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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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戸井町史 ([石崎まで来た巡見使])

[石崎まで来た巡見使] 徳川三代将軍家光の時代から諸国に巡見使を派遣して、諸藩の行政を視察させて、諸藩,巡見使の渡島(ととう)の日程がきまると、松前藩は巡見使の出迎え、接待、案内等の準備に大騒ぎをし、巡視或,その布令には  「巡見使一行に無礼のないよう、不快の念を抱かせないよう十分注意すること」  「巡見使,巡見使一行の人数であるが、巡見使はたった三人だが、一人の巡見使に二十五、六人から四十四、五人もついて来,陸岸には藩士が整列して巡見使を出迎える。城下における巡見使の宿舎には家老の屋敷を提供する。   / [石崎まで来た巡見使]
函館市史 別巻 亀田市編 (解題)

鍛冶村の名主所において助郷のこと、道路や橋の普請のこと、人足や馬の割当てのこと、巡見使を迎えるための諸準備,巡見使(天保九年には黒田五左衛門、中根傳七郎、岡田右近の三人が幕府巡見使として来道)については特に詳細,であって、「天保九御巡見使要用録」(市立函館図書館蔵)にも記述されているように、迎えるに当って準備に手落,記載内容は巡見使に関する事項が最も多く、道路や橋の普請についての人足割当てがこれに次いでいるが、巡見使,特に霊照院(松前章広)の素志を体して倹約すべき旨の触書は長文であり、その後段に「当年は御巡見使御下向につき
戸井町史 (二、松前時代前期の概観)

寛永十年(一六二三)徳川三代将軍家光が、最初の巡見使を石崎まで派遣して以来、将軍の代替り毎に巡見使が下海岸,巡見使には必ず学者が随行し、巡見地の見聞記録を書き残した。  
椴法華村史 (椴法華村・近村村役人)

 嘉太郎   尾札部持  川汲   小頭 重兵衛  またアイヌ人関係の村役人としては『天保九年御巡見使要用録
函館市史 通説編 第一巻 (俵物移出の始まり)

御金二千両拝借願上げ候処、願の通り仰付けられ右荷物売立の代金にて二千両残らず上納仕り候(宝暦11年『御巡見使応答申合書,延享二丑年迄、当所住居仕り候近江売人共へ申付……子・丑年両年長崎へ差登らせ申候煎海鼠左の通」(宝暦12年『御巡見使応答申合書
函館市史 別巻 亀田市編 (馬の飼育法と性質)

また、寛永十(一六三三)年幕府巡見使が派遣された時、西は乙部(爾志郡乙部村)、東は石崎付近(函館市石崎町,)までを巡見したが、これは、これより奥地へは馬の通行ができなかったためといわれており、この巡見使一行は
恵山町史 (3、松前島郷帳・松前蝦夷図にみるアイヌ居住地と和人村)

さらに1717年(享保2年)、幕府は松前に巡見使有馬内膳ほか3名を派遣している。,また、1717年(享保2年)にやって来た幕府の巡見使有馬内膳らに提出したと思われる松前蝦夷図にも、是より
戸井町史 ([蝦夷地と馬])

寛永十年(一六三三)幕府の巡見使が、初めて蝦夷地に派遣されているが、巡見使の大行列が、多数の馬を乗用、,然し和人地には、寛永十年(一六三三)以来、将軍が代変り毎に巡見使が派遣され、その一行が馬に乗り、大行列,を組んで、西は熊石、東は石崎まで来て、毎回蝦夷が巡見使に謁見したので、道南の蝦夷はシャマニ以東の蝦夷のように
函館市史 銭亀沢編 (松前藩の出先機関できる)

享保二(一七一七)年の幕府巡見使が残した記録「松前蝦夷記」(『松前町史』資料編第一巻)によると、地元では
椴法華村史 (蝦夷地の主要道路)

なぜ巡見使はこれらの地域から先に行かなかったのであろうか。
函館市史 別巻 亀田市編 (助郷と農村の不振)

天保九(一八三八)年には、幕府巡見使が視察に来るという特殊な事情もあるが、前掲の『御用書留』に次のような
函館市史 通説編 第一巻 (寺院)

寺名は実行院と通称されていたこともあり、宝永6年に、幕府巡見使が来て聞かれたら実行院と答えるよう、藩から
恵山町史 ([蝦夷地の馬])

・寛永10年(1633年)幕府の巡見使が初めて蝦夷地に派遣されてきた時の記録に、巡見使の大行列が多数の
函館市史 銭亀沢編 (アイヌの存在形態)

寛永十(一六三三)年の幕府巡見使の巡見範囲が東は汐泊・石崎の地となっていること(「松前年々記」『松前町史
函館市史 別巻 亀田市編 (明治以前)

また『天保九えぞ御巡見使要用録』には次のように記されている。      
恵山町史 (1、古い記録にみる、郷土のようす)

1718年(享保3)『松前蝦夷図』より、沿岸のようす  1717年(享保2)6月、幕府は巡見使、有馬内膳,なお、この巡見使に関係あると思われる『松前蝦夷図』(享保3年写・大東急記念文庫所蔵)にも、郷土の海岸一帯
函館市史 通説編 第一巻 (亀田番所の設置)

りしを、松前家へ抱えられ、亀田村に番所を建て近郷を護らしむ」と見られ、また寛永10(1633)年には幕府巡見使分部左京亮実信
戸井町史 (一、十八世紀後半の戸井の状態)

寛永十年(一六三三)七月第一回目の、幕府の巡見使一行が小安の近くの石崎まで来、天明八年(一七八八)七月
函館市史 銭亀沢編 (函館風松前神楽(渡島神楽))

また同家は藤山本と呼ばれる文化三(一八〇六)年幕府巡見使に対する佐々木一貫の「松前神楽御答書」を「猥りに
函館市史 別巻 亀田市編 ([八月])

別て当年は御巡見使御下向ニ付、当所并在々御旅宿、  道橋普請等迄品々手数相懸り、右は郷村割合の儀ニは
函館市史 銭亀沢編 (幕末の村むら)

ついで、寛永十(一六三三年)癸酉の巡見使分部左京、大河内平十郎、松田左衛門がここまで来て帰ったことが記
戸井町史 ([松浦武四郎の『蝦夷日記』(嘉永三年)])

巡見使はここまで来て駕を帰すのである。これより奥へ行くにはこの黒岩が第一番目の険路である。,そこで「ここからは馬は通れない」といって、巡見使をここから帰したのが今でも例になっているものと思われる,巡見使もここで昼支度をするという。   
戸井町史 ([戸井と近隣の変遷])

⑦天明八年(一七八八)『東遊雑記』  古川古松軒が、天明八年、六十八才の老躯をもつて、幕府の巡見使に,黒岩では蝦夷の代表として、男十二人、女五人が巡見使に謁見し、蝦夷の芸術を演じたこと、男は風貌がたくましく
恵山町史 (6、郷土と高田屋嘉兵衛)

にして「近藤重蔵」(前述、高田屋嘉兵衛に協力を求め1799年(寛政11)エトロフ航路を開く幕臣・蝦夷地巡見使
恵山町史 (①松前地古武井熔鉱炉の研究並びに考証年表)

これは丁度、幕府巡見使に対するかっての、松前藩の応接を思わせるものがあり、本炉実地検分を敢えて作為を以
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