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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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椴法華村史 (松前より宗谷まで人馬継立)

松前より宗谷まで人馬継立 次に「文化七庚午年(一八一〇)従二松前一東地通ソウヤ迠行程」により和人地から / 松前より宗谷まで人馬継立
南茅部町史 下巻 (【資料二-③】 明治九年九月一八日 函館郵便局課より札幌本庁駅逓課御中 北海道郵便出発定日 日割表)

    森村ヨリ砂原迄    五 〇ノ日     砂原ヨリ森村迄    五 〇ノ日     宗谷,    銭函ヨリ留萌迄    三 八ノ日     留萌ヨリ銭函迄    二 七ノ日     留萌ヨリ宗谷迄,    一 六ノ日     紋別ヨリ厚別迄    四ノ日     宗谷ヨリ毎月七日二七日紋別江向出発,    紋別ヨリ毎月一二日二七日宗谷へ向出発     川汲下湯ノ川出発ヲ除キ外一般午前六時出発之事
恵山町史 ((1)コンブの育つところ)

次に根室海峡からオホーツク海に入った網走では1パーセント以下であるが、北の宗谷では11パーセントである,宗谷も日本海に面しているが、そこには北から冷たい流れが来ていて、日本海では宗谷にだけコンブが育つ。
南茅部町史 上巻 (現地協議会)

   六月二一日  桧山   奥尻村    六月二五日  石狩   手稲村    七月一五日  宗谷,   宗谷村    八月 八日  上川   江丹別村   八月二〇日  後志   真狩別村   九月
函館市史 通説編 第一巻 (幕吏の西蝦夷地視察)

国に近き島々などにも決して船掛りすべからず」と達したにもかかわらず、あえて日本海岸近くを北上し、5月宗谷,松前に到着したが、定行は途中病気にかかり、いったん江戸に帰り、改めて翌3年松前に至り、共に西蝦夷地を宗谷
函館市史 通説編 第一巻 (八田三郎の研究)

中でも八田三郎の宗谷海峡説が最も重視されている。  ,、アマガエルなどは樺太に分布せず、しかも、すべて本州との共通種であるという資料により、津軽海峡に比べ宗谷海峡
函館市史 通説編 第一巻 (守備兵の増強)

して任に就いていた羽太正義は、この報を受け、ただちに江戸に急報するとともに、箱館を守備していた津軽兵を宗谷
恵山町史 (新たに設けられた19の支庁 明治30年(1897年)10月)

・美国・積丹 増毛支庁 手塩国増毛郡永寿町    増毛・留萌・苫前・天塩・中川・上川(手塩国) 宗谷支庁, 北見国宗谷郡稚内村    宗谷・枝幸・利尻・礼文 網走支庁  〃 網走郡北見町    網走・斜里・,渡島支庁に、札幌支庁を石狩支庁に、室蘭支庁を胆振支庁に改称し、石狩・空知・上川・後志・胆振・日高・留萌・宗谷
恵山町史 ((2)マンモス象)

寒冷化が進んだ約7万年前頃には北海道とサハリンの間にある水深約60メートルの宗谷海峡が陸化し、北海道は,北海道の各所はエゾマツ、アカエゾマツ、グイマツなどの亜寒帯性針葉樹でおおわれるとともに、大陸からは宗谷陸橋
函館市史 通説編 第一巻 (八田ライン)

づくべきであるとして、は虫類と両生類を取り上げ、北海道産の大部分が本州との共通種であることを指摘し、宗谷海峡
恵山町史 ((3)最寒冷期の環境)

現在の津軽海峡の最も深い部分の水深が130メートル、宗谷海峡では60メートル、間宮海峡では10メートル,で、最終氷河期最盛期には間宮海峡や宗谷海峡の一部は陸化したが、津軽海峡は海峡の状態を保っていた。
恵山町史 ([海峡と漁業])

[海峡と漁業] 日本海に流入し、日本列島に沿って北上した暖流は津軽海峡と宗谷海峡を通過して、別の2つの
函館市史 通説編 第一巻 (水腫病対策)

寒気よりくるとか、野菜の欠乏からくるとかいって恐れられたが、安政3年箱館奉行はこれが対策に乗り出し、宗谷詰調役梨本弥五郎
恵山町史 ((2)石刃)

宗谷海峡はまだ陸続きの状態で、ナイフ形石器の時期とは異なり、文化的には沿海地方など北との関係が強い。
椴法華村史 (ロシアの襲来)

一八〇七)春箱館奉行はこの報に接し、直ちにこの事件について幕府に報告したが、幕府はすみやかに、津軽藩は宗谷
函館市史 通説編 第一巻 (幕府の蝦夷地調査)

別動隊として配下の近藤重蔵は最上徳内を案内として国後・択捉までを踏査し、三橋成方は西蝦夷地を巡視して宗谷
函館市史 通説編 第二巻 (テールス号の入港)

長官一行の箱館到着直後、本府建設の責務を負った島判官は石狩に派遣され、松本、竹田両判官もそれぞれ根室、宗谷,越後高田藩士 宗谷 長官と共に来函、2.9.30宗谷に向かう、そのまま宗谷主任官 3.1.
函館市史 通説編 第二巻 (営業方針の転換と函館支店の閉鎖)

月形、樺戸、空知、苫小牧、室蘭、勇払、新冠、浦河、幌泉、釧路、厚岸、標茶、紗那(択捉島)、網走、紋別、宗谷
恵山町史 (1、北海道の郵便の創業)

明治9年(1876)苫前から宗谷へ、宗谷からオホーツク海岸を下り紋別まで、紋別からさらに網走、斜里を経
函館市史 通説編 第一巻 (北海道の自然)

オホーツク海沿岸はリマン海流の影響を受け、宗谷から雄武、常呂、網走、斜里に至る地域は冬期に流氷に見舞われる
恵山町史 ((2) 海藻成長でウニ・アワビ増加)

利尻、礼文両島など良好な漁場がある宗谷支庁の管内では、ウニは、96年の232トンに対し97年は236トン
椴法華村史 (昭和二十六・七年恵山沖の遭難船)

漁船大栄丸  一六 一二 自力帰港 函館市高砂町九五、三浦五十郎 二十六年十二月十七日 機帆船 第一宗谷丸
函館市史 通説編 第一巻 (心学講釈所)

その影響はのちに室鳩巣の『五倫名義解』が、宗谷御用所から出版され、また根室の通詞加賀屋伝蔵はこれをアイヌ
函館市史 通説編 第一巻 (縄文文化と地域性)

周辺地域との関連性を考え、先史時代の交通路と文化渡来経路を、(1)津軽海峡を通じての本州との交流、(2)宗谷海峡
恵山町史 ((2)コンブ前線と親潮前線)

コンブの産地は、宗谷という例外を除けば、根室から宮城に至る太平洋沿岸に限られている。
椴法華村史 (経営)

借入一部ノ仕込受ケ等種々ニシテ此内何レノ方法ニ依レルモノ幾何ナルヤハ確實ニ之レヲ知ルコト不可能ナルモ宗谷
恵山町史 (3、日本近海の海洋)

3、日本近海の海洋 日本海は対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡の3海峡によって仕切られ、これらの海峡を経てそれぞれ
恵山町史 ([続縄文時代])

後半期には道央で発生した後北式土器文化が次第に分布域を拡大し、後北C1式土器の時期には宗谷地方の一部を
恵山町史 (1、蝦夷地の直轄)

組織し、同年4月江戸を出発、5月福山(松前)到着、大河内政寿は東蝦夷地を様似まで、三橋成方は西蝦夷地を宗谷
函館市史 通説編 第二巻 (函館支庁の設置)

北海道庁増毛支庁 天塩国増毛郡永寿町 増毛郡、留萌郡、苫前郡、天塩郡、中川郡 天塩国上川郡 北海道庁宗谷支庁,北見国宗谷郡稚内村 宗谷郡、枝幸郡、利尻郡、礼文郡 北海道庁網走支庁 北見国網走郡北見町 網走郡、斜里郡
函館市史 通説編 第二巻 (函館出張開拓使庁から函館支庁へ)

明治5年9月14日、札幌開拓使庁を札幌本庁と改称、その他は支庁とすることとし、函館、根室、宗谷(6年2
椴法華村史 (北海道の郵便制度)

-小樽への路線が完成し、以後明治八年には、苫小牧-浦河-根室、銭函・留萌・苫前、明治九年には、苫前-宗谷
恵山町史 ((1) 一管区の海洋速報)

流氷状況  2月13日現在、宗谷岬から83度40海里、紋別から352度15海里、常呂、知床岬を結ぶ線の
恵山町史 (1、異国船の来航)

山越内(現八雲町字山越)・絵鞆(室蘭)・様似・釧路・厚岸・根室・国後・択捉の8か所と、西蝦夷地の石狩・宗谷
函館市史 通説編 第二巻 (開拓使出張所の初政)

ところがこの時期、開拓使の本務である開拓については、樺太は岡本判官、根室は松本判官、宗谷は竹田判官、そして
恵山町史 ([日本の自然])

北海道は、氷河期、間宮海峡が結氷しサハリンが大陸と陸続きとなり、そのうえ宗谷海峡が流氷で埋め尽くされたため
戸井町史 (二、会所時代)

明治五年(一八七二)全道を六つに分け、札幌支庁を本庁とし、函館、根室、宗谷、浦河、樺太の五支庁を設け、
恵山町史 ([渡島半島“みち”のはじめ])

そして、亀田以東の内浦湾・襟裳岬・根室半島、国後・択捉島を加え知床岬までを「東蝦夷地」、熊石以北宗谷から
椴法華村史 (北海道の生い立ちと人類)

文化は、大陸と地続きであった頃に共通した石器文化があり、人間の往来もあったと思われるが、一万二千年頃に宗谷海峡
函館市史 通説編 第一巻 (先人の足跡)

その数千年後になると青森や渡島半島に旧石器時代人が住むようになり、宗谷海峡もできて北海道は大陸と離れてしまう
恵山町史 ([函館と亀田半島の気候特性])

このことは、北海道とサハリン(旧樺太)間の宗谷海峡のような「気候上のギャップ」は、津軽海峡の場合ほとんど
函館市史 別巻 亀田市編 (造林奨励策)

全道各支庁毎に林務係を置き、専門技術者を配置して本格的に林業の指導奨励に当らしめる事となり、各支庁に(根室、宗谷
函館市史 通説編 第二巻 (財政の推移から見た都市整備)

江差港 200 4.9% 福山港 115 2.8% 臼尻港 156 3.8% 増毛港 265 6.4% 宗谷港
椴法華村史 (昭和二十三年)

続いて五日白龍、六日北鮮・宗谷の各船入港。    
函館市史 通説編 第二巻 (日本郵船の創業と命令航路の開始)

・小樽-宗谷線 汽船1艘配置。航海数は不定。ただし冬期間は欠航。  ・根室-離島線 汽船1艘配置。
函館市史 通説編 第二巻 (新体制下の病院)

なおこの他に小樽、札幌、宗谷、幌泉、根室、東京の各地詰の医員もいて、それぞれ函館病院が掌握していた。
函館市史 通説編 第二巻 (箱館裁判所設置)

蝦夷地の諸税は開拓入費に充てること、(5)開拓出願の諸藩へ土地を割渡すこと、(6)カラフトに最も近い宗谷付近
恵山町史 ([開拓使の設置])

にともない歳費として、金20万両、米1万石を5年間定額として配分、そのうち金2万両、米1400石を、根室、宗谷出張所,・明治5年9月14日『開拓使庁、本庁を札幌に置き「札幌本庁」』とし『函館・根室・浦河・宗谷・樺太に「5
戸井町史 ([戸井の鳥類])

[戸井の鳥類] 海洋を渡ることのできない多くの動物類や昆虫類は、津軽海峡や宗谷海峡が障碍になって、北海道,することはできないが、100里、1000里を飛翔(ひしょう)することのできる翼を持っている鳥類にとっては、津軽海岐や宗谷海岐
恵山町史 ([蝦夷地の馬])

翌年、シラヌカ(白糠)アバシリ(網走)間の道路が開削され、馬を東蝦夷地から西蝦夷地に送られ、斜里・宗谷
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