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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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椴法華村史 (新鱈積船の破船)

新鱈積船の破船 明治六年十二月二十一日夜、椴法華より新鱈を積入れ出航した函館小川五助所有の元一丸、大時化,此段申上候私儀當月三日新鱈荷物手配之為メ椴法花江罷越能戸勘右衛門方江止宿去ル四日新鱈弐百四拾束買入去ル / 新鱈積船の破船
椴法華村史 (干鱈と新鱈)

干鱈と新鱈 渡島地方においては古くから鱈漁業が行われており、最初漁獲された鱈は蝦夷の食料として少量利用,をもたらすようになるや塩を利用した保存が可能となり、東蝦夷地では天明年間(一七八一-一七八九)に至り、新鱈,(椴法華はこの頃尾札部領に含まれていた)  また享和三年(一八〇三)南部牛滝村慶祥丸は臼尻産新鱈三万余本 / 干鱈と新鱈
南茅部町史 上巻 (文化文政の新鱈約定)

文化文政の新鱈約定 慶祥丸遭難もあったが寛政年間には、すでに鱈場所としてヲサツベ場所は有名になっていた,ひと塩ものの新鱈を江戸に船送りするために、船人たちは命がけで航海をしたのである。,また、文政二年(一八一九)の「新鱈讓證文」は、臼尻村の新鱈の買付けは、仲買人の建値によるものではなく、,(市立函館博物館 高田屋嘉兵衛展出陳目録より)      新鱈儀定證文之事 一當村新鱈□積去亥年,    臼尻村新鱈讓證文之事 臼尻村新鱈壱番弐番船共 拙者鬮當リ候処 此度貴殿江 讓金壱番船金五拾両 / 文化文政の新鱈約定
南茅部町史 上巻 (ヲサツベの新鱈)

ヲサツベの新鱈 鱈は「越前のもの天下第一等なり」と東医宝鑑にある。,根室場所の西別の献上鮭製造場とならんで、臼尻の献上新鱈製造場は、蝦夷地の特産物の製造地として、その名を,ひと塩ものの鱈が年の暮れに送られて、江戸の新年の用に供され、新鱈といわれて珍重された。 / ヲサツベの新鱈
南茅部町史 上巻 (新鱈の江戸送り)

新鱈の江戸送り 箱館の高田屋は、鱈場所から買い集めた新鱈を、江戸の正月にむけて年の暮れに幾艘もの船を / 新鱈の江戸送り
椴法華村史 (鱈漁と税)

(中略)会所新鱈の時分箱館より在方懸り壱り、下役人弐人出張す。尤金銭回り甚よろし。,又此所に新鱈と申隠妓有也。    ,と記してあり新鱈の時期には大へん景気が良く賑わっている様子がうかがわれる。,また同書尾札部村の項では、「一、金六拾両、新鱈冥加、其余は豊凶、右の外鱈釣壱艘に付、弐人乗五束づつ如前,」とあり、椴法華村の項では「又此村にも昆布并新鱈帳面等も有べけれども未だ得ざるまま記さず。
椴法華村史 (鱈請負の制度)

この制度の詳細については不明であるが、初代新鱈請負人には、国領平七、つづいて升屋定右衛門がなりその後何代目,然れども此新鱈は今にても請負人にて則六ヶ場丈(だけ)を新鱈請と云て、当時箱館町升屋善兵衛なるもの致す也,また同書、砂原村の記事に「此辺より箱館口迄の新鱈を六ヶ場と云り」とある。  
椴法華村史 (根田内出港川崎船の破船)

根田内出港川崎船の破船 明治二十四年一月十四日、根田内より新鱈を積み函館へ向かった川崎船、汐首沖で破船
椴法華村史 (椴法華と本州直送海運)

この当時、椴法華村から本州へ新鱈直送を願出た書面に次のようなものが見られる。      ,   酒井左衛門尉様御手船       九人乗      陣屋彦次郎    右之船椴法華村おゐて新鱈積入此節手仕舞
椴法華村史 (椴法華産鱈の内地直送)

椴法華から内地へ向け直接新鱈を送るため積荷改めについての沖の口番所へ願った文書が残されているので次に記,龍神丸  酒井左衛門尉様御手船      九人乗      陣屋彦次郎    右之船椴法華村におゐて新鱈積入此節手仕舞
南茅部町史 下巻 (〔郷土の森林〕)

そして、産物の後記を詳略したが、鱈の次に、「近年新鱈船といふて、臼尻の澗に入(いり) 鱈辛塩切江戸江登,ヲサツベ場所の新鱈(塩鱈)は、天明の末から寛政の初めに、江戸へ積み送られるようになったという。
函館市史 通説編 第一巻 (商取引)

その他、塩鰤、新鱈、昆布、鯣、鰯粕なども江戸に送られるようになっているが、なかでも箱館六箇場所の生産力,の増大と相まって、この期には新鱈の江戸送りが頻繁になってくるのが注目される。
函館市史 通説編 第一巻 (鱈漁)

そのためこれを「新鱈」といった。
恵山町史 (5、江戸時代の鱈漁)

5、江戸時代の鱈漁 <鱈の漁場、恵山沖> 文化14丑年(1817)12月、『新鱈儀定證文之事』より,以下全文を記す    『新鱈儀定證文之事』 一、当村新鱈艤積去亥年より丑年迄儀定仕候処  年々積入出来,漁期が冬ということも相俟って、新鱈と呼ばれるに相応しく新鮮さが保たれ、需要も広がったのであろう。,新鱈の江戸送り  鱈漁・新鱈は大消費地である江戸へ、しかも正月に送られることによって成り立つ商(あきな,尚、この年は前述、尻岸内村の三役が高田屋金兵衛と新鱈儀定を交わした年である。    
南茅部町史 上巻 (箱館の税制)

、八分死失)                   (文化七年八両のち五両となる)        新鱈冥加,          (七五両)        村割二五両        夷人歩役 一二両二分        新鱈冥加,新鱈冥加 二〇両        鱈釣舟      野田追 四〇両  六月納三分 八月納七分        ,荷物積取船役銭  穀役  六箇場所新鱈積船は、地元船(地船)他国からの入稼船(他船)に限らずその年
椴法華村史 (椴法華近村と通信の充実)

其外所々年始状む(ママ)し書入来ル、    更に『元治二(一八六五)丑年正月諸書付』により、椴法華から箱館へ新鱈積,龍神丸、酒井左衛門尉様御手船、      九人乗      陣屋彦次郎    右之船椴法華村おゐて新鱈積入此節手仕舞
恵山町史 (冬)

内臓を壺抜き(腹を割かずに内臓を取り出す)し塩を詰め込んだ鱈の加工品は「新鱈(しんだら)」と呼ばれ、江戸,北前船(きたまえぶね)でやってきた商人たちはこの「新鱈」を買い付け江戸に送った。,この新鱈を5年間浜ごと買い付ける契約書(いわゆる青田売買)が現在(いま)に残る。
椴法華村史 (カジカ岩元一丸の破船)

カジカ岩元一丸の破船 明治六年十二月二十一日、函館地蔵町梅谷吉五郎に雇われ、椴法華より新鱈を積入れ出港,御座候    此段沖舩頭寅吉始メ乘組外三人御一同奉申上私共凾舘地藏町三丁目梅谷吉五郎雇舟ニ被頼椴法花新鱈積入之為左之品々,出航風波悪敷同日午後四時頃尻岸内村川尻迄罷越同所ニ而當月十八日迄野掛仕十八日十二時頃北風ニ而同所出帆同夜二時頃椴法花江着船仕り翌十九日新鱈弐百四拾束積込荷主立合椴法花村用掛改
南茅部町史 下巻 (渡島の港門)

寛政年間から文化年間にかけて、幕府の蝦夷地直轄期に入ると、六ヶ場所中とくに椴法華・臼尻の新鱈は、秋、五,、六百石以上の帆船が入津して新鱈を積み込んで江戸の正月に向けて帆走し市価を高めたといわれる。  
椴法華村史 (明治十九年貨物輸送費)

一、地廻リ新鱈一本ニ付五厘宛是モ寒中ト雖モ割増ナシ。 一、椴法花産塩鰤百石二千本ヲ以テ積算ス也。
恵山町史 (4、村政のはじまり)

これについての郷土についての資料は、1817年(文化14年)12月に高田屋金兵衛と交わした『新鱈儀定証文之事,』(これは5年間にわたる高田屋と尻岸内の新鱈の売買契約)に、古武井を除く尻岸内場所の役職・名前が載っている,一八一七年(文化十四年)『新鱈儀定証文』にある尻岸内・根田内・日浦の村方役  尻岸内村  ・頭取 清九郎,一八二六年(文政九年)『借用申証文』にある日浦の村方役  日浦村   ・小頭 宇之助    なお『新鱈儀定証文,古武井の新鱈儀定は、新鱈生産が根田内に次ぐことから、独自に結んでいたのではないかと思われる。  
椴法華村史 (経営)

仕込受ケノモノハ漁獲物ヲ仕込主ニ渡シ資金ハ物品又ハ現金ニテ之ヲ受ケ新鱈期了リタル時一回又ハ漁業終了後ニ
函館市史 通説編 第一巻 (市中商人の成長)

またどのような商売を営んでいたものか、もちろんはっきり知ることはできないが、享和3(1803)年、臼尻の新鱈売買
函館市史 通説編 第一巻 (鮪漁業と漁法の開発)

このほか日尻には献上新鱈製造場というのがあり、これは当時根室場所の西別にあった献上鮭製造場と同性質のもので
恵山町史 (6、郷土と高田屋嘉兵衛)

『新鱈儀定證文之事』を通し先にも触れたが、この高田屋嘉兵衛とわが郷土は強い結び付きを持っている。,このころから新鱈の積出しなどにより江戸航路も栄える。,支村の根田内(字恵山・御崎)日浦が、高田屋金兵衛と取交わした新鱈売買の契約書である。,『新鱈儀定證文之事』 一、当村新鱈艤積去亥年より丑年迄儀定仕候処 年々積入出来ニ付来寅年より丑年迄五,高田屋はこの地で、『新鱈儀定證文』に見るとおり新鱈の買付けをするために、瀬戸内、赤穂から大量の塩を持ってきて
椴法華村史 (椴法華の貨物輸送)

同じく『明治六年戸井往復』には、明治六年十二月二十一日、椴法華へ新鱈積入れのため函館地蔵町梅谷吉五郎に
椴法華村史 (明治二十四年)

特に十一月から十二月初めにかけて大漁となり、その他十二月に入って新鱈・塩鰤の値が良かったため村民はようやく
南茅部町史 上巻 (松浦武四郎)

又村内に 辨天社    美々敷建たり 制礼 幷に 庵寺 会所 有    新鱈の時分箱館より,又此処に新鱈と申隠妓有也。砂原の部に委しく致すが故にここには略しぬ。,土産    鱈 昆布 鰤 鯡 数の子 鱒 油コ ホッケ 雑魚 鯣 雑魚類多し 水よし 尤、右の内新鱈,一金六拾両  新鱈冥加 其余は豊凶  右の外鱈釣壱艘に付、弐人乗五束づつ如レ前   蝦夷行程記,又此村にも昆布幷新鱈帳面等も有べけれども未だ得ざるまま記さず。実に残念と云べし。   
南茅部町史 上巻 ([松前国中記])

松前国中記のヲサツベ場所の記に     「近年、新鱈船(しんたらぶね)といふて、臼尻の澗ニ入(いり,        産物  昆布 鯡 鰤 鮫  布苔 かば 榀(しな)縄 鱈             近年新鱈船
恵山町史 (1、興徳山『豊國寺』)

の文化6年、恵山火口原の通称“賽の河原”に十一面観音像を建立しているし、当時の郷土での活発な商取引・新鱈売買契約,(新鱈儀定證文・文化14年 産業編第1章漁業 第1節(5)の江戸時代の鱈漁 参照)などから考察し、まずは
南茅部町史 下巻 (〔商業のはじめ〕)

又此処に新鱈と申隠妓有也   カクシュマ・ヒヤミヅ  (略)此辺惣て昆布小屋立並なり          
恵山町史 (蝦夷地の航路を開く)

特に冬季間の蝦夷地の航海はタブーであったが、南下する千島海流を利用し、正月の縁起物の新鱈を箱館から江戸
恵山町史 ([松前藩時代の下海岸のみち])

高田屋嘉兵衛の文書には、冬季間「箱館から江戸まで、新鱈を3日3晩で運んだ」と記されている。  
椴法華村史 (明治六年)

・十二月二十一日 椴法華より新鱈を積入れ出航した函館中川五助所有元一丸大時化のため椴法華村カジカ岩付近
南茅部町史 上巻 (明治・大正の鱈漁)

秋鱈ハ普通一艘ニ付百五十束、春鱈ハ四五十束ヲ釣獲   入稼川崎船ハ一艘約二百五十束~三百束秋鱈は主ニ新鱈
椴法華村史 (漁船)

祝津地方丸こぼしト稱ス        開鱈    鹽乾鱈{        鹽鱈    鹽鱈  新鱈,  右ノ内丸乾・鹽鱈ノ二種ハ製造盛ナラス開鱈モ衰退シ昔日ノ盛ヲ見ス廿六年ノ産額七十三石ニ過キス新鱈,ナルヲ以テ故ニ骨抜ヲ製セサルモノトス高島・余市・古平・岩内・檜山・室蘭・静内・浦河・幌泉ノ各地ハ生賣ノ外新鱈
恵山町史 (2、箱館六ケ場所の成立)

とされているが、南茅部町史では尾札部場所の知行主、新井田家の系譜からの推察と、また、ヲサツベ場所の記に「近年、新鱈船,尤、四五百石積弐艘位積御改 御判共 此所(臼尻の澗)より直走願也」とあり、この地方の新鱈船の江戸への直走, マツヤ          産物 昆布 鯡 鰤 鮫 布苔 かば しな 縄鱈        *近年新鱈船,特筆すべきは、『新鱈』についての記述である。
南茅部町史 上巻 (鱈釣り漁)

(3)新  鱈  新鱈は、口から包丁を入れてエラとチュウをとりつぼぬきをする。,寒中の新鱈を、家の食べ用に干しておいて、夏、昆布採りの時期に、生魚(こざかな)などがないとき、掛矢(かけや,当時、古部、木直の新鱈は、函館新鱈組合の定期船として小樽丸が回航して船積みし函館に直送された。,一一月三日に繩おろしをして大晦日、正月までを一期(きり)とし、当時はほとんど新鱈でツボ抜きして塩をきった
恵山町史 (3、幕府直轄以降の箱館六ケ場所)

・新鱈冥加 六〇両   臼尻    一四〇両二分 ・四月納一分 ・八月納九分         (七五両,)=*鱈釣    ・村割   二五両    ・夷人歩役 一二両二分    ・新鱈冥加 六〇両,・新鱈冥加 二〇両   野田追    四〇両   ・六月納三分 ・八月納七分    ・村割   三二両二分,「荷物積取船役銭」と「穀役」  ・六ケ場所の新鱈積船は、地元船(地船)、他国からの入稼船(他船)に限
南茅部町史 上巻 ([慶祥丸漂流])

享和三年(一八〇三)、南部領牛瀧村(青森県佐井村)百姓源右衛門の持船慶祥丸が、六箇場所臼尻村の新鱈(塩鱈,箱館弁天町浜屋次郎兵衛と同所大町辰巳屋七郎兵衛の両名が、臼尻産の新鱈を、江戸鉄砲洲栖原屋久次郎ならびに,弁天島の沖に澗掛りして、臼尻・尾札部辺の新鱈(塩鱈)三万一、一三〇本を積んだ。,北海道大学附属図書館所蔵  江登呂府嶋ヨリカムサスカ迄嶌々図 此圖ハ文化元年 南部北郡牛瀧村ゟ江戸表江新鱈為積登船十二人乗
恵山町史 (6、蝦夷日誌に見る郷土のすがた)

アイヌの話では、ここをシユマトマリといい、椴法華よりこの辺りは鰤(ぶり)が多く、秋の中頃より冬の中頃、新鱈,(註1、制札 名主が職命により幕府の禁止事項「触達」お触れを書いて立てた立札)  (註2、新鱈 鱈の
椴法華村史 (明治十九年)

一、地廻りの新鱈は一本に付五厘ずつでこれは寒中の割増はしない。   
恵山町史 ((5)昭和42年当時の尻岸内村の漁港)

されており、ここが江戸時代から船入澗であったことは確かであり、また、江戸末、高田屋に高値で買取られる新鱈
恵山町史 (4、嘉永7甲寅3月の『箱館六ケ場所調べ』)

貫目(尻岸内・根田内) 鰤(ぶり)          近年漁無し 鱈(一八・五トン)      新鱈四三
戸井町史 ([松浦武四郎の『蝦夷日記』(嘉永三年)])

後又々夷人死に失せ、残り夷人子どものみにて、稼方致し候者一向不足に候由、依って五両宛納め   一、金六十両 新鱈冥加,この村には昆布並に新鱈帳面等があるものと思われるが、これを見ることができなかったので記さない。,秋の中程から冬の中程まで鰤網をかけ、新鱈の時期にやめるという。  
椴法華村史 (目次)

     (一) 鱈漁業の沿革………………………………………………………558      干鱈と新鱈,一) 明治前期の鱈漁業…………………………………………………565      外国船と椴法華の鱈/新鱈積船
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