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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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戸井町史 (一、小安の墓地(小安小学校裏))

一、小安の墓地(小安小学校裏) 一、小安の墓地(小安小学校裏)(1) 一、小安の墓地(小安小学校裏,)(2) 小安の墓地 / 一、小安の墓地(小安小学校裏)
戸井町史 (三、小安郵便局)

三、小安郵便局 小安(おやす)郵便局 昭和一三、 三、二一 小安郵便取扱所が戸井村字小安一〇番地,昭和一四  四、 一 小安郵便取扱所が小安郵便局に昇格され、三等郵便局となった。,尾札部郵便局より飯田弘一が小安郵便局長心得として就任。,昭和二九、 三、一六 局長心得飯田弘一が小安郵便局長に任命された。,場所は小安九六番地。定員三名。      / 三、小安郵便局
戸井町史 (1、小安小学校沿革概要)

1、小安小学校沿革概要 小安小学校校歌       歌 常盤井 武 備       曲 高 ,の誉謡ひたり [小安小学校校章] 小安小学校 一、創立  明治十三年十月十八日小安村字釜谷及字白浜,明治十五年二月小安村字村中を設置及通学の区域とする公立小安小学校を創立す。  ,して公立小安小学校と改称す。,二、校名変更  昭和十六年四月一日 北海道亀田郡小安国民学校と改称  昭和二十二年四月一日 北海道亀田郡戸井村立小安小学校 / 1、小安小学校沿革概要
戸井町史 (九、小安漁業協同組合)

九、小安漁業協同組合 1、創立当時  戦前は一町村一組合であったが、昭和二十三年水産業協同組合法が,では二三八名の組合員をもって、昭和二十四年七月に小安漁業協同組合を設置した。    ,又小安地区の生産向上と安全操業のため、現在までに左記の三ケ所に船揚場が設置された。  ,昭和四四年度 小安第一共同船揚場(五区)〓松永家横  昭和四五年度 小安第二共同船揚場(二区)武井家下, 昭和四六年度 小安第三共同船揚場(三区)小安漁協下  組合員は船揚場の外に小安地区にも漁港を設置 / 九、小安漁業協同組合
戸井町史 (一、広福寺(小安))

一、広福寺(小安) 広福寺は曹洞宗(禅宗(ぜんしゅう))の寺院としては、下海岸最古の寺院である。,草創された能化庵で、爾来(じらい)明治時代まで、古川尻(函館市古川町)から椴法華までに亘る十四ヶ村(小村,広福寺の由来の概要を調べて見ると、寛政元年(一七九〇)箱館高竜寺十世職蒸嶺豊眠大和尚が小安地域に来て布教,焼けた能化庵は安政二年(一八五五)に改築されたものである。  ,四、五代不明   六 代  祖岳永道大和尚(文政五年七月七日歿)   七 代  碩梁弘観大和尚(安政七年一月十七日歿 / 一、広福寺(小安)
戸井町史 (九、小安町の歴代警察官名(終戦後))

九、小安町の歴代警察官名(終戦後) 九、小安町の歴代警察官名(終戦後) 小安警察官駐在所 / 九、小安町の歴代警察官名(終戦後)
函館市史 通説編 第一巻 (黒岩安山岩)

黒岩安山岩 黒岩安山岩は函館市銭亀沢の黒岩岬付近に見出され、そのほか黒岩岬から志海苔町にかけての海岸,そのほか局部的に温川上流にも小岩脈が見出され、規則正しい柱状節理や板状節理を成している。,この安山岩の迸入形態は大岩体を成す所は岩床であるが、小岩体は岩脈を成している。 / 黒岩安山岩
函館市史 別巻 亀田市編 (小頭)

小頭 小頭は亀田郷中の各村に配置されたものであるが、これもまたいつのころからこの制度が採用されたのかつまびらかでない,『逢坂氏日記』安永三(一七七四)年の記事に、「箱館 小頭彦右衛門、亀田 幾右衛門、尻沢部 三郎兵衛、ゆの,川藤七、石崎 吉郎右衛門」と記され、更に同書の安永八(一七七九)年の記事には「村々小頭 箱館 孫四郎、,七重 仁八、濁川 宇兵衛、石崎 与兵衛、戸切地 名主太十郎の名前があり、このことから亀田郷の各村ごとに小頭 / 小頭
南茅部町史 下巻 (安浦駒踊り保存会)

安浦駒踊り保存会 役名    氏名   会長   金沢桃芳   笛    砂田健三   大太鼓,  工藤勝徳   踊子   佐々木直次郎   手拍子  小寺馨   小太鼓  斉藤清信   踊子,  小林和光  斉藤長光    男子  佐藤実  高田明人  西村貴広  成田貴夫  成田昭紀  小松直樹,                           (昭和58年現在) 駒踊り 弁天島グランド (昭和10年頃) 安浦,・工藤家の前 安浦稲荷神社境内 [図] 安浦駒踊り保存会 / 安浦駒踊り保存会
南茅部町史 下巻 (安浦駒踊り)

安浦駒踊り 安浦の旧地名である板木に伝わる駒踊りは、昭和一六年の字名改正によって冠称を安浦駒踊りと改,昭和四〇年九月、全道の民生委員大会が函館市を会場で開催されたとき、青柳小学校の講堂で踊ったのがステージ,安浦では、後継者の育成のため小中学生に稽古をつけたり、いろいろと力を尽くしている。  ,昭和四五年ごろ、白旗青年会館で小中学生を育て、青少年会館のオープンには立派に披露して喜ばれた。,駒踊りの構成は、囃五名、大太鼓一名、小太鼓一名、笛一名、鉦拍子二名、踊り手一〇名。 / 安浦駒踊り
函館市史 通説編 第一巻 (安東盛季の渡来)

安東盛季の渡来 しかるに安東盛季の十三湊放棄の時点については、永享4(1432)年説と嘉吉3(1443,今日於二小松谷一被レ仰条々事。奥の下国与二南部一弓矢事に付て、下国弓矢に取負、えぞが島へ没落云々。,りて津軽を乗取り、盛季没落して左右に館籠ると雖も、無勢たるを以て防ぎ戦うこと克(かな)わず、追出されて小泊,しんで帰郷したが、南部勢は十三湊をことごとく攻略し、すでに唐川の城も焼失して戦雲はいよいよ暗く、わずかに小泊,離れた(補陀寺蔵書『小浜往来記』『羽賀寺讃否書』)。 / 安東盛季の渡来
椴法華村史 (航路の安全対策)

航路の安全対策 明治初期本道の海運に従事していた船の大部分は、和船(日本型の木造船)で西洋型船にくらべて,また明治初期の北海道沿岸一帯は、港湾・燈台・航路標識等の航海に必要な安全設備が整えられておらず、これに,北海道庁は、明治二十年から港湾及び河川の調査を進めるようになり、明治二十九年・三十年にはそれぞれ函館・小樽,また航路の安全確保のために、明治二十一年の白神岬・神威岬の両燈台の完成をはじめとして、道南の主要地点に / 航路の安全対策
戸井町史 (六、小安の「網子(あご)別れ」の殺傷事件(明治四十二年))

六、小安の「網子(あご)別れ」の殺傷事件(明治四十二年) 鰮や鰊漁場で切揚げの時には昔から「アゴワカレ,明治四十二年十二月十九日夜、石崎村の川島円次郎所有の小安の漁舎(なや)でアゴ別れの宴が開かれ、酪酊(めいてい,第一号漁舎の漁夫が第二号漁舎を襲ったので、第二号漁舎の漁夫、富山県婦負郡四方町の七間善助はマキリを携え、小安村字村中 / 六、小安の「網子(あご)別れ」の殺傷事件(明治四十二年)
椴法華村史 (大小区画制の改正)

を全道的に統一するための改正が行われ、全道は三十六大区・百六十五小区に分割され、椴法華村は小安村・戸井村,第拾八大区壱小区 渡島国茅部郡・同上小安村・戸井村・尻岸内村・椴法華村   第拾八大区貳小区 渡島国茅部郡,、同上尾札部村・臼尻村・熊泊村・鹿部村・砂原村・掛澗村  このようにして小安村・戸井村・尻岸内村・椴法華村,したのであるが、明治六年から交通事情を考慮し特に椴法華を戸井出張所の管轄下にしたほどであるのに、こんどは小安村,このため小安・戸井・尻岸内・椴法華の諸村は、冬期間や悪天候が続き海路が使用できぬ時などは、陸路函館方面 / 大小区画制の改正
南茅部町史 下巻 (安政の大噴火)

安政の大噴火 安政三年(一八五六)八月二六日の駒ヶ岳の大噴火のとき、鹿部と本別が大きな被害をうけ、砂原,箱館奉行は駒ヶ岳爆発の被害を聞き、被害者の救済のため全焼の家には小屋掛料三分宛、大破した家に手当金二分,このとき近村の熊泊・臼尻・鷲ノ木村の人々が救援にかけつけ、米・味噌・野菜などをもち運んで、村たき出しや仮小家,庵原〓斎の「蝦夷地土産」によると、安政三年丙辰(一八五六)八月二六日の明け方。,一同は、ようやくひと安心してお上のご仁恵をよろこんだという。   / 安政の大噴火
戸井町史 ([公立小学校])

[公立小学校] 1、瀬田来学校  明治十三年(一八八〇)二月初代戸長飯田東一郎が、瀬田来村民と協議,し、公立小学校設立の伺書(うかがいしょ)を提出し、二月十八日、許可指令を受け、三月九日公立瀬田来学校として,教員は林小次郎、児童数は三十一名であった。板倉をもって假校舎として授業を開始した。    ,3、白浜学校  戸長飯田東一郎の首唱により、部落民と協議の上、小安村字釜谷及び白浜の二字を通学区域とする,5、小安学校  小安村字村中を通学区域とする公立学校の設置がきまり、校名を公立小安学校として、明治十五年二月 / [公立小学校]
南茅部町史 下巻 (鹿部小学校の記録)

鹿部小学校の記録 鹿部小学校長高橋次四郎の記録によると、六月一七日午前一〇時、駒ヶ岳の噴煙鳴動がもの,有志加藤某ほか五、六軒に分宿して木直村民の同情と慰安の救助を受けた。  ,一八日、噴煙が静まるのをみとめて御真影ならびに勅語謄本を奉安殿に奉遷したが、同日午前一〇時、烈しく噴煙,一九日、常路に奉遷した御真影ならびに御聖勅は、学校長、職員が警護し、正午、無事奉安殿内に奉安した。,小川小学校は大破した校舎の一部に天幕を張り、七月一五日より授業を開始したが、校下の大半が他町村へ転出移住 / 鹿部小学校の記録
戸井町史 (一 安達(あだち)の小連(こむらじ)の娘の哀話(あいわ)(脇野沢村))

一 安達(あだち)の小連(こむらじ)の娘の哀話(あいわ)(脇野沢村) 脇野沢村は、野生のニホンザルの,神護景雲二年(七六八)安達の小連(こむらじ)という若者が、故あって都から、この脇野沢に流され、ここで暮,延暦二十年(八〇一)征夷大将軍坂上田村麻呂が東夷を征伐するためにこの地へ来た時、安達の小連が田村麻呂の,その間、安達の小連の娘が田村将軍に仕え、その寵愛(ちょうあい)を蒙って懐胎(かいたい)した。  ,が、延元二年(一三三七)頃この地を訪れて、小連の娘の哀話を聞き、自ら天女の木像を刻んで、小連の娘の霊を / 一 安達(あだち)の小連(こむらじ)の娘の哀話(あいわ)(脇野沢村)
函館市史 別巻 亀田市編 (桔梗小学校)

桔梗小学校 桔梗小学校 一 校舎のうつりかわり(『桔梗小学校のあゆみ』より) 「昭和二十四年,四十二年五月、中の沢分校が独立して中の沢小学校となりました。」  ,国鉄函館本線にはさまれた校地で、子どもたちの通学上の危険性、校地の拡張の困難性などから、校地を他に求め、中の沢小学校,二四年 五月  一〇年四月  第一三代 林  敏雄  〃 三四年 九月  五年七月  第一四代 安木,〃 四〇年 四月  二年  第一五代 水無瀬秀也  〃 四二年 四月  五年  第一六代 田村 安蔵 / 桔梗小学校
戸井町史 ([公立小学校の統廃合])

[公立小学校の統廃合] 1、鎌歌小学校  明治二十五年(一八九〇)九月二十日、戸井村字鎌歌、原木を,2、戸井、瀬田来小学校の合併  明治三十四年(一九〇一)一月二十六日、戸井、瀬田来尋常小学校を合併し,新校舎は総坪数二一八、四九七坪、総工費七、五〇〇円、御真影奉安殿一、一六坪、建築費二〇〇円、教員住宅四五,3、白浜、小安小学校の合併  明治十七年(一八八四)九月、白浜、小安両小学校を合併して、白浜、釜谷、,村中を一通学区域とする公立小安小学校とし、白浜小学校を廃校とし、小安小学校の校舎に合併した。 / [公立小学校の統廃合]
南茅部町史 上巻 (北海道大小区画)

北海道大小区画 明治九年九月八日、開拓使は、本庁支庁ごとの大小区画を全道一本にまとめ、北海道大小区画,椴法華役所の公印 明治10年(「山岸喜三司文書」より)   函館支庁管下大小区画 茅部郡  ,一八大区   一小区=小安、戸井、尻岸内、椴法華   二小区=尾札部、臼尻、熊泊、鹿部、砂原、掛澗,  三小区=森、尾白内、鷲ノ木、蛯谷、石倉、落部、宿野辺  一九大区   一小区=山越内村,  二小区=長万部村 / 北海道大小区画
函館市史 別巻 亀田市編 (小田島川護岸)

小田島川護岸 港中央部を流れる小田島川は増水のたびに決壊するので地域住民に不安を与えていたが、護岸災害復旧工事 / 小田島川護岸
椴法華村史 (函館の小廻船沈没)

函館の小廻船沈没 明治二十三年三月十一日 函館新聞   ○小廻船の沈没    一昨九日午后三時頃石崎村沖合,にて小廻船沈沒せり同船ハ下の釜屋村よりメ粕三十五本積みたりしが二人の乘組員は無事なりと云ふ荷主は地藏町二印,當區蓬萊町六番地澁谷正次持船の難破したることは過日記戴せしか今聞く處に依れば同船に大島佐助外一人乘組み本月九日亀田郡小安村支釜谷村美安中藏,終に覆沒し乘組しものは僅かに船底に取りつき波の随(まに)随漂流する折柄當區大黑町十四番地八幡東三郎は小廻船 / 函館の小廻船沈没
南茅部町史 下巻 (〔安政年間の牛馬の数〕)

〔安政年間の牛馬の数〕 むかし、牛馬は陸上運送の手段であった。,嘉永七年の六箇場所書上と、翌安政二年の東蝦夷地海岸図台帳、そして明治四年二郡二九ヶ村一面表を対照すると,安政年間に、幕府の再上知による鉱山の開発によって、道路の開鑿がすすめられたので、馬による輸送が急激に増大,安政~明治の牛馬数          嘉永七年六ケ場所書上  安政二年東蝦夷地海岸  明治四年一面表,                     図台帳   小安     馬一五頭 牛 七頭   記載 / 〔安政年間の牛馬の数〕
南茅部町史 上巻 (大小区画制)

大小区画制 明治五年戸籍編成が実施され、政府はさらに大小区画の制を定めた。,一小区=亀田、赤川、神山、鍛治    二小区=下湯川、上湯川、鷲巣、深堀    三小区=亀尾、志苔,、銭亀沢、石崎    四小区=石川郷、桔梗村、大川村、中島村    五小区、七重村、飯田村、城山郷,、藤山郷、軍川村    六小区=一本木郷、千代田村、大野村、文月村、鶴野郷    七小区=本郷郷、,   一小区=小安村、戸井村、尻岸内村、尾札部村支郷椴法華    二小区=熊泊村、尾札部村、臼尻村、 / 大小区画制
南茅部町史 下巻 (小川幸吉)

小川幸吉 茅部郡臼尻村大字臼尻村字臼尻村五十一番地   現戸主幸一郎の祖父にして天明五年五月を以て,往時雑木欝蒼海岸を掩ひしも、濫伐の為め漸次荒廃せんとするを見、植樹の必要を感じ且つ地味氣候之に適するを認め、安政五年郷里南部 / 小川幸吉
函館市史 通説編 第二巻 (箱館戦争後の治安担当)

箱館戦争後の治安担当 箱館戦争が終わったとき、諸藩派遣の新政府軍は次々と自藩へ戻り、箱館には箱館府直属,また、在住隊は、旧幕安政期に蝦夷地に移住した幕臣[在住]をもって編成されたためこのように呼ばれたのである,壱番隊、弐番隊は、旧幕の歩兵隊を引継いだもので、2小隊構成のためこのように呼ばれたようである。,この新兵隊と在住隊が、箱館戦争後の箱館の治安を担当することになったわけである。,その時の函衛隊の構成は「隊長 秦斗鬼三、半隊長北野直七郎、嚮導役宮地重三郎、外山竹三、月館亦吉、小柳市三郎 / 箱館戦争後の治安担当
椴法華村史 (大小区画制の実施)

大小区画制の実施 中央集権国家の完成及び国民掌握をめざしてきた新政府は、明治五年に至り戸籍編成と大小区,(椴法華村の「壬申戸籍簿」は現在迄発見されていない)  函館支庁は明治五年二月函館を三大区十五小区に,分け、戸長及び副戸長を置き翌六年五月には、亀田・上磯・茅部・山越の四郡に大小区を実施している。,六大区 茅部郡一小区一ヨリ三ニ至ル村十四   一小区 小安村 戸井村 尻岸内村 尾札部村支郷椴法華村,  二小区 熊泊村 尾札部村 臼尻村 鹿部村 砂原村 掛澗村   三小区 尾白内村 森村 鷲木村 / 大小区画制の実施
椴法華村史 (六大区一小区の村役人)

六大区一小区の村役人 前に記した法令に基づき改正された村役人について「明治六季 戸井往復」(北海道蔵,明治六年第九月   開拓使管轄渡島ノ國六大區茅部郡        一ノ小區小安村           ,以上の記録を検討して気付く点は、六大区一小区に属する村々には、副戸長として小安村飯田藤吉、戸井村池田六助,その理由は実際に任命されていなかったからで、なぜかというに、官側では将来小区をいくつかのブロックにまとめ / 六大区一小区の村役人
南茅部町史 下巻 (古部小学校の記録)

古部小学校の記録 駒ヶ岳爆発(古部小学校沿革誌) 六月一七日、先日来時々遠雷聞ユ。晴天。  ,雷電益々激シク、小ハ小豆粒大、大ハ経一寸、厚サ七、八分位ノ軽石、生砂、灰ノ降下、度ヲ増シ午後三時四十分,而シテ學校ハ安全地帯ナリトハイヘ、惶レ多クモ御影・勅語・詔書ヲ奉安シ奉ルニ消防及青年團ハ一回ノ巡視ナキ / 古部小学校の記録
椴法華村史 (消防団と海上保安部の協定)

消防団と海上保安部の協定 昭和四十四年一月の函館海上保安部・椴法華分室長と椴法華村消防長との間に、取,り交わされた船舶消防に関する業務協定書(要約)により、消防団と海上保安部との業務協定について記すことにする,の火災について、昭和四十三年三月二十九日海上保安庁と消防庁との間に締結された覚書に基づき函館海上保安部椴法華分室,が担当し、函館海上保安部椴法華分室(以下「椴法華分室」という。)はこれに協力するものとする。   ,1、   (1)小頭又は岩壁にけい留された船舶及び上架又は入渠中の船舶   (2)河川・湖沼における / 消防団と海上保安部の協定
函館市史 銭亀沢編 (安藤康季の渡道と「道南の十二館」)

表1・3・2 道南の十二館とその館主 館名 所在地 館主 志濃里館 函館市志苔町 小林太郎左衛門尉良景,鰐口(市立函館博物館提供)  一種の生業神として勧請された「脇澤山」神社が、志苔館主の小林重弘の,またアイヌと居住空間を接する石崎には、もう一つの宗教的施設が、小林良景-良定の世に整えられていたように,小林氏は、対アイヌの宗教的忌避も兼ねて自らの氏寺ないしは和人の共同墓地として、日持の遺跡の「経石庵」を,人によっては、志苔館と石崎の地理的距離から、「館神」のこと、この「経石庵」を志苔館ないし小林氏に結び付 / 安藤康季の渡道と「道南の十二館」
南茅部町史 上巻 (小原多次郎事蹟)

小原多次郎事蹟 北海道漁業功労者事蹟によれば、郷土沿岸におけるニシン漁は、明治一一年に六代目飯田屋与五左衛門,明治一四年に函館新聞が報じている小原多次郎が初めて磐ノ沢沖にニシン網を建てて漁獲に恵まれ、沿岸の漁家が,、茅部ニシンは砂原・鷲ノ木・野田追・弁辺などの噴火湾の場所が主だったときだけに、飯田屋の一一年説も、小原,尾札部の小原家に所蔵されている小原多次郎に関する資料の多くは、明治一四年に初代尾札部郵便局長となった郵政資料,辞令関係の資料のなかに、管内の水産・産業品評会等委員の委嘱状などはあまり関連が知られていなかったが、安浦 / 小原多次郎事蹟
南茅部町史 下巻 (安浦(旧板木)駒踊り会員名簿)

安浦(旧板木)駒踊り会員名簿 (大槌吉光・斎藤長光 協力) 高田卯之助  和井内□□  木村藤松  ,杉林正一 工藤茂光  斉藤政雄  鈴木ゆうじろう  金沢桃芳(現)  広瀬友勝  工藤みよしち  小寺馨,  大宮辰美  斉藤さだじ  杉林たかし  佐々木直次郎(現)  工藤勝徳(現) 蛯谷邦男(現)  小松忠行,  川口芳行(現) 斉藤清信(現)  佐藤幸悦(現)  和井内信光  砂田健一  斉藤長光(現)  小林和光 / 安浦(旧板木)駒踊り会員名簿
南茅部町史 下巻 (音頭と小唄)

音頭と小唄 郷土には戦後、新しい郷土民謡ともいえる、地元の青年による自作の音頭と小唄ができた。  ,尾札部小唄は関口直蔵が作詞、青い鳥ハーモニカバンド主宰の上山勇が作曲し、演奏した。,「青い鳥」と「尾札部小唄」の楽譜は掲載できなかった。,「尾札部小唄」は今も郷土の人々に愛唱されている。     ,   四 港臼尻 茜(あかね)に焼けりゃ    ラット持つ手に あの娘の笑くぼ    なぜに安浦島 / 音頭と小唄
函館市史 銭亀沢編 (大漁と出稼ぎの安全を祈って)

大漁と出稼ぎの安全を祈って 銭亀沢の近代における宗教は、大局的にいえば、神社と寺院を宗教施設として、,その中にあって、最も身近かで、最も本来的なのは、いうまでもなく、「地域の平安と祖霊供養」である。  ,この海とともに生きる地域住民にとって、安全操業と大漁は、生活と生命の「死活」に関わる最重大事である。,その知らせが入った村の様子を、当時銭亀沢高等小学校高等科一年の蔵井フサヱは次のように綴っている。,漁師にとって、豊漁ももちろん大事だが、それ以上に、安全な操業が大事である。 / 大漁と出稼ぎの安全を祈って
南茅部町史 下巻 (熊泊小学校の記録)

熊泊小学校の記録 六月一七日、熊泊小学校では午後零時半ごろから降石をみたので、学校付近の児童を急いで,  同変電所へ        三〇〇名余り   同事務所へ         三〇名   熊泊小学校,  一五〇名余り熊泊稲荷神社及び民家へ約五〇名余り  六月一八日朝 前夜、熊泊小学校に収容した鹿部小学校児童二八名,は、なお不安がつのるものが多いため、再び二里先の臼尻小学校に移動することとなり、臼尻覚王寺で朝食と昼食,熊泊小学校・稲荷神社・熊泊説教所境内の降灰石排除のため、大字熊泊各戸より村民四〇三名出動し、救援隊を組織 / 熊泊小学校の記録
戸井町史 (三、〓小柳家(瀬田来))

三、〓小柳家(瀬田来) 〓 小柳家の先祖新右衛門は、享保年間(一七一六―一七三五)瀬田来に移住し、代々漁業,四代新右衛門歿後、吉蔵が五代目を継いで家業に精励し、安政三年妻トヨを迎えて、安政五年(一八五八)十月十五日長男吉太郎,小柳家の基礎を礎いた吉蔵は、明治三十二年(一八九九)七十六才で隠居し、長男吉太郎に家督を譲(ゆず)った,吉太郎の妻ソノは、尻岸内村〓家より小柳家に嫁し、夫吉太郎を助け、内助の功が大きかった。,享年二十八才、一正の妻キヨは汐首の〓境家より小柳家に嫁し健在である。 / 三、〓小柳家(瀬田来)
恵山町史 ([戸籍法と大小区画制の施行])

・木古内村・瓜谷村  (以上、1大区3小区17村) 茅部郡 6大区 1小区 小安村・戸井村・尻岸内村, 第十八大区茅部郡(三小区一七村)・旧三小区一三村と一支郷   同  一小区  小安村・戸井村・,(第18大区の小安村・戸井村・尻岸内村・椴法華)について記す。  ,副惣代の飯田藤吉は椴法華村史によれば小安村副戸長に任命されている。,これらの資料から、明治9年9月8日の「北海道大小区画」実施に伴う、第18大区(茅部郡)1小区、小安村・ / [戸籍法と大小区画制の施行]
恵山町史 (尻岸内小学校)

明治二十八年五月公立尻岸内尋常小学校と改称す。」,校名も「尻岸内小学校」ではなく「尻岸内學校」である。  ,ところで、初代の校長は、1880年(明治13年)7月の北海道文書館保存の「小学訓導辞令録」によると「小学六等準訓導,「尻岸内小学校訓導兼校長佐々木三綱氏は椴法華尋常小学校訓導兼校長七級下俸に、椴法華尋常小学校訓導兼校長原安太郎氏,は、尻岸内尋常小学校訓導兼校長八級下俸に、転校となる。」 / 尻岸内小学校
恵山町史 (根田内小学校(恵山小学校の旧校名))

根田内小学校(恵山小学校の旧校名) 根田内學校  公立 渡島国亀田郡尻岸内村支村根田内ニ在リ  ,人の校長が慌ただしく代わったことになる  そして、前記した明治18年の「函館縣學事第四年報」には、安保忠次郎,開校間もない根田内小学校長は、現存されている文書や記事で見るかぎり木村、秋江、山本、吉田、安保と続いたことになる,小学校移転式 去月(九月)二十三日に尻岸内小学校、二十四日に根田内小学校で、いずれも新築落成につき移転式,『明治一九年四月、政府は勅令第一四号で小学校令を公布したが、この「小学校令」のもとにスタートしたのが日浦小学校 / 根田内小学校(恵山小学校の旧校名)
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田小学校の教育)

亀田小学校の教育 亀田小学校は前述のように、函館師範学校の代用附属として、教育実習生の指導とともに教育研究,努力を続けてきたが、昭和の前期における概略を「自治展覧会出陳品控」(亀田村役場)の中に掲載された「亀田小学校教育,(二) 施設事項   1 日本精神陶冶の施設    イ 国旗掲揚並びに奉安殿礼拝 ロ 神殿礼拝 ハ,単式学級の児童数を減少して、学習を合理的にするためには、従来単式編制の小学校と雖も多分に複式編制の必要,以上の研究は先ず代用附属小学校が率先して実現すべき使命をもつものである。 / 亀田小学校の教育
椴法華村史 (頭取・小頭の仕事)

頭取・小頭の仕事 ・頭取は、各村に一名で小頭・百姓代の長として箱館奉行所の命令に従って、諸検査・書類整備,・小頭・百姓代は頭取の指揮を受け、これを補佐する役目を担なっていた。,また前にも記したように、支村には小頭がいたが、これは本村の頭取の指示によって支村を治める役目を持っており,また頭取のいない支村では、本村の取頭の指示により小頭が村民に布達の伝達を行ったが、特に重要な布達などの,以上    戌六月廿四日             御貸付金掛   鍛冶村・下湯川村夫より石崎村・小安村 / 頭取・小頭の仕事
南茅部町史 下巻 ((7)小学校設立等の沿革)

  26・ 4・   木直小学校補習科設置 12臼尻小学校奉安所新築   27・ 1・12  臼尻小学校御聖影奉迎奉戴,・ 5・   臼尻小学校修業年限四ヶ年の尋常小学校となる   34・ 4・ 1  古部小学校として独立,、尋常科は初等科に改める 熊泊国民学校、校名を大船国民学校と改称   17・11・ 4  臼尻校奉安殿修理工事完了, 11・5臼尻校五万本の植林   17・12・25  磨光校奉安殿新築落成   19・ 7・18  ,をうけ、磨光・臼尻両校校舎の破損甚大   21・ 8・15  磨光、8・20木直、8・22古部、各校奉安殿撤去 / (7)小学校設立等の沿革
恵山町史 (明治7年(1874年)の小噴火)

明治7年(1874年)の小噴火 明治時代から今日まで、恵山では顕著な噴火は起こっていない。,つぎに収録した小噴火の記録が「開拓使日誌」に残されているだけである。  ,当使管下渡島国茅部郡恵山去月八日午後六時頃旧噴火口轟鳴発焔烈敷殆ント炸裂ノ形状ニ相見ヘ邑民懼罷在候処翌九日午前二時ヨリ焔威追々減銷候ニ付何レモ安堵致居候段函館支庁,恐らく噴火活動が急に活発化し、ごく小規模な水蒸気爆発が起こったのであろう。 / 明治7年(1874年)の小噴火
函館市史 別巻 亀田市編 (桔梗小学校の誕生)

桔梗小学校の誕生 (一) 学校創設当時の事情 明治十一年には亀田学校、十三年には鍛冶学校、神山学校、,桔梗村は安政六(一八五九)年、東本願寺が箱館奉行に願い出て、この地の開拓を企て、越前、加賀、能登の農民,、上村正夫小学五等准訓導がその後任となった。  ,十八年八月八日付の新聞は桔梗村杉本甚右衛門が十六年十一月、桔梗小学校敷地として、地所百坪寄付したる段、,ウ 保健教育の実施において、明治三十九年、桔梗小学校において小林医師の努力により、トラホームの治療が行 / 桔梗小学校の誕生
函館市史 別巻 亀田市編 (北海道教育大学附属函館小学校)

北海道教育大学附属函館小学校 北海道教育大学附属函館小学校 一 亀田町に校地を求める  昭和四十一年附属小学校用地買収計画,四十二年九月、当初計画の小学校新築用地は急に変更となり、亀田町字赤川通町二二九に土地購入計画が具体化し,、更に建築の順序は小学校、中学校の順であったのを、中学校、小学校の順と変更することになった。  ,三 新校舎での生活  『創立六十年史』 (北海道教育大学函館分校)の中に附属小学校について左記のように,「ア 転げまわるほどの嬉しさ  イ きめ細い交通安全指導  ウ 生活を豊かにし、体力づくりをめざす / 北海道教育大学附属函館小学校
椴法華村史 (〔椴法華小学校沿革史〕)

大正九年四月一日     椴法華尋常小学校、高等科を設置し、椴法華尋常高等小学校と改称する。,昭和三年十月六日     椴法華尋常高等小学校、両陛下の御真影を拝戴し、村民より御大典記念として奉安台,日 15号台風のため被害を受けた小学校 昭和50年 椴法華小学校 現在の椴法華小学校,椴法華小学校学級編成 椴法華小学校歴代学校長  歴代  校 長 名 在職期間  ,初 代   原   安太郎  明治32・2・23 2年6月  二 代   佐々木 三 綱  明治34・ / 〔椴法華小学校沿革史〕
南茅部町史 下巻 (畑反別書上小前連印帳)

反一畝〇四分(歩)   臼尻村 臼尻       二五名  一町九反八畝 三分       板木(安浦,明治六癸酉年         (北海道〇〇七九三) 畑反別書上小前連印帳 第六大區二小區   茅部郡熊泊村,    同 弐畝拾三分    千葉 亀吉印         前同断    五番 同      小名小田濱三十三番屋敷,    同 六畝廿壹分    佐々木粂五郎印         前同断    八番 同      小名小田濱弐拾九番屋敷,        川端 菊松  同 岩ノ下二十七番地  字木直シ十九番地  一 同七畝三分         松村安右 / 畑反別書上小前連印帳
恵山町史 (3、古武井小学校)

3、古武井小学校 (1)学校の沿革  明治13・ 8   古武井教育所ができる(児童84,名)    23・12   根田内小学校に合併する  明治36・11・14 根田内小学校より分離して,、現役場庁舎のところに古武井小学校が開校する          2教室が作られたが1学級編成(83名, 恵山町教育委員会表彰受賞      11・11 交通安全レター作戦(北海道新聞渡島版に掲載)    ,、しのぶ会挙行(閉校記念誌発行)       3・31 古武井小学校閉校(4小学校が統合し / 3、古武井小学校
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