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戸井町史
(三、道南の館主と政季、信広の渡島(新羅之記録抜萃))
三、道南の館主と政季、信広の渡島(
新羅之記録
抜萃) 『
新羅之記録
(しんらのきろく)』に享徳三年(○○,1、信広の渡島 「
新羅之記録
」に蠣崎信広が渡島する時に佐々木繁綱、工藤祐長の外に、蠣崎の土豪、酒井七内 / 三、道南の館主と政季、信広の渡島(
新羅之記録
抜萃)
恵山町史
(2、寛永の駒ケ岳噴火・大津波、『新羅之記録』より)
2、寛永の駒ケ岳噴火・大津波、『
新羅之記録
』より 『
新羅之記録
』は、松前藩4代目藩主氏広が幕府の命により / 2、寛永の駒ケ岳噴火・大津波、『
新羅之記録
』より
函館市史 別巻 亀田市編
(蝦夷蜂起)
蝦夷蜂起 『
新羅之記録
』によれば康正二(一四五六)年志苔の鍛冶屋村でアイヌ人が和人の鍛冶屋に小刀(マキリ,なお『
新羅之記録
』に記されている館は十二館であるが、前に述べたとおりこれより古い時代に属すると考えられる
函館市史 別巻 亀田市編
(館構築の年代)
『
新羅之記録
』の中にあるいわゆる道南十二館の中に、亀田館や戸井館(岡部館)などが見当らないが、おそらく,道南十二館の形成以前に造られたものであり、なんらかの理由により松前藩の正史ともいうべき『
新羅之記録
』に
函館市史 通説編 第一巻
(蠣崎氏の蝦夷地掌握)
早朝、夷狄発向し来りて、松前の大館を攻め落し、守護相原彦三郎季胤、又村上三河守政儀を生害せしむ」(『
新羅之記録
,なわなかったといい、また紺備後はその功によって、役取人(収税吏)に任じられ、一門に準ずる待遇を受けるに至った(『
新羅之記録
函館市史 通説編 第一巻
(朱印の制書)
高麗国を手裏に入れらるること更に疑いなし」(『
新羅之記録
』)と、さながら外征の成功の瑞兆のごとく感激し,ては、速かに其旨趣を言上せしむ可し、関白殿数十万の人勢を差遣はし悉く夷狄を追伐せらる可きなり」 (『
新羅之記録
南茅部町史 下巻
(寛永の大噴火)
寛永の大噴火
新羅之記録
に駒ヶ岳噴火の記録がある。
函館市史 通説編 第一巻
(随岸寺)
随岸寺 『
新羅之記録
』によれば、字須岸全盛のころ隨岸寺という寺があったことをしるしている。
椴法華村史
(和人の館)
和人の館 『
新羅之記録
』によれば、嘉吉二年(一四四二)秋、安東氏の居城十三湊は南部義政の攻撃を受け、
函館市史 銭亀沢編
(志苔館の再建)
なぜなら、『
新羅之記録
』に永正九年四月十六日のこととして、「宇須岸、志濃里、与倉前の三館夷賊に攻め落とさる,松前家側の『
新羅之記録
』は「夷狄発向し来りて松前の大館を攻め落し、守護相原彦三郎季胤又村上三河守政儀生害
南茅部町史 上巻
(寛永の大津波)
新羅之記録
に 松前ノ東内浦之嶽俄爾トシテ焼ケ崩レ、其勢ニ滄海動揺シテ〓(つなみ)滔リ来リ、
戸井町史
(一、蝦夷時代の概観)
乱は長禄元年(一四五七)であるが、この時代の事蹟を調べる文献は、松前藩が藩内の学者に命じて書かせた『
新羅之記録
,然し道南最古の文献である『
新羅之記録
』ですら、寛永二十年(一六四三)幕府に奉るために慶広の六男景広が編纂,又嘉吉年間(一四四一―一四四三)以前の記録は、『
新羅之記録
』にも『福山秘府』にもない。
椴法華村史
(寛永十七年の駒ヶ岳噴火)
寛永十七年の駒ヶ岳噴火 『
新羅之記録
』によれば、寛永十七年(一六四〇)「六月十三日松前之東内浦之嶽俄尓焼崩其勢滄海動揺而
函館市史 銭亀沢編
(道路割・屋敷割の復原的考察)
「
新羅之記録
」(『新北海道史』第七巻史料一)によれば、一六世紀初めに和人と「夷賊」の戦乱で志苔館が陥落
函館市史 通説編 第一巻
(アイヌ蜂起の底流)
ことに志海苔の鍛冶屋村などは、すでに100戸を数える和人が進出して(『
新羅之記録
』)、地域ぐるみ封建的支配
椴法華村史
(康正二年、長禄元年の乱)
康正二年、長禄元年の乱 『
新羅之記録
』によれば、康正二年(一四五六)アイヌ人乙孩(オツカイ)は、当時志及利鍛冶屋村
函館市史 通説編 第一巻
(宇賀昆布と箱館の繁栄)
このようなことから『
新羅之記録
』によれば、永正年間(1504~1520)には、「宇須岸(箱館)全盛の時
函館市史 通説編 第一巻
([2 文化])
『
新羅之記録
』によれば、室町期の箱館港には、すでに若狭からの定期航路が開け、既述のように問屋は家を渚に
函館市史 別巻 亀田市編
(馬の渡来)
その後『
新羅之記録
』慶長二十(一六一五)年三月の記録に、松前慶広が津軽信平から良馬を贈られ、更に同年五月
椴法華村史
(下海岸アイヌの蜂起)
以上のように記した『北海道旧纂図絵』の和人とアイヌ人の抗争が全て事実かどうか疑わしい部分もあるが、『
新羅之記録
函館市史 通説編 第一巻
(安東盛季の渡来)
協議して、その弟康季を聖勅奉仕者とし伽藍再建に当らせている」ことや、また松前家の最古の記録とされる『
新羅之記録
,その後の経過について『
新羅之記録
』は、次のように記録している。
戸井町史
(四、戸井から六万枚の古銭と宝物出土(文政四年))
岡部季澄は「
新羅之記録
」にコシャマインの乱の頃の原口の館主と記録されている人である。 ,『
新羅之記録
』にも、戸井館、岡部館の記録は全然ない。,こういうことから、戸井にあった岡部館は『
新羅之記録
』に書かれているコシャマインの乱以前に蝦夷の襲撃を受
函館市史 通説編 第一巻
(諏訪大明神絵詞)
函館はむかしはウスケシ(宇須岸)といい(『
新羅之記録
』)、ウスリケシが訛(なま)って使われたものである
函館市史 銭亀沢編
(館主たちの支配版図)
『
新羅之記録
』によれば、安藤政季は、蝦夷島を去るにあたり、「十二館」の館主間の支配版図を「守護職」補佐
函館市史 銭亀沢編
(光広の大館移住)
蠣崎光広は長男義広とともに「上之国を改め、小船百八十余艘を乗り列ね来りて相原季胤の松前の大館に移住」(『
新羅之記録
函館市史 通説編 第一巻
(安東政季らの渡海)
そののち子孫が秋田において勢力を維持し、松前藩が独立するまで蝦夷島の支配を続けた(『
新羅之記録
』『能代市史稿
函館市史 通説編 第一巻
(コシャマインの乱)
コシャマインの乱 康正2(1456)年のアイヌの蜂起の発端について『
新羅之記録
』には、「中比(なかころ
函館市史 銭亀沢編
(銭亀沢周辺の地名)
もっとも「函館支庁管内町村誌」は、起源不詳の村の起源を記述する際、「
新羅之記録
」(『新北海道史』第七巻史料一
函館市史 銭亀沢編
(戸井館の築造)
戸井館について、『
新羅之記録
』は一言も触れておらず、いわゆる「道南の十二館」にはその名を止めてはいない
椴法華村史
(昆布漁業のはじまり)
左上すみに宇賀昆布 庭訓往来(内閣文庫蔵)現存する最古のもの 『
新羅之記録
』によれば、
函館市史 銭亀沢編
(短冊状地割と境界について)
「
新羅之記録
」の道南十二館は、一五世紀半ば蝦夷島に北走した津軽安藤氏の政治支配領域に組み込まれており(,岡部氏はコシャマインの蜂起以前に原口へ退転し、トヰの館は「
新羅之記録
」が書かれた一六世紀初期にはすでに
函館市史 別巻 亀田市編
(半農半漁の村)
半農半漁の村 鍛冶村の地名に関係がある最初の文献は『
新羅之記録
』で、「志濃里の鍛冶屋村に家数百有り」
函館市史 別巻 亀田市編
(擦文文化)
『
新羅之記録
』などの文献に出てくるこの時代の和人の館(たて)の存在と、それから出土する遺物が和人移住の
函館市史 通説編 第一巻
(問屋株仲間)
箱館には、いつころからどのような問屋が発生したものか、正確にはわからないが、『
新羅之記録
』に見られた中世期
函館市史 通説編 第一巻
(館主とその性格)
で、のち流浪して南部の田名部に至り、前述のごとく安東政季に従って渡海し、宇須岸に館を築いたといい(『
新羅之記録
函館市史 銭亀沢編
(古代・中世の地域・民族呼称)
また銭亀沢地区に存在した「志苔館」(『
新羅之記録
』には志濃里館とあるが、ここでは昭和九年国の史跡に指定
椴法華村史
(椴法華の先人)
松前藩の歴史書である「
新羅之記録
」や「福山秘府」にもない歴史資料である。
函館市史 銭亀沢編
(志苔館と渡党)
それを考える一つの素材として、次の『
新羅之記録
』の記事がある。,『
新羅之記録
』は、その末裔を「渡党(わたりとう)」と呼ぶと伝えるのである。
函館市史 通説編 第一巻
(志海苔館跡)
『
新羅之記録
』や、『福山秘府』に、「箱館と共に長禄元年・永正9年の蝦夷蜂起によって滅び、初代の館主小林太郎左衛門尉良景
函館市史 銭亀沢編
(志海苔の鉄)
『
新羅之記録
』が伝えるように、その当時、「志濃里の鍛冶屋村に家数百」もあり、その鍛冶屋村にアイヌの乙孩
戸井町史
(二、和人の館)
二、和人の館 『
新羅之記録
』は松前景広(かげひろ)が松前家の家譜や諸記録を整理し、まとめて集大成したものであるが
函館市史 銭亀沢編
(コシャマインの戦い)
コシャマインの戦いは、移住和人と先住民たるアイヌとの空前の一大民族戦争であったが、それについて『
新羅之記録
函館市史 通説編 第一巻
(先人の足跡)
寛永20(1643)年以後に松前藩で編集した『
新羅之記録
』や『福山秘府』によって、室町時代に本州から和人
函館市史 銭亀沢編
(安藤康季の渡道と「道南の十二館」)
『
新羅之記録
』によれば、その数一二という。
戸井町史
(二、戸井への和人の定着)
『
新羅之記録
』に記載されている道南十二館は、殆んど嘉吉三年(一四四三)安東盛季が南部義政に改められて敗
函館市史 銭亀沢編
(幕末の村むら)
一四五七)年五月十四日に「西蝦夷の攻を受て防戦、力を竭せり」と伝えられ、ついで永正八(一五一一)年(「
新羅之記録
戸井町史
([昆布漁])
寛永二十年(一六四三)松前氏四代目の藩主松前氏広が、幕府の命により、氏広の叔父景広が編纂させた、 『
新羅之記録
,『
新羅之記録
』に書かれている噴火湾の昆布取舟は、丸木舟で道具を使わず、手取り(・・・)していたものであろう
恵山町史
(4、江戸時代の昆布漁)
1643年(寛永20)編纂『
新羅之記録
』より <当時の昆布漁のようす> 『
新羅之記録
』は4代目松前藩主氏広
恵山町史
(目次)
…………… 361 1、津軽一統志にみる郷土の地名・ようす/2、寛永の駒ヶ岳噴火・大津波、『
新羅之記録
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