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恵山町史
(尻岸内小学校)
尻岸内
小学校 1885年(明治18年)11月に大蔵省刊行の「開拓使事業報告第四編」には、次のように記録,
尻岸内
學校 公立 渡島国亀田郡
尻岸内
村ニ在リ 敷地二十八坪 明治十三年四月 村民各金ヲ醵シ186,明治二十八年五月公立
尻岸内
尋常小学校と改称す。」,校名も「
尻岸内
小学校」ではなく「
尻岸内
學校」である。 ,は、
尻岸内
尋常小学校訓導兼校長八級下俸に、転校となる。」 /
尻岸内
小学校
恵山町史
(1、尻岸内八幡神社)
1、
尻岸内
八幡神社
尻岸内
八幡神社 冠の
尻岸内
の名が示すように、江戸時代から
尻岸内
本村の鎮守,氏子 旧
尻岸内
本村の字豊浦・大澗・中浜・女那川・川上の人々が主で約650戸。 ,沿革
尻岸内
町史では郷土に和人が定住(移住)したのは享保5年(1720)西村善次郎が最初とあるが、
尻岸内
八幡神社,平成4年(1992)神社本庁の承認を受け、神社名を
尻岸内
八幡神社と改称、函館地方法務局に登記、現在に至, 宮司 安田義一 昭和14年11月30日~昭和21年7月16日 現在
尻岸内
八幡神社 / 1、
尻岸内
八幡神社
椴法華村史
(椴法華・尻岸内の道)
椴法華・
尻岸内
の道 明治八年三月椴法華・
尻岸内
村民の寄附金及び椴法華六十五名・古武井六十五名、計百三十名,の人夫奉仕によって、椴法華・
尻岸内
間(現在の椴法華村字元村から恵山町古武井間)の山道三里二十三丁三十間,『駅路沿革志』(北海道大学蔵)によれば、「明治八年三月中本駅ヨリ
尻岸内
村ヘ至ル線路山道三里二拾三丁三十間民費,また『(明治)八年民事課往復』(北海道蔵)によれば、椴法華・
尻岸内
間の道路の状況を次のように記している,二百九十四号 民事課 戸井出張所 先般
尻岸内
村枝古武井ヨリ椴法華ヘ之新道修繕落成 / 椴法華・
尻岸内
の道
恵山町史
(2、尻岸内小学校)
2、
尻岸内
小学校 (1)学校の沿革 明治13・ 5・15 字武井泊番外地(現豊浦地区),に、年限4年の「
尻岸内
學校公立」が開設される 明治14・ 5 教則改正により小学初等,#160;5 字中浜番外地(小山内氏あと)に校舎移転する 明治28・ 5 公立
尻岸内
尋常小学校,;5・ 3 国民学校制度廃止、六・三制実施(小学校6年、中学校3年)
尻岸内
村立
尻岸内
小学校,する 12 学校暖房燃料灯油となる 昭和39・11・ 1 町制施行により
尻岸内
町立
尻岸内
小学校 / 2、
尻岸内
小学校
恵山町史
(1、尻岸内中学校)
1、
尻岸内
中学校 (1)学校の沿革 22・ 5 学制改革により
尻岸内
中学校として設立認可,
尻岸内
村立
尻岸内
小学校に併置開校 25・ 7 校舎新築工事着工, 26・ 3 校舎新築、村立日浦中学校と統合し、校名を村立
尻岸内
第一中学校と変更 ,29・ 4
尻岸内
村立
尻岸内
中学校と校名変更 9 屋内体育館、渡り廊下新築完成,自転車置場新築(技術室側面) 39・10 2教室増築工事着手 11 町制施行により
尻岸内
町立
尻岸内
中学校 / 1、
尻岸内
中学校
恵山町史
(3、尻岸内村の馬)
3、
尻岸内
村の馬 『箱館六ケ場所調べ』(田中正右衛門文書)より 郷土の馬・牛の飼育数については、,〈馬〉
尻岸内
場所 一五頭(牡馬一・牝馬一四) 但、当時用立馬数,五〇頭(牡馬五・牝馬四五) 但、当時用立馬数 三一頭
尻岸内
場所,三人のアメリカ人が、突然、
尻岸内
村の会所にやってきました。,このことからも、恵山火山の調査・植物採集の目的で
尻岸内
村にやってきて、馬を借りたことも事実であろう。 / 3、
尻岸内
村の馬
椴法華村史
(尻岸内分署の開設と椴法華村)
尻岸内
分署の開設と椴法華村 このようにして椴法華村は亀田分署の管轄下に属することになったのであるが、,)が開設されることになり、椴法華村はこの
尻岸内
分署の管轄下に置かれることになった。,当時の『函館新聞』から
尻岸内
分署の開署式について次に記すことにする。 ,明治十八年十月六日 函館新聞 函館警察署
尻岸内
分署開署祝詞 函館警察署
尻岸内
分署ハ亀田郡
尻岸内
村,となっているが、函館警察署亀田分署に附属する
尻岸内
分署の意味である。) /
尻岸内
分署の開設と椴法華村
戸井町史
(十、尻岸内村の昔の駐在所)
十、
尻岸内
村の昔の駐在所 昭和四十五年に発刊された『
尻岸内
町史』に、昔の警察の沿革が載っているが、数少,『
尻岸内
町史』に「
尻岸内
巡査駐在所の創設は、同所の記録によると、明治三十五年七月十四日となっているだけで,『
尻岸内
町史』の編集者の推定より十一年前に設置されている。 ,
尻岸内
村内の駐在所の巡査は、すべて戸井分署に籍を置いて、それぞれの駐在所に駐在したので、戸井分署の記録,明治十八年十月三日、函館警察署
尻岸内
分署が設置され、小安、戸井、
尻岸内
、椴法華の四村を管轄する分署が設置 / 十、
尻岸内
村の昔の駐在所
恵山町史
([尻岸内村2級町村制を施行])
[
尻岸内
村2級町村制を施行] 郷土
尻岸内
村が2級町村を施行したのは、明治35年(1902年)4月の北海道,なお、2級町村
尻岸内
村は他町村との合併を経ず、安政5年(1858年)に幕府により認可された
尻岸内
村(
尻岸内
本村 / [
尻岸内
村2級町村制を施行]
恵山町史
([尻岸内郷土誌と郷土歌])
[
尻岸内
郷土誌と郷土歌] 先にも触れたが、大正期には『
尻岸内
村郷土誌』が編纂され印刷・発行されている,発行者は
尻岸内
村教育会、代表者 砂山武俊(村長)と記されて、編輯者は当時、古武井小学校長を務めていた大西高尚,また、この郷土誌の冒頭には『
尻岸内
郷土歌』が掲げられている。 ,従って、それらの概略については資料編に掲載することとして、ここでは、本誌より冒頭の『
尻岸内
郷土歌』を紹介, 日浦の里の睦まじく 深き誠はわが村の 鑑としてぞ称へつる 3
尻岸内
/ [
尻岸内
郷土誌と郷土歌]
恵山町史
([尻岸内の運上屋・駅逓])
[
尻岸内
の運上屋・駅逓]
尻岸内
の運上屋についての記録は、天明6年(1786年)の『蝦夷拾遺』に「シリキシナイ,った)であるが、「七月十日恵山に登り、下山して根田内に泊まり、翌十一日、根田内を出発、古武井を通り『
尻岸内
,の運上屋に一泊』、十二日
尻岸内
を出発、日浦と原木の峠を越えた」とある。 ,この記録から、
尻岸内
の駅逓制度は1700年代後半から、初期のものとして存在してきたが、前期幕領期に入ると / [
尻岸内
の運上屋・駅逓]
恵山町史
(〈尻岸内町民憲章の制定〉)
〈
尻岸内
町民憲章の制定〉
尻岸内
町は昭和54年9月26日、次の“思い”を町民の総意として町民憲章を制定,「私たちは、白煙たなびく霊峰恵山を仰ぎ、美しい海峡に恵まれ、長い歴史を持った漁業に生きる、
尻岸内
町町民 / 〈
尻岸内
町民憲章の制定〉
恵山町史
(1、尻岸内(大澗)郵便局)
1、
尻岸内
(大澗)郵便局 〈等級〉 3等郵便局(明治16 1883・8・16) 集配特定局(,昭和16 1941・2 ) 〈名称〉
尻岸内
郵便局(明治16 1883・8・16,) 所在地 亀田郡
尻岸内
村澗 大澗郵便局(改称)(昭和10 1935・11・ ,に改称
尻岸内
郵便局(改称)(昭和43 1968・8・19) 所在地 亀田郡
尻岸内
村字中浜,74番地2 昭和43年(1968)局舎移転新築 この年
尻岸内
郵便局に改称
尻岸内
郵便局 / 1、
尻岸内
(大澗)郵便局
恵山町史
(1、尻岸内実業補修学校の運営計画 『尻岸内小学校沿革誌』より)
1、
尻岸内
実業補修学校の運営計画 『
尻岸内
小学校沿革誌』より ・明治三十八年六月二十九日、
尻岸内
尋常小学校,
尻岸内
水産実業補修学校ト称す。 / 1、
尻岸内
実業補修学校の運営計画 『
尻岸内
小学校沿革誌』より
恵山町史
([明治末頃の尻岸内村の道路状況])
[明治末頃の
尻岸内
村の道路状況] 明治も末ともなれば渡島地方もすでに鉄道建設に突入していた。 ,太田留治村長から堀良彦村長への、事務引継書には、函館(湯川村)
尻岸内
間の道路工事計画について次のように,▼椴法華、
尻岸内
間の道路の悪かったこと、実に驚かざるを得なかった。,明治44年8月、湯の川・
尻岸内
村字古武井間の車馬通行が可能になったのを機に、同45年、
尻岸内
村は道路掃除,但シ施行区域ハ左ノ如シ 第一区 自戸井村境至
尻岸内
山頂中央 第二区 自
尻岸内
山頂至字女那川渡場 / [明治末頃の
尻岸内
村の道路状況]
恵山町史
(当時の尻岸内村の予算)
当時の
尻岸内
村の予算 明治17年度の村一般会計予算(協議費)は次のようなものであった。,『明治一七年度
尻岸内
村国税・地方税賦課徴収』・町有資料より この税種目をみると、鹿皮がフランスなどへ / 当時の
尻岸内
村の予算
椴法華村史
(椴法華・尻岸内間の通行)
椴法華・
尻岸内
間の通行 後松前藩の時代と同様、椴法華と
尻岸内
の間は、陸路と海路の両方があり、陸路はかなり / 椴法華・
尻岸内
間の通行
恵山町史
(尻岸内村古武井までの延長)
尻岸内
村古武井までの延長
尻岸内
町史には、この戸井線の延長に関する資料(請願)が記されている。 ,而シテ古武井迄延長スルニ於イテハ、ソノ利用区域タルヤ、戸井村ノ一部・
尻岸内
・椴法華・尾札部ノ全村及ビ臼尻村,いずれにしても貴衆両院の可決・北海道建設事務所の調査来村は、戸井・
尻岸内
・椴法華村の悲願、戸井線古武井 /
尻岸内
村古武井までの延長
恵山町史
(尻岸内への物資の移出入『尻岸内村累年統計・大正3年~同7年』より)
尻岸内
への物資の移出入『
尻岸内
村累年統計・大正3年~同7年』より
尻岸内
村沿革史の累年統計の物資輸出,(移出)輸入(移入)表から、大正初期、
尻岸内
に移入された物資・移出された産物を品種別に記し、当時の海運,参考までに
尻岸内
村の歳入、大正4年9,948円、同5年8,693円、同6年9,717円。 /
尻岸内
への物資の移出入『
尻岸内
村累年統計・大正3年~同7年』より
恵山町史
(大正期の尻岸内各港の乗客と貨物の状況)
大正期の
尻岸内
各港の乗客と貨物の状況 町有文書「監督に関する書類」に、
尻岸内
村の大正元年(1912),から同11年(1922)までの主な寄港地別、日浦・
尻岸内
・古武井・根田内の乗客・降客人数、積荷・卸荷数,『日浦・
尻岸内
・古武井・根田内各港の乗降客・貨物調・大正元~同11年』 まず乗降客であるが、当時,は戸数1千戸ほど人口5千人余り、又、この時代の沿岸漁家の生活から推察し
尻岸内
村港の乗降人数は特に多い数,鉱山操業が明治34・5年なので15年余りは
尻岸内
各港が盛況に沸いたと推察される。 / 大正期の
尻岸内
各港の乗客と貨物の状況
恵山町史
(5、村並から「尻岸内村」へ)
5、村並から「
尻岸内
村」へ 1858年(安政5年)
尻岸内
(村並)は「
尻岸内
村」となる。 / 5、村並から「
尻岸内
村」へ
恵山町史
([明治初期の尻岸内村の道路行政])
[明治初期の
尻岸内
村の道路行政] 開拓使が拓殖計画の第一に取り上げた道路開削、札幌本道(函館・札幌間陸路,とりわけ原木の岸壁・柱状節理に阻まれる郷土
尻岸内
村については、昭和の世まで日浦峠の山越えや寄貝歌のハナコグリ,明治初年の頃の郷土
尻岸内
村の実態はどうであったろうか。 ,
尻岸内
村運上所は会所、本陣と改称されたが従来通り名主事務所がおかれ、名主増輪半兵衛が村政を司っていたし,
尻岸内
駅・駅逓制度の実態
尻岸内
駅 渡島国茅部郡
尻岸内
村、函館ヨリ森駅ニ至ル東海岸ノ道路 / [明治初期の
尻岸内
村の道路行政]
恵山町史
(④尻岸内仮熔鉱炉について)
④
尻岸内
仮熔鉱炉について 阿部 たつを 道南の歴史(道南の歴史研究協議会機関紙) ,(昭和46年)1971・10・20 No.52 「
尻岸内
町史」(昭和45年9月刊)は浜田昌幸氏,「
尻岸内
町史」では「
尻岸内
川支流の冷水川上流に、安政2年頃、箱館弁天町山カセ印、松右衛門が、砂鉄吹立を,浜田氏は(
尻岸内
町史で)白山氏の説に従われたのである。 ,なお、ついでだから、
尻岸内
の熔鉱炉のことにも言及しておくが、「
尻岸内
町史」には、「古武井での鋳砲と古武井熔鉱炉 / ④
尻岸内
仮熔鉱炉について
恵山町史
(『大正期の尻岸内村の漁業組合』)
『大正期の
尻岸内
村の漁業組合』 組合員の合計は大正4年から11年まで 589人・599人・,
尻岸内
の10、11年の経費・積立金が突出しているのは鰮網漁と思われる。 [表] / 『大正期の
尻岸内
村の漁業組合』
恵山町史
((3)榎本の尻岸内村での調査)
(3)榎本の
尻岸内
村での調査 榎本の
尻岸内
村での砂鉄については「北海道硫黄取調書(恵山、古武井、駒嶽,榎本の調査については、『
尻岸内
沿革誌』に次のように記している。 / (3)榎本の
尻岸内
村での調査
恵山町史
([尻岸内川と古武井川に架かる橋])
[
尻岸内
川と古武井川に架かる橋]
尻岸内
川と古武井川はともに「2級河川」で、両河川とも川幅10メートル,女那川橋の建設(昭和42年・1967年) 女那川橋は2級河川
尻岸内
川・道道(昭和45年に国道昇格・ / [
尻岸内
川と古武井川に架かる橋]
恵山町史
([尻岸内村壬申戸籍簿(現存する最も古い戸籍簿より)])
[
尻岸内
村壬申戸籍簿(現存する最も古い戸籍簿より)]
尻岸内
村壬申戸籍簿 <
尻岸内
> (参考資料),明治9年12月中 右人413人 内男220人 女193人
尻岸内
村壬申戸籍簿 <古武井,明治6年癸酉1月 渡島国茅部郡
尻岸内
村戸籍簿 古武井 根田内 明治10年分 戸籍原簿, 茅部郡
尻岸内
役所
尻岸内
尻岸内
村壬申戸籍簿 <根田内> 惣人別 527人 内男 / [
尻岸内
村壬申戸籍簿(現存する最も古い戸籍簿より)]
恵山町史
([昭和9年の尻岸内村勢要覧])
[昭和9年の
尻岸内
村勢要覧] 昭和9年(1934年)の郷土の村勢要覧が現存する。,『昭和九年
尻岸内
村勢要覧 北海道亀田郡
尻岸内
村役場』より [沿革の大要] −省略− [地勢及び,[恵山] 湯の川より道南下海岸を自動車に乗り、津軽海峡の風光を右に見て東に行くこと、二時間にして
尻岸内
村日浦,此処を越えて
尻岸内
に入れば左方小高き杜に、鎮座の郷社八幡宮は下海岸一帯漁民の崇敬厚し。,戸口 教育 農業 水産 畜産 村財政
尻岸内
村勢要覧 / [昭和9年の
尻岸内
村勢要覧]
恵山町史
(箱館戦争と郷土尻岸内村)
箱館戦争と郷土
尻岸内
村 郷土
尻岸内
村は、箱館戦争の戦場には勿論、兵士らの進路にも当たらず、直接、この,、榎本武揚が五稜郭に仮政府を樹立した時期(明治元年11月~)、村々への労働力・牛馬提供の指令があり、
尻岸内
村,『
尻岸内
村にやってきた榎本軍脱走兵の話』(再話) この話は、
尻岸内
の高橋金六翁、松本由松翁の二人が / 箱館戦争と郷土
尻岸内
村
恵山町史
([大正期の尻岸内村村会議員])
[大正期の
尻岸内
村村会議員] 議員定数の改定 村議会議員の定数については、明治39年2級町村制施行,とともに北海道庁長官の定めにより12人とされていたが、後、16人と改められ、大正9年の村議会議員選挙より
尻岸内
村,以下、郷土
尻岸内
村の大正期の村会議員の選挙の実態・議会活動・議員名について記す。 / [大正期の
尻岸内
村村会議員]
恵山町史
(〈戸井・尻岸内・椴法華3村合併問題〉)
〈戸井・
尻岸内
・椴法華3村合併問題〉 昭和29年から34年までの6年間、経済状況の厳しい時代、
尻岸内
,昭和二十九年 渡島支庁管内 戸井村 人口 七、八三四人 八、一七〇人
尻岸内
村,七七〇人 計 〃 一九、八四六人 二一、四四九人 この勧告を受けた
尻岸内
村,このことは、享和元年(1801)
尻岸内
場所が幕府より日本人村並と認可されて以来、150余年の歴史を刻む,
尻岸内
村が合併により消滅するということであり、村は、各部落ごとに懇談会を開き、その趣旨や将来の展望について / 〈戸井・
尻岸内
・椴法華3村合併問題〉
恵山町史
(〈昭和60年4月1日より、尻岸内町、恵山町に〉)
〈昭和60年4月1日より、
尻岸内
町、恵山町に〉 享和元年(1801)郷土「
尻岸内
場所」は江戸幕府より,日本人村並に認められ、安政5年(1858年)には、日本人村並から正式に「
尻岸内
村」として認可された。,爾来、127年間続いた郷土
尻岸内
の名は、昭和60年(1985年)4月1日をもって、町民の総意のもと「恵山町,『郷土の地名とアイヌ語』 ○
尻岸内
シリキシラナイ(シリキシララナイ) 岩壁に形象ある川 / 〈昭和60年4月1日より、
尻岸内
町、恵山町に〉
恵山町史
((4)尻岸内村の新農山漁村振興計画)
(4)
尻岸内
村の新農山漁村振興計画 この振興計画策定に当たって村は、村づくりの問題(振興計画)を、村,そして、昭和31年には、まず部落懇談会・広報紙などでこの趣旨・内容の普及に努め、12月8日、
尻岸内
村農山漁村振興協議会,『
尻岸内
村農山漁村振興特別助成事業計画』より漁業についての内容を抜粋し記す。 ,一、
尻岸内
の地域振興基本構想 (一は農業 二は林業) (1)漁業においては豊漁時代の回遊魚族および浅海海藻,この条例により再建資金の融資を受けた
尻岸内
村内分を次に記す。 / (4)
尻岸内
村の新農山漁村振興計画
恵山町史
(1、尻岸内村沿革史(累年統計)より)
1、
尻岸内
村沿革史(累年統計)より
尻岸内
村沿革史・累年統計が現存する。,内容は沿革の概要・村概要・
尻岸内
村諸規定及び諸規則の部と、大正年間(元年から、内容により11年迄)の統計,
尻岸内
尋常小学校 4校中児童数の一番多かった
尻岸内
小は、常に1学級当たり50名を超す「すし詰め教室」,敷地は字浜中2番地2(現中浜79番地)と決まり、工事監督者に
尻岸内
部長の浜田伊三郎が就任、同年、工事に,
尻岸内
町史には「福士村長はこの予算を付けることができず、やむをえず有志と謀り校舎の模様替え行なって4学級 / 1、
尻岸内
村沿革史(累年統計)より
恵山町史
((1)新たな水産振興計画 -尻岸内町総合開発計画より-)
(1)新たな水産振興計画 -
尻岸内
町総合開発計画より- 第2次長期計画の策定 昭和32年(1957),3月、
尻岸内
村はようやく戦後の混乱期から脱し、総合的な基本計画をまとめ、道知事から地域指定を受け事業に,すなわち『
尻岸内
村農山漁村振興特別助成事業計画』である。,と反省の上に立ち、
尻岸内
町の新たなビジョンを描き『
尻岸内
町総合開発計画』を策定した。 ,以下、この
尻岸内
町総合開発計画より漁業に関する事項を抜粋し記す。 / (1)新たな水産振興計画 -
尻岸内
町総合開発計画より-
恵山町史
(戸井・尻岸内・椴法華寄付金を条件に道路開削要請(大正12年3月))
戸井・
尻岸内
・椴法華寄付金を条件に道路開削要請(大正12年3月) 大正12年3月には、戸井・
尻岸内
・,・椴法華区間については依然として思うような進捗を見せず、戸井・
尻岸内
・椴法華の村長はこの月、出札し開催中,翌大正13年11月、武石
尻岸内
村長は北海道長官あてに、詳細な請願書と資料を添え強く陳情している。,戸井・
尻岸内
間の道路開削に意欲的に取組んだ
尻岸内
村長武石胤介は、大正14年落部村長に転任する際、その意思,これを引継いだ
尻岸内
村長菅原直次郎は、戸井・椴法華両村長と協議、戸井村字原木・
尻岸内
村字日浦間の最大の / 戸井・
尻岸内
・椴法華寄付金を条件に道路開削要請(大正12年3月)
恵山町史
(根田内村・古武井村・尻岸内村の神社と寺院)
根田内村・古武井村・
尻岸内
村の神社と寺院 根田内村(字恵山)、古武井村(字古武井・日ノ浜)、
尻岸内
村 / 根田内村・古武井村・
尻岸内
村の神社と寺院
恵山町史
(2、2級町村制発足時(明治年間)の尻岸内村役場三役)
2、2級町村制発足時(明治年間)の
尻岸内
村役場三役 歴代村長とその業績・村勢 初代村長 太田留治,を施行、初代村長には、
尻岸内
村11代戸長を務めていた太田留治が引き続き就任した。 ,陸路の開発について、
尻岸内
の有志、高橋常之助、浜田栄助らは湯川村、
尻岸内
村間の道路開削計画に積極的に関与,そして、翌大正元年には
尻岸内
小学校に2教室を増築する。,その後、来道し同28年(1895年)
尻岸内
村戸長役場に筆生として奉職。 / 2、2級町村制発足時(明治年間)の
尻岸内
村役場三役
恵山町史
([昭和期、戦前・戦時の尻岸内村三役])
[昭和期、戦前・戦時の
尻岸内
村三役] 昭和の前期−戦前・戦時、終戦に至る20年間は、『大正デモクラシー,以下、郷土
尻岸内
村の三役の経歴等について述べるが、地方自治としての特色ある業績は前述の状況から認めがたい / [昭和期、戦前・戦時の
尻岸内
村三役]
恵山町史
(3、2級町村制発足時(明治年間)の尻岸内村村会議員)
3、2級町村制発足時(明治年間)の
尻岸内
村村会議員 明治39年4月1日2級町村制の施行に伴い、
尻岸内
村村会,であった「総代人制・総代人松本福松・佐々木音右エ門」を最後に、村会議員制へと代わり、同年、遡って3月初め、
尻岸内
村初,本村(
尻岸内
部落)三名候補者として推選すること、前記三名選挙する余り投票は、従来の日浦・本村との円満上之,
尻岸内
部落の経理関係の古い文書には、 「明治四十四年二月三日、村会議員選挙に付き女那川方面委任状取,その事が、先出、
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部落協議会の議事録、明治41年7月25日の項に次のように記載されている。 / 3、2級町村制発足時(明治年間)の
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村村会議員
恵山町史
(2、『壬申八月巡回御用神社取調』第2巻より、尻岸内村神社調)
2、『壬申八月巡回御用神社取調』第2巻より、
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村神社調 『申八月巡回御用神社取調』第2巻より、郷土
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村,<渡島国亀田郡
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村> 戸数 五拾五軒 人口 三百廿一人 ,<
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枝郷日浦> 戸数 拾七軒 人口 九十七人 ,<
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枝郷根田内> 戸数 七拾四軒 人口 四百九十八人 ,
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村 ・八幡宮の木像(祭祀神体・衣冠弓箭ヲ持立像、白衣丸竜ノ地紋ニ彩色ス)はそのまま存在させる。 / 2、『壬申八月巡回御用神社取調』第2巻より、
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村神社調
恵山町史
([引揚者団体尻岸内支部の発足])
[引揚者団体
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支部の発足] 戦後、役場が直ちに取組まなければならなかった大切な仕事として、頭を悩,
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町史には、このような辛苦を味わった人々の生の声が『復員の記・引揚者の記』として、寄せられている。, (
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町史編集長 浜田昌幸編集) 復員の記 〈シベリア抑留生活を終えて〉,戸、古武井22戸、女那川13戸、大澗22戸、日浦7戸、合計77戸の引揚者に呼び掛け賛同を得て「引揚者
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支部,『引揚者団体
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支部役員名簿』 引揚者団体
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支部 支部長兼会計 高木 元臣 / [引揚者団体
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支部の発足]
恵山町史
([昭和10年度尻岸内村各青年学校入学数・出席率と教員])
[昭和10年度
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村各青年学校入学数・出席率と教員] 青年学校初年度(昭和10年)は任意加入であったが,青年学校は、昭和14年(1939)男子のみ就学義務化となるが、
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村においては青年団員数から推測し、,『渡島教育』(社団法人渡島教育会・昭和11年創刊号)では
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村青年学校生徒数は以下の通りである。 / [昭和10年度
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村各青年学校入学数・出席率と教員]
恵山町史
(2、尻岸内村公文書にみる明治前期の漁業)
2、
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村公文書にみる明治前期の漁業 明治初期の郷土(
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村)の状況を記す最も古い公文書として、,これは、明治12年(1879)12月5日、茅部郡
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村元村用掛、村岡清九郎が開拓使函館支庁茅部郡の郡長,また、明治16年(1883)12月31日現在の『函館縣統計表式(巻ノ一)亀田郡
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村』が現存する。,『郡長に差出し明細書』より 漁獲高
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村(日浦・
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・古武井・根田内)合計 手繰昆布 根本,表『函館縣統計表式(巻ノ一)亀田郡
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村』より「第七八 特有海産ノ産出高」 鰯・鰯〆粕 / 2、
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村公文書にみる明治前期の漁業
恵山町史
(〈尻岸内町・椴法華村境界問題の解決と町名変更の確認〉)
〈
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町・椴法華村境界問題の解決と町名変更の確認〉 昭和60年(1985)1月30日、境界線の協定締結, 明治以来、
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町と椴法華村との境界線については、両町村とも互いに主張を譲らず、“百年戦争”などと揶揄,不分明な部分について、昭和59年(1984)10月9日、真部渡島支庁長からの調停案が提示され、これに
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町,本町の町名変更条例 『
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町の名称を恵山町に改める条例』は、昭和45年12月22日に議決しており、町,』1985年 3月号より “明日への期待を胸に” 新生 恵山町の出発(たびだち) 四月一日から
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町 / 〈
尻岸内
町・椴法華村境界問題の解決と町名変更の確認〉
恵山町史
((5)昭和42年当時の尻岸内村の漁港)
(5)昭和42年当時の
尻岸内
村の漁港 北海道は漁業によって拓かれた。,
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村の漁港の現況(昭和42年現在) 第1種漁港 利用範囲が地元の漁業を主とするもの,昭和41年
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町議会は日浦港の第56条港湾の指定解除・漁港としての指定を受けるための運動を行うことを,昭和四十二年三月十八日提出
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町長 前田時太郎 昭和四十二年三月十八日議決 ,
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町議会議長 吉田 亀蔵 この議決を受け、町・町議会は、道・支庁をはじめとし、中央諸官庁 / (5)昭和42年当時の
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村の漁港
恵山町史
((1)古武井川及び尻岸内川沿い周縁の林地)
(1)古武井川及び
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川沿い周縁の林地 住居地域から上流は、両岸が急傾斜で迫る山間河川となっているが / (1)古武井川及び
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川沿い周縁の林地
恵山町史
(4、2級町村制施行当初に定めた尻岸内村規則・規定と同村費仕分書(明治43年分))
4、2級町村制施行当初に定めた
尻岸内
村規則・規定と同村費仕分書(明治43年分) 行政の執行とは一般に,
尻岸内
村第1回村会議員選挙が2級町村制施行を繰りあげ明治39年3月中に実施されたのも、行政の執行上、村規則,なお、
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村の規則・規程の制定に当たっては、北海道2級町村制、第3章町村会 第2款職務権限及處務規定,・明治39年~大正7年』 『
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村規程・明治34年~大正7年』 これらの規則・規程,の明治43年
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村仕訳書・歳出の実態を考察する上で参考になるので記載することとする。 / 4、2級町村制施行当初に定めた
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村規則・規定と同村費仕分書(明治43年分)
恵山町史
(発展した大正期 『尻岸内村沿革史 累年統計』より)
発展した大正期 『
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村沿革史 累年統計』より 大正7年編集「函館支庁管内町村誌(渡島教育会編)」,の「
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村」農業の項に、「農業は甚だ幼稚にして水田を見ることなく僅かに需要を満たすのみ、近来牧畜を興,なお、このことを検証する意味で、『
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村沿革史 累年統計、移入農産物の種類・量』との対比から、農産物 / 発展した大正期 『
尻岸内
村沿革史 累年統計』より
恵山町史
((7)尻岸内の漁業生産と村の漁政施策)
(7)
尻岸内
の漁業生産と村の漁政施策 「村有文書」に昭和9年から15年までの
尻岸内
村漁業状況とその対策,・海苔礁築設の為
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・古武井漁業組合に対し適当補助し着生試験に供したり。,「昭和11年度~16年度
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村の主要漁業生産額の推移」 郷土の海域は暖流と寒流がぶつかり,従って漁獲高も、先出の、「
尻岸内
村の主要漁業生産額の推移表、昭和15・16年のスルメ生産額」にみるように / (7)
尻岸内
の漁業生産と村の漁政施策
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