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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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椴法華村史 (干鱈と新鱈)

干鱈と新鱈 渡島地方においては古くから鱈漁業が行われており、最初漁獲された鱈は蝦夷の食料として少量利用,この時代漁獲された鱈の大部分は、干鱈(ひだら)(別名乾鱈・棒鱈ともいう)に加工されており、『津軽一統志,をもたらすようになるや塩を利用した保存が可能となり、東蝦夷地では天明年間(一七八一-一七八九)に至り、新鱈,『松前史略』によれば、寛政元年(一七八九)に尾札部の塩鱈が初めて江戸へ送られたと記されている。,(椴法華はこの頃尾札部領に含まれていた)  また享和三年(一八〇三)南部牛滝村慶祥丸は臼尻産新鱈三万余本 / 干鱈と新鱈
南茅部町史 上巻 (ヲサツベの新鱈)

ヲサツベの新鱈 鱈は「越前のもの天下第一等なり」と東医宝鑑にある。,また、同書に「根田内より臼尻迄の場所を鱈場所と唱へ、就中、椴法華の鱈最上のよしにて有之由、此内にて最上,根室場所の西別の献上鮭製造場とならんで、臼尻の献上新鱈製造場は、蝦夷地の特産物の製造地として、その名を,ひと塩ものの鱈が年の暮れに送られて、江戸の新年の用に供され、新鱈といわれて珍重された。,この塩鱈は、腹を裂かずに腸をツボ抜きして塩漬にしたものであった。 / ヲサツベの新鱈
南茅部町史 上巻 (文化文政の新鱈約定)

文化文政の新鱈約定 慶祥丸遭難もあったが寛政年間には、すでに鱈場所としてヲサツベ場所は有名になっていた,また、文政二年(一八一九)の「新鱈讓證文」は、臼尻村の新鱈の買付けは、仲買人の建値によるものではなく、,(市立函館博物館 高田屋嘉兵衛展出陳目録より)      新鱈儀定證文之事 一當村新鱈□積去亥年,    臼尻村新鱈讓證文之事 臼尻村新鱈壱番弐番船共 拙者鬮當リ候処 此度貴殿江 讓金壱番船金五拾両,(資料 青森県 大石健次郎所蔵) 江戸廻臼尻新鱈壱番雇船儀定(写)    こうして新鱈は / 文化文政の新鱈約定
椴法華村史 (新鱈積船の破船)

新鱈積船の破船 明治六年十二月二十一日夜、椴法華より新鱈を積入れ出航した函館小川五助所有の元一丸、大時化,此段申上候私儀當月三日新鱈荷物手配之為メ椴法花江罷越能戸勘右衛門方江止宿去ル四日新鱈弐百四拾束買入去ル / 新鱈積船の破船
南茅部町史 上巻 (新鱈の江戸送り)

新鱈の江戸送り 箱館の高田屋は、鱈場所から買い集めた新鱈を、江戸の正月にむけて年の暮れに幾艘もの船を,高田屋嘉兵衛申上書 一 最上の鱈□□は江戸へ差船有之候間ニ不合義多く有之候よし   是は全く入用を,□向申候訳にて延引相成候よし既ニ金兵衛時代ニハ   公儀之御恩澤を忘却いたす時は□□ニ不相叶とて 鱈の,出来八百事に従来付□の世も感心仕居候義と云   箱館ゟ銚子迄二百里程 銚子より江戸迄三十六里と云ふ 鱈場所 / 新鱈の江戸送り
函館市史 通説編 第一巻 (鱈漁)

鱈漁 鱈は箱館地方では冬期にこれを釣り、ことに尾札部、臼尻辺に多く産した。,これも従来は乾燥して干鱈で江戸に輸出したが、寛政の初めころから塩鱈で輸出するようになった。,塩鱈の製法は腹を割かずに腸(はらわた)を抜き、これをツボヌキといって塩に漬け、その年内に早く江戸に送り,新年の用に供した。,そのためこれを「新鱈」といった。 / 鱈漁
椴法華村史 (鱈製品)

鱈製品 文化四年(一八〇七)以降村山伝兵衛が蝦夷地産主要海産物の製法・相場などについて調査し、松前奉行,に提出した時の控である『松前産物大概鑑』によれば、鱈製品について次のように記されている。         ,鱈之部   一、干(ヒ)鱈 壱束 (廿本結直段) 壱貫匁ニ付、銭四百文位     棒鱈        ,唱へ申候     一、新(シン)鱈直段 (砂金壱両此銭四貫三百廿文ニ付) 三拾本位    是ハ鹽切鱈,砂金拾匁此銭六貫文ニ付 目形五拾七貫匁位   一、鱈油  直段 四斗入壱挺砂金五匁位此銭三貫文 / 鱈製品
椴法華村史 (鱈漁と税)

(中略)会所新鱈の時分箱館より在方懸り壱り、下役人弐人出張す。尤金銭回り甚よろし。,又此所に新鱈と申隠妓有也。    ,と記してあり新鱈の時期には大へん景気が良く賑わっている様子がうかがわれる。,また同書尾札部村の項では、「一、金六拾両、新鱈冥加、其余は豊凶、右の外鱈釣壱艘に付、弐人乗五束づつ如前,」とあり、椴法華村の項では「又此村にも昆布并新鱈帳面等も有べけれども未だ得ざるまま記さず。 / 鱈漁と税
南茅部町史 上巻 (鱈請負制)

鱈請負制 復領ののち松前藩は、六箇場所に鱈請負の制を設けた。,安政三年(一八五六)、箱館奉行が設置されるとともに鱈請負の制は廃止された。  ,タラ)之部   一  干(ヒ) 鱈 壱束 廿本結直段 壱貫匁ニ付銭四百文位    棒 鱈         ,唱へ申候 一、新(シン) 鱈  直段 砂金壱両 此銭四貫三百廿文付ニ 三拾本位   是ハ塩切鱈ニ御座候,ニ付 目形五拾七貫匁位 一、鱈油 直段四斗入壱挺 砂金五匁倍 此銭三貫文 / 鱈請負制
椴法華村史 (鱈請負の制度)

鱈請負の制度 その後天保初年(一八三〇年代)になり松前藩により、熊泊(大船)から戸井に至る地域に鱈請負,この制度の詳細については不明であるが、初代新鱈請負人には、国領平七、つづいて升屋定右衛門がなりその後何代目,然れども此新鱈は今にても請負人にて則六ヶ場丈(だけ)を新鱈請と云て、当時箱館町升屋善兵衛なるもの致す也,また同書、砂原村の記事に「此辺より箱館口迄の新鱈を六ヶ場と云り」とある。  ,以上のようなことから江戸時代初期に始められた鱈漁業が江戸時代末頃に至って非常に盛んになってきていることが / 鱈請負の制度
椴法華村史 (鱈漁業の変遷)

鱈漁業の変遷 明治時代は延縄中心の漁法が行われてきたが、明治時代の末ごろから椴法華では一時的に手繰網,が流行し、(鱈のみならず他の魚も混獲できる)その後大正七年頃から恵山沖に動力揚網機を備えた本州・函館方面,となり鱈資源は急速に減少していった。,このためわずか百年前鱈の産地蝦夷地の中でも特に幕府献上の最良鱈は椴法華から選ばれるとまで云われた椴法華村,バンク」を要スルヲ以テ其漁場ノ無限ニ沖合ニ移ルコトナカルヘシト雖モ将來漁船漁具ノ改良ト漁法ノ発達ニ伴ヒ新漁場 / 鱈漁業の変遷
恵山町史 (5、江戸時代の鱈漁)

5、江戸時代の鱈漁 <鱈の漁場、恵山沖> 文化14丑年(1817)12月、『新鱈儀定證文之事』より,以下全文を記す    『新鱈儀定證文之事』 一、当村新鱈艤積去亥年より丑年迄儀定仕候処  年々積入出来,乾物の干鱈(乾鱈、棒鱈)に代わり、塩蔵の『新鱈』が大消費地の江戸で評判を取るようになったからである。,漁期が冬ということも相俟って、新鱈と呼ばれるに相応しく新鮮さが保たれ、需要も広がったのであろう。,新鱈の江戸送り  鱈漁・新鱈は大消費地である江戸へ、しかも正月に送られることによって成り立つ商(あきな / 5、江戸時代の鱈漁
南茅部町史 上巻 (明治・大正の鱈漁)

明治・大正の鱈漁 鱈漁の漁具は延繩・浮繩・ごろた繩および刺網を用いた。  ,(1)鱈釣り漁場  鱈釣り口説の舞台となった古部(尾札部)は、椴法華村との村境にある。  ,椴法華とその隣村古部・木直は、鱈漁場である恵山魚田に近く、格好の船入澗は鱈釣りの根拠地として賑わった。,「茅部郡」稿            河野 常吉 鱈 古部沖を好漁場トス春鱈ハ四里内外ノ沖ニテ釣リ秋鱈,~三百束秋鱈は主ニ新鱈トナシ又生ニテ函館ニ送ル春鱈ハ概ネ開鱈トナス。    / 明治・大正の鱈漁
南茅部町史 上巻 (鱈釣り漁)

(3)新  鱈  新鱈は、口から包丁を入れてエラとチュウをとりつぼぬきをする。,寒中の新鱈を、家の食べ用に干しておいて、夏、昆布採りの時期に、生魚(こざかな)などがないとき、掛矢(かけや,当時、古部、木直の新鱈は、函館新鱈組合の定期船として小樽丸が回航して船積みし函館に直送された。,一一月三日に繩おろしをして大晦日、正月までを一期(きり)とし、当時はほとんど新鱈でツボ抜きして塩をきった,臼井さんから新しい足袋と草履と手拭い一本ずつ戴いて定期船に乗った。    / 鱈釣り漁
椴法華村史 (英国人の鱈塩引製造)

英国人の鱈塩引製造 明治十二年三月十八日 函館新聞   ○昨年當道の干鱈が上海で非常に直段が好(よ,)かったので、今玆(ことし)ハ(は)當地に寄留して居る英人デウス氏が椴法華へ往て生鱈を買ひ込み夥(あま,)多の人を雇ふて昨今西洋鹽にて鱈鹽引の製造最中なるよし / 英国人の鱈塩引製造
椴法華村史 (川汲鱈釣船の遭難)

川汲鱈釣船の遭難 大正五年三月四日午後四時尾札部村川汲の漁民五名川崎船で同村沖合四里へ鱈釣に出漁、南東,(函館新聞) / 川汲鱈釣船の遭難
椴法華村史 (鱈釣船尾札部沖の遭難)

鱈釣船尾札部沖の遭難 明治二十九年十一月三日午後九時頃、尾札部沖へ出漁した鱈釣磯船二隻、各三名乗組、,鱈釣従事中突然の暴風雨により行衛不明。,(北海道毎日新聞) / 鱈釣船尾札部沖の遭難
椴法華村史 (鱈釣大栄丸の遭難)

鱈釣大栄丸の遭難 発動機船大栄丸(十屯)、函館海岸町木村正吾所有は、大正十五年十月十三日、乗組員九名,で椴法華へ鱈釣に出漁、途中スクリューを破損し根田内沖十カイリの地点を漂流、十九日航行中の天祐丸に救助、,(函館新聞) / 鱈釣大栄丸の遭難
椴法華村史 (椴法華産鱈の内地直送)

椴法華産鱈の内地直送 最高品の鱈が椴法華で漁獲されたことは前に述べたが、これらの大部分は船で箱館へ運送,椴法華から内地へ向け直接新鱈を送るため積荷改めについての沖の口番所へ願った文書が残されているので次に記,龍神丸  酒井左衛門尉様御手船      九人乗      陣屋彦次郎    右之船椴法華村におゐて新鱈積入此節手仕舞,   なお、六ヶ場所(ヲヤス・トイ・シリキシナイ・ヲサツベ《椴法華は尾札部領》カヤベ)で漁獲された鱈の / 椴法華産鱈の内地直送
椴法華村史 (鱈釣船の汐首沖転覆)

鱈釣船の汐首沖転覆 大正三年一月二十二日、函館の鱈釣船十六名乗組、椴法華方面より帰港途中、汐首沖で激浪,五名行衛不明、その後茅部丸スクリューに綱を巻きつけ、室蘭から函館に向け航行中の海平丸の曳航により函館入港(函館新聞 / 鱈釣船の汐首沖転覆
南茅部町史 下巻 (鱈釣り口説節)

鱈釣り口説節 郷土に伝わる民謡は数少ないが、郷土の歴史を導いたともいえる鱈釣り漁業を物語る口説節は優,冬の海の厳しい業(なりわい)のなかで生まれた鱈釣り口説節である。  ,二百年も昔から根田内より臼尻までは鱈場所と呼ばれ、椴法華の鱈は最上といわれ、臼尻村で献上の鱈を謹製したという,歌詞も漁業の仕業、稼業の特種用語も鱈釣りをした古老の解説で絵解きしてもらい、ほぼ完全に文字化した。,は相泊の      〓の吉五郎さ嫁にいったとさー    即興を本領とする民謡の心を伝えようと、新しい / 鱈釣り口説節
南茅部町史 下巻 (〔鱈肝油製造の試み〕)

〔鱈肝油製造の試み〕 北海道で鱈の肝油がはじめて試製されたのは、明治元年のことである。,開拓使事業報告によればこの年、箱館の医師五藤精軒が、箱館裁判所に願い出て、鱈の内臓から肝油を製造することを,許され、この原料を鱈漁のさかんな茅部郡の村々から買い集めて肝油の製造を試みた。,鱈の肝油製造をはじめて試みた医師五藤精軒と一字違いの人物である。  ,「殖民公報」(明治三四年刊)や「新撰北海道史」(昭和一二年刊)に記す五藤精軒は、前記の安藤精軒と同一人物 / 〔鱈肝油製造の試み〕
椴法華村史 (大正十年鱈釣船の遭難)

大正十年鱈釣船の遭難 大正十年二月椴法華から出漁した鱈釣船が遭難し戸井村に漂着する。,このことについて大正十年二月六日付の『函館新聞』は次のように報じている。       ,船中にて凍死し、一人は人事不省になりしも辛ふじて救助され不幸中の幸なりし一人は椴法華の者にて同沖合に鱈釣 / 大正十年鱈釣船の遭難
南茅部町史 下巻 (【資料】鱈肝油製造所のあゆみ)

【資料】鱈肝油製造所のあゆみ 明治元年函館の医師五藤精軒が、鱈の肝油製造を試みるため、明治新政府の函館裁判所,に、鱈場所として知られる六か場所の村々より、相当の価格で鱈を買い集めることを請願して許可を得た。  ,但臭気稍甚ニハ其製造ニ用フル所ノ肝臓新鮮ナラザルニ因ルガ後來之ヲ多製セントセバ宜ク此ニ注意シテ新鮮ノ肝臓,臼尻の製造所では、鱈釣りの漁期になると漁民を雇傭して沿岸の鱈を買い集めて製造に努めたので、事業は全く軌道,しかし、明治一三年秋から一四年春にかけて鱈の漁獲が振わず、原料の鱈を集めるのに困難で、この年は収支償うことができなかった / 【資料】鱈肝油製造所のあゆみ
椴法華村史 (明治十九年鱈釣船の漂流)

明治十九年鱈釣船の漂流 明治十九年一月十日、鱈釣のため椴法華を出漁した川口米藏・川口留吉・川口多二郎,(函館新聞)  『明治十九年、郡亀伺上申録、函館縣庶務課』によれば、この漂流事件は次のように記されており,前に記した函館新聞の記事と事故発生日や救助日が異なっている。,本年一月十八日亀田郡椴法花村平民川口米藏外九名及尻岸内村支根田内平民山崎四郎兵衛外五名之者鱈釣漁業ノ為,元亀田郡長 片岡 新印   元函館縣令時任為基殿代理    元函館縣大書記官堀金峯殿 / 明治十九年鱈釣船の漂流
椴法華村史 (茅部郡鱈釣り船の行方不明)

茅部郡鱈釣り船の行方不明 明治四十年十二月、六日七日、九日、十日の暴風大時化のため茅部郡沿岸の鱈釣り,(小樽新聞) / 茅部郡鱈釣り船の行方不明
椴法華村史 (北海道水産調査報告にみる鱈漁業)

北海道水産調査報告にみる鱈漁業 『明治二十八年、北海道水産調査報告巻之一鱈漁業』によれば、当時の鱈漁業,する部分のみ要約する)     恵山漁塲 (亀田郡尻岸内村ヨリ茅部郡森村ニ至ル)    本道中鱈漁塲,ノ啓發最モ舊ク漁事ノ旺盛新漁塲ヲ以テ聞ユル釧路・増毛ノ地ト比肩スルニ足ル海底水深ク棲息區域モ頗ル廣濶ナルヲ / 北海道水産調査報告にみる鱈漁業
南茅部町史 下巻 (〔郷土の森林〕)

松前国中記(市立函館図書館所蔵)に、     新井田孫三郎殿知行所 ヲサツベ  小名ミツナシ(より,)マツヤ(迄)    産物 昆布 鯡 鰤 鮫 布苔 かば 榀縄 鱈 (略)     又 木直し,      カツ汲    松前国中記は、記述された年代が不詳(または天保年間)といわれるが、知行主新井田孫三郎,そして、産物の後記を詳略したが、鱈の次に、「近年新鱈船といふて、臼尻の澗に入(いり) 鱈辛塩切江戸江登,ヲサツベ場所の新鱈(塩鱈)は、天明の末から寛政の初めに、江戸へ積み送られるようになったという。
南茅部町史 下巻 (〔製造所払下げ〕)

臼尻村・尾札部村の鱈肝油製造所は、開設発足の年から数年間、鱈漁の不振がつづき、原料が不足のため国内の大,で鱈の肝油の製造を試みた。  ,明治一三年、岡村製薬所は椴法華村と尾札部村で、独自に鱈の肝油製造事業をはじめたが、鱈漁の不振で原料不足,[図]              尾札部村支川汲三拾弐番地           拝借人 新井田元八,      建坪 貳拾貳坪五合 拝借人 新井田元八 [図] 北図類一三六―二 茅部郡尾札部村字河汲
南茅部町史 上巻 ([松前国中記])

この書には、郷土尾札部場所の知行主は、新井田孫三郎であると記している。  ,新井田知貞(元禄五年没)を祖とする新井田第二系で孫三郎を名乗ったのは、寛政の国後の乱の始末記を残した七代目正寿,このことから松前国中記は、新井田孫三郎の代、即ち天明の末から文化までの間である。,松前国中記のヲサツベ場所の記に     「近年、新鱈船(しんたらぶね)といふて、臼尻の澗ニ入(いり,            近年新鱈船といふて臼尻の澗ニ入 鱈辛塩切 江戸江登尤四五百石積弐艘位積是御改
恵山町史 (冬)

内臓を壺抜き(腹を割かずに内臓を取り出す)し塩を詰め込んだ鱈の加工品は「新鱈(しんだら)」と呼ばれ、江戸,北前船(きたまえぶね)でやってきた商人たちはこの「新鱈」を買い付け江戸に送った。,この新鱈を5年間浜ごと買い付ける契約書(いわゆる青田売買)が現在(いま)に残る。,また、当時の鱈漁が過酷であったことを物語る「鱈釣(たらつ)り口説節(くどきぶし)」も現存する。,しかし、記録に残るほど鱈漁が盛んであったということは、恵山沖が鱈の生息海域であると同時に、冬の気象が比較的
函館市史 通説編 第二巻 (函館仮博物場の新設)

函館仮博物場の新設 開拓使函館支庁は明治10年9月、鳥獣虫魚木土石などで普段見慣れない形状のものを採取捕獲,翌11年、谷地頭に造成中の公園地内に「人民の知識を開くに肝心なる博物館」(明治11年1月17日付「函新」,)の設置が計画され、3月19日、函館支庁から東京出張所へ宛て仮博物場新設の伺書が提出された。,に応じて平田兵五郎よりウラジオストック市街の写真、ブラキストンより鳥類標本1300余点、小林重吉より新製品,の鱈の子のからすみなどを献納された記事が「函館新聞」に散見する。 / 函館仮博物場の新設
椴法華村史 (漁船)

テハ市民ノ食料トシテ五十集(イサバ)商僅カニ小賣ヲ爲スニ過キス、近年航海運輸ノ便開ケ仙臺東京ニ輸出ノ新販路,棒鱈 惠山附近掛鱈ト称ス     乾鱈{   惠山附近棒鱈ト称ス        丸乾 祝津地方丸こぼし,ト稱ス        開鱈    鹽乾鱈{        鹽鱈    鹽鱈  新鱈   右ノ,内丸乾・鹽鱈ノ二種ハ製造盛ナラス開鱈モ衰退シ昔日ノ盛ヲ見ス廿六年ノ産額七十三石ニ過キス新鱈ハ需用較多ク,ナルヲ以テ故ニ骨抜ヲ製セサルモノトス高島・余市・古平・岩内・檜山・室蘭・静内・浦河・幌泉ノ各地ハ生賣ノ外新鱈
椴法華村史 (明治二十三年)

(当時の函館新聞を参考とする。,なお新北海道史九巻では数百名溺死と記す)なぜこのように多数の人命が失なわれたのであろうか。,明治二十三年十二月二十三日 函館新聞   ▲鱈漁    尾札部・臼尻・椴法華近傍にて先頃より鱈漁にかかりしに,(鱈一束は二十尾)   ・この年、亀田郡・茅部郡の塩鱈粗製のため値段が下落する。  ,塩鱈の一部製品中に塩量の不足していたものがあり、これが原因となって変色や腐敗が発生し良品の塩鱈までが暴落
南茅部町史 下巻 (〔官業工場〕)

病人はもとより、医薬にたずさわるものは、鱈の肝油(肝臓)が極めて成分がよいことを知り、国内で純粋な肝油,鱈釣り漁で有名な六か場所の村で、鱈肝油の製造を試みる計画がすすめられ、官業によって産業開発をすすめていた,開拓使の事業に鱈肝油の製造が組み入れられたのは明治一〇年であった。  ,年  札幌  醬油醸造所・味噌製造所・罐詰製造所(石狩)・機織場         函館  水車場・鱈肝油製造所,木挽機械所・製革所                                      (「新北海道史
椴法華村史 (椴法華と本州直送海運)

帰路は椴法華から商人の依頼による荷物(海産物・昆布・鱈等)を積み込み、検査を受けるため箱館を経由するか,この当時、椴法華村から本州へ新鱈直送を願出た書面に次のようなものが見られる。      ,   酒井左衛門尉様御手船       九人乗      陣屋彦次郎    右之船椴法華村おゐて新鱈積入此節手仕舞
椴法華村史 (椴法華出港観音丸の難破)

椴法華出港観音丸の難破 大正四年十一月十七日椴法華港より、生鱈、雑貨を積んで函館へ向かった観音丸、湯川尻沖合,この時の様子を当時の新聞は次のように記している。      ,大正四年十一月十八日 函館毎日新聞   ●觀音丸の難破        湯川尻沖合にて    青森縣三戸郡湊村長谷川藤太郎氏所有當地工藤海運部扱,ひ滊船第十觀音丸(六五噸)十七日午前〇時卅分椴法華より生鱈及び雜貨を積載し當地へ向け航行中下湯の川字湯
椴法華村史 (椴法華の貨物輸送)

椴法華の貨物輸送 『ジョン・ウイル航海記』によれば、明治三年「横濱に持ち行くべき鱈は、海峡の沿岸の数村,以前に取りて陸にて塩漬となしたる物や、又漁船が只今取りて来たれる新しきものを、直接予の船にて買ひて船の,りたるなり、これが終るや予等は直ちに横濱に向ひて、こゝを出航せり、」と記されており、この記事より椴法華産の鱈が,同じく『明治六年戸井往復』には、明治六年十二月二十一日、椴法華へ新鱈積入れのため函館地蔵町梅谷吉五郎に,暴風激浪のため難破し、積荷である塩切鰤十石六斗、鰯粕三石七斗五升、元揃昆布三斗五舛、手操昆布一石、鰤鱈取合
南茅部町史 上巻 (箱館の税制)

(二五両)      尻岸内 一〇五両 四月納一分 八月納九分           (四一両)=鱈釣,、八分死失)                   (文化七年八両のち五両となる)        新鱈冥加,          (七五両)        村割二五両        夷人歩役 一二両二分        新鱈冥加,新鱈冥加 二〇両        鱈釣舟      野田追 四〇両  六月納三分 八月納七分        ,荷物積取船役銭  穀役  六箇場所新鱈積船は、地元船(地船)他国からの入稼船(他船)に限らずその年
椴法華村史 (根田内出港川崎船の破船)

根田内出港川崎船の破船 明治二十四年一月十四日、根田内より新鱈を積み函館へ向かった川崎船、汐首沖で破船,(函館新聞)
恵山町史 ([新聞の記事にみる海難事故])

[新聞の記事にみる海難事故] 明治14年からの主な海難事故をひろう。  ,茅部郡古武井村にて海難   明治14年(1881)1月『函館新聞』  ○茅部郡古武井持(むら)にて漁師三人,、鱈漁に出かけしところ、意外に多く漁があるので面白紛(まぎ)れ無暗に釣揚ると、鱈の重みでたちまち漁舟が,』  ○亀田郡根田内村にて三人乗り(姓名不詳)の鱈釣漁船壹艘去月(あとげつ)二十八日沖合へ出掛けたきり,曳船を待ちつつありしが、午後十一時十七分同沖合に停泊中なりし函館区内魚盍澗(たなごま)町二十九番地、新宅一之助所有発動機船新吉丸 / [新聞の記事にみる海難事故]
椴法華村史 (大正十年)

大正十年 ・二月三日 椴法華村を出漁した鱈釣磯船、強風のため遭難漂流し戸井村字浜中に漂着、この時乗組員二名中一名,(函館新聞) [表] ・五月 第二回村会議員選挙実施。,・十二月 鱈好漁となり村内は少し景気の回復を見せる。,・この年あたりより、スケソウ鱈の動力漁船による延縄漁業が始められる。
南茅部町史 上巻 (考察2)

その出典、取材はわからないが、明治一五年一月一六日から函館新聞に連載された「建使以前茅部郡各村の景況」,函館新聞、明治一五年一月一六日第六二二号の「建使以前茅部郡各村の景況」によれば、     明暦元年,(一六五五) 能登の人飯田与五左衛門がはじめて尾札部に移住して鰯の引網漁をし、鱈釣り昆布採りをした。,天明四年(一七八四) 江差の人高田彦右衛門が熊泊にはじめて移住して昆布刈や鱈釣りをした。   ,と、函館新聞の「建使以前」の記事は、明治の初期のものとして一つの資料を提示している。
椴法華村史 (大正十一年)

・この年、椴法華村では、鰮漁普通・烏賊漁最初大不振、十一月末ようやく豊漁、鱈漁豊漁となる。  ,当時の新聞は烏賊漁・鱈漁の有様について次のように記している。     ,大正十一年十一月二十六日 函館新聞    柔魚と鱈の大漁     発動機で東北・東京へ       ,夫れよりは今の處では近海の柔魚が大漁、鱈も可也いい景気である。昨今の椴法華方面の模様を聞く。   ,この新聞記事をこのまま信ずると、大へん豊かな暮しが出来そうであるが、本当の処、一般漁家の生活は困難なものであった
椴法華村史 (古部漁民行方不明)

古部漁民行方不明 明治二十一年一月七日午前一時頃、古部漁民三名鱈釣りに出漁、午前四時頃暴風雪となり行方不明,(北海道毎日新聞)
函館市史 通説編 第一巻 (税制改革)

から生産高の15分の1税に改正、更に享保6、7年ころには、薪役の増徴、昆布役・入酒役・出油役・穀物役・鱈取役,・獣取役・人夫役等の増徴、新設を行った。,より汐首岬までの昆布船役は、1隻に付金4匁、ただし小船および亀田支配漁民が居ながら採取する時は同2匁、鱈取船役
椴法華村史 (大正二年)

本州からの入稼者の大部分は、青森県・新潟県・石川県などからであり、裏日本から来る人々の中には例年のように,一家が川崎船に乗り込み、いか釣り・鱈釣りに来村した人々もあったが、中には大正元年の凶作と不景気から何んとか,木古内方面その他桧山管内からの入稼者が多く、夏期の低温により大凶作が予想されたことから「秋いか」とその後の鱈漁,このように多くの入稼者をむかえた椴法華であったが、いわし漁・いか漁は不振で、鱈漁はやや良好(値段が高い,・この年、九月より中里介山の『大菩薩峠』が新聞に連載される。
函館市史 通説編 第一巻 (漁業の発展)

ことに箱館近在の小安、戸井、尻岸内、尾札部、茅部、野田追のいわゆる六箇場所は、享和元(1801)年、新たに,村並としたため、来住して漁業を営む者もいよいよ多く、特に江戸に移出される塩鱈の出産が増大し、その正確な,産額はつまびらかでないが、享和3年11月難船した奥州牛滝村の船が臼尻村の塩鱈を3万本積込んで、カムチャツカ
南茅部町史 上巻 (蛯谷金太郎出品)

 蛯谷金太郎] [第四回内国勧業博覧会褒賞證 蛯谷金太郎]    勧業博覧会(函館新聞,        尾札部村 杉林 政吉    塩 鰤         椴法華村 藤枝 覺蔵    元揃昆布 棒鱈     ,           仝    杉林 梅吉    乾章魚         鹿部村  高野司馬造    背割鱈         ,熊泊村  田中佐之吉    背割鰊         尾札部村 若松 喜七    背割鱈         
椴法華村史 (経営)

仕込受ケノモノハ漁獲物ヲ仕込主ニ渡シ資金ハ物品又ハ現金ニテ之ヲ受ケ新鱈期了リタル時一回又ハ漁業終了後ニ,大正十一年椴法華村開鱈製造業者住所氏名 亀田郡椴法華村字島泊 佐々木 彌兵衛 同 元椴法華村 佐々木,佐々木 富五郎      同 花咲 甚助 同 安川 富藏      同 増田 長助 椴法華産鱈統計
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