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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (川汲層)

川汲層 川汲層は鈴木 長谷川(1963)によると青味がかった淡緑色の凝灰岩であり、汐泊川層の下部にあるものと,考えられたが、その後、鈴木守ら(1969)により川汲層は汐泊川層の一部として取扱われている。 / 川汲層
南茅部町史 下巻 (川汲谿谷)

川汲谿谷 「尾札部村勢要覧」昭和五年版「遊覧案内」に、川汲温泉・川汲峠・川汲谿谷の三項が挙げられている,この川汲谿谷の景に「鶯澤(うぐいすざわ)、躑躅(つつじ)溪、琵琶瀧(びわだき)、澄雲崖(しょううんがい,自動車道路が開通して間もない川汲山道の景勝の見所を言い得て妙である。  ,町外からの来遊者が増すにつれて、川汲山道の景勝は広く知られていった。,小学校教員であった小林露竹は、尾札部村の自然を、郷土の人々にも見直してもらいたいという念願から川汲渓谷 / 川汲谿谷
南茅部町史 下巻 (川汲公園)

川汲公園 昭和四一年には、恵山道立自然公園内、南茅部町関係事業として、川汲温泉集団施設園の指定をうけ,、道費三〇〇万円、町費五〇〇万円をもって総面積一六五平方メートルの川汲公園第一次工事をおこなった。,一〇月一六日、この工事の完成をまって同月、第一回川汲峠観光まつりが盛大に開催された。,これが川汲公園まつりの先駆となった。  昭和四二年六月一一日、川汲公園の正式の公園開きが催された。,昭和四三年五月一二日開催の川汲公園開きが、NHKテレビ「新日本紀行・恵山」で全国に紹介された。 / 川汲公園
南茅部町史 上巻 (川汲台場)

これはのちのち台場山と呼ばれるようになる川汲山台場である。,川汲台場山  このほか「川汲より温泉に至る途中尚二か所に台場あり」と記している。,川汲峠の台場は、沿岸伝いに川汲峠越えして五稜郭に攻め入った土方隊の戦いの記述があるが、蝦夷地三嶮の一つといわれ,明治元年一一月 榎本軍土方隊川汲峠に砲台築造す。    ,外に川汲山道入口左側台地にも一か所小台場を築いた。 土方隊川汲峠越進撃図 / 川汲台場
南茅部町史 下巻 (川汲銀座)

川汲銀座 大正から昭和にかけて、臼尻と同様に川汲の山道入口から川汲温泉までは川汲銀座と呼ばれて、ことのほか,川汲銀座の商況は賑わいを呈した。,料理屋は萬富久屋・藤の屋・千鳥屋・末広屋・福の屋・善の食堂(そば)・旅館が二軒、温泉旅館芽の湯(金曽)川汲温泉山中旅館,があり、川汲銀座の名を冠称された。                                 / 川汲銀座
南茅部町史 下巻 (川汲山道)

川汲山道 川汲より川汲峠を経て上湯川まで                道案内 〓 小中太三郎(明治三四生,滝の沢 川汲温泉   山中温泉のところから川向かいに渡り、ツネ(尾根)に登る道もある。        ,川汲公園   川を渡ってすすむ。,川汲峠    小沢に沿って急坂を登ると葛折(つづらおり)(九十九折)の道を峠に上る。        ,[図] 川汲山道 川汲台場山 川汲峠 / 川汲山道
南茅部町史 下巻 (川汲空襲)

川汲空襲 朝九時半頃、川汲一帯も機銃掃射をうけ〓(⑪)上山商店の店舗と住宅が全焼、隣家の〓(⑫)佐々木家 / 川汲空襲
南茅部町史 下巻 (〔川汲山道〕)

に拠れば、川汲山道は上湯川村稲荷社前より河汲浜に至る六里二九丁一間、とある。  ,峠(川汲峠)・温泉を経て川汲まで五里二二丁四四間と記している。  ,弘化四年(一八四七)、松浦武四郎が箱館より友人を訪ねて川汲温泉に来往したときの川汲山道の里程は、蝦夷行程記,安政四年(一八五七)、堀奉行一行が来村して川汲金・銀・銅山を巡見する。一行は川汲嶺の急坂を越える。,開拓使事業報告の明治十一年に  川汲山道 上湯川村ヨリ川汲ヲ経テ尾札部村ニ至ル六里弱、山間甚嶮難。 / 〔川汲山道〕
南茅部町史 下巻 (川汲トンネル)

川汲トンネル 昭和四〇年四月、川汲トンネルの掘削工事が着工した。,翌四一年、川汲峠道函館側新路線開削工事着工。,同四二年、川汲トンネル導坑・全長一、一五〇メートルが貫通した。  ,改長工事は   川汲側  三、八〇一メートル(トンネル含み)   函館側  一、九〇〇メートル,  総工費  一〇億七二二万円    うち、トンネル工事費  約六億円  昭和四三年一二月一七日、川汲 / 川汲トンネル
南茅部町史 上巻 (川汲峠攻め)

川汲峠攻め 星恂太郎は額兵隊の主力を湯元に布陣して、菅原道守らに士官隊一小隊を従わせて間道より廻らせ,、川汲峠の官軍を攻めのぼらせた。,この川汲峠は東蝦夷地三嶮の一といわれる要衝の嶮なのだ。,星は影田興隆に兵糧の任を命じ、隊長自ら松明をかざして川汲峠の頂上の陣に馳けのぼった。,川汲峠攻撃で土方軍の死傷は無かった。 / 川汲峠攻め
南茅部町史 下巻 (川汲峠吟社)

川汲峠吟社 昭和二三年、岡田一石(泰道)、関口郊葉(直蔵)が川汲峠吟社を結成した。  , 泰道    行商の声薫風にのる真昼     礼子              昭和52 朝日(小川レイ / 川汲峠吟社
南茅部町史 上巻 (川汲湯元の戦)

川汲湯元の戦 軍監菰田元治は額兵隊員七、八名を引率して物見に湯元に近づく。  ,川汲湯元に駐屯していた一個小隊の官軍は、湯治場を後楯にして小銃を連発してきた。,すでに官軍は湯元には一兵もなく、川汲峠の陣へ退いたあとだった。 / 川汲湯元の戦
南茅部町史 下巻 (川汲温泉 山中旅館)

川汲温泉 山中旅館 明治二一年、竹中重蔵が初めて川汲温泉に湯治に来た頃は、「往時の湯茶屋は細木柱に茅屋根,明治三一年一〇月下旬、川汲温泉〓旅館の大改築工事が落成した。                             ,(竹中重蔵記録) 川汲温泉 山中旅館 大正7年「町村誌」北海道所蔵 / 川汲温泉 山中旅館
南茅部町史 下巻 ((4)川汲学校)

(4)川汲学校 公立小学校設立伺 一 学校位置  渡島国茅部郡尾札部村支川汲弐十二番地 一 敷地坪数,  弐百弐十五坪 尾札部村支川汲持共有地 一 建家坪数  弐拾五坪 一 校名    川汲学校 一 / (4)川汲学校
南茅部町史 下巻 (戦後、川汲山道再開)

戦後、川汲山道再開 戦時中、乗合自動車の運行は中断したが、戦後、尾札部村は函館市の協力を得て川汲山道,昭和三〇年末、函館市の協力のなかで道や国に請願をつづけ、昭和三九年、川汲山道森・南茅部線、川汲山道部分,の改良工事延長五、七〇一メートルが着手され、四二年二月一七日、川汲隧道延長一、一五〇メートルが貫通、昭和四三年一二月全線開通,昭和四四年、山道の入口は川汲川左岸に切替工事が行われた。 / 戦後、川汲山道再開
南茅部町史 下巻 (川汲公園さくら祭り)

川汲公園さくら祭り 昭和四六年五月一六日、第一回川汲公園さくら祭りを開催し、同年一〇月三日、川汲公園紅葉,昭和五七年、川汲公園整備事業が推進された。   / 川汲公園さくら祭り
南茅部町史 下巻 (〔川汲山銀銅山〕)

〔川汲山銀銅山〕 安政六己未年(一八五九)  先年より試掘中の河汲峠砥山(とのやま)(砥ノ沢(とのさわ,奉行支配組頭河津三郎太郎の家来佐分利泰蔵が川汲砥山掛を命じられ、松平右京亮元家来、浪人岡本藤市が山元取締,官は山元取締岡本藤市を江戸表へ出張させて、川汲砥石硯石の売り捌きの手配にあたったという。  ,万延元年庚申(一八六〇)四月二日  河汲砥石山の開鑿のとき、亀尾御手作業農夫頭取甚右衛門は、官に願い,万延元年(一八六〇)   尾札部  燧石               川汲川  砥石                / 〔川汲山銀銅山〕
椴法華村史 (川汲鱈釣船の遭難)

川汲鱈釣船の遭難 大正五年三月四日午後四時尾札部村川汲の漁民五名川崎船で同村沖合四里へ鱈釣に出漁、南東 / 川汲鱈釣船の遭難
南茅部町史 下巻 (川汲山道の道中)

川汲山道の道中 尾札部 吉川菊蔵(明治二七生)談  早朝、尾札部から草鞋はいで歩いて行けば、一本木,木原を通って牧場へ出て、上湯川へ出る。一本木から今の亀尾の方回れば遠いわげだ。歩いてえぐんだ。  ,「蝦夷日誌」河汲峠之図    市立函館図書館 所蔵 / 川汲山道の道中
南茅部町史 下巻 (昭和一〇年 川汲温泉絵葉書)

昭和一〇年 川汲温泉絵葉書 川汲温泉の絵葉書が袋入である。  ,元南茅部高校長佐々木重元が、昭和一一年の夏休みに来村の折求めた川汲温泉絵葉書は四枚一組である。,川汲温泉の案内  交通の便は、函館湯の川間は電車二〇分、賃金一〇銭で、湯の川・川汲温泉の間は自動車一時間二,川汲温泉   市街ヲ距ル十五町、自動車随時往復。,川汲ノ里ヨリ川汲川ノ溪流ニ沿ウテ山道ヲ登ルコト十五町ニシテ川汲温泉ニ至ル。 / 昭和一〇年 川汲温泉絵葉書
南茅部町史 下巻 (川汲温泉ホテル)

川汲温泉ホテル 昭和四五年、温泉ホテルの新築によって、薬師堂の正面に大きなホテルの建物が建ったので、,川汲山道の往来から、また、ホテルの客からも見えなくなった。   / 川汲温泉ホテル
南茅部町史 下巻 (〔川汲山銀銅山〕)

〔川汲山銀銅山〕 安政三丙辰年(一八五六)正月一三日  箱館在六ヶ場所の金銀銅鉄鉛山其の他諸産物類,この現地取調の結果、川汲山銀銅鉱は掘取に着手し、古部・椴法花などは追々願人があり次第掘取を申付けることとなった,このとき組頭河津三郎太郎らは、箱館近在の鉱山開発のため諸山を探査し、とくに大野の市渡や川汲の盛山を手がけている,銀鉱  川汲  費用巨にして一塊をも得ず廃す。        / 〔川汲山銀銅山〕
南茅部町史 下巻 (川汲山道自動車道路の開削)

川汲山道自動車道路の開削 大正一〇年、尾札部村、臼尻村・湯川村三ヵ村による川汲山道開削の請願を、北海道庁,同一一年八月一六日、川汲山道期成同盟の総会で開削の促進を決議した。  ,大正一二年四月二〇日、川汲山道開削工事の一期工事七七、八〇〇円で落札し工事に着手。  ,大正一四年九月二二日、川汲山道開通奉告祭が執行され、一〇月一日工事竣工。,川汲山道開削工事 大正13年 竹中家所蔵 川汲山道開通式における感謝状 西谷定二所蔵 / 川汲山道自動車道路の開削
南茅部町史 下巻 (〔川汲分署設置〕)

〔川汲分署設置〕 明治一八年五月、函館県森警察署川汲分署が設置された記録がある。,函館縣渡島國茅部郡             尾札部村一同   明治十八年五月中函館縣森警察   署川汲分署設立,熊泊校沿革誌には、明治一八年五月一四日、(臼尻熊泊二ヶ村役場)「戸長篠田順氏ト共ニ生徒ヲ勧誘シ 当郡尾札部村支川汲,ニ至リ 同所森警察署(川汲)分署建設地地形ノ功ニ従フ」と記されている。,函館縣渡島國茅部郡         熊泊小学校一同   明治十八年五月中函館縣森警察   署川汲分署設立 / 〔川汲分署設置〕
函館市史 銭亀沢編 (若水汲み)

若水汲み 戦前までは、元旦未明に近くの清らかな小川や、沢の水、共同井戸の最初に汲む水を「若水」とよんだ,結んだ新しい桶(おけ)と、松やゆずり葉で結んだ杓子(しゃくし)を持ち、男性が唱え言を唱えて「若水」を汲んだという,水を汲むところに、米・お金を半紙に包み「オサゴ」とし、塩・餅も供えた。拝んだ後に水を汲んだ。  ,汲んだ水は、家の神棚・仏壇に供え、あとで下げて飲んだり、元旦の雑煮を作ったりした。,若水を汲んでから神社へお参りにいく人もいた。   / 若水汲み
南茅部町史 上巻 ([土方隊、川汲峠進攻])

[土方隊、川汲峠進攻] 総帥榎本釜次郎、副帥松平太郎、歩兵差図役大鳥圭介、新選組副長土方歳三、衝鋒隊長古屋佐久左衛門,軍議の結果、本隊は大鳥圭介を大将に遊撃隊長大岡幸次郎、伝習隊長大川正次郎、新選組隊長相馬主計ら四百余名,土方隊は砂原鹿部の海岸沿いに進み、川汲山道を越えて野田部、上湯の川村へでて、五稜郭を背後から攻略する。 / [土方隊、川汲峠進攻]
南茅部町史 下巻 (川汲の七夕(たなばた)踊り)

川汲の七夕(たなばた)踊り 明治四二年ごろ、川汲の盆に七夕をやった。   / 川汲の七夕(たなばた)踊り
南茅部町史 上巻 (川汲の吉野堂と坂本龍馬の膳)

川汲の吉野堂と坂本龍馬の膳 明治維新から五〇年余を経て、世人はようやく箱館戦争を見直していた頃である,(以下掲載記事全文)      本道茅部郡尾札部村ニ川汲ト云ッテ温泉ノアル土地ニ吉野堂ト云フ看板ヲアゲタ,吉野ノ桜ヲ愛スルヨリ、営業ノ看板ニシタニ過ギナイガ、併テ川汲デハ名物ノ一人、先年徳島ノ儒者砂河澹庵翁ガ,ケレド反面ニ戦場ニ立ッタヤウナ事ヲウタッテアルノハ、草深イ川汲辺ノ菓子屋ノ主人公トシテ頗ル奇異ニテ、多少文字 / 川汲の吉野堂と坂本龍馬の膳
南茅部町史 下巻 (鱒川峠越え)

鱒川峠越え 鱒川小学校の沿革誌とその資料「鱒川のむかし」(瀬川恒太郎翁談)に拠ると、明治大正期の川汲街道,川汲峠を越えると紅葉山の木原野を進む。一本木から鱒川峠を越えて鱒川の山の上を通る。,川汲から馬で函館へ魚類が運ばれ、函館からの帰り馬には日用品雑貨を運んだ。,冬は馬が通られないので、川汲から来た人は鱒川まで、函館から来た人も鱒川まで来て、ここが取次場所となった,大正一四年に新しい川汲山道が開通すると鱒川道(ますかわみち)は廃(すた)れた。 / 鱒川峠越え
南茅部町史 下巻 (カビラ川)

カビラ川 川汲に、今は小板川と呼ばれている川は、むかしカビラ川といわれた川である。  ,この川上に、カビラというアイヌが住んでいたことからカビラ川と呼ばれたという。,また、この川は、一夜に大水が出るというアイヌ語の意であるというが、訳語については定かではない。        ,川汲 古老談 / カビラ川
南茅部町史 上巻 ([河川の名])

[河川の名] 昭和五五年河川コード台帳による河川一覧 地区名 水系番号 指定 河川 支流 流路延長,) 〇・九     八〇九一 準用 見日川(ケンニチガワ) 二・四 見日川から東側の各河川は河川から,八〇八七 普通 築上川(ツキアゲガワ) 二・四   川汲  清水 ・八四〇七 普通 川汲小板川(カックミコイタガワ,・八四〇六 普通 清水川(シミズガワ) 一・五     八〇八六 普通 川汲川(カックミガワ) 六,・一 河川一覧附図「河川図」No,22に「川ツ汲川」 とあるのは「川汲川」である。     / [河川の名]
南茅部町史 上巻 (鰊場の歩方(ぶかた)(川汲・小板与三郎談・明治二八年生))

鰊場の歩方(ぶかた)(川汲・小板与三郎談・明治二八年生) 春早く鰊場に歩方にいく。 / 鰊場の歩方(ぶかた)(川汲・小板与三郎談・明治二八年生)
函館市史 通説編 第一巻 (願乗寺川の開削)

願乗寺川の開削 堀川乗経  箱館において広大な面積を占める砂頸部の地には、当時地蔵町の一部分を,しいのと、湿地が多かったためで、地蔵町の人々は、ただ1つ豊富にわき出す高田屋の掘抜井戸に集ってこれを汲み,そこで願乗寺(いまの西別院)の堀川乗経はこれを慨嘆し、安政6年本山の許可を受けて官に出願して新渠を開き,俗にこれを願乗寺川または堀川と称し、住民に3つの利便を与えた。第一は飲料水を沿岸の住民に与えたこと。,ただし流水のこととて汚物が混じたので人々は朝早く汲みとったという。 / 願乗寺川の開削
南茅部町史 上巻 (上湯川)

上湯川 上湯の川に出て宿陣した。  ,土方・春日隊はこの日、川汲温泉から山坂六里の行軍をすすめたわけである。,このとき五稜郭には箱館府兵で元徳川の臣岡本柳蔵ら四〇人がいた。 / 上湯川
函館市史 通説編 第一巻 (汐泊川層)

汐泊川層 汐泊川層は長谷川 鈴木(1964)、及び鈴木 長谷川(1963)によると、函館地方において,その後鈴木守ら(1969)も川汲層を汐泊川層の一部層として取扱い、この累層を含めて汐泊川層を次の4つの / 汐泊川層
南茅部町史 下巻 (〔主な火災略年表〕)

臼尻倉庫一棟全焼 大正 3      川汲住宅一棟全焼    5      川汲住宅一棟全焼   ,11・ 1・15  尾札部菓子工場全焼   13      川汲住宅全焼 昭和 5      川汲,10・7 川汲漁協事務所全焼   43・ 1・23  臼尻住宅一棟全焼。,5・17 臼尻火事   45・12・25  川汲住宅一棟全焼。,6・11 川汲住宅一棟半焼。12・4 木直住宅二棟全焼。
南茅部町史 下巻 (陸上交通・道路年表)

)      32  川汲山道開削の請願を再び願出る時機として小川幸一郎、布施弥三郎両委員を選出し、,はじまる      14  10・1 川汲山道工事竣工。,4・川汲トンネル掘削着工      41  二期舗装工事著保内―川汲・垣島―精進川。,川汲川橋鉄橋竣工      43  12・17 川汲トンネル開通式。,10・川汲ハマナス野に開発局除雪センター設置。
南茅部町史 下巻 (芽の湯(明林荘))

芽の湯(明林荘) 川汲温泉の溪流のすぐ上流に、川底から湧出する温泉があり、山仕事の人たちが帰りに川石,〓杉林季朔(明治二六生)は経営していた旅館を川汲山道入口に移転増改築して、温泉旅館芽の湯を開業した。,まで木管で引き、川汲温泉芽の湯を開業した。  ,川汲川上流の湯元から市街地まで一五町(九〇〇間・一、六三六メートル)の距離に木管で送るので、温度が下がるのを,旅館の周囲、とくに川汲川の両岸の濶葉樹を自然のままに配置して、桜を植えオンコを植え、春秋それぞれに花と
南茅部町史 下巻 (〔郷土の警察年表〕)

18・ 5・14  森警察署川汲分署設置。   ,35      川汲四五番地に分署を設置。   ,43      川汲分署を廃止した。,14・ 2    川汲巡査駐在所を新築。,昭和 6・ 6・ 5  川汲二〇四番地(現、字川汲四二七番地)に、川汲巡査部長駐在所の庁舎を移転、七月一
南茅部町史 下巻 (口絵)

えぞのてぶり 菅江真澄 市立函館図書館 所蔵 調子の埼の石神 ふるべの瀧 川汲上空,より安浦、臼尻、大船を望む 定置漁業 川汲上空より尾札部、木直を望む 写真提供 (, 所蔵 川汲稲荷神社絵馬 文久二壬戌年 奉納 箱館 徳田屋利三郎 川汲稲荷神社 船絵馬, 明治11年 奉納 荒関勝蔵 川汲稲荷神社 髷(まげ)絵馬 明治12年 奉納 山崎永吉,臼尻村消防組第一部・第二部(大正期) 函館 工藤幸雄 所蔵 工藤千代作 協力 川汲吉野堂菊地商店
南茅部町史 下巻 (鶴の湯伝説)

鶴の湯伝説 川汲温泉は、行路がまだ開かれていなかった二百数十年前、川汲山中に、傷ついた鶴が浴(ゆあ),寛政三年(一七九一)、この地先をアイヌの舟で各地の民俗を記していった菅江真澄の「えぞのてぶり」に、川汲,文政三庚辰年より申年迄七ヶ年           納人  川汲村 温守弁吉    川汲温泉場湯守三島弁吉,弘化四年(一八四七)、松浦武四郎は「蝦夷日誌」の川汲温泉の項に、「温泉壺一つ。,のち、改築をくりかえしても川汲温泉山中旅館の湯の滝は名物の一つであった。  
南茅部町史 上巻 (さらし首)

さらし首 川汲山道の入口に、曝し首があった。脱走軍の兵士であったという。, 自動車の通る山道(大正一四年開通)以前の旧山道の入口(登り口)から現在の渡島信用金庫寄りの辺に、川汲,明治になるとここに川汲の警察が設置された。旧川汲地蔵堂と墓地のところに曝し首がおかれたのである。
南茅部町史 下巻 (駄馬の運送)

明治四二年   川汲   〓    〓池田  善太郎   小中由松   〓        〓    ,      内山   木直   〓小又     明治四三年   板木   〓砂田  〓   川汲,影沼沢    船   〓能戸     明治四四年   川汲   〓小板   尾札部  五坂井,  玉太郎  工藤三蔵 水上    水木三平     明治四五年   川汲   〓    伊藤,戦後まで、亀尾、湯の川の駄付馬がきていたともいう(小中多三郎翁談)。
南茅部町史 下巻 (棟札等にみる郷土神社編年一覧)

  斎主 社掌小島仁太郎 願主 川汲若者中 世話人 杉          林政吉ほか      3,  (8・13 社掌安田吉春就任) 委員長 杉林政吉   10・ 9・ 6  川汲稲荷神社鞘殿一棟  ,  委員長 森野庄太郎      6・ 1  川汲稲荷神社村社列格記念手洗鉢  川汲氏子中   19, 屋敷藤吉ほか八名   26・ 8・   川汲稲荷神社石灯籠一対  川汲若者中   27・ 6・吉日, 遷座 川汲稲荷神社   60・     川汲稲荷神社記念奉祝大祭
南茅部町史 下巻 (古部・滝ノ沢トンネル)

川汲トンネル開通の年、昭和四三年五月六日に改正された、旧川汲山道と鹿部経由の旧路線最後の、バス時刻表がある,株式会社時刻表 鹿部海岸線   (昭和四三・五・六改正)                函館-鹿部-川汲,(表)鹿部駅前-鹿部(温泉街) (注)△印は鹿部で臼尻川汲古部方面へ接続します。  ,(表)川汲線                 函館-トラピスト-鉄山・蛾眉野-川汲     ※
函館市史 別巻 亀田市編 (下肥)

①各組合の汲取る町内は次の通り、  (ア)渡島上磯利用組合   船見町、船場町、台町、豊川汐止町、,同東部、松風町、千歳町、   高砂町  (イ)函館清掃株式会社   汐見曙町、青柳町、寿町、東川町,、春日町、西川町、相生町、真砂町、蓬萊町、   鶴岡町、恵比須町、若松町、宝町、音羽町、谷地頭町、海岸町,、住吉町、   万代町  (ウ)亀田農会   宇賀浦衛生組合、時任同、高盛同、中島同、堀川同、干代,ヶ岱同、上新川同、   大縄町、  (エ)函館清掃組合   山背泊町、タナゴマ衛生組合、弁天同、
南茅部町史 下巻 (〔温泉〕)

〔温泉〕 寛保年間(一七四一~四四)、「土人始テ見出シ候由」と川汲温泉鶴泉の由来は、文化一二年、仙台,川汲温泉か、大舟温泉か、磯谷温泉かは不明であるが川汲温泉のことであったと思われる。  ,宝暦五年生・一七五五)は、「蝦夷草紙」上巻 巻之二 産物の事の項に、     温泉   知内 湯の川 ,乙部 見布 平田内 湯の台 大沢   カツクミ(河汲) 床部(鹿部) 留めの湯 ヱサン(恵山)の山の,湯 シベツ セヽキ(勢々気)   とカツクミ(河汲)と鹿部・留ノ湯・ヱサン(恵山)の温泉のことを記
南茅部町史 上巻 (詮議書)

漁       業  六五   加 我 金 蔵    〃 字 川   汲    〃  四七 建設委員長,汲    〃  四五   能 戸 市 蔵    〃 字 尾 札 部    〃  六一   小 川 孝四郎,森地区警察署尾札部巡査部長派出所    二 字尾札部 大正 四、 一、 一 森地区警察署川汲巡査派出所,   一 字川 汲 昭和 六、 四、一九 森地区警察署臼尻巡査派出所   ,汲   郵   便   局    六 字川 汲 昭和一一、 五、 六 臼   尻   
函館市史 別巻 亀田市編 (松川弁之助の開拓)

松川弁之助の開拓 松川弁之助肖像  こうした情勢の中で安政三(一八五六)年、越後出身の松川弁之助,は赤川村字石川沢に御手作場を開くことを箱館奉行所に出願し、許可を受け、越後出身者を中心に開拓を進めることになった,『蝦夷地御開拓諸御書付諸伺書類』(新撰北海道史第五巻史料一)には、     箱館在赤川村の内字石川沢,、石川郷と相唱、一村立ニ申付   と当時の石川郷の状況を記している。,また、『松川弁之助君事蹟考』では、     一 箱館糞尿を山に捨、海に投せしに、弁之助手人に汲取らせて / 松川弁之助の開拓
南茅部町史 上巻 (郷土駐屯)

郷土駐屯 鷲ノ木から鹿部・臼尻・川汲にかけた海岸に、一小隊ずつを配置した。  ,臼尻分駐隊 隊長細井安太郎(伝習隊士官)外一三五名      竜宮庵 〓小川本家 〓東出 野村 大坂, 〓小川 能戸 二本柳    川汲分駐隊 隊長角田茂助(遊撃隊士官)外一五〇名      酒井  ,加我  佐藤  小板  杉林  ほか一〇軒    本陣を川汲〓酒井家に置き、台場指令所は川汲温泉においた
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