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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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椴法華村史 (新栄丸の座礁)

新栄丸の座礁 大正九年六月十九日、新潟市小池藤助所有汽船新榮丸百七十二屯、石炭積み取りのため函館より,(函館新聞) / 新栄丸の座礁
南茅部町史 上巻 (新第三紀・中新世)

新第三紀・中新世 「尾札部地区の新第三紀・中新世の地層として川汲層、汐泊川層、木直層が見い出される。,の淡緑色をした粗粒な凝灰岩よりなり、化石は見出されないが、岩相その他から南西北海道に広く分布する、中新世,(五万分の一地質図幅・尾札部)「訓縫層は中新世中期の海成層で、門ノ沢動物群に酷似した貝や台島型に近縁な,八雲層は「中新世中・後期の海成層で、おもに硬い珪質頁岩や珪質頁岩と凝灰質泥岩の互層からなり、厚さは八〇〇,くなって、このような泥や砂が厚く堆積するようになったわけで、このような海は「渡島半島から現在の秋田県、新潟県 / 新第三紀・中新世
函館市史 銭亀沢編 (古砂州が張り出し、新しい海岸段丘や海岸低地が出現した時代(図2・1・12、約八万年前))

古砂州が張り出し、新しい海岸段丘や海岸低地が出現した時代(図2・1・12、約八万年前) 一二万年前に,の標高で約六〇メートル付近にあった海面は、温暖期の終了とともに下がり始め、それまでの波食台は離水して新たな,その背後には、海から砂州により閉ざされた潟湖が形成され、そこには泥質物が厚く堆積した。,これらはいわば古砂州、古潟湖とも呼べるもので、古砂州にあたるところが、現在の千代台公園や、本町、柏木町,一方、古潟湖にあたるのは本通、柳町、川原町、深堀町の一部などである。   / 古砂州が張り出し、新しい海岸段丘や海岸低地が出現した時代(図2・1・12、約八万年前)
南茅部町史 下巻 (大正四年 函館港海運・回漕店)

      電話二三八番   定航    初穂丸  新潟直行                定航,  汐首・戸井・原木・日浦・尻岸内・女那川行   M高橋回漕店       定航汽船  瀬棚・函館・新潟,      電話一六八番                 定航   淡海丸  新潟・直江津行,                定航   間宮丸  新潟直行                 定航   ,白山丸  新潟直行                 定航   鎮西丸  新潟・直江津行        
椴法華村史 (明徳丸の恵山沖破船)

明徳丸の恵山沖破船 大阪西田弥平治所有明徳丸、千六百石積、乗組員十七人は、安政五年(一八五八)越後国新潟,      摂州御影 西田弥平治手船 明徳丸千六百石積、沖船頭但報告拾七人乗    右之船越後新潟
函館市史 銭亀沢編 (日本海文化の渡来)

たとえば、海峡に面した道南地方の遺跡では、新潟県糸魚川産のヒスイや、秋田県から新潟県の沿岸で産出される
椴法華村史 (初穂丸の遭難)

初穂丸の遭難 大正四年一月二十三日、室蘭より硫黄二千二百四十三石を積み新潟へ向け航行中の汽船初穂丸百九十九屯,航行困難となるが、船員一同必死となり排水に努め二十四日午前零時三十分、かろうじて函館に入港(函館毎日新聞
椴法華村史 (帆船二見丸の座礁、沈沒)

帆船二見丸の座礁、沈沒 大正六年九月二十八日、新潟港小熊幸次郎所有帆船二見丸、九十二屯、乘組員漁夫二十一名,(函館新聞)
函館市史 通説編 第一巻 (会所の設置地)

みようという指示を与えて発足したが、会所は、箱館、松前のほか江戸、大坂、京都、兵庫、堺、敦賀、下関、新潟,に設置され、江戸の会所は新大橋際植物場内に、大坂は劒先町、兵庫は北浜川崎町(後に鍛冶屋町)、堺は住吉橋西詰
函館市史 別巻 亀田市編 (東北の地名と亀田)

青森県には古くから亀田という地名の所が板柳町、藤崎町、平賀町、常盤村などにあり、更に秋田県の羽後亀田、新潟県
南茅部町史 下巻 (〔明治の商業〕)

〔明治の商業〕 明治一二年の函館新聞(第二二二号)に、尾札部村吉川方に寄留の新潟県平民松永藤右衛門が
椴法華村史 (八幡丸の沈没)

八幡丸の沈没 昭和二年十月十二日 函館新聞    發動機八幡丸==惠山沖で沈没    市内大森町七六奈良利吉,九日午後八時頃市内住吉町中午重松所有發動機船八幡丸に乘組惠山沖南方二海里の個所に於て烏賊漁中室蘭を出帆し新潟
函館市史 通説編 第二巻 (北海の編集陣)

党勢の拡張に努め、16年には同党の機関誌「新潟日日新聞」の主筆、社長となるなど立憲改進党の先鋒者として,大いに活躍した人物である(「月旦」明治24年8月2日付『函館新聞』、前掲『関係者略伝』)。,政論新聞の記者歴のある佐瀬が主筆になってからの北海は、一段と政党色の濃い言論活動中心の政論新聞(大新聞,その後「北海道毎日新聞」から熊田宗次郎が、新潟から青木清治郎(青葉山人)が、さらに佐瀬得三が入るなど北海,また函館新聞の主筆だった真島も一時席をおいた。
函館市史 通説編 第二巻 (船に網と人をのせ)

を経て漁業をなせり、是れ他なし、無税なると且つ魚の多数なるに因るなり」と、明治11年9月5日の「函館新聞,表9-60より、船舶の定繋港、つまり船主の住所別の隻数をみると、函館、新潟、青森、石川が多いが、明治9,表9-60 定繋港別日本形隻数   明治 9 明治 12 函館 福井 新潟,次に前記の船舶に分乗して渡航した漁夫の出身地を表9-63でみると、北海道、青森、新潟、石川、岩手、秋田,潟 石 川 岩 手 秋 田 富 山 香 川 山 形 700 365 242 234
函館市史 通説編 第二巻 (西洋形帆船の建造ブーム)

東京 函館 函館 京都 函館 浦川 様似 大阪 浦川 東京 函館 函館 新潟,東京 新潟 函館 石川 大阪 函館 函館 函館 函館 石川 函館 函館 京都,函館 函館 函館 函館 函館 函館 函館 函館 函館 石川 函館 愛媛 新潟,函館 新潟 愛媛 新潟 京都 函館 長野 秋田 函館 函館 石川 京都 函館,新潟、秋田、石川、岩手諸県の北海道貿易に従事する有力な商人も西洋帆船の製造者が増えている。
南茅部町史 下巻 (寛永の大噴火)

寛永の大噴火 新羅之記録に駒ヶ岳噴火の記録がある。      ,津波の前兆を知らずにか干潟にでていって多くの死者を出したのか。
恵山町史 (郡区町村編制法(地方制度三新法) (明治11年7月22日))

郡区町村編制法(地方制度三新法) (明治11年7月22日) 『郡区町村編制法』(太政官布告第17号),テ徴収セル府県費区費ヲ地方税ト改メ規則ヲ定ム)」(太政官布告第19号)とともに、いわゆる地方制度の三新法,トナス(東西南北上中下某郡ト云ガ如シ) 第四条 三府(東京・京都・大阪)五港(長崎・横浜・神戸・函館・新潟,この三新法施行の理由について、政府は大小区制を率直に反省し、同時に施行順序も具体的に示している。,まず、反省と施行理由は、「数百年慣習の郡制をやめ新しい大小区制を設けてみたが、人心に適さず便宜さを欠き / 郡区町村編制法(地方制度三新法) (明治11年7月22日)
函館市史 通説編 第二巻 (維新前後の外国船の状況)

維新前後の外国船の状況 開港以来、わが国は外国貿易の急激な伸長に伴い、国内の物資流通の輸送も急増する,外国船の国内における沿岸航路は開港場間に限定されていたが、維新の動乱期には諸藩や商人により雇船の形で不開港場,函館の場合には日本船と比較する材料はないが、明治3・4年における新潟港の調査でその概要を見ることができる,14,590  各年『イギリス領事報告』より    表7-3 1869-1870年新潟港内外船別沿岸貿易表 / 維新前後の外国船の状況
函館市史 通説編 第二巻 (金森回漕組と改称)

22年1月4日の「函館新聞」に「汽船取扱所、船場町の汽船恵山丸及矢越丸の取扱所は去る一日より金森回漕組,その結果、96登簿トンから148登簿トンとなり、船名を雷電丸と改称した(23年5月24日「函新」)。,この間21年末ころから青森便にも進出し、さらに豆海丸を購入後は同船と神威丸によって新潟行きの船便を出している,従来の道内便重視から青森や、新潟方面の道外航路へものりだしていくのである。,・幌泉方面が84回、恵山丸が厚岸方面61回、神威丸が浜中・根室方面20回であった(23年1月8日「函新」
函館市史 通説編 第二巻 (沿海州への出漁)

   表9-70 我が国漁業者の露領沿海州への出漁者数 年次 新潟 富山 京都 長野,出漁者を出身地別にみると、出漁者の増加とともに、新潟、富山出身者が多くなり、29年には両県出身者を合わせると,出漁シ一〇月若シクハ一一月ニ至リ其漁獲シタルモノヲ自船ニ搭載シテ再ヒ同港ニ帰港シ又時宜ニ依リテハ直チニ新潟若
函館市史 通説編 第二巻 (社外船の登場)

その発端となるような記事が24年9月9日の「函館新聞」に報道されている。,薪潟 瀬越 瀬越 塩屋 瀬越 河野 新潟 新潟 大阪,正義丸 第2運輸丸 平安丸 豊端丸 多聞丸 幸照丸 三友丸 都 佐渡国丸 北後丸 新潟丸,また有力社外船主の1人である大家七平は29年10月から逓信省の命令により函館・小樽・コルサコフ間と新潟,30年代になると新たな社外船の登場が見られる。
椴法華村史 (八千代丸と共栄丸の衝突)

当時の新聞はこの時の様子を次のように記している。      ,明治四十一年八月三十一日 小樽新聞   ○八千代丸沈沒 詳報       △ 原因は濃霧       ,滊船第三共榮丸と衝突沈沒したる惨報は昨紙を以て逸早く報導する所ありたるが今其の詳報を掲げんに   △八千代丸 新潟縣北潟市八千代滊船會社所有滊船
函館市史 通説編 第二巻 (移入米の取引)

、商取引や交通の事情によるのであろうか、函館と小樽では若干その仕出地が異なり、函館は酒田港が中心で、新潟,、土崎などがこれに次ぎ、小樽は伏木港が中心であって、新潟、兵庫、酒田、境、土崎が、これに順次続いていた,この42年ころの組合員は40名で、その有力なものは、太刀川善吉、今井定太郎、合名会社新商店、橋谷甚右衛門
椴法華村史 (烏賊漁の豊凶の様子)

烏賊漁の豊凶の様子 ・明治十六年の烏賊大漁    明治十六年十月二十二日付函館新聞より(要約),・明治十九年、この年石川・富山・新潟方面より烏賊漁のため函館へ来航した漁船よりコレラ発生し、下海岸住民,・明治二十四年、この年烏賊大不漁     (明治二十四年十一月一日、函館新聞より要約)   ※烏賊釣,の困難    本年当港烏賊不漁なる為佐渡・新潟地方出稼せし漁夫は歸國の旅費にも差支え甚(はなはだ)しきは,明治三十三年九月二十二日 函館毎日新聞     本港の秋烏賊漁況    本港の烏賊は夏漁の初めに於
函館市史 通説編 第一巻 (先史の時代)

先史の時代 現在の研究では、年ごとに新しい事実が発見され、時代区分もこれまでと変わった考え方をしなければならなくなってきた,函館市内には旧石器時代の遺跡がいまだ発見されておらず、現在のところ新石器時代になってからのもので、土器,以前には新石器時代を縄文時代と呼んでいたが、新潟県、長崎県、愛媛県などでそれまでの縄文土器よりも古い時期
函館市史 通説編 第二巻 (渡島組設立)

、村山紋太郎、笹野栄吉、滋賀県出身で東浜町辻嘉吉方寄留の中村庄兵衛、小林吟次郎(東京)、大島重太郎(新潟,そして購入当時は新潟方面への航海にあて、8月以降は昆布や鮭の収獲が始まる三場所や釧路方面に向けるという,報道がなされている(18年6月7日「函新」、明治20年『船名録』)。,明治21年の「函館新聞」の出帆広告では新潟便、八戸宮古経由浜中・厚岸便、神戸便などがある。,の発起人の荻野喜兵衛は石川の北前船主である忠谷久蔵の大町にある函館支店の惣理(18年11月11日「函新」
函館市史 通説編 第二巻 (「日本大廻り」航路の成立)

命令書に基いて明治9年4月から従来の横浜・函館の航路の他に横浜・函館・舟川・新潟・伏木・敦賀を月に1度結,ぶ北陸航路を新設した。,することをめざしたものであるが、この航路の第1船として瓊浦丸が4月30日に函館に入港し、翌5月1日に舟川、新潟,同じ年の8月には「当社先般東京ヨリ函館、新潟、伏木、敦賀ノ諸港ニ達スルノ線路ヲ設ケタルモ未ダ北海運輸ノ,上海線(20万円)、東京・横浜・神戸・大阪線(2万円)、東京・横浜・函館線(1万円)、東京・横浜・新潟諸港線
函館市史 通説編 第一巻 (近江商人の排除)

近江商人団を排除し、天明期前後から成長した伊達林右衛門、栖原角兵衛、阿部屋伝兵衛、高田屋嘉兵衛などの新たな,京都では越後屋利右衛門、大坂では多田清左衛門、伊丹屋四郎兵衛、小山屋吉兵衛、南部大畑では菊地与左衛門、新屋元左衛門,次いで兵庫、下関、酒田、青森、鍬ヶ崎、岩城、平潟、浦賀、下田等にも会所を置いた。
函館市史 通説編 第二巻 (保税倉庫のはじまり)

この規則は神奈川では慶応2年5月19日、長崎、函館では8月23日実施、その後、神戸大阪および新潟にも実施,この規則は、新潟、函館、長崎に施行された。,明治の初年には、内外の汽船会社は、運送品の荷捌、保管の為、主要港に於て自ら相当の倉庫を経営していた」「新企業
南茅部町史 下巻 (沿岸の定期航路)

沿岸の定期航路 明治四一年の函館毎日新聞の海運広告は、沿岸の海運の繁昌を伝えている。  ,定期航路状況                   (函館毎日新聞/明治41・12・29)   苫島丸,  観音丸    椴法華 銚子行 十二月十九日後十時   南部丸    同所行   第二北越丸  新潟
函館市史 銭亀沢編 (武井家煉瓦倉庫 [ボウジョウ] 石崎町 22)

武井家煉瓦倉庫 [ボウジョウ] 石崎町 22 武井家の先祖は新潟県から青森県に移住し、安永二(一七七三
函館市史 通説編 第一巻 (日本の先土器文化)

それまでは、日本の先史時代は中国や沿海州、シベリアの旧石器文化や中石器文化の影響を受けて新石器時代の縄文文化,日本の考古学における新しい研究分野の追求熱は急速に高まり、西日本では岡山、大阪、香川、福岡等においても,旧石器の存在が確認され、東日本でも新潟、山形、秋田、青森、北海道の各地に同様な発見があって全国的に研究成果,また、長崎県、愛媛県、新潟県、山形県などで縄文式土器より古い土器が旧石器時代の終りの石器群と共に発見され
函館市史 通説編 第二巻 (郵便制度の発足)

をみる中で、早々に決定をみた横浜への郵便役所設置(7月15日開業)でも同じであった(「太政官日誌」『維新日誌,郵便の全国網に意欲を燃やす駅逓寮は、この月、他の開港場(函館、新潟、長崎、神戸)にも郵便役所を設置することを,通達した(「太政官日誌」『維新日誌』)。,100 300 500 700 900 1,000 1,400 1,500  「太政官日誌」『維新日誌
南茅部町史 上巻 (アラスカ出稼(古部・小川勇助談・明治一五生))

生国は新潟県だという小川翁は八〇歳を過ぎて家を建てるほどの剛気な人であった。
函館市史 通説編 第二巻 (販売市場と経営収支)

「函館は鮭・鱒売買の一大市場なり、稀に新潟に直航する船舶もあり、輓近小樽港にて稀に売払うものあれども、,運搬す、故に販売の大取次所というも可なり、而してその販路をあぐれば鮭は東京を第一とし、次に仙台、塩釜と新潟,なり、鱒はサガレン島総高十分の六は新潟へ、その余は東京、仙台、塩釜、石巻、酒田、秋田、直江津、敦賀、伏木等,けてより大阪、下関又は九州方面へも少しく鮭・鱒の輸送を見るに至れりという」(明治29年9月11日「樽新」,したがって、30年代では、新規に鮭・鱒漁業を開業する妙味はなくなっていたわけである。
函館市史 通説編 第一巻 (修好通商条約の締結)

イギリス、オランダ、フランスもまたこれにならい、いずれも同様の条約を結び、下田、箱館のほかに神奈川、長崎、新潟
函館市史 通説編 第二巻 (日銀函館出張店の開業)

便ニシ且金融ノ疎通ヲ謀リ金利ノ平衡ヲ得セシムル」(『日本銀行沿革史』第1輯第1巻)ため、長崎・函館・新潟
恵山町史 (1、道南地方の郵便取扱所の開設)

1、道南地方の郵便取扱所の開設 北海道で最初に郵便役所が置かれたのは函館であり、わが国の「新式郵便」,当時函館は、長崎・横浜・神戸・新潟とともに港を開く国際貿易港として、各国の領事館や貿易商社なども続々と
函館市史 通説編 第二巻 (発刊数・価格・売り捌き先)

売 新 聞 東京日日新聞 朝 野 新 聞 東京絵入新聞,中央の新聞に比べ函館新聞は低価だが、区民にとっては決して安いものではなかった。,や銀行を紹介した雑誌には、函館新聞が日本の新聞として唯一掲載されている。  ,1000部以上の地方を拾ってみると、函館との経済関係を反映し、本州では東京や大阪をはじめ青森・秋田・新潟,462 451 331 鹿児島県 33 176 228 210 219 新潟県
恵山町史 (沿革)

当時の需要先は主に幕府や諸藩で大和船の船長は、大阪・新潟・敦賀・下関等へ運搬し売却していたという。,新山は、村民の発見に係り、明治15年4月、函館大町山本巳之助試掘の後廃業する。  ,明治21年7月、東京の富岡海蔵他1名、旧山・新山の試掘許可を得、同22年7月より借区操業を開始する。
函館市史 通説編 第二巻 (北海道関係の航路)

ではないということもあり、「営業モ亦随テ微々タル景状」(『共同運輸会社第一回実際報告』)であったので、伊藤社長は渡英して、新造船,下半期になるとイギリスに発注していた新造船が横浜に回航されたこともあり「稍営業ト称スルニ足ルモノアリ」,このうち北海道に関係する航路は東京-函館・小樽・根室、東京-函館・鰺ヶ沢・舟川・酒田・新潟、函館-小樽,東京発の便は函館経由で小樽行きの便あるいは根室行きの便がそれぞれあり、函館を中継地としていること、同じく新潟方面,この他に不定期航路は、函館・江差、福山(6月より10月までの期間に月に2往復)、函館・土崎、酒田、新潟
函館市史 通説編 第一巻 (為替及び金融)

為替及び金融 為替は江戸、大坂、京都はもちろん、庄内、新潟、敦賀、その他の各地に向かっても取り組まれた
函館市史 銭亀沢編 (〈ハネゴ〉)

竹ハリの竹は佐渡、新潟のマダケ(真竹)を使用し、割って、煮て干しあげ、固くしたものを削って作った。
函館市史 通説編 第二巻 (府県の関連団体との接渉)

件についての照会に協力したり(明治26年1月)、あるいは「東京湾、敦賀港、大阪港、四日市港、神戸港、新潟港等,一方富山県知事からも、翌27年4月になって同県下新川郡下で輸出藁莚改良組合が設立され、「当地産出ノ藁莚
南茅部町史 下巻 ((6)木直学校古部分校)

敷地坪数     弐百弐十弐坪 尾札部村支古部共有地 一 平家坪数     七坪半    右現今新築,付生徒四十(三十)名受持ノ見込             教師補助ハ是マテ古部人民協議ヲ以テ同処書役雇置ク新潟縣越後國北蒲原郡中条町百三十六番地平民江口藤太郎,内訳      教師補助給料仝  仝三円            仝  仝三十六円      書籍新調及補理費仝,      十五年二月十八日 [図]      古部分校設置の企             (函館新聞
椴法華村史 (明治二十四年)

(明治二十四年一月二十三日、函館新聞を参考とする) ・二月 北海道議会設立の請願書が帝国議会に提出される,当時の新聞は烏賊不漁のため出稼者が困窮している様子を次のように記している。       ,明治二十四年十一月一日 函館新聞      烏賊釣の困難    本年當港烏賊不漁なる為、佐渡・新潟地方,特に十一月から十二月初めにかけて大漁となり、その他十二月に入って新鱈・塩鰤の値が良かったため村民はようやく
函館市史 通説編 第二巻 (日本郵船の創業と命令航路の開始)

なお新会社は三菱が500万、共同運輸が600万を出資し資本金1100万円と定めた。,このため新造汽船の購入を進める一方で24年までに帆船を一切処分した。,新会社の経営陣は森岡が社長に4名の創立委員が理事に就任した。,高砂丸(2121トン)、長門丸(1854トン)、新潟丸(1910トン)、東京丸(2193トン)。,下関、境、敦賀、伏木、直江津、新潟、酒田、土崎、函館に寄港。時には寿都、江差に寄港した。
函館市史 通説編 第二巻 (第一公立病院の設置)

渡辺熊四郎(初代孝平)を世話係頭取として有志の寄付によったのだが、当時の「函館新聞」にも連日寄付金の記事,当時の医員は院長深瀬鴻堂以下、藤野玄洋、鳥潟精一、富塚謙叔、田巻松栄、宍戸精庵、田中尭民、後藤厚、久保田玄昌,開院後の患者数は前掲表12-1(→新体制下の病院)の通り、函館病院に比肩するほどであった。
函館市史 通説編 第二巻 (共同運輸の体制が整う)

したのであるが、これらは木製の小型船舶であり、政府としても260万円の国費を投じたので共同運輸が三菱を圧倒しうる新鋭船隊,当時三菱への攻撃の一つとして同社が海運独占にあぐらをかいて船舶の更新をはからなかったということがあるが,、政府・共同運輸は発展めざましい西欧諸国の造船技術から産みだされた高性能新造船をもって三菱の独占打破をめざした,16年当初に伊藤社長は渡英して新造汽船の建造もしくは購入にあたった。,横浜~函館~小樽~根室、横浜~函館~青森~舟川~土崎~新潟、横浜~函館~小樽~舟川~酒田、横浜~函館~
函館市史 通説編 第一巻 (安東政季らの渡海)

安東政季らの渡海 盛季が南部氏に破れて十三湊を放棄した時、盛季の弟安東四郎道貞の子、潮潟四郎重季(しげすえ,)を脱したか、もしくは竊(ひそか)に恢復を謀り、事露われて逃鼠(とうざん)したものと考えられる」(『新撰北海道史,あるいはまた、「田名部の豪族蠣崎蔵人が南部氏に攻められて松前にのがれたという事件と関係があるのではないか」(『新北海道史,そののち子孫が秋田において勢力を維持し、松前藩が独立するまで蝦夷島の支配を続けた(『新羅之記録』『能代市史稿
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