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椴法華村史
(日持伝説と日持聖人祭)
日持
伝説と
日持
聖人祭 今を去ること六百数十年前、日蓮上人の高弟に蓮華阿闍利
日持
という勇猛の僧があったが,、ある日、
日持
は海外布教をしてはどうかという師の導びきを受けた。,この導びきに発心した
日持
は、永仁三年(一二九五)正月、駿河国(静岡県)を出立、翌年箱館に渡来し数年間にわたって,その後、
日持
はより遠い異郷に日蓮宗の教えを広ろめるため、永仁七年(一七九九)六月一日、恵山の北浜より、,また、
日持
の出立後、今まで見たこともなかったホッケが椴法華で漁獲できるようになり、ホッケは
日持
の加持によって /
日持
伝説と
日持
聖人祭
椴法華村史
(日持由来説)
日持
由来説 松浦武四郎の『蝦夷日誌』弘化二年より同四年(一八四五-一八四七)までの記事をまとめたものによれば,土人の話しに、椴法華は近来の字にて、唐渡法華と云よし、其ゆへは
日持
上人此処より入唐し給ひしと。,
日持
上人の加持を得て此地にて此魚ども成仏せしと云伝ふ。 ,なお
日持
が椴法華より異国に渡った記事については、このほかにも内容は少し異なるが、『北海道旧纂図絵』に見 /
日持
由来説
函館市史 通説編 第一巻
(日持上人の渡来説)
日持
上人の渡来説 永仁4(1296)年、日蓮の高弟6僧の1人である
日持
上人が、津軽石崎を経て渡来したという,のものであることがほぼ確実だと思われるから、
日持
の異域渡航は事実であり、とすれば
日持
が奥羽、蝦夷地を経,とあって、
日持
の渡来を若干肯定している。 ,いずれにしても、江戸中期に
日持
渡来説が流布され、信じられていたのは事実である。,
日持
上人経塚 鶏冠石(実行寺裏山) /
日持
上人の渡来説
南茅部町史 下巻
(日持上人渡海)
日持
上人渡海 日蓮上人の高弟
日持
上人が永仁二年(一二九四)=正応四年(一二九一)ともいう=蝦夷地に渡海,
日持
は箱館山の頂上にある鶏冠形の巨石に題目を書きのこし、石崎に庵を結び、この地に在ること四年、のち椴法華 /
日持
上人渡海
椴法華村史
(日持の布教伝説)
日持
の布教伝説 伝説によれば、日蓮上人の高弟に蓮華阿闍利
日持
という勇猛の僧があったが、ある日、
日持
は,この導びきに発心した
日持
は、永仁三年(一二九五)正月、駿河国(静岡県)を出立、翌年箱館に渡来し数年間にわたって,その後、
日持
は、より遠い異郷に日蓮の教えを広めるため、永仁七年(一二九九)六月一日、恵山の北浜より、蝦夷 /
日持
の布教伝説
函館市史 銭亀沢編
(日蓮宗日持山妙応寺)
日蓮宗
日持
山妙応寺
日持
山とその山号が示すとおり妙応寺は
日持
上人の開基であると伝えられている。,正安元(一二九九)年に
日持
上人がこの地を去るに当たり一二体の木像および一字一石の経石を現在の場所に埋めたといわれてる / 日蓮宗
日持
山妙応寺
函館市史 通説編 第一巻
(良忍・日持の布教説)
良忍・
日持
の布教説 従って大治年間(1126~1131)融通念仏の祖、良忍が布教弘法のために函館に杖,を休めた(『箱館夜話草』)ということや、日蓮上人の高弟
日持
が異境の布教を志し、永仁3(1295)年正月駿河 / 良忍・
日持
の布教説
椴法華村史
(アイヌ語か日持か)
アイヌ語か
日持
か 永田方正は『北海道蝦夷語地名解』の中で、「今椴法華村と云フ日蓮宗ノ僧侶始テ此処ニ来航,し、法華宗を開キシ処ト云フハ最も愚ナル附会説ナリ」としており、須藤隆仙は『日本仏教の北限』の中で、「
日持
,更に『鶏冠石の由来書』には、
日持
が満州を目ざして椴法華より出発した。 / アイヌ語か
日持
か
函館市史 銭亀沢編
(寺院)
寺院 △
日持
山妙應寺 日蓮宗 大字石崎村ニアリ。,由緒=人皇九十一代後伏見天皇ノ永仁三年ノ創立ニシテ開山ハ本化沙門六老僧ノ一人
日持
上人也。,爾後明治十二年寺號公称
日持
山妙應寺ト改稱ス。毎年旧暦六月一日
日持
発錫ノ当日ヲ以テ報恩会式ヲ行フ。,前述ノ
日持
彫刻ノ木像及経石ノ現存セルモノ、木佛七体(完全ナルモノ三体)経石大小四箇ナリ。
函館市史 銭亀沢編
(経石塚碑)
経石塚碑 裏面 経石塚在奥州松前石崎村、昔
日持
尊者埋自書妙経石処也、尊者諱
日持
號蓮華阿闍梨、駿州松野村人, 城下惣檀中 箱館惣檀中 両側 吾蓮華阿闍梨
日持
尊者
函館市史 銭亀沢編
(妙應寺)
三分ノ二ヲ埋メ霊跡トシテハ物足ラヌ心地コソスレ、信者ヲ参籠セシムルガ如キニハ何等不自由ナシ 山号ヲ
日持
山,開山ハ日蓮上人ノ高弟蓮華阿闍梨
日持
上人ニシテ本道最古ノ寺跡タリ。
戸井町史
(一、和人渡来の始め)
⑤永仁四年(一二九六) 日蓮上人の高弟で六老僧の一人といわれた
日持
(にちじ)上人が蝦夷地に渡ったという,伝説 大体以上の事蹟や伝説ぐらいのもので、文治五年は、
日持
上人が渡島したという伝説のある永仁四年よりも,一〇〇年後の
日持
上人の事蹟ですらあいまいな伝説なのに、文治五年が戸井の草創だということは歴史を知らない,又
日持
上人渡島伝説の永仁四年(一二九六)は南北朝時代の始まる広弘二年(一三三二)より四十七年前なので、,
日持
上人渡島の頃も戸井に和人の館があったということは考えられない。
函館市史 銭亀沢編
(近代の妙応寺)
明治十二年九月二十六日、この経石庵が庵号を改めて「
日持
山妙応寺」と寺号を公称したい旨の願書が開拓使へ「,
日持
を開基とするこの妙応寺は、明治に入るとなにかと世人の耳目を驚かすことが多くなった。,日露戦争をステップに、政府の推進する海外進出策は社会的にも受容されつつあったから、この「海外伝道者」
日持
,その意味で、妙応寺は、「海外伝道者」
日持
の開基であることから、日蓮宗の単なる霊場だけにとどまらず、海外進出,昭和期に入り、「満州事変」を機にして日中戦争が勃発するや、なお一層、
日持
は人びとの心を捉える機能を果たしていった
函館市史 銭亀沢編
(伝承にみる仏教寺院)
この「岩の題目」とともに
日持
の霊場を祭る「法華堂」付近には、大正から昭和十年の頃に神水の涌く「涌き水」,黒岩の
日持
の霊跡を祭る供養祭は、今日に至るまで、四月十日と十月十日の年二回、三〇人から四〇人の参拝者を,また、六月三十日の夜から七月一日にかけて、
日持
の渡航の事蹟を偲んで集まった一五〇人ほどの人たちが夜を徹,「
日持
上人の渡航祭」である。
函館市史 銭亀沢編
(弘法様の水)
*石崎の妙応寺には、
日持
上人が石崎を去って、椴法華より中国に渡るとき一字一石の経石を埋めたが、寺宝として,亦・妙・具と書かれた三個の経石がある(「妙応寺
日持
山縁起」)。
函館市史 銭亀沢編
(大字志苔村)
大字志苔村
日持
上人ガ陸奥ヨリ渡リテ志苔濱ニ上陸スルヤ、豫テ船中ニテ彫刻セシ八大龍王ノ立像八体及祖師
椴法華村史
(その他の由来)
『椴法華村ノ原因(明治十四年の記録) 今ヨリ数百年前旧土人ノミ多ク住居スル頃ハ則永仁年中
日持
上人
椴法華村史
(サマーフェスティバル・イン・トドホッケ)
のこれからの発展の主要になるであろう観光は、自然景観的土地利用とともにサーフィン大会、どうだんつつじ祭り、
日持
聖人祭
函館市史 銭亀沢編
(概説)
石崎村
日持
山妙應寺及志苔村古城趾ノ如キハ明ニ時代ヲ物語ルモノタルベキ歟。
函館市史 銭亀沢編
(黒岩さん)
それで
日持
上人が墨で南無妙法蓮華経と書いた。海の水をかけると文字が浮き出る。
函館市史 銭亀沢編
(漁や出稼ぎの時の弁当)
中身は恵山で作られていた梅干しとシソを入れ飯の上に塩と胡麻をつけ、
日持
ちのするように焼きおにぎりにした
函館市史 銭亀沢編
(黒岩岬)
此ノ岩石中ニ
日持
上人七字ノ題目ヲ書セリト云フモノアリ。
椴法華村史
(アイヌ語起源説)
アイヌ語起源説 椴法華という地名の由来については、アイヌ語とするもの、日蓮宗の
日持
上人にその起源を求
函館市史 銭亀沢編
(幕末の村むら)
寺としては経石庵があり、箱館実行寺の「永仁四年六老僧の
日持
上人是地へ渡り、庵を結で棲み居ること四年、後漢土,へゆきたり」との伝説を紹介すると共に境内の経石塚碑の碑文から、
日持
の足跡を追跡し、
日持
は漢土に渡ることなく
函館市史 銭亀沢編
(安藤康季の渡道と「道南の十二館」)
日蓮宗の
日持
が遺跡として伝え残した「経石庵」の整備がそれである。,小林氏は、対アイヌの宗教的忌避も兼ねて自らの氏寺ないしは和人の共同墓地として、
日持
の遺跡の「経石庵」を
函館市史 通説編 第一巻
(中世の遺跡)
そしてこれらの出土地は、
日持
上人が立寄り、滞在したとされる地域と偶然にも結びつくのであるが、それらについては
函館市史 銭亀沢編
(寺院の姿)
『北海道寺院沿革誌』によれば、妙応寺の建立を
日持
の渡道にもとめ、正安元(一二九九)年中には、帰依者が一宇
戸井町史
(一、魚類・タコ・イカの類)
日持
上人の渡唐の伝説から推量すると、昔はこの近海でとれなかったものであろう。,
日持
上人にまつわるホッケの伝説は次のようなものである。 ,「蝦夷地へ渡って石崎に四年間滞在した
日持
上人が、渡唐を決意して椴法華に至り、ここから唐に渡った。,
日持
上人が椴法華を去る時に『私がこの地を去った後、この近海で見なれない魚がとれるようになるだろう』といった,
日持
上人が去ってから予言の通り見なれない魚がとれるようになったので、村人はこの魚にホツケという名をつけた
戸井町史
(年表の序)
下海岸のことが日本の歴史に登場した始まりは、文治五年より百年以上後の永仁四年(一二九六)日蓮上人の高弟
日持
上人,又年表(稿)は、石崎へ
日持
上人が滞留したという伝説から、永仁四年(一二九六)を上限としたが、戸井に和人
函館市史 通説編 第二巻
(明治時代の函館の寺院群)
1,575人 妙応寺 石崎村 日蓮宗 実行寺
日持
が永仁4(1296)年、異邦布教のため着岸し、正安元
函館市史 銭亀沢編
(短冊状地割と境界について)
また石崎に
日持
上人が庵を結んだという一二世紀末期や、石崎宮の沢の「鰐口」から、一五世紀中期にも石崎に和人領域
南茅部町史 上巻
(松浦武四郎)
トドホッケ 八丁 扨、土人の話しに、椴法華は近来の字にて、唐渡法華と云よし、其ゆへは
日持
上人此処,
日持
上人の加持を得て此地にて此魚ども成仏せしと云伝ふ。
戸井町史
([松浦武四郎の『蝦夷日記』(嘉永三年)])
そのわけは
日持
上人がここから唐に渡ったからだという。ここに
日持
上人の古跡があるという。,
日持
上人の加持祈祷によって、この地でこの魚が成仏したと言い伝えられてりる。 ,この村の庵寺は法華宗で、日蓮上人の弟子
日持
上人という者が、ここに渡海し漁者を教化したと寺の縁起(えんぎ
戸井町史
([下海岸の交通の変遷])
これが有名な
日持
山妙応寺というお寺で、昔日蓮上人の弟子、
日持
上人が渡道して、この寺を開いたと伝えられている
椴法華村史
(目次)
一 村名の起源 ……………………………………………………………17 アイヌ語起源説/
日持
由来説,/アイヌ語か
日持
か/その他の由来 二 村内の地名 ………………………………………………………, 一 和人の渡来 ……………………………………………………………305 流刑の地/
日持
,水無温泉 第三節 村おこし…………………………………………………………………957
日持
伝説,と
日持
聖人祭/どうだんつつじ祭り/サマーフェスティバル・イン・トドホッケ 第九編 宗教
戸井町史
([戸井と近隣の変遷])
シノリ浜、銭神沢、石崎の白石にあった
日持
上人の遺跡も遠くよそに見渡し漕ぎ進んでいるうちに海の上で日が暮,永仁四年(一二九六)に
日持
上人が石崎に滞留したという伝説があり、元弘四年(一三三四)に書かれた『庭訓往来
函館市史 銭亀沢編
(目次)
八幡神社(石崎町)/寺院の立地と建物/ 浄土宗大願寺/浄土宗勝願寺/真宗大谷派観意寺/日蓮宗
日持
山妙応寺
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