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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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椴法華村史 (昆布役)

浜役、七駄   家役、十三駄半[但、金納に御座候]     但、金納御座候(浜役以前は(道庁本ヨリ),四駄   家役、拾三駄半     但、金納御座候。,但、出稼の者は家役不二差出一候事。    ,但、名主・頭取・小頭迄の分、御上り菓子家役判銭とも免除の事。     ,其外年寄・村会所は家役判銭斗免除の事。 / 昆布役
函館市史 通説編 第二巻 (郭外の役宅)

すなわち「御普請御用留」によると、安政6年よりまず支配定役(同年4月、「調役下役」を「定役」と改称)の,役宅の建設を開始し、万延元(1860)年11月、彼等の役宅30軒が完成したため、定役は同年中にこれらの,ニも差響候間」として、とりあえず組頭用2軒、調役用8軒、定役元〆用4軒、立合御勘定方用1軒、同御普請役並用,家族連れで、「老親妻子厄介等多人数」の者もあり、殊に「御固諸家家来より御用達町人等」が出入するので、「,その後、何軒の役宅が建設されたものか正確な数字は定かでないが、支配向役々等が右の新役宅へ移転したのは、 / 郭外の役宅
南茅部町史 上巻 (役場火災)

役場火災 昭和二七年五月二七日午後一一時すぎ、尾札部村役場出火。,火の粉は忽ち隣家の小黒家の住宅にも飛び移って燃え上がり、三棟が全焼した。   / 役場火災
函館市史 別巻 亀田市編 (諸役の収納)

諸役の収納 享保二(一七一七)年の『松前蝦夷記』によれば、     一 薪 雑木 長二尺七寸伐 ,幅七尺 高サ五尺    西東在郷家大小不レ限一軒より収納申よし     但シ、木かぶ或ハ悪キ木ハ右,  一 西東在郷より    材木 五寸角長一丈雑木無構一本、丸太五本同断サキ(リ)卜云    右家大小不,納入すること、(二)緊急用の備えとして約一五センチメートル角で長さ三メートルの材木一本と、丸太五本を、家の,一 川流薪の義内拾五分一役にて百姓并給所入込川流を改候て見分の上拾五分一の役可二申付一候。      / 諸役の収納
南茅部町史 上巻 (村役人)

村役人 村並による自治は、村役人によってすすめられた。,いわゆる村方三役である。  ,神社棟札等による村役人   文化六(一八〇六)   文政八(一八二五) 文政一〇(一八二七) 天保七,              工藤茂五郎 箱館奉行    工藤茂五郎             白鳥屋彦右衛門       氏家六郎左,六箇場所の世話掛的役目としての六箇場所宿が、箱館におかれていた記録は他にもある。 / 村役人
函館市史 通説編 第一巻 (町役所の事務)

町役所の事務 町役所には、町年寄、名主は毎日出勤し、町代は用事のある時だけ出勤して事務を処理した。,同月中旬人別改と称し、町割をもって順次1人ずつ奉行所に呼出し、家族、人名等を読聞かせ寺判を受ける。,一 家屋新築の検分 住民が家屋を建築する場合は、先ず土台を据えるに当り町役所に届出させ、町役人並びに隣家,一 租税の事務 租税は大体沖ノ口番所及び地方収納役所において取立てるが、家役(1戸につき昆布1駄から13,駄半迄)四半敷(薪税で1戸につき銭300文)のようなものは町役所において取立て上納し、又糀役、豆腐役、 / 町役所の事務
函館市史 通説編 第二巻 (御役所の建設)

・鍛冶方・石方請負人中川(伊勢屋)傳蔵(江戸浅草橋場町住・家持)に行なわせ、「入札之模様ニ寄リ、請負等,安政3年に予定した御役所・役宅等の普請費は、2万5000両であったから、御役所の普請費のみで、上記の予算,こうした金額になった背景には、箱館は、「松杉桧其外家材必要之木品無レ之、いつれも南部・津軽・羽州辺より,ところが同年7月、箱館奉行は、従来の1年箱館在勤から家族連れの在住となったため、急遽奥向きの模様替えを,なお、先にも記したように、工事中は「亀田御役所」と称したが、竣工後の新役所は、正式には「箱館御役所」と / 御役所の建設
函館市史 銭亀沢編 (別家)

別家 銭亀沢地区では分家のことを別家(べっけ)と呼んでいる。,木村家では、男子はすべて土地付きの家を町内に建ててもらい分家し、別家創設後は、病気などの場合を除けば、,者が役割分担をしており、同家の鰯漁は、同族経営とはいえなかった。  ,一般漁民層では、本家と別家の間での経済的な協力関係は少なかったが、本家や別家が中古の磯舟を購入したり、,、古川町には、木村マキ、川村マキと、松田マキという三つの同族集団があり、村会議員の選出や漁業協同組合役員 / 別家
函館市史 通説編 第一巻 (講和と夷役)

講和と夷役 以上のような推移のなかに、その後、アイヌ民族の動静も比較的平穏が続いた。,)酋長チコモタインをもって東部の酋長として、「夷狄の商舶往還の法度を定め」て、諸国から往来の商船から役銭,を徴し、その一部を「夷役(いやく)」と称して、東西の両酋長に与え、東西蝦夷地から来るアイヌ船の停泊地を,一定し、それによってアイヌ産物を自家の手に独占する方策をとった。 / 講和と夷役
函館市史 通説編 第一巻 (問屋取締役)

問屋取締役 箱館奉行の、沖ノ口に出入りする貨物の諸税は、前時代と大差はなかったが、ただ嘉永5(1852,しかし松前家の所管である松前、江差では藩の財政逼迫のためこの減税は行われなかった。,また、天保6(1835)年3割の免除を廃した酒役、3割5分の免除を5分に改めた魚油役を、安政2年正月から,価格を偽り、沖ノ口口銭を逃れて私利をはかる不正の行為などもあったので、安政3年箱館奉行は支配勘定格調役下役元締山口顕之進,こうして従来問屋やその他の者から沖ノ口役所に差出す願書には、問屋頭が連印し、それに問屋取締役が奥印して / 問屋取締役
椴法華村史 (椴法華の村役人)

椴法華の村役人 椴法華は正式には尾札部村の支郷であり、開拓使砂原出張所が開設された明治五年二月から砂原出張所,次に明治六年以後の村役人について(判明している分について)記すことにする。,弥三郎 佐々木 久七 川口 勝次郎 能戸 勘右衛門 仝七年 佐々木 弥三郎  (不   明) 佐々木 家平,仝八年 佐々木 弥三郎 越崎 與作 佐々木 家平  この他にも村用多忙な時には、増役、あるいは,多忙に付役代、などという村役人が存在していた。 / 椴法華の村役人
恵山町史 (〈村長・町長・助役・収入役〉)

民主国家として生れ変わった昭和22年4月5日のわが国初めての知事・村長選挙には、村民の圧倒的な推薦を受,上田定義は本町字大澗の出身、郷土の小学校を卒業、庁立函館中学校へ進学したが健康優れず大正15年に中退、家業,浜田は字豊浦の出身、尻岸内高等小学校を終え家業に従事していたが、昭和17年8月1日から12月31日まで,また、一方、浜田は郷土史家として著名な存在でもあった。,国民学校尋常科〈現小学校〉以外の学校は全て学業停止し、各種学校の生徒は全員、軍事工場か援農−人手不足の農家で / 〈村長・町長・助役・収入役〉
椴法華村史 (村役人の仕事)

第一 名主ノ設置人員受持撰挙退職給料等の概略   ○名主・年寄・百姓代ハ村方ノ三役ト称ス。,名主其上役ナリ。,名称ハ大抵村役場ト称ス。亀田郡尻岸内村辺ハ会所ト称ス。   ,○服制、松前・江差地方ノ村々ハ幕府ノ諸役人、松前藩主或ハ同藩ノ重役〔家老ノ類〕通行ニ際スレバ必ズ送迎ヲナシ,其他普通役人の通行ハ袴羽織ヲ用ユ。御用御呼出ニテ奉行所等ニ出ルモ亦同ジ。 / 村役人の仕事
函館市史 別巻 亀田市編 (村役人と仕事)

村役人と仕事 前松前藩時代、亀田郷の村々に直接在村していた役人は小頭だけで、亀田奉行―名主―年寄といった,役職の者は、みな当時箱館に在った亀田番所に勤務していた。,名主其上役ナリ。各村皆同ジ。 ○名主ノ撰挙ハ地方ニ依テ同一ナラズ。,名称ハ大抵村役場ト称ス。 ○名主ハ事務取扱ノ為メ役場ニ日勤スルニ非ラズ。,○服制、松前・江差地方ノ村々ハ幕府ノ諸役人松前藩主或ハ同藩ノ重役〔家老ノ類〕通行ニ際スレバ必ズ送迎ヲナシ / 村役人と仕事
函館市史 通説編 第二巻 (役所・役宅の新築・移転と防備)

役所・役宅の新築・移転と防備 箱館奉行が再置されるや、箱館御役所及び支配向役宅の増改築ないしは新築・,(松前藩の箱館奉行詰役所で、箱館及び箱館付在々の支配と箱館沖の口番所支配の拠点)、及び旧家臣役宅を増改築,」で「死地同様之場所」故、「亀田村江別ニ一郭を御設ケ、築地柵門等御取建、郭内へ御役所并地役住居向等取建,」とし、「御役所四方土壘」を設け、「万一之節ハ、筒配リ」をし、「右一郭内江御役所并支配向御役宅等」を建,こうして箱館御役所と支配向役宅については、新たに亀田辺に新築・移転することとなったのである。   / 役所・役宅の新築・移転と防備
戸井町史 (三、戸長役場時代)

三、戸長役場時代 明治十一年(一八七八)に、戸井村、小安村の区域を管轄する「戸井村外一村戸長役場」という,長い名の戸長役場がおかれた。,戸長役場の庁舎は〓谷藤家の近くにあった戸井の会所の建物をこれに当てた。,を区とし、それぞれ区役所をおいた。  ,明治二十一年(一八八八)四月一日、茅部、山越郡役所を廃止し、亀田外三郡役所を七飯村においた。 / 三、戸長役場時代
恵山町史 (〈町長・助役・収入役〉)

〈町長・助役・収入役〉 第5代町長 山田 忠昭(任平成7年4月24日~退14年4月25日)  5代目町長,⑧顧問弁護士制度の導入 複雑な現代社会に対応する法律知識の必要性、瑕疵のない行政を進めるために専門家・,助役 福澤忠秋(任平成7年5月29日~退平成14年6月4日)  山田町長のもと助役を務めた福澤忠秋は,平成7年5月29日、助役に選任され、財政の厳しいなか山田町長の補佐役として、新規事業実現に奔走する。,以降、収入役は選任せず、石田助役が収入役の職務を兼ねる。 / 〈町長・助役・収入役〉
南茅部町史 上巻 (臼尻村役場庁舎改築)

臼尻村役場庁舎改築 昭和八年、臼尻村花輪村長の村政下、懸案の役場庁舎の改築の村会議決を得て一〇月二四日上棟式,臼尻村役場 臼尻村役場平面図  北越家所蔵の昭和一〇年代の写真によれば、新築当初の臼尻村役場庁舎,臼尻村役場名残りの桜の名木である。  ,大正一四年一二月一八日、臼尻村役場へあてた一通の官報電文がある。,臼尻村役場改築棟札 臼尻村役場庁舎改築 二階建上棟 臼尻村役場改築棟札 臼尻村役場庁舎改築  / 臼尻村役場庁舎改築
函館市史 別巻 亀田市編 (家畜共進会)

家畜共進会 本年の亀田町家畜共進会は、記念行事の一つとして七月二十六日役場庁舎裏広場で盛大に開催された,当日は絶好の晴天で、日ごろ丹精こめて飼育した各農家の家畜、牛八六頭、馬四五頭、緬羊一五頭、豚三頭が出陳 / 家畜共進会
椴法華村史 (亀田御役所の行政)

亀田御役所の行政 箱館府が箱館を離れている間の行政を誰が行っていたのであろうか、いうまでもなく当時五稜郭,付非常其外臨時御用向等同人より申付候節者聊無二差支一取斗可レ申候且又兵隊之内心得違之者有之若右村ニおゐて民家へ,によって榎本軍は、亀田御役所(五稜郭旧奉行所)から各村役人にお触れを出し、実質的に村々を支配していたことが,としていたようであり、また箱館周辺の村々は亀田役所が行政の中心となっていたものと考えられる。,また次に上げる触書からも榎本軍の御役所が、単に村々に用向をいいつけるだけでなく、海産物の密売取締り、御役銀 / 亀田御役所の行政
南茅部町史 上巻 (家印)

武家の家紋と同じである。,家の印(しるし)に使われるこれらの記号は、より単純、簡潔に自他ともに認識できるかが目的であるので、家紋,商家の暖簾や道具類などに家印は必要なものとして早くから発達していた。,漁家だけでなく、大野町のような農家でも家印が用いられていた。  ,全国のデパートや商標などにも使われていて、現代の社会生活にもその役割を果たしているのに、どうしてこんな / 家印
南茅部町史 下巻 (杉林家文書)

杉林家文書 尾札部の〓杉林家に明治からの多くの文書綴がある。,漁業関係の書類のほか、漁家杉林家が明治一〇年代から官林・学林の材木・立木を、薪や船材、炭材として払下げをうけたときの,当時は杉林家だけではなく、手広く漁業を経営している家では、自給自足のために村の生活に必要な物資を自賄いしていたのである, 学林取締 小原 多次郎 殿  (第四号)   二十年六月十七日 認可       右 取締役,         小原 多次郎 (表)杉林家「官林・学林払下」(1) (表)杉林家「官林 / 杉林家文書
恵山町史 (役場が食糧調達)

役場が食糧調達 このような逼迫した食糧危機を乗り切るため、当時の村長三瓶万吉は村議会を緊急招集し、議長松本専一郎,全議員が委員となり村としての食糧対策を協議、三瓶村長以下、役場の食糧係職員・議会関係者(委員)・食糧配給公社支所長,また、網走・帯広・名寄・富良野などの米作地帯にまで出向いて、農家一軒一軒回り実情を訴え、緊急供出というよりは / 役場が食糧調達
恵山町史 (歴代の上席書記・助役)

在職僅か4か月の蛯子の後を引継いだ井上久男は、山形県南置郡広幡田村出身、郷里の成島実業補修学校卒業後、家業,卒業後、来道、亀田郡湯の川村役場を振出に、同9年上磯郡茂別村役場、同15年松前郡吉岡村役場、昭和3年山越郡長万部村役場,昭和6年1月、家事の都合によりすべての公職を辞し、来道、茅部郡落部村役場に奉職、昭和8年には鹿部村役場,9年津別村と網走支庁各村役場を歴任し、昭和13年1月には上磯郡上磯町助役に就任している。  ,へ転任、同13には上磯郡茂別村役場、14年には茅部郡砂原村役場勤務となる。   / 歴代の上席書記・助役
函館市史 別巻 亀田市編 (家内労働)

家内労働 昭和四十五年十月(国勢調査)の労働者就業状態調査にみられるように(労働就業者二一、六七八人,で人口の四二・五%)労働者の多い本市では、特に潜在する婦人の労働力を生産面に結びつけるとともに、家庭経済,の援助にもなるようにとの配慮で、昭和四十七年五月から道内初めての「婦人内職相談所」を市役所内に設置し、,また内職を希望するが技術がないという婦人のためには、技術講習会を開設して婦人の希望に応じ、内職者には「家内労働者手帳,このことは、当時の物価高騰、一般家庭における潜在労働力の伸長が一層の拍車をかけ、収入面でもより豊かな生活 / 家内労働
戸井町史 ([旧家の系図])

昔栄えた家や頭取(とうどり)、小頭、或は名主、年寄、百姓代などという村役人を勤めた人の家が古いと言い伝,戸井町でもその時代に網元として栄えた家の当主やその一族、或は村役人や神社、寺院の役員などで貢献した人々,選挙による役職に就任する人々は、殆んど親戚、縁戚即ち親子の多い旧家の子孫であり、新しく戸井に移住した人々,、記録もないので、過去帳と役場の戸籍簿を手がかりにして系図を組み立てて見たが、近世まで存命していたという,には運上屋がそのまま会所となり、旧戸長役場時代は会所がそのまま戸長役場になって戸井を統治していたのである / [旧家の系図]
函館市史 通説編 第二巻 (役員選挙と蝦夷地領有宣言式)

役員選挙と蝦夷地領有宣言式 脱走軍は、徳川家による蝦夷地開拓の許可がおり、血胤者の派遣をみるまでの措置,なお、終始「徳川脱藩家臣」を標傍した彼らの仮政権には「蝦夷共和国」と呼べるようなものはなく、公選という,長岡藩主牧野忠訓(会津で降伏し、箱館には来ていない)、松山藩主板倉勝静、唐津藩世子小笠原長行のことであり、彼らの家臣,対馬章については、札幌の「秋野家文書」では榎本道章とあり、彼のフルネームは榎本対馬守道章(脱走軍の記録,ただ入札方法については、「我党ノ主長未夕定ラザルニ付、徳川家血胤ノ君定ル迄ノ処、合衆国ノ例二倣ヒ士官以上 / 役員選挙と蝦夷地領有宣言式
恵山町史 ([郡区町村制と戸長役場])

さらに、2区役所(札幌・函館)、19郡役所、136戸長役場が翌13年1月、開庁となる。  ,郡役所の設置と郡長の任命  函館支庁管下の郡区役所については、明治12年7月、函館区役所が札幌と共に,さらに、津軽・福島郡役所(2郡)、桧山・爾志郡役所(2郡)、久遠郡役所(4郡)、寿都郡役所(4郡)を設置,は、士族(武家出身)階級、あるいは、官位を有する人達である。,であろうが、それ以上に、階級、官位−いわゆる高い身分により行政職を権威あるものとする、政府のねらい(国家権力 / [郡区町村制と戸長役場]
戸井町史 (五、戸井村役場の火事(明治四十二年))

五、戸井村役場の火事(明治四十二年) 明治四十二年一月二十四日、〓鈴木料理店で、戸井分署から大野分署,警部萩田七十次の送別の宴会があり、村長以下の村内有志が多数出席し、宴が終った午前一時頃、館鼻二番地にあった戸井村役場事務室,この火災で役場の議事室及び函館区裁判所戸井出張所外民家二戸を延焼した。簿冊、備品等も全焼した。  ,法泉寺に役場の仮事務所を設けて執務した。 / 五、戸井村役場の火事(明治四十二年)
戸井町史 (七、〓金沢家(泊町))

七、〓金沢家(泊町) 鰮大漁時代に栄えた〓金沢家の先祖は、下北郡川内村から戸井に移住し、現在まで七代続,初代藤吉、二代藤吉時代までは、貧しい農家で、農耕によってその日を糊(のり)するという状態であった。,漁閑期には、出面(でめん)仕事をして、人の使役(しえき)に甘んじ、又漁師にも学問の必要なことを痛感し、,六代目の歿後七代目も藤吉を襲名し、七代藤吉は戸井村議会議員、戸井漁業組合長その他多くの役職を長年勤め、,道議会議員をやめてから、一切の役職から身を引き現在函館市に転任し、悠々自適の生活をしている。 / 七、〓金沢家(泊町)
函館市史 通説編 第二巻 (役所の設置法令と実務の実体)

役所の設置法令と実務の実体 表1-2 「政体書」体制首脳表 太政官  氏名           ,日本近代史辞典』より作成    これらの混乱は、中央における法的な措置と、箱館で実際に役所,渡村峠下村森村鷲木村落部村山越内村長万部村 合五拾六ヶ村 (山越内村帳場「触書留」) 注 順達の村々名も紹介したのは、幕末期箱館の役所,箱館に潜居し脱走軍の様子を青森へ報告した者の報告書(津軽藩探索書)にも、「裁判所は五稜郭と唱へ候様町役共,」)でも、高張提灯を立てる場所として、裁判所、議事局、庶務局、刑法局、外国局、会計局、町会所、場所御役所 / 役所の設置法令と実務の実体
函館市史 銭亀沢編 (普段着(家着))

普段着(家着) 昭和の初め頃の男性の家着は、縞模様などのムジリ袖になった袷(あわせ)の長着に股引をはき,家着の上に掛ける前掛けは一巾もので、衣服を汚れや傷みから保護し活動をしやすくするといった本来の役目と、,たいていは黒い木綿地の共布で裏を付けた一巾半くらいの前掛けをしたが、家事をする時は古着物の残り布で作った,えたので村中に広がり、戦後もウエストにゴムを入れたズボン形式に近いものなどが出回り、昭和四、五十年代まで家着,男性用チャンチャン(山鼻米子蔵)  衣服の洋装化は男性が比較的早く、戦前より家着にも洋服が用いられ / 普段着(家着)
函館市史 通説編 第二巻 (函館郵便役所の開所)

函館郵便役所の開所 駅逓寮は、先の布告にある通り7月1日の開設に向けて、6月22日には開拓使から海関所,東京日本橋迄陸路二百四十里半十丁余      函館大間ノ間海上時間不定候事                (田中家文書 / 函館郵便役所の開所
戸井町史 (八、〓池田家(館町))

金沢家のために精励した。,栄吉の名声は益々あがり、学校、警察、病院などの公共物の建築には卒先して多額の寄附をし、又推されて種々の役職,初代栄吉が生前厚岸の漁場に行っていた頃、保田家の漁場で働いている鉄蔵をハナの聟にと見込み、保田家の主人,一家の柱を失った池田家の窮状を察した保田家の主人が、鉄蔵を池田家の聟養子に世話し、大正四年(一九一五),栄吉は公共のためには卒先して多額の寄附をし、村会議員、学務委員、宮川神社総代等多くの役職につき、村民の / 八、〓池田家(館町)
戸井町史 (四、足達(あだち)家(弁才町))

四、足達(あだち)家(弁才町) 足達家は戸井郵便局の草創期から、父子二代に亘って、四十三年間戸井の通信事業,気風を好まず、雄斗を抱いて奮然(ふんぜん)として北海道に渡り、函館の豪商工藤弥平に見込まれて、その支配役を,工藤弥平の支配役をやめた時には健次郎は六才であった。  ,明治十年(一八七七)郵便取扱所が五等郵便局になり、無学な者では手に負えなくなり、官のしばしばの要請で取扱役に,後任局長がきまるまで、初代戸長飯田東一郎が、戸長役場内で郵便事務を取振っていたが、惣吉歿後三ヶ月日の明治十七年十一月二十七日 / 四、足達(あだち)家(弁才町)
戸井町史 (一、〓吉田家(釜谷))

一、〓吉田家(釜谷) 〓吉田家の祖は才吉と称し、古い時代に本州から亀田村字上山(かみやま)で代々農業,を営んでいた家の後裔である。  ,才吉は文久三年(一八六三)二月九日、五十八才で病歿し、佐治衛門がその後をつぎ、家業に精励して吉田家の基礎,菊太郎は村会議員、亀田水産組合代議員その他多くの役職についた。  ,)より村会議員に当選し、爾来(じらい)二期当選し、現在、町会議員、戸井西部漁業協同組合長その他多くの役職 / 一、〓吉田家(釜谷)
戸井町史 ((2)池田家(館町))

(2)池田家(館町) ①                 釧路国厚岸郡厚岸町   小鰊搾粕                  ,北海道亀田郡戸井村                      池  田  栄  吉   明治三十七八年戰役ノ,                          池  田  栄  吉  北海道厚岸郡厚岸町役場庁舎新築費,                          池  田  ハ  ナ  故栄吉明治四十四年四月北海道亀田郡戸井村役場及附属建物共同新築寄附候段奇特,ク     大正六年九月十日            明治神宮奉讃会会長正二位勲一等公爵 徳 川 家  / (2)池田家(館町)
函館市史 通説編 第二巻 (居留外国人の家作)

居留外国人の家作 領事館の他に箱館の居留外国人たちも家作をした。,「当港におゐて英吉利居留宅の初なり」として、ポーターは翌2年4月にその完成を祝うため、奉行所の役人たちを,これから、両者の家はガラスが使われ、ペンキが塗られていたことがわかる。,なおカションの家は鶴岡町にあった。その他、アメリカ商人フレッチャーも家作をしている。,場所は浄玄寺境内のアメリカ領事ライスの家の隣である。 / 居留外国人の家作
恵山町史 ([造田事業と水田農家の応援])

[造田事業と水田農家の応援] 多年の夢とされた水田造成の事業は、昭和36年に始まり同39年には、尻岸内川流域,だが、農業については、漁家の野菜畑や馬鈴薯や豆類大根などを栽培する兼業農家はともかく、専業農家となると,そのために、役場(産業課)が中心となり関係機関(渡島支庁、土地改良区、農業改良普及所等)と連携を持ちつつ,そして、まず、最も有効な手立として、町営の試験田を設け水田農家を招聘し、実際に年間の栽培をとおし指導を / [造田事業と水田農家の応援]
戸井町史 (十、〓宇美家(東浜町))

十、〓宇美家(東浜町) 5代宇美第吉  〓宇美家の祖初代第吉(だいきち)は、享保年間若狭国小浜,四代第吉には子がなく、分家の〓宇美家から勝蔵を養子としていたが、まだ幼なかったので、親族会議の結果、浜中,第吉は村内の各種重要役職につき、公共施設には多額の寄附をし、明治四十二年に全焼した、村役場再建の時は卒先,金沢姓を名乗っているが〓家の祖は〓宇美家の分家である。,又、〓金沢家、〓山崎家、前村長工藤健次郎家、現町長中釜家の実家などは、〓宇美家の縁戚である。 / 十、〓宇美家(東浜町)
戸井町史 (十、漁家と出稼ぎ)

十、漁家と出稼ぎ 戸井町漁家の主な生業は、七月二十日過ぎから十月上旬にかけての昆布漁で、一年間の漁業収入,然し組合役員や一般父母たちもこの問題を憂慮し、各戸が昆布乾燥機を導入し、夏休み期間中に大半を取り終り、,出稼ぎは男ばかりでなく女も出かけるようになり、子供を家に残して夫婦で出稼ぎに行くという家庭も増加している,漁家の子弟で漁業を継ぐという者が益々少なくなり、後継者問題が真剣に論議されるようになって来ている。,したがって昆布、イカによる収入と出稼ぎ収入を合わせて一家の生計を支えて行くという傾向が益々増大するものと / 十、漁家と出稼ぎ
南茅部町史 下巻 (尾札部村役場駒ヶ岳爆発災害日誌)

尾札部村役場駒ヶ岳爆発災害日誌 六月十七日  温度 七五、天候 曇、風向 北西  午前九時、駒ヶ岳爆發,平田収入役右避難者救助に関して木直へ出張したが同日帰場せり。  ,避難のため山頂に運搬する家財等運びに混雑を極む。  ,茂別村収入役、樋口氏同村書記澤村氏被害見舞のため來場せり。  ,七飯村助役堀内謙造氏被害見舞のため來場村民一同よりの見舞として金一百圓贈らる。   / 尾札部村役場駒ヶ岳爆発災害日誌
恵山町史 (2、国家神道についての指令)

2、国家神道についての指令 この国家神道も、昭和20年(1945)12月15日、太平洋戦争・侵略戦争,を引き起こした、極端な国家主義・軍国主義思想形成に果たした役割を問われ、連合軍総司令部(GHQ)より、,f 神道のことを調べたり広めたり、神官をつくることを第一の役目とするすべての公の教育機関は廃止し、その,k 少しでも公の金で保たれている役所・学校・機関・団体・建物の中に、神棚やその他、国家神道を表す物を設,m 政府・府県・市町村の官公吏が、公の資格で、新任の報告をするため、政治の現状を報告するため、役所の代表 / 2、国家神道についての指令
戸井町史 ((4)〓吉田家(釜谷))

(4)〓吉田家(釜谷) ①                        平民 吉田佐治右衛門   ,公立小安小学校事務係申付候事     明治十九年二月十六日                  元函館県亀田、上磯郡役所,北海道渡島国亀田郡小安村                            吉 田 勝三郎  明治二十七八年戦役ノ,北海道亀田都戸井町                       吉  田  大  吉 明治三十七八年戦役ノ / (4)〓吉田家(釜谷)
戸井町史 (二、〓吉崎家(瀬田来))

二、〓吉崎家(瀬田来) 〓吉崎家は、〓吉崎家、〓吉崎家などの総本家であり、〓若松家、〓桜井家などはその,〓吉崎家  七五郎の二男岩吉は文久元年生れで、分家して〓を家号とした。,岩吉は温厚篤実で村民の信用あり、村会議員や学校、神社、部落の多くの役職について公共の為に尽した。,〓家から分家した〓家を興したのは仁三郎の力に負うところが多かったといわれている。  ,〓若松家  二代七五郎の三男市蔵は村内の〓若松忠吉の養子になったが、分家して〓若松家を立て、市之助、 / 二、〓吉崎家(瀬田来)
戸井町史 ((1)宇美家(東浜町))

(1)宇美家(東浜町) ①                  茅部郡戸井村支鎌哥平民                          ,北海道亀田郡戸井村                          宇 美 第 吉(四代)  明治二十七八年戰役ノ,                          明治二年八月十五日生  資性剛毅公共ノ志厚ク学校役場 / (1)宇美家(東浜町)
戸井町史 (四、従六位勲五等 工藤健次郎(「附」〓工藤家の系図))

四、従六位勲五等 工藤健次郎(「附」〓工藤家の系図) 工藤健次郎  工藤健次郎は終戦後第一回目,となり、昭和六年九月、第十三代村長足達敬太郎の信任を得て助役に推挙され、助役の職にあること三ケ年、昭和九年五月,書記と助役を通算して、十三ケ年間、戸井村役場に勤めたのである。  ,私の父は、古くからここで漁場を営み、回漕店をも併営していたので、長男であった私は、当然のこととして、家業,又カ 工藤家の系図 / 四、従六位勲五等 工藤健次郎(「附」〓工藤家の系図)
函館市史 通説編 第二巻 (雑税)

雑税 次に雑税であるが、函館市民全体にかかる税として上げられるものは、店役、家役、四半敷役(薪役でのち,4種とも幕府前直轄期の享和年間に創設されたといわれる税で、人別銭が分頭税である以外は、店の大小、家の大小,店役家役は町会所が税額決定通知兼徴収切符をもって徴収し、四半敷役人別銭は、宗門人別下調帳に記載して徴収,店役家役人別銭の3種は3年10月に廃止され、家役は同5年1月廃止されている。,遊女屋税、見番税、家役 明治9年(8年分から適用)廃止の税……伐木税、炭竃税、茅場税、秣場税、温泉場税
函館市史 通説編 第一巻 (箱館の年中行事および風俗)

同  七日 役所表座敷において寺院ならびに市中社家が出頭、礼を述べ、扇子および祓札を献上する。,同十一日 当所初御神楽として市在の社家が揃って役所で祈祷し、次に町年寄宅で神楽をあげ、次いで市中主だった,同  三日 節句につき扶持家ならびに町年寄、用達、名主、目見得町人まで錦小袖、麻裃を着し、役所へ挨拶に,同  五日 節句につき扶持家、年寄、用達、名主、そのほか目見得町人まで染帷子(かたびら)を着し役所に礼,九月九日 役所へ礼のため扶持家ならびに目見得町人まで、帛紗小袖麻裃を着用して出頭した。
函館市史 別巻 亀田市編 (代官と下代)

前記『榊家譜附録』によれば、寛文九(一六六九)年に亀田代官佐藤彦左衛門の名がみられ、下代についても二代榊多良右衛門,「亀田代官下代役を勤む凡十二年也」と記され、三代仁四郎は元禄二(一六八九)年に榊家を相続し、箱館に移っていることから,の者の中から由緒ある家の者を士分に取り立て任用していた。,下吟味役(名主)―年寄―小使―手代足軽の制度があり、吟味役は松前から派遣と記されている。  ,この時の吟味役というのは以前代官と呼ばれていたものではなかろうか。
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