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函館市史 通説編 第一巻
(会所の設置地)
、2、3年試みようという指示を与えて発足したが、会所は、箱館、松前のほか江戸、大坂、京都、兵庫、堺、
敦
賀
,新大橋際植物場内に、大坂は劒先町、兵庫は北浜川崎町(後に鍛冶屋町)、堺は住吉橋西詰に当る住吉橋通北2丁目、
敦
賀
椴法華村史
(昭和二十三年、二十四年の遭難船)
五・三〇 山 崎 勇 蔵 座礁大破、傷一死一 二十四年九月七日 古部沖 天 洋 丸 一三・〇〇
敦
,
賀
吉 蔵 機関故障大破 二十四年十月三日 恵山沖 第二大津丸 一三・〇〇
敦
賀
吉 蔵 衝突沈没
函館市史 通説編 第一巻
(文芸)
彼は、越前
敦
賀
から入婿し、病気のため
敦
賀
に帰ったといわれる。
函館市史 通説編 第一巻
(商取引)
、移入品中の主位を占める米は、津軽、羽後、越後、越中などから、酒は出羽(大山)、越後、大坂、縄筵類は
敦
賀
,、津軽、塩は瀬戸内海の各地および金沢付近から入り、木綿その他の雑貨類は大坂、
敦
賀
その他の諸港からもたらされた
椴法華村史
(昆布製法の改善)
の昆布は、明治十七年以前、手繰昆布とされることが多く、これは清国向けの輸出品ではなく、国内でも大阪、
敦
賀
方面向,上同地漁業組合中と協議を遂げられきしが中にも、茅部郡根田内村椴法華村近傍の昆布は從来、手繰昆布と唱へ需要地は大阪、
敦
賀
函館市史 通説編 第一巻
(藩制初期の交易)
たとえば天和2(1682)年の著述といわれる『遠目鏡』には、
敦
賀
に松前志摩守船の船宿として、岐阜屋六兵衛,このように箱館を支える背後地域の生産構造の特殊性と流通担当商人の性格の相違が、先の
敦
賀
の問屋には箱館との
椴法華村史
(北前船の航行)
一六七二年西廻り航路が本格的に開かれる以前より
敦
賀
・小浜方面から主として、昆布をはじめとする海産物を求,このような時期に西廻り航路が開かれたのであるから、この航路はますます発展を遂げ、元和二年(一六八二)ごろには
敦
賀
港,この時代の蝦夷地に来航していた船は、「北前船」(通称ドンブリ船)と呼ばれる船で、北国すなわち加
賀
・能登,また、これらの船の主な航海は、普通、
敦
賀
方面と蝦夷地間は夏登り・秋登りと呼ばれる年二回であり、大阪と蝦夷地
恵山町史
([昆布の道])
に入り、一族の地、津軽の十三湊・秋田の土崎湊を経由、能登の珠洲に寄港、珠洲岬をかわし、越前は若狭湾の
敦
賀
,天和2年(1682)
敦
賀
湊には、すでに、松前・江指(江差)の船宿が2軒ずつ、昆布屋・海産物問屋も6軒、
函館市史 通説編 第一巻
(本州諸港との交通)
は依然として晩春から秋季までで、遠方から来る船は年に1回もしくは2回の航海であるが、その船舶は大坂、
敦
賀
函館市史 通説編 第一巻
(近江商人の排除)
越後屋利右衛門、大坂では多田清左衛門、伊丹屋四郎兵衛、小山屋吉兵衛、南部大畑では菊地与左衛門、新屋元左衛門、
敦
賀
,次いで兵庫、下関、酒田、青森、鍬ヶ崎、岩城、平潟、浦
賀
、下田等にも会所を置いた。
函館市史 通説編 第一巻
(各会所用達)
敦
賀
は西岡林助(飴屋)、山本朝之助(網屋)が用達になっている。
函館市史 通説編 第二巻
(「日本大廻り」航路の成立)
命令書に基いて明治9年4月から従来の横浜・函館の航路の他に横浜・函館・舟川・新潟・伏木・
敦
賀
を月に1度結,相成居候処、過日瓊浦帰港の處、随分彼の地方角は見込も有之に付、今廿六日発船の豊島丸は函館より向に越前の
敦
賀
迄差廻候,則ち御地より馬関を経、雲州松江、
敦
賀
、処々の港を経、伏木港へ迄近々差立候積りに候間、其の御考にて彼是と,同じ年の8月には「当社先般東京ヨリ函館、新潟、伏木、
敦
賀
ノ諸港ニ達スルノ線路ヲ設ケタルモ未ダ北海運輸ノ
南茅部町史 下巻
(大正四年 函館港海運・回漕店)
定航 曙丸 茂辺地・當別行 定元期扱
敦
賀
丸, 北光丸 同所行
敦
賀
丸, 第八盛運丸 酒田行 電話一一九三番・一七五番 生玉丸 伏木・
敦
賀
行, 七〇七番 北洋漁船 千
賀
丸 本斗・麻内
函館市史 通説編 第一巻
(箱館会所の所務)
の総仕入高は、およそ2万3、4000両といわれ、仕入金額の最も多いは大坂で、江戸がこれに次ぎ、箱館、
敦
賀
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田八幡宮)
『亀田村郷土誌』(大正初期)には「明徳元年に函館の館主河野加
賀
守森幸が越前国
敦
賀
気比神社より分霊を奉じて
函館市史 通説編 第一巻
(北前船)
北前船 松前渡海船の図 大宮神社総代大橋謙太郎氏より寄託(滋
賀
大学経済学部附属史料館保管) ,田野中与助、酒屋新左衛門、桶屋又七、瀬戸屋弥兵衛、酒屋長吉、酒屋宗吉、右近権左衛門、出店勘助といった加
賀
橋立,、越前河野、
敦
賀
等の船主たちは、すベて、かつて荷所船仲間であった人たちである。,天明元年前述のごとく旧来の6軒の問屋に加え、新たに和
賀
屋白鳥宇右衛門が株仲間に許可されたことも、また、
函館市史 通説編 第一巻
(為替及び金融)
為替及び金融 為替は江戸、大坂、京都はもちろん、庄内、新潟、
敦
賀
、その他の各地に向かっても取り組まれた
函館市史 通説編 第一巻
(江戸交易と東回り航路の発達)
ころから次第に発達しつつあったが、松前藩の再生産構造の特殊性からそれ程発展し得ず、交易の主体はやはり
敦
賀
,このため幕府は早くも寛政11年、蝦夷地御用として政徳丸を交付し、凌風丸を買上げ、次いで浦
賀
、大畑および
函館市史 通説編 第二巻
(府県の関連団体との接渉)
浜-塩釜間艀下船の改良と運賃引下の件についての照会に協力したり(明治26年1月)、あるいは「東京湾、
敦
賀
港
恵山町史
(沿革)
当時の需要先は主に幕府や諸藩で大和船の船長は、大阪・新潟・
敦
賀
・下関等へ運搬し売却していたという。
南茅部町史 上巻
([水産会の合併へ])
米次郎 書 記 池 田 義 良
敦
,
賀
正 利 議 員 尾 札 部 村 長谷川 忠次郎 藤 本 種 八 臼
函館市史 通説編 第二巻
(商業港としての基礎)
交易することによって、それらを手に入れなければならなかったので、海運を通じてはやくから中央市場であった
敦
賀
函館市史 通説編 第一巻
(近江商人)
性格も、彼らの交易方法に大きく左右され、一部には北海道~大坂・下関交易の発展もあったが、全体としては
敦
賀
函館市史 通説編 第一巻
(神社)
亀田八幡宮 明徳元(1390)年、河野加
賀
守森幸なる者が越前
敦
賀
郡の気比神宮より勧請
函館市史 通説編 第二巻
(払下げ出願)
九月六日「朝野新聞」) 表2-54 払下げ物件一覧表 払下げ物件名 金額 東京大阪
敦
賀
,の部 東京箱崎物産取扱所官舎倉庫地所共其他一切 大阪旧貸付所々属官舎倉庫地所共
敦
賀
官舎倉庫地所共
恵山町史
([町有文書に記された海難事故])
大澗港 第1妙宝丸 8.15 高橋 兼雄 荒天 大破 9.7 古部沖合 天洋丸 13.00
敦
賀
,9.23 豊浦海岸 磯舟 山内 富蔵 荒天 大破 10.3 恵山沖 第2大洋丸 13.00
敦
賀
函館市史 通説編 第一巻
(俵物指定問屋)
港の俵物集荷を命じられたが、彼らは松前の俵物を長崎へ直接送るほか、少しでも有利な所で取引を行うため、
敦
賀
函館市史 通説編 第二巻
(北海道関係の航路)
とする航路は9線あり、こうした点について請願書では「…右掲クル所ノモノハ実際最モ枢要ノ航路ナリ、就中
敦
賀
函館小樽間,不定期航路は、函館・江差、福山(6月より10月までの期間に月に2往復)、函館・土崎、酒田、新潟、伏木、
敦
賀
函館市史 通説編 第二巻
(黎明期の社会運動)
と旭川の間を2往復、滝川・旭川・札幌の鉄工組合支部の指導と、演説会を各地で開催し、27日に室蘭より「
敦
賀
丸
函館市史 通説編 第二巻
(清水谷総督の赴任)
清水谷総督の一行は、閏4月14日京都を出立、20日
敦
賀
から長州の汽船華陽丸で海路箱館へ向かった。
函館市史 通説編 第二巻
(巨大な艦船)
当時、箱館-江戸間の太平洋航路(東廻り航路)は、箱館-
敦
賀
間、あるいは箱館-下関-大坂間の日本海・瀬戸内航路,※印は嘉永6年6月3日、ペリーが初めて浦
賀
へ来航した時の艦船、○印は安政元年4月15日~21日、箱館来航
函館市史 通説編 第二巻
(明治初期の商工行政と商工会)
なお、明治14年の県認可会議所とは、名古屋、岡山、小松(加
賀
)の3か所である。 ,石巻、高崎、高岡、金沢○、大垣、岐阜、 笠松、神戸×、洲本 〃 21 長岡、上田、伏木、
敦
賀
函館市史 通説編 第一巻
(問屋の機能)
からみて、いわゆる諸国の詰物品問屋の類型に属することになるが、同じ詰物品問屋という性格を持ちつつも、
敦
賀
函館市史 通説編 第二巻
(道内航路への進出)
三菱の運航状況をみると道内便として始めての便は明治8年10月の小樽に向けて出港した
敦
賀
丸であり、同じ年
恵山町史
([盛況を極める海運業])
日本の領土である国後・択捉島、サハリン沿岸、本州方面では対岸の津軽下北、遠距離では日本海西廻りの新潟・
敦
賀
南茅部町史 上巻
(松前昆布)
宇
賀
昆布として知られたこの地方の昆布は、松前地の名産として松前昆布と呼ばれ、若狭の小浜へ積み送られていた,昔は越前
敦
賀
に伝送して若州に伝。小浜の市人是を制して若狭昆布と号す。
函館市史 通説編 第二巻
(鯣製造の展開と同業者組合の性格)
国内需要向けの製造法は元々越前地方のもので、製品の販売も越前
敦
賀
に輸送して委託販売をする。,
敦
賀
の商人はこれを越前産と混ぜて付近諸県に販売している。
函館市史 通説編 第二巻
(設置の理由)
ついでこの会所を江戸、大阪、兵庫、下関、
敦
賀
等に置いて、蝦夷地より廻送する荷物は会所の周旋を以て売却し
函館市史 通説編 第二巻
(庶庫・上屋関係規則)
米及雑穀 同上 長切昆布 刻昆布 大山酒 大阪酒 紋鼈産菜種 紋鼈産白砂糖 阿波産煙草
敦
賀
函館市史 通説編 第二巻
(日本郵船の創業と命令航路の開始)
下関、境、
敦
賀
、伏木、直江津、新潟、酒田、土崎、函館に寄港。時には寿都、江差に寄港した。
函館市史 通説編 第二巻
(北海道関係航路の重視と道庁補助航路)
3 同洋食付き 小樽*4 同洋食付き 能代・土崎 酒田 新潟・佐渡 直江津 七尾
敦
賀
函館市史 通説編 第二巻
(同行の営業状況)
で、そのうち荷為換取扱を行なっているのは、東京・大阪・横浜・神戸・名古屋・半田・下関・長崎・四日市・
敦
賀
函館市史 通説編 第二巻
(販売市場と経営収支)
と新潟なり、鱒はサガレン島総高十分の六は新潟へ、その余は東京、仙台、塩釜、石巻、酒田、秋田、直江津、
敦
賀
函館市史 通説編 第二巻
(汽船船主の特質)
岩内汽船(株) 岩内 岩内汽船(株) 岩内 岩内汽船(株) 歌棄 佐藤栄右衛門 滋
賀
,福垂丸 第1大亀丸 第2大亀丸 瀬田川丸 有川丸 第2松前丸 北辰丸 新大漁丸
敦
賀
丸
南茅部町史 上巻
(徳田屋和兵衛と小板屋久兵衛)
二代目和兵衛(小板屋久兵衛六男)家督を継ぐ 文久二年(一八六二)から 観音丸茂兵衛・越前国
敦
賀
□□屋手船幸丸市三郎, 大坂〓印金吉丸茂八に元揃昆布・鰮粕を川汲浜売り(初)をする 同 六年 加
賀
国粟,亡父仕入時分ノ評價ヲ落サヽル事ヲ務ム 一、文久二壬戌年ヨリ慶應年度ニ至ルノ間ハ、観音丸茂兵衛 越前ノ
敦
賀
恵山町史
([開拓使の廃止])
同権大書記官鈴木大亮・金井信之・折田平内ら4人の開拓使官吏(北海社という名称の事業体結成を予定し)は、東京・大阪・
敦
賀
函館市史 通説編 第二巻
(西洋形帆船の建造ブーム)
栄福丸 三石丸 金袋丸 豊福丸 神徳丸 根室丸 東洋丸 倭丸 北栄丸 明寿丸 鶴
賀
丸,清浄丸 翁栄丸 慶喜丸 樺太丸 浄丸 日吉丸 幸丸 長運丸 栄勢丸 環運丸
敦
賀
丸,函館 函館 函館 函館 函館 函館 京都 新潟 岡山 茨城 森 森 函館 滋
賀
函館市史 通説編 第二巻
(産物会所の設置)
北風荘右衛門 堺 文久元年 (1861) 和泉屋伊助 石割作左衛門 大和屋徳次 用聞
敦
賀
函館市史 通説編 第二巻
(商取引の実態と商人の諸相)
3、大坂、
敦
賀
などの豪商が、本人または番頭手代を函館、小樽などに派遣して海産商から買い取り、回船を雇い
恵山町史
([箱館裁判所(箱館府)と箱館戦争])
嘉彰親王に替わって清水谷公考(きんなる)が総督となったが、副総督は補充のないまま、14日京都を出発、20日
敦
賀
,同日、榎本らは、箱館市中と欧米各国の領事に蝦夷政権樹立を告げ、五稜郭で祝
賀
会を挙行する。,キャッチした榎本軍は、開陽丸を失って低下した海軍力挽回のため、3月25日、宮古湾停泊中の甲鉄を、回天艦長甲
賀
源吾,脱走軍はこの作戦で甲
賀
源吾以下24名が戦死し軍艦高雄も破損し戦況は一挙に新政府軍へと傾いていく。
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