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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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戸井町史 (三、戸井町商工会)

戸井町史 / 三、戸井町商工会 昭和三十七年一月十日午後一時。,戸井村役場会議室において出席者四十六名(本人出席二十八名、書面出席十八名)をもって、戸井村商工会創立総会,二、議案   第一号 戸井村商工会定款の制定について   第二号 戸井村商工会昭和三六年度事業計画及,び収支予算の決定について   第三号 戸井村商工会会費賦課徴収方法について   第四号 戸井村商工会処務規定,の承認について   第五号 戸井村商工会給与及び旅費支給規定の承認について   第六号 戸井村商工会役員選任 / 三、戸井町商工会
戸井町史 ([戸井町の戦没者])

戸井町史 / [戸井町の戦没者] 戸井町でも戦死、戦病死は日露戦争から始まり、亜港事変、満州事変、日支事変と何人かの,又戦没当時戸井町に居住していた遺族の中でも、諸種の事情で一家挙(こぞ)って他郷へ移住した人々もある。,現在まで遺族が戸井町に居住しているものを、戦没者名簿から拾い上げて見ると次の九十九名である。,現在の戸井町の発展、我が国の発展は、これらの貴い犠牲の上に打ち建てられたことを忘れてはなるまい。,忠魂碑(弁才町) / [戸井町の戦没者]
戸井町史 ([戸井町の文化財])

戸井町史 / [戸井町の文化財] 和人が始めて戸井に渡来したのは「戸井町の沿革」で述べたように、松前家の始祖蠣崎信広,室町時代に戸井館を中心として住み着いていた和人が、蝦夷の反乱によって滅び、その後和人無住時代が長い間続,過去四回の町文化祭に出品された文化財及び六ヶ年に亘って調査した主な文化財は次の通りである。 / [戸井町の文化財]
戸井町史 ([戸井町の屋号調])

戸井町史 / [戸井町の屋号調] 町村に早くから住み着いた人々の家では、同一町村内に分家を出し、分家が更に分家を出,戸井町では、石田・伊藤・池田・宇美・吉田・境などの姓の家が多い。,戸井町の屋号は網羅(もうら)されているが、戸井にはないが下海岸の町村にある屋号も若干含めた。,戸井町といっても、昔は汐首岬を境とした西部(小安、釜谷、汐首)と東部(瀬田来、弁才町、泊、館、鎌歌、原木,戸井町だけでなく、他町村への移動の少ない町村では、年代を経るにつれて、同族同姓の家が町村内に増加し、町村内 / [戸井町の屋号調]
戸井町史 (戸井町史の発刊にあたって)

戸井町史 / 戸井町史の発刊にあたって 戸井町教育委員会教育長(町史編纂事務局長)堀田久善 戸井町史の発刊にあたって,  戸井町教育委員会教育長(町史編纂事務局長)堀田久善  郷土の歴史を知り、先人の遺業を偲んで、戸井町,(稿)」第一集から第四集および「戸井町史年表(稿)」を発刊されたのでした。  ,町史編纂の一環事業として郷土館を建設し、戸井町における先住民族の遺跡、先人の草創時代からの開拓の苦闘を,この町史が、広く町民に親しまれ愛読されて、戸井町の伸展の上に貢献せられるよう念願し、あわせて刊行に至る / 戸井町史の発刊にあたって
戸井町史 (一、戸井町史刊行までの経過)

戸井町史 / 一、戸井町史刊行までの経過 昭和三九・    戸井村教委が村史を編纂することをきめ、村内の有識者、,(一〇〇部 四三頁)    昭和四三・一〇  戸井町史年表稿を刊行。,・ 一  戸井郷土誌稿第三集を刊行(二〇〇部 六八頁)    昭和四四・ 八  戸井郷土誌第四集を刊行,自叙伝『白菊』の読後感集『白菊の木霊(こだま)』を刊行(三〇〇部 八六頁)   郷土誌稿第四集刊行後「戸井町史,昭和四八・三・三一   初校、再校、三校を完了し、待望の『戸井町史』一千部を刊行した。 / 一、戸井町史刊行までの経過
戸井町史 ((8)戸井町公共施設配置図)

戸井町史 / (8)戸井町公共施設配置図 (8)戸井町公共施設配置図 / (8)戸井町公共施設配置図
戸井町史 (序 戸井町の輝かしい前途を祝して)

戸井町史 / 序 戸井町の輝かしい前途を祝して 北海道知事 堂垣内尚弘 序 戸井町の輝かしい前途を祝して  ,北海道知事 堂垣内尚弘  明治二年、戸長役場が設置されて以来一〇三年の輝かしい歴史を有する戸井町は、,戸井町は、総人口の七〇%が漁業に従事する純漁村として「魅力(みりょく)ある環境とゆとりのある漁業経営」,戸井町が、このように幾多の苦難を克服(こくふく)し、今日の発展をみるに至ったことは、厳(きび)しい風雪,このたび戸井町が開基百年を記念して、その歴史を明らかにするとともに、郷土建設に貢献(こうけん)した先人 / 序 戸井町の輝かしい前途を祝して
戸井町史 (戸井町郷土史・干支年号の早見表)

戸井町史 / 戸井町郷土史・干支年号の早見表 戸井町郷土史・干支年号の早見表(No.1)(1624~1713),戸井町郷土史・干支年号の早見表(No.2)(1714~1803) 戸井町郷土史・干支年号,の早見表(No.3)(1804~1893) 戸井町郷土史・干支年号の早見表(No.4)(1894 / 戸井町郷土史・干支年号の早見表
戸井町史 (一、戸井郵便局)

戸井町史 / 一、戸井郵便局 戸井郵便局 明治 八、 三、一八 戸井郵便取扱所が開設され、池田彦九郎が取扱役,明治一五、 五    戸井郵便取扱所を戸井郵便局と改称。,明治三六、 四    戸井郵便電信局を戸井郵便局と改称した。,昭和一三、一一、一一 戸井村字釜谷の内石崎局に所属していた地域全部が戸井郵便局の所管になった。,昭和四四、 九、一五 局舎が戸井町字館町一〇の三、一一の三番地に新築された(現局舎)。 / 一、戸井郵便局
戸井町史 ([戸井警察署])

戸井町史 / [戸井警察署] 現在の戸井警察署  戸井警察署は、明治二十年(一八八七)五月亀田警察署の附属分署,)十一月、戸井村字弁才澗の足達敬太郎宅に駐在所を設置して、瀬田来地域を受持たせた。,この時同時に戸井村大字小安村字村中に、村中駐在所を設置して、汐首駐在所受持区域のうち字村中と釜谷区域を,、森警察署に転属になるまで、尾札部駐在所が戸井分署に所属したのである。  ,警察行政一つを調査して見ても、昔の戸井村は下海岸の中心町村であったことがわかる。   / [戸井警察署]
戸井町史 ([戸井高等学校])

戸井町史 / [戸井高等学校] 昭和二十八年四月一日、戸井村立定時制高等学校が設立され、日新小学校に間借りして授業,昭和三十八年、熊別川の右岸、戸井の沢に独立校舎が新築落成し、日新小学校から新校舎に移転した。,戸井町の学校の設置及び統廃合の変遷を図示すると、次のようになる。,[戸井町の学校の設置及び統廃合の変遷]  PTAの設置  戦前は各学校毎に、学校教育を後援することを / [戸井高等学校]
戸井町史 ((9)戸井町簡易水道給配水管配置図)

戸井町史 / (9)戸井町簡易水道給配水管配置図 (9)戸井町簡易水道給配水管配置図 / (9)戸井町簡易水道給配水管配置図
戸井町史 (一 戸井町出身の戦没者と遺族の氏名)

戸井町史 / 一 戸井町出身の戦没者と遺族の氏名 一 戸井町出身の戦没者と遺族の氏名 戦没者 遺族 官等 氏名,派軍主長 飯田豊春 昭二〇、三、一七 硫黄島 飯田仙治 兄 浜町三〇二 陸軍上等兵 水戸伸蔵 昭一六,、九、三 宇都宮陸軍病院 水戸敬蔵 父 浜町七五 陸軍伍長 平田勝太郎 昭二〇、二、一 南洋群島メレヨン,陸軍伍長 武井常治 昭一四、八、一八 満州ノモンハン 武井常雄 兄 小安町五一 陸軍伍長 関谷幸男,長男 小安町 海軍軍属 荒川松男 昭二〇、七、一五 青森県八戸市鮫港魚市場附近 荒川松市 兄 小安町一八 / 一 戸井町出身の戦没者と遺族の氏名
戸井町史 (六、東戸井漁業協同組合)

戸井町史 / 、戸井漁業協同組合と原木漁業協同組合とが合併して、新しく東戸井漁業協同組合を設立することになった。,事務所は本所を戸井町字館町二一番地(旧戸井漁業協同組合)に、支所を戸井町字原木一四番地(旧原木漁業協同組合,昭和四〇、 五、 一  東戸井漁業協同組合規約並びに東戸井漁業協同組合定款が定められ、この日より施行された,昭和四四、 八、 五  東戸井いか釣船団結成。,昭和四五、一二、一四  東戸井漁協、戸井西部漁協たこ入会操業協議会。 / 六、東戸井漁業協同組合
戸井町史 (一、戸井警察署)

戸井町史 / 一、戸井警察署 年  月  日    西暦     沿革 明治二〇、 五、二〇  一八八七  庁令第五十三号,により、亀田警察署の附属分署として、戸井分署が創設された。,明治二一、 三、 八  一八八八  庁令第十三号によって亀田警察署が廃止され、戸井分署は七飯警察署に転属,大正一五、 七、 一  一九二六  庁令第七十四号によって戸井分署が戸井警察署になった 昭和一〇、 ,昔の戸井警察署姿図(大正14年6月) / 一、戸井警察署
戸井町史 (一、戸井の方言)

戸井町史 / 一、戸井の方言 戸井の住民の大多数は、東北地方からの移住者の子孫である。,したがって、戸井方言はたいてい東北地方にも通ずる。,数年間に亘って集めた戸井方言を、五十音順に並べ、その意味、転訛の経路等について簡単に解説したものを『戸井,昔なつかしい戸井の方言を採録するに当って、戸井の方言が姿を消し、死滅することを惜しむものではない。,こういう考え方から死滅した戸井方言も採録した。 / 一、戸井の方言
戸井町史 (一、戸井漁業組合時代)

戸井町史 / に出されており、更に明治三〇年九月二五日付で、亀田郡戸井村字館鼻二三番地の梅原政治郎が戸井町字浜中の漁業組合頭取山崎金太郎,戸井村漁業組合規約(明治三二年頃のもの)によれば    第一条 本組合ヲ戸井村漁業組合ト称シ戸井村在籍漁業者,明治三三年九月には戸井町字釜谷の〓吉田大吉が、多年組合業務に勉励した功により、亀田水産人営業組合(当時,専任の職員は書記としての斉藤幹太郎が一名で、その事務所は戸井村役場内(戸井村館鼻一番地)に置かれた。,小安漁業協同組合 東戸井漁業協同組合 戸井西部漁業協同組合 [東戸井漁業協同組合 / 一、戸井漁業組合時代
戸井町史 ([石器時代の戸井])

戸井町史 / [石器時代の戸井] 昔から戸井町の畑地の各所から石鏃(せきぞく)、石槍(せきそう)、石斧(せきふ)、,戸井町では繩文早期の遺跡や遺物はまだ発見されていないが、東戸井漁業組合の背後の海岸段丘から、石錘がたくさん,戸井町では海岸段丘の下、即ち現在人家の建っている地域や道路になっている場所から出土する石器土器は殆んど,戸井町にも道南各地と同様に、数千年以前から石器や土器を作り、使用した人類が住み着いていたのである。,戸井町も恵山式時代から擦文式時代に移り、蝦夷時代に移行したのである。 / [石器時代の戸井]
戸井町史 (二、戸井と鹿)

戸井町史 / 二、戸井と鹿 戸井の石器時代の遺跡を発堀すると、土器や石器と共に必ず、鹿の角(つの)や骨が出土する。,大昔から戸井に鹿が棲息していたことは、遺跡から出土した角や骨でわかるが、「鹿は明治時代にも戸井にたくさん,戸井の古老は、「昔は戸井でも、川原や海岸に鹿がたくさん来て遊んでいた」とか、「鹿が泳いで海を渡った」などと,戸井の古老たちが、「戸井の山々の峰伝いにさくさんの鹿が来た」とか「海岸や熊別川の川原に鹿が来て遊んでいた,三月下旬迫田さんを案内して戸井までの海岸で鴨打ちをしながら館町の私の家へ一泊し、翌朝鹿打ちに出かけた。 / 二、戸井と鹿
戸井町史 ([戸井及び近隣町村の災害事件(明治以降)])

戸井町史 / [戸井及び近隣町村の災害事件(明治以降)] 明治以来今日まで、戸井及び近隣町村に雪崩(なだれ)、火災,戸井を含めた下海岸の昔の事件を年月日順に挙げて見ると次のようなものである。  ,⑤戸井村役場の火事 明治四二、一、二四 ⑥小安の網子別(あごわか)れの殺傷事件 明治四二、一二、一九,⑦古武井、大滝の沢の大火 明治四三、四、一三 ⑧戸井町、弁才澗の大火 大正三、九、二九 ⑨汐首燈台官舎,、一、一六 ⑱日浦トンネル入口附近の土砂崩れ 昭和四七、六、二二    明治以降に下海岸の戸井、尻岸内 / [戸井及び近隣町村の災害事件(明治以降)]
戸井町史 ([戸井の鳥類])

戸井町史 / 春から秋まで植物採集に、戸井の山野を歩き廻ると、こんな珍らしい鳥も戸井にいるのかと思う位、いろいろな鳥,戸井で繁殖し、戸井附近より移動しない留鳥(りゅうちょう)、戸井で栄巣(えいそう)して繁殖(はんしょく),雪が降るようになるとウミウがたくさん戸井の海に渡って来て、沿岸の岩礁や武井の島の岩壁で羽を休める。,戸井近海でこの鳥を見るのはこの頃である。  ,戸井の鳥類の分類(留鳥45種、渡り鳥113種 計168種) 戸井の鳥類の分類(1) 戸井 / [戸井の鳥類]
戸井町史 ([戸井の冷泉])

戸井町史 / [戸井の冷泉] ①小安の冷泉   タカヤシキ川の川口近くの波打際に、昔から冷泉が湧いており、ヤケド,この外カネシタの浜にも硫黄泉らしい冷泉が湧いており、戸井川の流域で黄銅鉱を堀った時の飯場のあった附近にも,戸井は那須火山脈が通っており、コブタからカネシタまでの海岸ぶちの岩石や地層の各所に溶岩流の痕跡があり、,戸井の東方恵山周辺に数ケ所に温泉があり、西方には根崎、湯の川にも温泉があり、北方の陰海岸では川汲、磯谷,このように温泉脈に狭まれた戸井地域なので、温泉湧出の可能性があるものと思われる。 / [戸井の冷泉]
戸井町史 (三、戸井に移住した人々)

戸井町史 / 三、戸井に移住した人々 現在戸井に居住している人々は、何代か前に本州或は道南各地から移住した人々の子孫,南部のうちでも戸井の対岸である大間、佐井、風間浦、大畑、東通(ひがしどおり)などの町村からの移住者が最,④本州の二男、三男が景気のよい戸井に来て、一旗あげて故郷へ帰ろうと考え、暮しているうちに戸井に土着したという,大体以上の事情や動機で戸井に定住し、その子孫が戸井に繁殖したのである。  ,が出、隣接町村や本州の出身地などから嫁をもらいなどして次第に戸口が増加して、今日の戸井町に発展したのである / 三、戸井に移住した人々
戸井町史 (7 戸井高等学校沿革概要)

戸井町史 / 7 戸井高等学校沿革概要 北海道戸井高等学校校歌 一、波ひかる 津軽海峡   青春の いのち,] 戸井高等学校 一、創立年月日  昭和二十八年四月一日   二、設置経緯  ,戸井村を中心とするいわゆる「下海岸地方」は、地理的、資源的関係から住民のほとんどが水産業を営んでいる。,北海道亀田郡戸井町字浜町八六六番地   四、沿革の概要  昭和二十八年四月一日  北海道戸井高等学校,七平方米) 請負金額(一二、五一〇、〇〇〇円)    請負担当(株式会社 田畑建設)     位置  戸井町字浜町八六六 / 7 戸井高等学校沿革概要
戸井町史 (二、戸井村商業組合)

戸井町史 / 二、戸井村商業組合 戸井商工会館  昭和十一年、北海道庁の命により、渡島支庁に八ケ所の商業組合,第一配給所(浜 町) 能美  武  第二配給所(館 町) 吉田 兼松  第三配給所(汐首町) 渡辺, 鉄太郎  第四配給所(釜谷町) 森  富雄  第五配給所(小安町) 滝山田 成功 また地域の実情,瀬田来支所      尾本 宗蔵  原木 支所      佐藤 英男  事務所は弁才町〓久米宅があてられた,組合長や渡島理事長(落合氏)他数名は、直接道庁に出かけ、特別物資の受給を願うため出張し大量の支給を受け、町民 / 二、戸井村商業組合
戸井町史 ([戸井要塞と鉄道工事])

戸井町史 / [戸井要塞と鉄道工事] 昔の地図を見ると、五稜郭を分岐点とした鉄道予定線が戸井まで画かれている。,線路を敷くばかりになっていた鉄道敷地も、関係の市と町に払下げられてしまった。,、更に函館から三十粁に満たない路線工事であったが、幾多の川や谷があり、特に汐首、瀬田来、弁才町までの区間,戸井要寒の跡(1) 戸井要寒の跡(2) 戸井要寒の跡(3) 戸井要寒の跡,戦争末期の艦載機の銃爆撃は、戸井が要塞であったために、他の町村より激しかったが、一発の砲弾も発射しなかった / [戸井要塞と鉄道工事]
戸井町史 ([戸井の地名考])

戸井町史 / 昔からいい伝えられている戸井町の地名は、北海道各地の地名と同じように、殆(ほと)んど蝦夷(えぞ)が名づけたものである,戸井町の地名で学者が書いていないものまでも調べ、その地名の考証をして見た。,戸井町の地名も①近世になって和人がつけたことの明らかなもの②蝦夷がつけたことの明らかなもの③蝦夷語か和語,この教育所が公立戸井学校の前身である。戸井町教育の発祥地である。,現在、弁才町(昔の弁才澗)に注ぐ川を戸井川と称しているが、トイの地名の場所は、戸井川でも、熊別坂でもない / [戸井の地名考]
戸井町史 ([戸井の医療機関の沿革])

戸井町史 / 開拓使戸井出張所長大島鼎(かなえ)の主唱で、明治五年十一月、公立戸井病院の一室に私立戸井教育所が開設された,町立診療所(小安)    13 上磯保健所戸井支所  昭和二十三年六月十日、上磯保健所戸井支所,昭和二十六年ここに日新中学校の新校舎が建築されることになり、戸井村当局が運動し、浜町の金沢藤吉所有の土地,上磯保健所戸井支所跡    14 歯科医について  現在町内には歯科医がなく、住民の歯の診療,は、函館市や尻岸内町国保病院で行っているが、昔は戸井にも歯科の開業医がいた。     / [戸井の医療機関の沿革]
戸井町史 ([戸井の鰮漁の沿革])

戸井町史 / [戸井の鰮漁の沿革] 戸井の鰮の豊漁は、明治三十三年(一九〇〇)から大正時代を経て、昭和十四年(一九三九,「鰮といいば戸井、戸井といいば鰮」と戸井の名が鰮の代名詞のように、全国に喧伝(けんでん)されたのである,昔の館鼻、今の館町には、大宣寺、大隆寺、法泉寺という三つの寺院が並んで建っているが、この寺は三つとも戸井,(館町河村武男提供)    (2)秋鰮鰤漁の入稼(いりかせ)ぎ漁夫の寄留届  戸井で鰮の大漁が続,後志国岩内郡御鉾内町百番地 三 井 林太郎                       安政四年正月二十四日生 / [戸井の鰮漁の沿革]
戸井町史 ((三)戸井の植物誌)

戸井町史 / (三)戸井の植物誌 6年間に亘って、調査した戸井地域の植物を「戸井の植物誌」としてまとめて見た。,しだ植物と菌植物は戸井に分布するもののうち、代表的なものを若干挙げることにした。  ,「戸井植物誌」は、主に「牧野、新日本植物図鑑」の分類にしたがって記述した。  ,戸井の植物誌 一、 しだ植物 一、しだ植物 二、裸子植物 二、裸子植物 三、,の植物の方言名と和名対照表 戸井地域の植物の方言名と和名対照表(1) 戸井地域の植物の / (三)戸井の植物誌
戸井町史 ([戸井の海棲動物と海藻類])

戸井町史 / [戸井の海棲動物と海藻類] 戸井海域は、暖流と寒流の接触するところで、魚類や海藻類の豊富な海である。,この外、瀬田来と弁才町の一部で多くとれるテングサは、渡島管内で第一位の産額を誇っている。   ,漁民は、コンブとイカ漁が終ると、翌年の昆布取まで約半年の間、本州方面に出稼ぎに行くという、労務者供給の町と,このカニは夏の日ぐれから、浜町の沿岸に寄って来る。,次に戸井で漁獲される主な魚類、戸井の沿岸海域に棲息する動物類、戸井の沿岸に分布する海藻類の主なものを挙 / [戸井の海棲動物と海藻類]
戸井町史 (二、戸井への和人の定着)

戸井町史 / 二、戸井への和人の定着 戸井に最初に来た和人は「文治五年(一一八九)五月藤原泰衡の謀反によって滅びた,岡部氏が戸井に館を築いたのもこの頃であろうと推定される。,岡部季澄は岡部六弥太六代の孫であるので、季澄の父、或は祖父の時代から戸井に来たものとすれば、戸井の館も,現在岡部町の史蹟の一つとして岡部一族の墓地がある。,そして小安以東の釜谷、汐首、瀬田来、戸井、鎌歌、原木、日浦、尻岸内、古武井、根田内、椴法華などの部落は / 二、戸井への和人の定着
戸井町史 ([戸井町、町内会別世帯主調(昭和四六、一二、三一現在)])

戸井町史 / [戸井町、町内会別世帯主調(昭和四六、一二、三一現在)] 町内会別世帯数 一、小安町(1),一、小安町(2) 一、小安町(3) 一、小安町(4)  計  二八,〇世帯   二、釜谷町(1) 二、釜谷町(2) 二、釜谷町(3)  ,四、瀬田来町(2)  計  一一〇世帯   五、弁才町(1) 五、弁才町,九、東浜町(1) 九、東浜町(2)  計  一四〇世帯   十、二見町 / [戸井町、町内会別世帯主調(昭和四六、一二、三一現在)]
戸井町史 ([戸井漁業協同組合の沿革])

戸井町史 / [戸井漁業協同組合の沿革] 戸井町の漁業協同組合の沿革については、比較的新しい時代の資料より入手が困難,そもそも戸井町の漁業は本州下北半島を指呼の間に望み、箱館(函館)を下ること僅か二九キロメートルという地理的立地条件 / [戸井漁業協同組合の沿革]
戸井町史 (五、戸井町の商工業者一覧(昭和四七年四月一日現在))

戸井町史 / 五、戸井町の商工業者一覧(昭和四七年四月一日現在) 小安町 釜谷町 汐首町,瀬田来町 弁才町 泊町 館町 浜町 原木町 / 五、戸井町の商工業者一覧(昭和四七年四月一日現在)
戸井町史 (四、戸井漁業協同組合(有限責任))

戸井町史 / 四、戸井漁業協同組合(有限責任) 昭和二四、 六、一四  戸井漁業協同設立総会を開く。,組合長理事  伊藤 直人      理 事  丹羽 和八(館町)    水戸 忠太郎(浜町)           ,金沢 久之助(浜町)   昭和二四、 六、二五  戸井漁業協同組合設立発起人の伊藤直人他四九名が同組合設立,出資者は四七三名で、弁才町、泊町、館町、浜町の漁家をもって組織された。    ,登記の目的―戸井漁業協同組合設立登記    登記の年月日―昭和二四年七月九日    事務所―亀田郡戸井村字館町二一番地 / 四、戸井漁業協同組合(有限責任)
戸井町史 (二、戸井の方言とその解説)

戸井町史 / 二、戸井の方言とその解説 二、戸井の方言とその解説(1) 二、戸井の方言とその解説(2),二、戸井の方言とその解説(3) 二、戸井の方言とその解説(4) 二、戸井の,方言とその解説(5) (註)植物名の方言の大半は第一章第四節戸井の植物の項の「植物の方言名と和名 / 二、戸井の方言とその解説
戸井町史 (八、戸井西部漁業協同組合)

戸井町史 / 八、戸井西部漁業協同組合 戸井漁業会の解散により、昭和二四年七月一日、戸井村字釜谷、戸井村字汐首、戸井村字瀬田来,の三部落をもって戸井西部漁業協業組合が設立された。  ,当時の組合員は三五〇名で、当初は戸井村字小安の部落をも含め、釜谷・汐首・瀬田来の四部落をもって戸井西部漁業協同組合設立,事務所は戸井村字釜谷に本所を置き、戸井村字汐首と戸井村字瀬田来の二ケ所に支所を設置した。  ,全町で死者一三名ほか漁船一八隻が沈没、大小破等の損害をうける。 / 八、戸井西部漁業協同組合
戸井町史 ((二)戸井の地質構造と岩石)

戸井町史 / (二)戸井の地質構造と岩石 1、戸井の古生層 古生層の露出している地域とその状態    (1),変成岩の板状節理(瀬田来)   2、戸井の第三紀層  戸井地域の第三紀層の岩石は、灰色硅質頁岩,3、戸井の火成岩層  戸井地域の火成岩は、第三紀層を被覆(ひふく)して、最も広範囲に分布している。,尻岸内町のメノコナイに、メノコナイ式安山岩と称せられる安山岩が露出しているが、この安山岩は古武井にも分布,ハ、尻岸内町、古武井川の谷    古武井川の谷に緻密(ちみつ)な流紋岩の露出がある。 / (二)戸井の地質構造と岩石
戸井町史 ([戸井の水産物の種類・漁期・漁法])

戸井町史 / [戸井の水産物の種類・漁期・漁法] 戸井が繁栄した時代の漁獲物は、イワシ、マグロ、ブリが主体であり、,然し戸井の黄金時代を築いたイワシ漁もなくなり、マグロやブリ漁も昔の面影がなくなり、一攫千金という漁業は,それらの人々は、昆布漁とイカ漁が終ると殆んど町外に出、正月過ぎると町には若い男の人がいないという期間が,漁獲の多少にかかわらず、戸井町の沿岸或は近海で漁獲されるものの種類、漁期、漁具、漁法などのあらましを述 / [戸井の水産物の種類・漁期・漁法]
戸井町史 (一、戸井と狼)

戸井町史 / 一、戸井と狼 エゾオオカミ  昔下海岸地方でも、子どもをおどしたり、泣く子をだまらせるのに、「,この頃は戸井地方にも狼が出没し「オオカミがくるぞ」といって泣く子をだましたものと思われる。  ,戸井には昔から下北の人々が移住したので、子や孫に故郷下北の狼の話を語り聞かせたものである。 / 一、戸井と狼
戸井町史 ([戸井の魚の根について])

戸井町史 / [戸井の魚の根について] 魚類には餌を求め、或は産卵場所を求めて大洋を回遊するものと、同じ理由で沖合,戸井で魚をとるための目標の山は「丸山」である。,この根は泊町の〓佐藤豊次が昭和二十五、六年頃発見した根である。,戸井沖の魚の根の概要は次の略図の通りである。,これらの根は、戸井の漁師が長年に亘ってさぐり当てたものである。 戸井沖の魚の根の略図 / [戸井の魚の根について]
戸井町史 (一、戸井の館とその伝説)

戸井町史 / 一、戸井の館とその伝説 コシャマインの乱の頃、戸井の館鼻(たてはな)に和人の館があったという言い伝えがあるが,村に残っている記録としては、明治十三年頃に書かれたものに  「登記所は函館区裁判所戸井出張所にして、,古文書に「戸井の運上屋」と書かれているのはここである。,の中に金銀財宝を投じ、大きな石で井戸に蓋(ふた)をし、兵と共に自刃して果てた。  ,伝説の井戸はこのあたりにあったものと思われる。 / 一、戸井の館とその伝説
戸井町史 (六、戸井警察署の歴代署長)

戸井町史 / 六、戸井警察署の歴代署長 六、戸井警察署の歴代署長 / 六、戸井警察署の歴代署長
戸井町史 ([戸井と近隣の変遷])

戸井町史 / [戸井と近隣の変遷] 古い時代の戸井の変遷については、戸井に残っている記録がないので、くわしいことはわからないが,寛政元年七月に、菅江真澄は戸井の運上屋に五泊もしているので、「戸井館の伝説」などもくわしく採録したものと,寺社町家およそ三、四百軒。,古文書十二を選んで、年代の順に並べて隣接町村或は蔭海岸の分も含めて採録した。,安政年間に戸井の戸数、人口はふえていない。 / [戸井と近隣の変遷]
戸井町史 (三、『新発見の板碑(いたび)(戸井町)』  須藤 隆仙)

戸井町史 / 三、『新発見の板碑(いたび)(戸井町)』  須藤 隆仙 はじめに  昨昭和四十三年春、下海岸志海苔,(しのり)町で大量の古銭が発見されて人々を驚ろかしたが、秋にはまた戸井(とい)町から板碑(いたび)が発見,を惑わすような意見が堂々と新聞紙上に発表されたりしたため(北海道新聞S43・12・14付、白山友正『戸井町板碑,板碑発見の経緯  昨年町制のしかれた亀田郡戸井町では、町史を編纂中である。,ところが戸井町のこのB碑は左図のようになっている。 / 三、『新発見の板碑(いたび)(戸井町)』  須藤 隆仙
戸井町史 (五、警察の見た戸井村(原文のまま))

戸井町史 / 五、警察の見た戸井村(原文のまま) (1)人情風俗の変遷及び良否  当部内は毎年内地府県、本道各地,(2)町村睦否の状况  戸井村は一致共同の美風に乏しく、兎角(とかく)意志の疎通(そつう)を欠き、甲,殊に戸井村字釜谷対村中(むらなか)(字小安の旧称)の両部落は、明治四十一年八月中、昆布採取上の紛争事件以来互,「註」これは大正十二年に戸井分署長高橋雄治警部補が書いたもので、鰮大漁時代の戸井村の人情風俗をうかがうことができる,又戸井西部の小安釜谷の不和は明治時代からで、特に昆布採取についての紛争は大小幾度もあったが、歴史に残るような / 五、警察の見た戸井村(原文のまま)
戸井町史 (十七、戸井の海難事件(昭和三十八年))

戸井町史 / 十七、戸井の海難事件(昭和三十八年) 昭和三十八年(一九六三)一月十六日、戸井の漁船がヒカタ(南西風,タコやババガレイの好漁が続いていたので、戸井の漁師は一斉に出漁した。,経験の深い漁師は、ヒカタの突風の避難場所を心得ているので、小安、釜谷、汐首の船でも戸井漁港や日浦方面に,戸井漁港を目ざして避難した船のうち、三隻が浜町沿岸と戸井漁港の港口附近で遭難して、死者七名を出した。,釜谷町)  「アイ(北東風)の朝なぎ、クダリ(南風)の夜なぎ、情知らずの西ヒカタ(南西風)」と戸井 / 十七、戸井の海難事件(昭和三十八年)
戸井町史 ([戸井の万体仏と貞伝上人])

戸井町史 / [戸井の万体仏と貞伝上人] 貞伝作の万体仏 背面  昭和四十七年二月二十九日、戸井町館町,元禄三年(一六九〇)津軽の今別村に生れ、幼ない時から、弘前誓願寺の安貞和尚の弟子となり、十四才の時に夏井(,北海道で発見された貞伝作の万体仏  福島町、松前町、大成町などから十数体発見されたが、昭和四十四年十一月,、乙部町豊浜の明石家から一体、乙部町花磯の新谷家から二体、計三体の貞伝作の万体仏が発見されている。,この度発見された戸井町館町の堀川家から発見された万体仏は下海岸としては最初のものである。 / [戸井の万体仏と貞伝上人]
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