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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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戸井町史 ([シロイ浜の硯石と最上徳内])

[シロイ浜の硯石と最上徳内] 最上徳内(もがみとくない)が寛政二年(一七九〇)に書いた『蝦夷草紙』巻,最上徳内が「シロイの浜」と書いている場所は、石崎村ではなく、釜谷と汐首の間の昔から「シロイ浜」と呼ばれているところである,最上徳内は、天明五年(一七八五)幕命によって蝦夷地検分に渡島した御普請(ごふしん)役青島俊蔵の「検地竿取 / [シロイ浜の硯石と最上徳内]
恵山町史 ([道路開削の嚆矢])

・寛政十年       最上徳内  大日本恵登呂府        近藤重蔵       下野源助,を登り降りし、波間を見計らって岩礁伝いに、辛うじて通行できる状態を見せられた重蔵は、道路案内に立った最上徳内
南茅部町史 下巻 (〔温泉〕)

寛政二年(一七九〇)、最上徳内(宝暦五年生・一七五五)は、「蝦夷草紙」上巻 巻之二 産物の事の項に、
函館市史 通説編 第一巻 (幕府の蝦夷地調査)

すると、渡辺胤はここに留まり、大河内政寿は東蝦夷地を巡回して様似に至り、その別動隊として配下の近藤重蔵は最上徳内
函館市史 通説編 第一巻 (地誌・風俗書)

菅江真澄の来遊は有名で、その見聞録のひとつの『ひろめかり』は、この地方の記録として貴重であり、また、最上徳内
南茅部町史 上巻 (ヲサツベの新鱈)

最上徳内はその著「松前史略」の寛政元年(一七八九)の条に、「東部ヲサツベ初(はじめ)て塩鱈を江戸に出す
函館市史 別巻 亀田市編 (農業の奨励と耕作方法)

また畑の耕作方法について、最上徳内の『蝦夷草紙』によると      東在郷には喜古内の沢辺に濁川、
函館市史 通説編 第一巻 (直捌制廃止の理由)

一 調役並最上徳内、当春中よりカラフト詰にこれ有り候処、右場所御固め会津家人数え対し、自分鍵(限)の了簡
函館市史 通説編 第一巻 (ロシア使節の来航)

ロシア使節の来航 最上徳内「蝦夷草紙」 最上徳内  この時、普請役最上徳内、小人目付和田兵太夫
函館市史 通説編 第一巻 (日本人人種論)

コロポックルの名称は、天明5(1785)年から6年にかけて蝦夷地を調査した最上徳内が文化5(1808)
戸井町史 (目次)

 第六節 法泉寺の伝大蓮作の仏像二体…………………………………368  第七節 シロイ浜の硯石と最上徳内
恵山町史 (5、江戸時代の鱈漁)

江戸への移出については、最上徳内の著『松前史略』寛政元年(1789)の条に「東蝦夷地ヲサツベで初めて塩鱈
恵山町史 (4、江戸時代の昆布漁)

<昆布の生産高と輸出>  1788年(天明8)の「最上徳内の蝦夷地調査記録」によれば、昆布の産出額120
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