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戸井町史
(三、戸井町商工会)
戸
井
町
史 / 三、
戸
井
町
商工会 昭和三十七年一月十日午後一時。,
戸
井
村役場会議室において出席者四十六名(本人出席二十八名、書面出席十八名)をもって、
戸
井
村商工会創立総会,二、議案 第一号
戸
井
村商工会定款の制定について 第二号
戸
井
村商工会昭和三六年度事業計画及,び収支予算の決定について 第三号
戸
井
村商工会会費賦課徴収方法について 第四号
戸
井
村商工会処務規定,の承認について 第五号
戸
井
村商工会給与及び旅費支給規定の承認について 第六号
戸
井
村商工会役員選任 / 三、
戸
井
町
商工会
戸井町史
([戸井町の戦没者])
戸
井
町
史 / [
戸
井
町
の戦没者]
戸
井
町
でも戦死、戦病死は日露戦争から始まり、亜港事変、満州事変、日支事変と何人かの,又戦没当時
戸
井
町
に居住していた遺族の中でも、諸種の事情で一家挙(こぞ)って他郷へ移住した人々もある。,現在まで遺族が
戸
井
町
に居住しているものを、戦没者名簿から拾い上げて見ると次の九十九名である。,現在の
戸
井
町
の発展、我が国の発展は、これらの貴い犠牲の上に打ち建てられたことを忘れてはなるまい。,忠魂碑(弁才
町
) / [
戸
井
町
の戦没者]
戸井町史
([戸井町の文化財])
戸
井
町
史 / [
戸
井
町
の文化財] 和人が始めて
戸
井
に渡来したのは「
戸
井
町
の沿革」で述べたように、松前家の始祖蠣崎信広,室
町
時代に
戸
井
館を中心として住み着いていた和人が、蝦夷の反乱によって滅び、その後和人無住時代が長い間続,過去四回の
町
文化祭に出品された文化財及び六ヶ年に亘って調査した主な文化財は次の通りである。 / [
戸
井
町
の文化財]
戸井町史
([戸井町の屋号調])
戸
井
町
史 / [
戸
井
町
の屋号調]
町
村に早くから住み着いた人々の家では、同一
町
村内に分家を出し、分家が更に分家を出,
戸
井
町
では、石田・伊藤・池田・宇美・吉田・境などの姓の家が多い。,
戸
井
町
の屋号は網羅(もうら)されているが、
戸
井
にはないが下海岸の
町
村にある屋号も若干含めた。,
戸
井
町
といっても、昔は汐首岬を境とした西部(小安、釜谷、汐首)と東部(瀬田来、弁才
町
、泊、館、鎌歌、原木,
戸
井
町
だけでなく、他
町
村への移動の少ない
町
村では、年代を経るにつれて、同族同姓の家が
町
村内に増加し、
町
村内 / [
戸
井
町
の屋号調]
戸井町史
(戸井町史の発刊にあたって)
戸
井
町
史 /
戸
井
町
史の発刊にあたって
戸
井
町
教育委員会教育長(
町
史編纂事務局長)堀田久善
戸
井
町
史の発刊にあたって,
戸
井
町
教育委員会教育長(
町
史編纂事務局長)堀田久善 郷土の歴史を知り、先人の遺業を偲んで、
戸
井
町
,(稿)」第一集から第四集および「
戸
井
町
史年表(稿)」を発刊されたのでした。 ,
町
史編纂の一環事業として郷土館を建設し、
戸
井
町
における先住民族の遺跡、先人の草創時代からの開拓の苦闘を,この
町
史が、広く
町
民に親しまれ愛読されて、
戸
井
町
の伸展の上に貢献せられるよう念願し、あわせて刊行に至る /
戸
井
町
史の発刊にあたって
戸井町史
(一、戸井町史刊行までの経過)
戸
井
町
史 / 一、
戸
井
町
史刊行までの経過 昭和三九・
戸
井
村教委が村史を編纂することをきめ、村内の有識者、,(一〇〇部 四三頁) 昭和四三・一〇
戸
井
町
史年表稿を刊行。,・ 一
戸
井
郷土誌稿第三集を刊行(二〇〇部 六八頁) 昭和四四・ 八
戸
井
郷土誌第四集を刊行,自叙伝『白菊』の読後感集『白菊の木霊(こだま)』を刊行(三〇〇部 八六頁) 郷土誌稿第四集刊行後「
戸
井
町
史,昭和四八・三・三一 初校、再校、三校を完了し、待望の『
戸
井
町
史』一千部を刊行した。 / 一、
戸
井
町
史刊行までの経過
戸井町史
((8)戸井町公共施設配置図)
戸
井
町
史 / (8)
戸
井
町
公共施設配置図 (8)
戸
井
町
公共施設配置図 / (8)
戸
井
町
公共施設配置図
戸井町史
(序 戸井町の輝かしい前途を祝して)
戸
井
町
史 / 序
戸
井
町
の輝かしい前途を祝して 北海道知事 堂垣内尚弘 序
戸
井
町
の輝かしい前途を祝して ,北海道知事 堂垣内尚弘 明治二年、
戸
長役場が設置されて以来一〇三年の輝かしい歴史を有する
戸
井
町
は、,
戸
井
町
は、総人口の七〇%が漁業に従事する純漁村として「魅力(みりょく)ある環境とゆとりのある漁業経営」,
戸
井
町
が、このように幾多の苦難を克服(こくふく)し、今日の発展をみるに至ったことは、厳(きび)しい風雪,このたび
戸
井
町
が開基百年を記念して、その歴史を明らかにするとともに、郷土建設に貢献(こうけん)した先人 / 序
戸
井
町
の輝かしい前途を祝して
戸井町史
(戸井町郷土史・干支年号の早見表)
戸
井
町
史 /
戸
井
町
郷土史・干支年号の早見表
戸
井
町
郷土史・干支年号の早見表(No.1)(1624~1713),
戸
井
町
郷土史・干支年号の早見表(No.2)(1714~1803)
戸
井
町
郷土史・干支年号,の早見表(No.3)(1804~1893)
戸
井
町
郷土史・干支年号の早見表(No.4)(1894 /
戸
井
町
郷土史・干支年号の早見表
戸井町史
(一、戸井郵便局)
戸
井
町
史 / 一、
戸
井
郵便局
戸
井
郵便局 明治 八、 三、一八
戸
井
郵便取扱所が開設され、池田彦九郎が取扱役,明治一五、 五
戸
井
郵便取扱所を
戸
井
郵便局と改称。,明治三六、 四
戸
井
郵便電信局を
戸
井
郵便局と改称した。,昭和一三、一一、一一
戸
井
村字釜谷の内石崎局に所属していた地域全部が
戸
井
郵便局の所管になった。,昭和四四、 九、一五 局舎が
戸
井
町
字館
町
一〇の三、一一の三番地に新築された(現局舎)。 / 一、
戸
井
郵便局
戸井町史
([戸井警察署])
戸
井
町
史 / [
戸
井
警察署] 現在の
戸
井
警察署
戸
井
警察署は、明治二十年(一八八七)五月亀田警察署の附属分署,)十一月、
戸
井
村字弁才澗の足達敬太郎宅に駐在所を設置して、瀬田来地域を受持たせた。,この時同時に
戸
井
村大字小安村字村中に、村中駐在所を設置して、汐首駐在所受持区域のうち字村中と釜谷区域を,、森警察署に転属になるまで、尾札部駐在所が
戸
井
分署に所属したのである。 ,警察行政一つを調査して見ても、昔の
戸
井
村は下海岸の中心
町
村であったことがわかる。 / [
戸
井
警察署]
戸井町史
((9)戸井町簡易水道給配水管配置図)
戸
井
町
史 / (9)
戸
井
町
簡易水道給配水管配置図 (9)
戸
井
町
簡易水道給配水管配置図 / (9)
戸
井
町
簡易水道給配水管配置図
戸井町史
([戸井高等学校])
戸
井
町
史 / [
戸
井
高等学校] 昭和二十八年四月一日、
戸
井
村立定時制高等学校が設立され、日新小学校に間借りして授業,昭和三十八年、熊別川の右岸、
戸
井
の沢に独立校舎が新築落成し、日新小学校から新校舎に移転した。,
戸
井
町
の学校の設置及び統廃合の変遷を図示すると、次のようになる。,[
戸
井
町
の学校の設置及び統廃合の変遷] PTAの設置 戦前は各学校毎に、学校教育を後援することを / [
戸
井
高等学校]
戸井町史
(一 戸井町出身の戦没者と遺族の氏名)
戸
井
町
史 / 一
戸
井
町
出身の戦没者と遺族の氏名 一
戸
井
町
出身の戦没者と遺族の氏名 戦没者 遺族 官等 氏名,派軍主長 飯田豊春 昭二〇、三、一七 硫黄島 飯田仙治 兄 浜
町
三〇二 陸軍上等兵 水
戸
伸蔵 昭一六,、九、三 宇都宮陸軍病院 水
戸
敬蔵 父 浜
町
七五 陸軍伍長 平田勝太郎 昭二〇、二、一 南洋群島メレヨン,陸軍伍長 武
井
常治 昭一四、八、一八 満州ノモンハン 武
井
常雄 兄 小安
町
五一 陸軍伍長 関谷幸男,長男 小安
町
海軍軍属 荒川松男 昭二〇、七、一五 青森県八
戸
市鮫港魚市場附近 荒川松市 兄 小安
町
一八 / 一
戸
井
町
出身の戦没者と遺族の氏名
戸井町史
(六、東戸井漁業協同組合)
戸
井
町
史 / 、
戸
井
漁業協同組合と原木漁業協同組合とが合併して、新しく東
戸
井
漁業協同組合を設立することになった。,事務所は本所を
戸
井
町
字館
町
二一番地(旧
戸
井
漁業協同組合)に、支所を
戸
井
町
字原木一四番地(旧原木漁業協同組合,昭和四〇、 五、 一 東
戸
井
漁業協同組合規約並びに東
戸
井
漁業協同組合定款が定められ、この日より施行された,昭和四四、 八、 五 東
戸
井
いか釣船団結成。,昭和四五、一二、一四 東
戸
井
漁協、
戸
井
西部漁協たこ入会操業協議会。 / 六、東
戸
井
漁業協同組合
戸井町史
(一、戸井警察署)
戸
井
町
史 / 一、
戸
井
警察署 年 月 日 西暦 沿革 明治二〇、 五、二〇 一八八七 庁令第五十三号,により、亀田警察署の附属分署として、
戸
井
分署が創設された。,明治二一、 三、 八 一八八八 庁令第十三号によって亀田警察署が廃止され、
戸
井
分署は七飯警察署に転属,大正一五、 七、 一 一九二六 庁令第七十四号によって
戸
井
分署が
戸
井
警察署になった 昭和一〇、 ,昔の
戸
井
警察署姿図(大正14年6月) / 一、
戸
井
警察署
戸井町史
(一、戸井の方言)
戸
井
町
史 / 一、
戸
井
の方言
戸
井
の住民の大多数は、東北地方からの移住者の子孫である。,したがって、
戸
井
方言はたいてい東北地方にも通ずる。,数年間に亘って集めた
戸
井
方言を、五十音順に並べ、その意味、転訛の経路等について簡単に解説したものを『
戸
井
,昔なつかしい
戸
井
の方言を採録するに当って、
戸
井
の方言が姿を消し、死滅することを惜しむものではない。,こういう考え方から死滅した
戸
井
方言も採録した。 / 一、
戸
井
の方言
戸井町史
(一、戸井漁業組合時代)
戸
井
町
史 / に出されており、更に明治三〇年九月二五日付で、亀田郡
戸
井
村字館鼻二三番地の梅原政治郎が
戸
井
町
字浜中の漁業組合頭取山崎金太郎,
戸
井
村漁業組合規約(明治三二年頃のもの)によれば 第一条 本組合ヲ
戸
井
村漁業組合ト称シ
戸
井
村在籍漁業者,明治三三年九月には
戸
井
町
字釜谷の〓吉田大吉が、多年組合業務に勉励した功により、亀田水産人営業組合(当時,専任の職員は書記としての斉藤幹太郎が一名で、その事務所は
戸
井
村役場内(
戸
井
村館鼻一番地)に置かれた。,小安漁業協同組合 東
戸
井
漁業協同組合
戸
井
西部漁業協同組合 [東
戸
井
漁業協同組合 / 一、
戸
井
漁業組合時代
戸井町史
([石器時代の戸井])
戸
井
町
史 / [石器時代の
戸
井
] 昔から
戸
井
町
の畑地の各所から石鏃(せきぞく)、石槍(せきそう)、石斧(せきふ)、,
戸
井
町
では繩文早期の遺跡や遺物はまだ発見されていないが、東
戸
井
漁業組合の背後の海岸段丘から、石錘がたくさん,
戸
井
町
では海岸段丘の下、即ち現在人家の建っている地域や道路になっている場所から出土する石器土器は殆んど,
戸
井
町
にも道南各地と同様に、数千年以前から石器や土器を作り、使用した人類が住み着いていたのである。,
戸
井
町
も恵山式時代から擦文式時代に移り、蝦夷時代に移行したのである。 / [石器時代の
戸
井
]
戸井町史
([戸井及び近隣町村の災害事件(明治以降)])
戸
井
町
史 / [
戸
井
及び近隣
町
村の災害事件(明治以降)] 明治以来今日まで、
戸
井
及び近隣
町
村に雪崩(なだれ)、火災,
戸
井
を含めた下海岸の昔の事件を年月日順に挙げて見ると次のようなものである。 ,⑤
戸
井
村役場の火事 明治四二、一、二四 ⑥小安の網子別(あごわか)れの殺傷事件 明治四二、一二、一九,⑦古武
井
、大滝の沢の大火 明治四三、四、一三 ⑧
戸
井
町
、弁才澗の大火 大正三、九、二九 ⑨汐首燈台官舎,、一、一六 ⑱日浦トンネル入口附近の土砂崩れ 昭和四七、六、二二 明治以降に下海岸の
戸
井
、尻岸内 / [
戸
井
及び近隣
町
村の災害事件(明治以降)]
戸井町史
(二、戸井と鹿)
戸
井
町
史 / 二、
戸
井
と鹿
戸
井
の石器時代の遺跡を発堀すると、土器や石器と共に必ず、鹿の角(つの)や骨が出土する。,大昔から
戸
井
に鹿が棲息していたことは、遺跡から出土した角や骨でわかるが、「鹿は明治時代にも
戸
井
にたくさん,
戸
井
の古老は、「昔は
戸
井
でも、川原や海岸に鹿がたくさん来て遊んでいた」とか、「鹿が泳いで海を渡った」などと,
戸
井
の古老たちが、「
戸
井
の山々の峰伝いにさくさんの鹿が来た」とか「海岸や熊別川の川原に鹿が来て遊んでいた,三月下旬迫田さんを案内して
戸
井
までの海岸で鴨打ちをしながら館
町
の私の家へ一泊し、翌朝鹿打ちに出かけた。 / 二、
戸
井
と鹿
戸井町史
([戸井の鳥類])
戸
井
町
史 / 春から秋まで植物採集に、
戸
井
の山野を歩き廻ると、こんな珍らしい鳥も
戸
井
にいるのかと思う位、いろいろな鳥,
戸
井
で繁殖し、
戸
井
附近より移動しない留鳥(りゅうちょう)、
戸
井
で栄巣(えいそう)して繁殖(はんしょく),雪が降るようになるとウミウがたくさん
戸
井
の海に渡って来て、沿岸の岩礁や武
井
の島の岩壁で羽を休める。,
戸
井
近海でこの鳥を見るのはこの頃である。 ,
戸
井
の鳥類の分類(留鳥45種、渡り鳥113種 計168種)
戸
井
の鳥類の分類(1)
戸
井
/ [
戸
井
の鳥類]
戸井町史
(三、戸井に移住した人々)
戸
井
町
史 / 三、
戸
井
に移住した人々 現在
戸
井
に居住している人々は、何代か前に本州或は道南各地から移住した人々の子孫,南部のうちでも
戸
井
の対岸である大間、佐
井
、風間浦、大畑、東通(ひがしどおり)などの
町
村からの移住者が最,④本州の二男、三男が景気のよい
戸
井
に来て、一旗あげて故郷へ帰ろうと考え、暮しているうちに
戸
井
に土着したという,大体以上の事情や動機で
戸
井
に定住し、その子孫が
戸
井
に繁殖したのである。 ,が出、隣接
町
村や本州の出身地などから嫁をもらいなどして次第に
戸
口が増加して、今日の
戸
井
町
に発展したのである / 三、
戸
井
に移住した人々
戸井町史
([戸井の冷泉])
戸
井
町
史 / [
戸
井
の冷泉] ①小安の冷泉 タカヤシキ川の川口近くの波打際に、昔から冷泉が湧いており、ヤケド,この外カネシタの浜にも硫黄泉らしい冷泉が湧いており、
戸
井
川の流域で黄銅鉱を堀った時の飯場のあった附近にも,
戸
井
は那須火山脈が通っており、コブタからカネシタまでの海岸ぶちの岩石や地層の各所に溶岩流の痕跡があり、,
戸
井
の東方恵山周辺に数ケ所に温泉があり、西方には根崎、湯の川にも温泉があり、北方の陰海岸では川汲、磯谷,このように温泉脈に狭まれた
戸
井
地域なので、温泉湧出の可能性があるものと思われる。 / [
戸
井
の冷泉]
戸井町史
(7 戸井高等学校沿革概要)
戸
井
町
史 / 7
戸
井
高等学校沿革概要 北海道
戸
井
高等学校校歌 一、波ひかる 津軽海峡 青春の いのち,]
戸
井
高等学校 一、創立年月日 昭和二十八年四月一日 二、設置経緯 ,
戸
井
村を中心とするいわゆる「下海岸地方」は、地理的、資源的関係から住民のほとんどが水産業を営んでいる。,北海道亀田郡
戸
井
町
字浜
町
八六六番地 四、沿革の概要 昭和二十八年四月一日 北海道
戸
井
高等学校,七平方米) 請負金額(一二、五一〇、〇〇〇円) 請負担当(株式会社 田畑建設) 位置
戸
井
町
字浜
町
八六六 / 7
戸
井
高等学校沿革概要
戸井町史
(二、戸井村商業組合)
戸
井
町
史 / 二、
戸
井
村商業組合
戸
井
商工会館 昭和十一年、北海道庁の命により、渡島支庁に八ケ所の商業組合,第一配給所(浜
町
) 能美 武 第二配給所(館
町
) 吉田 兼松 第三配給所(汐首
町
) 渡辺, 鉄太郎 第四配給所(釜谷
町
) 森 富雄 第五配給所(小安
町
) 滝山田 成功 また地域の実情,瀬田来支所 尾本 宗蔵 原木 支所 佐藤 英男 事務所は弁才
町
〓久米宅があてられた,組合長や渡島理事長(落合氏)他数名は、直接道庁に出かけ、特別物資の受給を願うため出張し大量の支給を受け、
町
民 / 二、
戸
井
村商業組合
戸井町史
([戸井要塞と鉄道工事])
戸
井
町
史 / [
戸
井
要塞と鉄道工事] 昔の地図を見ると、五稜郭を分岐点とした鉄道予定線が
戸
井
まで画かれている。,線路を敷くばかりになっていた鉄道敷地も、関係の市と
町
に払下げられてしまった。,、更に函館から三十粁に満たない路線工事であったが、幾多の川や谷があり、特に汐首、瀬田来、弁才
町
までの区間,
戸
井
要寒の跡(1)
戸
井
要寒の跡(2)
戸
井
要寒の跡(3)
戸
井
要寒の跡,戦争末期の艦載機の銃爆撃は、
戸
井
が要塞であったために、他の
町
村より激しかったが、一発の砲弾も発射しなかった / [
戸
井
要塞と鉄道工事]
戸井町史
([戸井の医療機関の沿革])
戸
井
町
史 / 開拓使
戸
井
出張所長大島鼎(かなえ)の主唱で、明治五年十一月、公立
戸
井
病院の一室に私立
戸
井
教育所が開設された,
町
立診療所(小安) 13 上磯保健所
戸
井
支所 昭和二十三年六月十日、上磯保健所
戸
井
支所,昭和二十六年ここに日新中学校の新校舎が建築されることになり、
戸
井
村当局が運動し、浜
町
の金沢藤吉所有の土地,上磯保健所
戸
井
支所跡 14 歯科医について 現在
町
内には歯科医がなく、住民の歯の診療,は、函館市や尻岸内
町
国保病院で行っているが、昔は
戸
井
にも歯科の開業医がいた。 / [
戸
井
の医療機関の沿革]
戸井町史
([戸井の地名考])
戸
井
町
史 / 昔からいい伝えられている
戸
井
町
の地名は、北海道各地の地名と同じように、殆(ほと)んど蝦夷(えぞ)が名づけたものである,
戸
井
町
の地名で学者が書いていないものまでも調べ、その地名の考証をして見た。,
戸
井
町
の地名も①近世になって和人がつけたことの明らかなもの②蝦夷がつけたことの明らかなもの③蝦夷語か和語,この教育所が公立
戸
井
学校の前身である。
戸
井
町
教育の発祥地である。,現在、弁才
町
(昔の弁才澗)に注ぐ川を
戸
井
川と称しているが、トイの地名の場所は、
戸
井
川でも、熊別坂でもない / [
戸
井
の地名考]
戸井町史
([戸井の鰮漁の沿革])
戸
井
町
史 / [
戸
井
の鰮漁の沿革]
戸
井
の鰮の豊漁は、明治三十三年(一九〇〇)から大正時代を経て、昭和十四年(一九三九,「鰮といいば
戸
井
、
戸
井
といいば鰮」と
戸
井
の名が鰮の代名詞のように、全国に喧伝(けんでん)されたのである,昔の館鼻、今の館
町
には、大宣寺、大隆寺、法泉寺という三つの寺院が並んで建っているが、この寺は三つとも
戸
井
,(館
町
河村武男提供) (2)秋鰮鰤漁の入稼(いりかせ)ぎ漁夫の寄留届
戸
井
で鰮の大漁が続,後志国岩内郡御鉾内
町
百番地 三
井
林太郎 安政四年正月二十四日生 / [
戸
井
の鰮漁の沿革]
戸井町史
((三)戸井の植物誌)
戸
井
町
史 / (三)
戸
井
の植物誌 6年間に亘って、調査した
戸
井
地域の植物を「
戸
井
の植物誌」としてまとめて見た。,しだ植物と菌植物は
戸
井
に分布するもののうち、代表的なものを若干挙げることにした。 ,「
戸
井
植物誌」は、主に「牧野、新日本植物図鑑」の分類にしたがって記述した。 ,
戸
井
の植物誌 一、 しだ植物 一、しだ植物 二、裸子植物 二、裸子植物 三、,の植物の方言名と和名対照表
戸
井
地域の植物の方言名と和名対照表(1)
戸
井
地域の植物の / (三)
戸
井
の植物誌
戸井町史
([戸井の海棲動物と海藻類])
戸
井
町
史 / [
戸
井
の海棲動物と海藻類]
戸
井
海域は、暖流と寒流の接触するところで、魚類や海藻類の豊富な海である。,この外、瀬田来と弁才
町
の一部で多くとれるテングサは、渡島管内で第一位の産額を誇っている。 ,漁民は、コンブとイカ漁が終ると、翌年の昆布取まで約半年の間、本州方面に出稼ぎに行くという、労務者供給の
町
と,このカニは夏の日ぐれから、浜
町
の沿岸に寄って来る。,次に
戸
井
で漁獲される主な魚類、
戸
井
の沿岸海域に棲息する動物類、
戸
井
の沿岸に分布する海藻類の主なものを挙 / [
戸
井
の海棲動物と海藻類]
戸井町史
(二、戸井への和人の定着)
戸
井
町
史 / 二、
戸
井
への和人の定着
戸
井
に最初に来た和人は「文治五年(一一八九)五月藤原泰衡の謀反によって滅びた,岡部氏が
戸
井
に館を築いたのもこの頃であろうと推定される。,岡部季澄は岡部六弥太六代の孫であるので、季澄の父、或は祖父の時代から
戸
井
に来たものとすれば、
戸
井
の館も,現在岡部
町
の史蹟の一つとして岡部一族の墓地がある。,そして小安以東の釜谷、汐首、瀬田来、
戸
井
、鎌歌、原木、日浦、尻岸内、古武
井
、根田内、椴法華などの部落は / 二、
戸
井
への和人の定着
戸井町史
([戸井町、町内会別世帯主調(昭和四六、一二、三一現在)])
戸
井
町
史 / [
戸
井
町
、
町
内会別世帯主調(昭和四六、一二、三一現在)]
町
内会別世帯数 一、小安
町
(1),一、小安
町
(2) 一、小安
町
(3) 一、小安
町
(4) 計 二八,〇世帯 二、釜谷
町
(1) 二、釜谷
町
(2) 二、釜谷
町
(3) ,四、瀬田来
町
(2) 計 一一〇世帯 五、弁才
町
(1) 五、弁才
町
,九、東浜
町
(1) 九、東浜
町
(2) 計 一四〇世帯 十、二見
町
/ [
戸
井
町
、
町
内会別世帯主調(昭和四六、一二、三一現在)]
戸井町史
(五、戸井町の商工業者一覧(昭和四七年四月一日現在))
戸
井
町
史 / 五、
戸
井
町
の商工業者一覧(昭和四七年四月一日現在) 小安
町
釜谷
町
汐首
町
,瀬田来
町
弁才
町
泊
町
館
町
浜
町
原木
町
/ 五、
戸
井
町
の商工業者一覧(昭和四七年四月一日現在)
戸井町史
([戸井漁業協同組合の沿革])
戸
井
町
史 / [
戸
井
漁業協同組合の沿革]
戸
井
町
の漁業協同組合の沿革については、比較的新しい時代の資料より入手が困難,そもそも
戸
井
町
の漁業は本州下北半島を指呼の間に望み、箱館(函館)を下ること僅か二九キロメートルという地理的立地条件 / [
戸
井
漁業協同組合の沿革]
戸井町史
(四、戸井漁業協同組合(有限責任))
戸
井
町
史 / 四、
戸
井
漁業協同組合(有限責任) 昭和二四、 六、一四
戸
井
漁業協同設立総会を開く。,組合長理事 伊藤 直人 理 事 丹羽 和八(館
町
) 水
戸
忠太郎(浜
町
) ,金沢 久之助(浜
町
) 昭和二四、 六、二五
戸
井
漁業協同組合設立発起人の伊藤直人他四九名が同組合設立,出資者は四七三名で、弁才
町
、泊
町
、館
町
、浜
町
の漁家をもって組織された。 ,登記の目的―
戸
井
漁業協同組合設立登記 登記の年月日―昭和二四年七月九日 事務所―亀田郡
戸
井
村字館
町
二一番地 / 四、
戸
井
漁業協同組合(有限責任)
戸井町史
(二、戸井の方言とその解説)
戸
井
町
史 / 二、
戸
井
の方言とその解説 二、
戸
井
の方言とその解説(1) 二、
戸
井
の方言とその解説(2),二、
戸
井
の方言とその解説(3) 二、
戸
井
の方言とその解説(4) 二、
戸
井
の,方言とその解説(5) (註)植物名の方言の大半は第一章第四節
戸
井
の植物の項の「植物の方言名と和名 / 二、
戸
井
の方言とその解説
戸井町史
(八、戸井西部漁業協同組合)
戸
井
町
史 / 八、
戸
井
西部漁業協同組合
戸
井
漁業会の解散により、昭和二四年七月一日、
戸
井
村字釜谷、
戸
井
村字汐首、
戸
井
村字瀬田来,の三部落をもって
戸
井
西部漁業協業組合が設立された。 ,当時の組合員は三五〇名で、当初は
戸
井
村字小安の部落をも含め、釜谷・汐首・瀬田来の四部落をもって
戸
井
西部漁業協同組合設立,事務所は
戸
井
村字釜谷に本所を置き、
戸
井
村字汐首と
戸
井
村字瀬田来の二ケ所に支所を設置した。 ,全
町
で死者一三名ほか漁船一八隻が沈没、大小破等の損害をうける。 / 八、
戸
井
西部漁業協同組合
戸井町史
((二)戸井の地質構造と岩石)
戸
井
町
史 / (二)
戸
井
の地質構造と岩石 1、
戸
井
の古生層 古生層の露出している地域とその状態 (1),変成岩の板状節理(瀬田来) 2、
戸
井
の第三紀層
戸
井
地域の第三紀層の岩石は、灰色硅質頁岩,3、
戸
井
の火成岩層
戸
井
地域の火成岩は、第三紀層を被覆(ひふく)して、最も広範囲に分布している。,尻岸内
町
のメノコナイに、メノコナイ式安山岩と称せられる安山岩が露出しているが、この安山岩は古武
井
にも分布,ハ、尻岸内
町
、古武
井
川の谷 古武
井
川の谷に緻密(ちみつ)な流紋岩の露出がある。 / (二)
戸
井
の地質構造と岩石
戸井町史
([戸井の水産物の種類・漁期・漁法])
戸
井
町
史 / [
戸
井
の水産物の種類・漁期・漁法]
戸
井
が繁栄した時代の漁獲物は、イワシ、マグロ、ブリが主体であり、,然し
戸
井
の黄金時代を築いたイワシ漁もなくなり、マグロやブリ漁も昔の面影がなくなり、一攫千金という漁業は,それらの人々は、昆布漁とイカ漁が終ると殆んど
町
外に出、正月過ぎると
町
には若い男の人がいないという期間が,漁獲の多少にかかわらず、
戸
井
町
の沿岸或は近海で漁獲されるものの種類、漁期、漁具、漁法などのあらましを述 / [
戸
井
の水産物の種類・漁期・漁法]
戸井町史
([戸井の魚の根について])
戸
井
町
史 / [
戸
井
の魚の根について] 魚類には餌を求め、或は産卵場所を求めて大洋を回遊するものと、同じ理由で沖合,
戸
井
で魚をとるための目標の山は「丸山」である。,この根は泊
町
の〓佐藤豊次が昭和二十五、六年頃発見した根である。,
戸
井
沖の魚の根の概要は次の略図の通りである。,これらの根は、
戸
井
の漁師が長年に亘ってさぐり当てたものである。
戸
井
沖の魚の根の略図 / [
戸
井
の魚の根について]
戸井町史
(一、戸井と狼)
戸
井
町
史 / 一、
戸
井
と狼 エゾオオカミ 昔下海岸地方でも、子どもをおどしたり、泣く子をだまらせるのに、「,この頃は
戸
井
地方にも狼が出没し「オオカミがくるぞ」といって泣く子をだましたものと思われる。 ,
戸
井
には昔から下北の人々が移住したので、子や孫に故郷下北の狼の話を語り聞かせたものである。 / 一、
戸
井
と狼
戸井町史
(六、戸井警察署の歴代署長)
戸
井
町
史 / 六、
戸
井
警察署の歴代署長 六、
戸
井
警察署の歴代署長 / 六、
戸
井
警察署の歴代署長
戸井町史
(一、戸井の館とその伝説)
戸
井
町
史 / 一、
戸
井
の館とその伝説 コシャマインの乱の頃、
戸
井
の館鼻(たてはな)に和人の館があったという言い伝えがあるが,村に残っている記録としては、明治十三年頃に書かれたものに 「登記所は函館区裁判所
戸
井
出張所にして、,古文書に「
戸
井
の運上屋」と書かれているのはここである。,の中に金銀財宝を投じ、大きな石で
井
戸
に蓋(ふた)をし、兵と共に自刃して果てた。 ,伝説の
井
戸
はこのあたりにあったものと思われる。 / 一、
戸
井
の館とその伝説
戸井町史
(五、警察の見た戸井村(原文のまま))
戸
井
町
史 / 五、警察の見た
戸
井
村(原文のまま) (1)人情風俗の変遷及び良否 当部内は毎年内地府県、本道各地,(2)
町
村睦否の状况
戸
井
村は一致共同の美風に乏しく、兎角(とかく)意志の疎通(そつう)を欠き、甲,殊に
戸
井
村字釜谷対村中(むらなか)(字小安の旧称)の両部落は、明治四十一年八月中、昆布採取上の紛争事件以来互,「註」これは大正十二年に
戸
井
分署長高橋雄治警部補が書いたもので、鰮大漁時代の
戸
井
村の人情風俗をうかがうことができる,又
戸
井
西部の小安釜谷の不和は明治時代からで、特に昆布採取についての紛争は大小幾度もあったが、歴史に残るような / 五、警察の見た
戸
井
村(原文のまま)
戸井町史
(十七、戸井の海難事件(昭和三十八年))
戸
井
町
史 / 十七、
戸
井
の海難事件(昭和三十八年) 昭和三十八年(一九六三)一月十六日、
戸
井
の漁船がヒカタ(南西風,タコやババガレイの好漁が続いていたので、
戸
井
の漁師は一斉に出漁した。,経験の深い漁師は、ヒカタの突風の避難場所を心得ているので、小安、釜谷、汐首の船でも
戸
井
漁港や日浦方面に,
戸
井
漁港を目ざして避難した船のうち、三隻が浜
町
沿岸と
戸
井
漁港の港口附近で遭難して、死者七名を出した。,釜谷
町
) 「アイ(北東風)の朝なぎ、クダリ(南風)の夜なぎ、情知らずの西ヒカタ(南西風)」と
戸
井
/ 十七、
戸
井
の海難事件(昭和三十八年)
戸井町史
(三、『新発見の板碑(いたび)(戸井町)』 須藤 隆仙)
戸
井
町
史 / 三、『新発見の板碑(いたび)(
戸
井
町
)』 須藤 隆仙 はじめに 昨昭和四十三年春、下海岸志海苔,(しのり)
町
で大量の古銭が発見されて人々を驚ろかしたが、秋にはまた
戸
井
(とい)
町
から板碑(いたび)が発見,を惑わすような意見が堂々と新聞紙上に発表されたりしたため(北海道新聞S43・12・14付、白山友正『
戸
井
町
板碑,板碑発見の経緯 昨年
町
制のしかれた亀田郡
戸
井
町
では、
町
史を編纂中である。,ところが
戸
井
町
のこのB碑は左図のようになっている。 / 三、『新発見の板碑(いたび)(
戸
井
町
)』 須藤 隆仙
戸井町史
(二、戸井無限責任漁業協同組合(漁業会も含む))
戸
井
町
史 /
戸
井
に於いては、北海道条例にもとづいて昭和八年八月二〇日に
戸
井
無限責任漁業協同組合が設立された。 ,組合員は漁業に従事する者の強制加入方式で、
戸
井
村字小安、釜谷、汐首、瀬田来、弁才澗、横泊、館鼻、浜
町
、,敬蔵(浜
町
地区) 永
井
繁太(小安地区) 右の役員が選出された昭和八年二,事務所は
戸
井
漁業組合より引続き
戸
井
村役場庁舎の一隅にあったが、昭和一六年に根崎にあった亀田郡水産会の建物,を購入し、解体して
戸
井
町
字館
町
二一番地に移転し事務所にあてた。 / 二、
戸
井
無限責任漁業協同組合(漁業会も含む)
戸井町史
([戸井と近隣の変遷])
戸
井
町
史 / [
戸
井
と近隣の変遷] 古い時代の
戸
井
の変遷については、
戸
井
に残っている記録がないので、くわしいことはわからないが,寛政元年七月に、菅江真澄は
戸
井
の運上屋に五泊もしているので、「
戸
井
館の伝説」などもくわしく採録したものと,寺社
町
家およそ三、四百軒。,古文書十二を選んで、年代の順に並べて隣接
町
村或は蔭海岸の分も含めて採録した。,安政年間に
戸
井
の
戸
数、人口はふえていない。 / [
戸
井
と近隣の変遷]
/ 19ページ