇賀昆布
は『庭訓往来 /
宇賀昆布
函館市史 通説編 第一巻
(宇賀昆布と箱館の繁栄)
宇賀昆布
と箱館の繁栄 「庭訓往来」 しかるにこのころから、いまの渡島半島沿岸には、相次いで諸館,
宇賀昆布
とは、いまの函館市銭亀沢のウンカ川付近に産したもので、この地は昆布の産地として有名であり、のちに,かくて良港をかかえた箱館は、後背に志海苔・
宇賀昆布
をもって代表する産地をひかえ、「若狭を結節点とする日本海商品流通圏 /
宇賀昆布
と箱館の繁栄
函館市史 通説編 第一巻
([第2節 松前藩の再生産構造と箱館港])
けれども亀田付近は必ずしも昆布の繁殖が多かったわけではなく、この地の人々は、
宇賀昆布
の名称で代表されているように
函館市史 別巻 亀田市編
(東北・北陸との交流)
正平五(一三五〇)年ころ、僧玄恵作と言われる『庭訓往来』には、諸国の名産が挙げられているが、その中に「
宇賀昆布
,」と「夷鮭」があり、
宇賀昆布
すなわち現在の函館市銭亀町付近から戸井町小安付近で取られた昆布と蝦夷地産の
椴法華村史
(昆布漁業のはじまり)
「
宇賀昆布
」というのは現在の函館市銭亀町付近から産出する昆布のことであり、このころ既に蝦夷地産の昆布がはるばる,左上すみに
宇賀昆布
庭訓往来(内閣文庫蔵)現存する最古のもの 『新羅之記録』によれば、
函館市史 別巻 亀田市編
(館の経済基盤)
裏日本から来航する船と交易し、それを財源として館の経営がなされていたものと考えられ、前述『庭訓往来』の
宇賀昆布
函館市史 銭亀沢編
(マコンブと昆布食の歴史)
ホンコンブ」(本昆布)、あるいは砂原から椴法華までのマコンブを元昆布、汐首岬から函館の大森浜までのものを「
宇賀昆布
,ほぼ最初に開拓された真昆布漁場がこの銭亀沢であり、最初に日本人が食物として口にした昆布が「
宇賀昆布
」「
函館市史 通説編 第一巻
(昆布の種類)
『庭訓往来』に「
宇賀昆布
」と記されているのは、亀田郡小安村ウンカ川付近から産出したので名付けられたという
椴法華村史
(本州との交易)
本州との交易 『庭訓往来』元弘四年(一三三四)には諸国の名産が挙げられているが、その中に「
宇賀昆布
」
南茅部町史 上巻
(御用昆布)
いわゆる庭訓往来の
宇賀昆布
を踏襲している。
戸井町史
([昆布漁])
に本州に知られたものは、函館から東の海岸即ち銭亀沢から釜谷までのもので、釜谷のウンカ川附近で産する「
宇賀昆布
,海運の進歩していなかった昔は、良港函館近くの
宇賀昆布
、志海苔昆布が最初に知られ、川汲を頂点とした、尾札部,『庭訓』に「
宇賀昆布
」と書いているが、東蝦夷地のオサツベ辺の昆布が最上である。,広長は『庭訓往来』の「
宇賀昆布
」は、銭亀沢の宇賀の昆布だとは言っていない。,菅江真澄が寛政三年(一七九一)内浦湾を通り、鹿部産の昆布を見て「これが
宇賀昆布
である」と書いている。
恵山町史
([松前藩時代の下海岸のみち])
元弘4年(1334年)、僧玄恵が書いた『庭訓往来』の中に諸国の名産として蝦夷地の「
宇賀昆布
・鮭」(宇賀
戸井町史
(一、十八世紀後半の戸井の状態)
「この地ウガ(○○)という所、昆布名代赤昆布という」という記録は、
宇賀昆布
は銭亀沢の宇賀の昆布ではなく
南茅部町史 上巻
(松前昆布)
宇賀昆布
として知られたこの地方の昆布は、松前地の名産として松前昆布と呼ばれ、若狭の小浜へ積み送られていた
函館市史 通説編 第一巻
(志海苔古銭)
建武元(1334)年の『庭訓往来』にある
宇賀昆布
、夷鮭の記述や、既に述べた貞治6(1367)年の板碑とも
恵山町史
([江戸時代の漁業])
しかも、沿岸一帯は、
宇賀昆布
(『庭訓往来(ていきんおうらい)』1334年に蝦夷の名産と記述、詳細は昆布
戸井町史
(年表の序)
で、その次が永仁四年より三十数年後の元弘四年(一三三四)に書かれた『庭訓往来』に、釜谷附近の昆布が「
宇賀昆布
戸井町史
([戸井の地名考])
昆布の歴史の最初に出て来る『庭訓往来(ていきんおうらい)』の「
宇賀昆布
」は、この川の注ぐ附近の海で採取,松前広長の書いた『松前志』に書かれている「
宇賀昆布
」の説明を読んで見よう。,「庭訓往来に
宇賀昆布
といっているが、東蝦夷地オサツベ辺の昆布が最上である。,松前広長が、これだけ明確に「宇賀という場所と、
宇賀昆布
」を説明しているのに、下海岸の地理や現地の事情を,竹内運平や松本隆なども「
宇賀昆布
は現在の宇賀や志海苔(しのり)辺で産する昆布である」と書いている。
恵山町史
(4、江戸時代の昆布漁)
そして、これらの人々にとって遠い蝦夷地で採れる食材の『
宇賀昆布
』は、すでに一般的な知識・常識、つまり食,世にいう「
宇賀昆布
・志海苔昆布」のことであるが、このことについては後述する。
函館市史 銭亀沢編
(目次)
……3 銭亀沢周辺の地名/松前藩の出先機関できる/幕府、蝦夷地の直轄を開始/幕末の村むら/
宇賀昆布
戸井町史
([戸井と近隣の変遷])
が石崎に滞留したという伝説があり、元弘四年(一三三四)に書かれた『庭訓往来(ていきんおうらい)』に「
宇賀昆布
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