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函館市史 通説編 第一巻
(川汲層)
川汲
層
川汲
層は鈴木 長谷川(1963)によると青味がかった淡緑色の凝灰岩であり、汐泊川層の下部にあるものと,考えられたが、その後、鈴木守ら(1969)により
川汲
層は汐泊川層の一部として取扱われている。 /
川汲
層
南茅部町史 下巻
(川汲谿谷)
川汲
谿谷 「尾札部村勢要覧」昭和五年版「遊覧案内」に、
川汲
温泉・
川汲
峠・
川汲
谿谷の三項が挙げられている,この
川汲
谿谷の景に「鶯澤(うぐいすざわ)、躑躅(つつじ)溪、琵琶瀧(びわだき)、澄雲崖(しょううんがい,自動車道路が開通して間もない
川汲
山道の景勝の見所を言い得て妙である。 ,町外からの来遊者が増すにつれて、
川汲
山道の景勝は広く知られていった。,小学校教員であった小林露竹は、尾札部村の自然を、郷土の人々にも見直してもらいたいという念願から
川汲
渓谷 /
川汲
谿谷
南茅部町史 下巻
(川汲公園)
川汲
公園 昭和四一年には、恵山道立自然公園内、南茅部町関係事業として、
川汲
温泉集団施設園の指定をうけ,、道費三〇〇万円、町費五〇〇万円をもって総面積一六五平方メートルの
川汲
公園第一次工事をおこなった。,一〇月一六日、この工事の完成をまって同月、第一回
川汲
峠観光まつりが盛大に開催された。,これが
川汲
公園まつりの先駆となった。 昭和四二年六月一一日、
川汲
公園の正式の公園開きが催された。,昭和四三年五月一二日開催の
川汲
公園開きが、NHKテレビ「新日本紀行・恵山」で全国に紹介された。 /
川汲
公園
南茅部町史 上巻
(川汲台場)
これはのちのち台場山と呼ばれるようになる
川汲
山台場である。,
川汲
台場山 このほか「
川汲
より温泉に至る途中尚二か所に台場あり」と記している。,
川汲
峠の台場は、沿岸伝いに
川汲
峠越えして五稜郭に攻め入った土方隊の戦いの記述があるが、蝦夷地三嶮の一つといわれ,明治元年一一月 榎本軍土方隊
川汲
峠に砲台築造す。 ,外に
川汲
山道入口左側台地にも一か所小台場を築いた。 土方隊
川汲
峠越進撃図 /
川汲
台場
南茅部町史 下巻
(川汲銀座)
川汲
銀座 大正から昭和にかけて、臼尻と同様に
川汲
の山道入口から
川汲
温泉までは
川汲
銀座と呼ばれて、ことのほか,
川汲
銀座の商況は賑わいを呈した。,料理屋は萬富久屋・藤の屋・千鳥屋・末広屋・福の屋・善の食堂(そば)・旅館が二軒、温泉旅館芽の湯(金曽)
川汲
温泉山中旅館,があり、
川汲
銀座の名を冠称された。 /
川汲
銀座
南茅部町史 下巻
(川汲山道)
川汲
山道
川汲
より
川汲
峠を経て上湯川まで 道案内 〓 小中太三郎(明治三四生,滝の沢
川汲
温泉 山中温泉のところから川向かいに渡り、ツネ(尾根)に登る道もある。 ,
川汲
公園 川を渡ってすすむ。,
川汲
峠 小沢に沿って急坂を登ると葛折(つづらおり)(九十九折)の道を峠に上る。 ,[図]
川汲
山道
川汲
台場山
川汲
峠 /
川汲
山道
南茅部町史 下巻
(〔川汲山道〕)
弘化四年(一八四七)、松浦武四郎が箱館より友人を訪ねて
川汲
温泉に来往したときの
川汲
山道の里程は、蝦夷行程記,) 温泉場(
川汲
温泉) 一八丁二〇間
川汲
(村里まで) 箱館より,安政四年(一八五七)、堀奉行一行が来村して
川汲
金・銀・銅山を巡見する。一行は
川汲
嶺の急坂を越える。,箱館戦争後、
川汲
温泉に湯治する人、遊山する人、函館との商用や駄馬の輸送など、明治から大正へ
川汲
山道は往来,開拓使事業報告の明治十一年に
川汲
山道 上湯川村ヨリ
川汲
ヲ経テ尾札部村ニ至ル六里弱、山間甚嶮難。 / 〔
川汲
山道〕
南茅部町史 下巻
(川汲空襲)
川汲
空襲 朝九時半頃、
川汲
一帯も機銃掃射をうけ〓(⑪)上山商店の店舗と住宅が全焼、隣家の〓(⑫)佐々木家 /
川汲
空襲
南茅部町史 下巻
(川汲トンネル)
川汲
トンネル 昭和四〇年四月、
川汲
トンネルの掘削工事が着工した。,翌四一年、
川汲
峠道函館側新路線開削工事着工。,同四二年、
川汲
トンネル導坑・全長一、一五〇メートルが貫通した。 ,改長工事は
川汲
側 三、八〇一メートル(トンネル含み) 函館側 一、九〇〇メートル, 総工費 一〇億七二二万円 うち、トンネル工事費 約六億円 昭和四三年一二月一七日、
川汲
/
川汲
トンネル
南茅部町史 上巻
(川汲峠攻め)
川汲
峠攻め 星恂太郎は額兵隊の主力を湯元に布陣して、菅原道守らに士官隊一小隊を従わせて間道より廻らせ,、
川汲
峠の官軍を攻めのぼらせた。,この
川汲
峠は東蝦夷地三嶮の一といわれる要衝の嶮なのだ。,星は影田興隆に兵糧の任を命じ、隊長自ら松明をかざして
川汲
峠の頂上の陣に馳けのぼった。,
川汲
峠攻撃で土方軍の死傷は無かった。 /
川汲
峠攻め
南茅部町史 下巻
(川汲峠吟社)
川汲
峠吟社 昭和二三年、岡田一石(泰道)、関口郊葉(直蔵)が
川汲
峠吟社を結成した。 /
川汲
峠吟社
南茅部町史 上巻
(川汲湯元の戦)
川汲
湯元の戦 軍監菰田元治は額兵隊員七、八名を引率して物見に湯元に近づく。 ,
川汲
湯元に駐屯していた一個小隊の官軍は、湯治場を後楯にして小銃を連発してきた。,すでに官軍は湯元には一兵もなく、
川汲
峠の陣へ退いたあとだった。 /
川汲
湯元の戦
南茅部町史 下巻
(川汲温泉 山中旅館)
川汲
温泉 山中旅館 明治二一年、竹中重蔵が初めて
川汲
温泉に湯治に来た頃は、「往時の湯茶屋は細木柱に茅屋根,明治三一年一〇月下旬、
川汲
温泉〓旅館の大改築工事が落成した。 ,(竹中重蔵記録)
川汲
温泉 山中旅館 大正7年「町村誌」北海道所蔵 /
川汲
温泉 山中旅館
南茅部町史 下巻
((4)川汲学校)
(4)
川汲
学校 公立小学校設立伺 一 学校位置 渡島国茅部郡尾札部村支
川汲
弐十二番地 一 敷地坪数, 弐百弐十五坪 尾札部村支
川汲
持共有地 一 建家坪数 弐拾五坪 一 校名
川汲
学校 一 / (4)
川汲
学校
南茅部町史 下巻
(戦後、川汲山道再開)
戦後、
川汲
山道再開 戦時中、乗合自動車の運行は中断したが、戦後、尾札部村は函館市の協力を得て
川汲
山道,昭和三〇年末、函館市の協力のなかで道や国に請願をつづけ、昭和三九年、
川汲
山道森・南茅部線、
川汲
山道部分,の改良工事延長五、七〇一メートルが着手され、四二年二月一七日、
川汲
隧道延長一、一五〇メートルが貫通、昭和四三年一二月全線開通,昭和四四年、山道の入口は
川汲
川左岸に切替工事が行われた。 / 戦後、
川汲
山道再開
南茅部町史 下巻
(川汲公園さくら祭り)
川汲
公園さくら祭り 昭和四六年五月一六日、第一回
川汲
公園さくら祭りを開催し、同年一〇月三日、
川汲
公園紅葉,昭和五七年、
川汲
公園整備事業が推進された。 /
川汲
公園さくら祭り
南茅部町史 下巻
(昭和一〇年 川汲温泉絵葉書)
昭和一〇年
川汲
温泉絵葉書
川汲
温泉の絵葉書が袋入である。 ,元南茅部高校長佐々木重元が、昭和一一年の夏休みに来村の折求めた
川汲
温泉絵葉書は四枚一組である。,
川汲
温泉の案内 交通の便は、函館湯の川間は電車二〇分、賃金一〇銭で、湯の川・
川汲
温泉の間は自動車一時間二,
川汲
温泉 市街ヲ距ル十五町、自動車随時往復。,
川汲
ノ里ヨリ
川汲
川ノ溪流ニ沿ウテ山道ヲ登ルコト十五町ニシテ
川汲
温泉ニ至ル。 / 昭和一〇年
川汲
温泉絵葉書
椴法華村史
(川汲鱈釣船の遭難)
川汲
鱈釣船の遭難 大正五年三月四日午後四時尾札部村
川汲
の漁民五名川崎船で同村沖合四里へ鱈釣に出漁、南東 /
川汲
鱈釣船の遭難
南茅部町史 下巻
(川汲温泉ホテル)
川汲
温泉ホテル 昭和四五年、温泉ホテルの新築によって、薬師堂の正面に大きなホテルの建物が建ったので、,
川汲
山道の往来から、また、ホテルの客からも見えなくなった。 /
川汲
温泉ホテル
南茅部町史 下巻
(〔川汲山銀銅山〕)
〔
川汲
山銀銅山〕 安政三丙辰年(一八五六)正月一三日 箱館在六ヶ場所の金銀銅鉄鉛山其の他諸産物類,この現地取調の結果、
川汲
山銀銅鉱は掘取に着手し、古部・椴法花などは追々願人があり次第掘取を申付けることとなった,このとき組頭河津三郎太郎らは、箱館近在の鉱山開発のため諸山を探査し、とくに大野の市渡や
川汲
の盛山を手がけている,銀鉱
川汲
費用巨にして一塊をも得ず廃す。 / 〔
川汲
山銀銅山〕
南茅部町史 下巻
(〔川汲山銀銅山〕)
〔
川汲
山銀銅山〕 安政六己未年(一八五九) 先年より試掘中の河汲峠砥山(とのやま)(砥ノ沢(とのさわ,奉行支配組頭河津三郎太郎の家来佐分利泰蔵が
川汲
砥山掛を命じられ、松平右京亮元家来、浪人岡本藤市が山元取締,官は山元取締岡本藤市を江戸表へ出張させて、
川汲
砥石硯石の売り捌きの手配にあたったという。 ,万延元年(一八六〇) 尾札部 燧石
川汲
川 砥石 / 〔
川汲
山銀銅山〕
南茅部町史 下巻
(川汲山道自動車道路の開削)
川汲
山道自動車道路の開削 大正一〇年、尾札部村、臼尻村・湯川村三ヵ村による
川汲
山道開削の請願を、北海道庁,同一一年八月一六日、
川汲
山道期成同盟の総会で開削の促進を決議した。 ,大正一二年四月二〇日、
川汲
山道開削工事の一期工事七七、八〇〇円で落札し工事に着手。 ,大正一四年九月二二日、
川汲
山道開通奉告祭が執行され、一〇月一日工事竣工。,
川汲
山道開削工事 大正13年 竹中家所蔵
川汲
山道開通式における感謝状 西谷定二所蔵 /
川汲
山道自動車道路の開削
南茅部町史 下巻
(〔川汲分署設置〕)
〔
川汲
分署設置〕 明治一八年五月、函館県森警察署
川汲
分署が設置された記録がある。,函館縣渡島國茅部郡 尾札部村一同 明治十八年五月中函館縣森警察 署
川汲
分署設立,熊泊校沿革誌には、明治一八年五月一四日、(臼尻熊泊二ヶ村役場)「戸長篠田順氏ト共ニ生徒ヲ勧誘シ 当郡尾札部村支
川汲
,ニ至リ 同所森警察署(
川汲
)分署建設地地形ノ功ニ従フ」と記されている。,函館縣渡島國茅部郡 熊泊小学校一同 明治十八年五月中函館縣森警察 署
川汲
分署設立 / 〔
川汲
分署設置〕
南茅部町史 下巻
(川汲山道の道中)
川汲
山道の道中 尾札部 吉川菊蔵(明治二七生)談 早朝、尾札部から草鞋はいで歩いて行けば、一本木 /
川汲
山道の道中
南茅部町史 上巻
([土方隊、川汲峠進攻])
[土方隊、
川汲
峠進攻] 総帥榎本釜次郎、副帥松平太郎、歩兵差図役大鳥圭介、新選組副長土方歳三、衝鋒隊長古屋佐久左衛門,土方隊は砂原鹿部の海岸沿いに進み、
川汲
山道を越えて野田部、上湯の川村へでて、五稜郭を背後から攻略する。 / [土方隊、
川汲
峠進攻]
南茅部町史 下巻
(川汲の七夕(たなばた)踊り)
川汲
の七夕(たなばた)踊り 明治四二年ごろ、
川汲
の盆に七夕をやった。 /
川汲
の七夕(たなばた)踊り
南茅部町史 上巻
(川汲の吉野堂と坂本龍馬の膳)
川汲
の吉野堂と坂本龍馬の膳 明治維新から五〇年余を経て、世人はようやく箱館戦争を見直していた頃である,(以下掲載記事全文) 本道茅部郡尾札部村ニ
川汲
ト云ッテ温泉ノアル土地ニ吉野堂ト云フ看板ヲアゲタ,吉野ノ桜ヲ愛スルヨリ、営業ノ看板ニシタニ過ギナイガ、併テ
川汲
デハ名物ノ一人、先年徳島ノ儒者砂河澹庵翁ガ,ケレド反面ニ戦場ニ立ッタヤウナ事ヲウタッテアルノハ、草深イ
川汲
辺ノ菓子屋ノ主人公トシテ頗ル奇異ニテ、多少文字 /
川汲
の吉野堂と坂本龍馬の膳
南茅部町史 上巻
(鰊場の歩方(ぶかた)(川汲・小板与三郎談・明治二八年生))
鰊場の歩方(ぶかた)(
川汲
・小板与三郎談・明治二八年生) 春早く鰊場に歩方にいく。 / 鰊場の歩方(ぶかた)(
川汲
・小板与三郎談・明治二八年生)
南茅部町史 下巻
(〔主な火災略年表〕)
臼尻倉庫一棟全焼 大正 3
川汲
住宅一棟全焼 5
川汲
住宅一棟全焼 ,11・ 1・15 尾札部菓子工場全焼 13
川汲
住宅全焼 昭和 5
川汲
,10・7
川汲
漁協事務所全焼 43・ 1・23 臼尻住宅一棟全焼。,5・17 臼尻火事 45・12・25
川汲
住宅一棟全焼。,6・11
川汲
住宅一棟半焼。12・4 木直住宅二棟全焼。
南茅部町史 下巻
(〔郷土の警察年表〕)
18・ 5・14 森警察署
川汲
分署設置。 ,35
川汲
四五番地に分署を設置。 ,43
川汲
分署を廃止した。,14・ 2
川汲
巡査駐在所を新築。,昭和 6・ 6・ 5
川汲
二〇四番地(現、字
川汲
四二七番地)に、
川汲
巡査部長駐在所の庁舎を移転、七月一
南茅部町史 下巻
(陸上交通・道路年表)
はじまる 14 10・1
川汲
山道工事竣工。,7・13 尾札部・熊泊間、
川汲
温泉間竹中自動車路線営業許可。,4・
川汲
トンネル掘削着工 41 二期舗装工事著保内―
川汲
・垣島―精進川。,
川汲
川橋鉄橋竣工 43 12・17
川汲
トンネル開通式。,10・
川汲
ハマナス野に開発局除雪センター設置。
南茅部町史 下巻
(芽の湯(明林荘))
芽の湯(明林荘)
川汲
温泉の溪流のすぐ上流に、川底から湧出する温泉があり、山仕事の人たちが帰りに川石,〓杉林季朔(明治二六生)は経営していた旅館を
川汲
山道入口に移転増改築して、温泉旅館芽の湯を開業した。,まで木管で引き、
川汲
温泉芽の湯を開業した。 ,旅館の周囲、とくに
川汲
川の両岸の濶葉樹を自然のままに配置して、桜を植えオンコを植え、春秋それぞれに花と,
川汲
温泉ホテル 平面図 (畳) 武揚 八 五稜 一〇 台場
南茅部町史 下巻
(鱒川峠越え)
鱒川峠越え 鱒川小学校の沿革誌とその資料「鱒川のむかし」(瀬川恒太郎翁談)に拠ると、明治大正期の
川汲
街道,
川汲
峠を越えると紅葉山の木原野を進む。一本木から鱒川峠を越えて鱒川の山の上を通る。,
川汲
から馬で函館へ魚類が運ばれ、函館からの帰り馬には日用品雑貨を運んだ。,冬は馬が通られないので、
川汲
から来た人は鱒川まで、函館から来た人も鱒川まで来て、ここが取次場所となった,大正一四年に新しい
川汲
山道が開通すると鱒川道(ますかわみち)は廃(すた)れた。
南茅部町史 上巻
(さらし首)
さらし首
川汲
山道の入口に、曝し首があった。脱走軍の兵士であったという。, 自動車の通る山道(大正一四年開通)以前の旧山道の入口(登り口)から現在の渡島信用金庫寄りの辺に、
川汲
,明治になるとここに
川汲
の警察が設置された。旧
川汲
地蔵堂と墓地のところに曝し首がおかれたのである。
南茅部町史 下巻
(棟札等にみる郷土神社編年一覧)
斎主 社掌小島仁太郎 願主
川汲
若者中 世話人 杉 林政吉ほか 3, (8・13 社掌安田吉春就任) 委員長 杉林政吉 10・ 9・ 6
川汲
稲荷神社鞘殿一棟 , 委員長 森野庄太郎 6・ 1
川汲
稲荷神社村社列格記念手洗鉢
川汲
氏子中 19, 宮司安田吉春 氏子総代 屋敷藤吉ほか八名 26・ 8・
川汲
稲荷神社石灯籠一対
川汲
若者中, 遷座
川汲
稲荷神社 60・
川汲
稲荷神社記念奉祝大祭
南茅部町史 下巻
(古部・滝ノ沢トンネル)
川汲
トンネル開通の年、昭和四三年五月六日に改正された、旧
川汲
山道と鹿部経由の旧路線最後の、バス時刻表がある,株式会社時刻表 鹿部海岸線 (昭和四三・五・六改正) 函館-鹿部-
川汲
,(表)鹿部駅前-鹿部(温泉街) (注)△印は鹿部で臼尻
川汲
古部方面へ接続します。 ,(表)
川汲
線 函館-トラピスト-鉄山・蛾眉野-
川汲
※
南茅部町史 下巻
(駄馬の運送)
明治四二年
川汲
〓 〓池田 善太郎 小中由松 〓 〓 , 内山 木直 〓小又 明治四三年 板木 〓砂田 〓
川汲
,〓坂本亀吉 上川 木直 〓影沼沢 船 〓能戸 明治四四年
川汲
, 尾札部 五坂井 玉太郎 工藤三蔵 水上 水木三平 明治四五年
川汲
南茅部町史 下巻
(鶴の湯伝説)
鶴の湯伝説
川汲
温泉は、行路がまだ開かれていなかった二百数十年前、
川汲
山中に、傷ついた鶴が浴(ゆあ),寛政三年(一七九一)、この地先をアイヌの舟で各地の民俗を記していった菅江真澄の「えぞのてぶり」に、
川汲
,文政三庚辰年より申年迄七ヶ年 納人
川汲
村 温守弁吉
川汲
温泉場湯守三島弁吉,弘化四年(一八四七)、松浦武四郎は「蝦夷日誌」の
川汲
温泉の項に、「温泉壺一つ。,のち、改築をくりかえしても
川汲
温泉山中旅館の湯の滝は名物の一つであった。
南茅部町史 上巻
(郷土駐屯)
郷土駐屯 鷲ノ木から鹿部・臼尻・
川汲
にかけた海岸に、一小隊ずつを配置した。 ,伝習隊士官)外一三五名 竜宮庵 〓小川本家 〓東出 野村 大坂 〓小川 能戸 二本柳
川汲
分駐隊,遊撃隊士官)外一五〇名 酒井 加我 佐藤 小板 杉林 ほか一〇軒 本陣を
川汲
,〓酒井家に置き、台場指令所は
川汲
温泉においた。
南茅部町史 下巻
(口絵)
えぞのてぶり 菅江真澄 市立函館図書館 所蔵 調子の埼の石神 ふるべの瀧
川汲
上空,より安浦、臼尻、大船を望む 定置漁業
川汲
上空より尾札部、木直を望む 写真提供 (,昆布採取 松浦武四郎 東西蝦夷山川地理取調図 万延元年 市立函館図書館 所蔵
川汲
稲荷神社絵馬, 文久二壬戌年 奉納 箱館 徳田屋利三郎
川汲
稲荷神社 船絵馬 明治11年 奉納 荒関勝蔵,
川汲
稲荷神社 髷(まげ)絵馬 明治12年 奉納 山崎永吉 板木(安浦)金毘羅神社絵馬
南茅部町史 下巻
(昭和)
5・ 1
川汲
郵便局に昇格、字
川汲
三八番地に移転。二〇・七五坪。,
川汲
郵便局 昭和13年 5・11 臼尻局尾札部局外国和文電報業務開始。,24・ 3・ 2
川汲
局電話交換事務開始、同5・19電報配達事務開始。,39・ 9・30
川汲
局電報配達事務を廃止。,7・30
川汲
局局舎新築、九〇・七二平方メートル。
南茅部町史 上巻
(漁業協同組合のあゆみ)
川汲
二九三番地 5・20設立認可 6・13法人成立 初代組合長 加我,
川汲
漁港築設促進期成会設立
川汲
、昆布礁築設のため岩礁爆破事業実施 昭和26・,
川汲
漁協、字尾札部ムジナ沢川まで。尾札部・見日漁協、ポン木直㊤岬東端まで。,・字
川汲
七九三番地に組合事務所を新築。,字
川汲
二五三番地。
南茅部町史 上巻
(生産者価格の記録)
生産者価格の記録
川汲
の〓小板健吉(明治二五年生)が世帯を持った大正五年から昭和一九年までの家計の漁業収入,大正、昭和にかけての名産
川汲
昆布を支えた証である。,(漁村の経済 参照) 小板健吉
川汲
昆布漁家収入明細(〓小坂健吉の日記帳より)
南茅部町史 下巻
(〔郷土の神社の沿革〕)
松前藩士オサツベ場所知行主新井田金右衛門 宝暦二年(一七五二)
川汲
開村, 木直・佐藤彦太郎、下北易国澗村鎮守大石神社の分霊勧請 安永二癸己年(一七七三)
川汲
稲荷大明神創建,
川汲
・加我金左衛門移住、能登国七尾稲荷を勧請 安永年間(一七七二, 熊泊村民協議のうえ高田家の稲荷社を熊泊村氏神とした 寛政五年(一七九三)
川汲
稲荷社境内,に一社をたてる(明治九年合祀)
川汲
・小板屋久兵衛、讃岐国金毘羅宮
南茅部町史 上巻
(コンブ養殖)
コンブ養殖 昭和三一年、
川汲
漁協は道水試の委託事業として垂直式コンブ養殖試験に取り組み成果をおさめた,
川汲
漁協(組合長大槌吉彦)は「ミズコンブ」の裾刈りにより、コンブの増収を図ることに成功して注目される。,昭和四〇年、
川汲
漁協は北海道の委託事業としてワカメ養殖を実施した。,この年、
川汲
漁協のコンブ養殖は、道開発局水産課の委託事業として三〇万円の研究助成をうけた。,この年、
川汲
漁協は自己資金による企業化に踏み切った。
南茅部町史 下巻
(【資料二-③】 明治九年九月一八日 函館郵便局課より札幌本庁駅逓課御中 北海道郵便出発定日 日割表)
函館ヨリ根田内迄 二 七ノ日 根田内ヨリ函館迄 四 九ノ日 下湯ノ川ヨリ
川汲
迄, 二 七ノ日 但シ午前八時
川汲
ヨリ下湯川迄 三 八ノ,日 但尾札部臼尻両局ニテ二七ノ日
川汲
江向出発但シ午後三時 新室蘭ヨリ紋別迄 一, 宗谷ヨリ毎月七日二七日紋別江向出発 紋別ヨリ毎月一二日二七日宗谷へ向出発
川汲
下湯
南茅部町史 下巻
(町の文化財指定)
図) 南茅部町字
川汲
二〇一九番地
川汲
温泉ホテル 薬王殿内 山中 治 昭53・2・28 嘉年四年,図) 南茅部町字
川汲
二〇一九番地
川汲
温泉ホテル 薬王殿内 山中 治 昭53・2・28 天治元年,
川汲
稲荷神社第一 号棟札 南茅部町字
川汲
,
川汲
稲荷神社第二 号棟札 南茅部町字
川汲
,
川汲
稲荷神社第三 号棟札 南茅部町字
川汲
南茅部町史 上巻
(額兵隊)
翌二四日、額兵隊の兵糧弾薬を鳳凰艦に積み替えたうえ、三橋光種が兵を率いてこれを護送して乗船、
川汲
沖に至,り
川汲
に上陸した。,本隊のあとを追って進もうとしたが、附近に敵官軍が屯在していることをきいて
川汲
に滞留した。,太田貞泰・中村実相らは、なお兵糧弾薬の輸送の任に当たり、鷲ノ木と
川汲
間を往復すること数度、後陣にあったため
椴法華村史
(昭和二十四年の船賃)
木直 七四 二五〇 尾札部 八〇 二七〇
川汲
, 木直 二八 九五 尾札部 三四 一一〇
川汲
, 木直 二〇 六五 尾札部 二六 八〇
川汲
, 木直 一一 三七 尾札部 一七 五五
川汲
南茅部町史 上巻
((4)河岸段丘)
川汲
川下流右岸には四〇―二〇メートルの河岸段丘があり、薄く砂礫層をのせている。,このように①河岸段丘が
川汲
川以西においては右岸によく発達し、八木川では左岸に発達がよいこと、②海岸段丘高度,は前述したように全体的に北高南低の傾向があり、さらに
川汲
、尾札部、見日付近の海岸段丘地形をみると、尾札部,このような事実から、
川汲
、尾札部間を中心に、これを離れるにしたがって高度を減ずる傾向があるといえる。
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