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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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南茅部町史 上巻 (会所)

会所 寛政一二年(一八〇〇)、東蝦夷地を幕府が上知して直捌制をおこなうにあたり、東蝦夷地の運上屋は以後会所 / 会所
函館市史 通説編 第二巻 (会所用達)

会所用達 貸付会所の運営に当っては、三井が開拓使より管理を命ぜられ、小野組、島田組、その他6名(田中治郎左衛門,明治7年の小野・島田両組の破産で会所も動揺したので、12月黒田長官が自ら赴き、大阪会所の管理と、同時に,会所規則が整備された(前掲「三井銀行と開拓使」)。,すなわち、明治7年12月に仮規則を定めていたが、8年6月に貸付会所条例、貸付会所定款および貸付規則を制定,「貸付会所定款」によると、第16条で貸付業務によってえた利益は会所純益をも含めて、すべて貸付元金に繰入 / 会所用達
函館市史 通説編 第一巻 (各会所用達)

各会所用達 各会所には、掛役人のほかに用達を置いたが、箱館会所の用達元〆として福島屋杉浦嘉七が充てられた,大坂は加島屋作次郎を用達とし、会所付仲買として松前問屋13軒を任じ、そのうち伊丹屋四郎兵衛、近江屋熊蔵,これらの産物会所では、蝦夷地からの船舶、貨物を検査し、商人に入札で貨物を売買し、その代金を会所に納めて,馬鈴薯などの新産物をも販売し、また、京都、大坂その他の商人で蝦夷地の産物仕入のため、あらかじめ出金し、会所 / 各会所用達
函館市史 通説編 第二巻 (町会所の新築)

町会所の新築 町会所  函館の町会所は、幕末期には奉行所の表門に付属した長屋(門長屋という呼称,(第1大区4小区会所町16番地)に新築移転したようである。,この町会所、新築移転の時期や具体的内容を明確にすることはできなかったが、明治6年の大区割費の費途は「町会所,・駅場・町用掛月給・町会所取建拝借金納メ其外一切区入費大区割総合計」とあって、町会所建設のために開拓使,戸長の執務場所が支庁内に移ったため、会所町の町会所は、旧町会所となり空家となった。 / 町会所の新築
南茅部町史 下巻 (会所の頃)

会所の頃 往昔、蝦夷地の交通(道路や乗りもの)は未発達だった。,会所に通行屋を付属させて旅人の運搬や駅馬の用に当たらせた。        / 会所の頃
函館市史 通説編 第一巻 (会所の設置地)

会所の設置地 幕府は、ただちに箱館奉行の意見を受け入れ、前幕府直轄時代の産物会所の例に準じ、2、3年試,みようという指示を与えて発足したが、会所は、箱館、松前のほか江戸、大坂、京都、兵庫、堺、敦賀、下関、新潟,に設置され、江戸の会所は新大橋際植物場内に、大坂は劒先町、兵庫は北浜川崎町(後に鍛冶屋町)、堺は住吉橋西詰 / 会所の設置地
戸井町史 (二、会所時代)

二、会所時代 寛政十一年(一七九九)に、幕府はロシヤの南侵に備えるため、松前領の東蝦夷地を幕府の直轄,後には旧運上屋だけを会所と称し、宿泊所を旅宿又は通行屋と称した。,この時小安と戸井の運上屋はそのままの建物を会所とした。  ,戸井会所跡(〓谷藤家のところ)  会所時代の村役人は嘉永時代までは頭取、小頭、百姓代などと称していたが,会所が廃止された。 / 二、会所時代
函館市史 通説編 第二巻 (町会所蓄積金)

町会所蓄積金 町会所には町会所が管理運用していた町会所蓄積金と呼ばれる市民共有の財産があった。,この町会所積立金に関して、明治8年6月から明治10年10月までの「町会所予備基本金出納月表」(道立文書館蔵,町会所予備基本金というのは町会所蓄積金の大きな部分を占めることは間違いないと思われるので参考として掲げておく,この町会所蓄積金のほかに町会所には備蓄米が存在した。,このほか町会所は町会所持ちの共有地を所有し、地代金家賃が蓄積されていた。 / 町会所蓄積金
函館市史 通説編 第一巻 (会所設置の目的)

会所設置の目的 従って、この産物会所の目的は、名目的には、   (1)密貿易・抜荷取締,すなわち、各地産物会所の主要な任務は、拡散した漁場仕込制を統制し、外国貿易を幕府の手に握ることであった,新たな利潤を引出そうとしたものの、会所を通さない産物が多くなるなど、幕末期の広範囲にわたる商品流通を、,明治元年10月、箱館生産会所として組織替えするに至った。  ,なお、この産物会所は、産物振興のため鉱山の開発、硫黄の買上げ、養蚕機織の奨励、陶器および紙の製造、紫根 / 会所設置の目的
函館市史 通説編 第二巻 (産物会所の設置)

が様々にとられるが、安政3(1856)年の「通船改会所諸産物会所」構想(『幕外』14-201)も、そのような,箱館産物会所は、この構想の一環としてのものの実現という意味があったようである(永井信「箱館産物会所の機能,会所附仲買のもの以外は取引ができず従来、だれでも売買できていた時のように相場がすすまない、会所では現金取引,実施の初年次、文久元(1861)年に、大坂会所の為替用達三井八郎右衛門、竹川彦太郎、兵庫会所用達北風荘右衛門,初年次のまとまった出資は大坂会所用達加嶋屋作治郎の1万両だけで、あとは、京都で募った4000両、江戸会所 / 産物会所の設置
函館市史 通説編 第一巻 (町会所の埋立)

町会所の埋立 弁天岬台場から地蔵町に至る一帯の海岸は、箱館の発展に伴い埋立の必要が生じたので、町会所 / 町会所の埋立
函館市史 通説編 第一巻 (箱館会所の所務)

箱館会所の所務 直捌下の箱館会所の所務取扱いは、毎年10月限り各場所の必需物資の仕入高を取りまとめ、,会所掛がこれを検査し、調役一同が認印したあと吟味役に差出し、認可を得て御用聞に下げ渡された。,御用聞はその注文品を注文先別に諸国に引分け、注文帳をつくって差出し、会所掛調役、同下役が取調べの上、吟味役,文化2、3年ころの例をとれば、会所の総仕入高は、およそ2万3、4000両といわれ、仕入金額の最も多いは / 箱館会所の所務
函館市史 通説編 第二巻 (町会所の組織構成)

町会所の組織構成 前述の通り町会所の責任者は、江戸時代の町年寄・名主が開拓使により明治2(1869),町会所は区長・戸長・副戸長体制となったのである。,もっともこのときは、前年末の町会所行革のあおりで戸長は罷免され1人もいなかった。,大区事務所である区務所にあって大区を統括するというのが大小区制の基本形であるが、函館にあっては、その事務を町会所内,   表2-28 町会所事務分担表(明治12年中期) 事務内容 担当者 出納・用度・租税 / 町会所の組織構成
函館市史 通説編 第一巻 (町役所・町会所)

町役所・町会所 箱館もしだいに戸口の増加に従い、町政を司る所として町役所が置かれるようになった。,町役所も後には町会所と改められ、その役人は町年寄・名主、および町代といい、その下に組合頭があって5人組 / 町役所・町会所
函館市史 通説編 第一巻 (産物会所の設置)

産物会所の設置 幕府の蝦夷地再直轄は、開港および北辺の防備という対外的な要因によって行われたものであったが,そのため、箱館奉行所は、安政4(1857)年幕府へ産物会所の設置を稟請した。,船手の密貿易も行われる心配があったので、これを取締るため江戸、大坂、その他諸国の要地に箱館奉行付属の会所 / 産物会所の設置
函館市史 通説編 第一巻 (運上屋を会所に)

運上屋を会所に こうして新たな商人を御用聞として上から把握して、流通の拠点となる要港をおさえ、同時に,蝦夷地各場所では、旧来場所請負人の場所経営の中心となっていた運上屋を会所と改め、幕吏を在勤させ、これまでの / 運上屋を会所に
椴法華村史 (会所・通行屋の設置)

会所・通行屋の設置 六箇場所では、場所請負制度の廃止にともない旧運上屋が廃止となり新たに会所が置かれ,における実支配者であった場所請負人は廃止されたが、他方運上屋の支配人や番屋の番人そのほか村の有力者などは、会所,官用書状の継立・旅行者の宿泊・人馬や船の継立・道路の修理・それに非常時の備えとして早馬・早船そのほか会所 / 会所・通行屋の設置
函館市史 通説編 第二巻 (開拓使の町会所監督強化)

開拓使の町会所監督強化 町会所に自主的な町政運営を任せてきた開拓使も、官僚機構が整備されると、町政の,まず、明治5年12月函館支庁は次のような達書(『法規分類大全』租税門地方税)を出し、町会所の権限で徴収,  区入費坪割銭ト唱、是迄町会所并町用掛限取立来候処、以後相止メ候条、向後区入費坪割銭ハ,勿論祭事割合、瑣細ノ取立銭共、一箇年月或ハ半箇年且其時々総計割当計算済、当庁許可ノ上雛形ノ通金員払印町会所,しかし、この時は民事課の主張が通り官費により積立てた町会所予備金殻のみが会計課所管に変更された(「町会所金穀出納評議留 / 開拓使の町会所監督強化
恵山町史 (会所・宿泊所の掟・きまり)

会所・宿泊所の掟・きまり 会所・宿泊所の掟・きまりについて、箱館奉行羽太正養の公務日誌『休明光記遺稿,『寛政十二年申三月、休明光記遺稿』より    蝦夷地会所掟所竝箱館会所掟書之事  斯而、東蝦夷地場所々々,おゐて会所を造り建られて、蝦夷人と交易の場となし、又は旅人之宿所となりぬ、依て会所掟書を定めらる。,惣而諸人応対共叮嚀ニ心掛、兼々会所居合之モノ相互ニ可二申合一    候事、右之通平常急度相守可レ申候 / 会所・宿泊所の掟・きまり
函館市史 通説編 第二巻 (町会所蓄積金の経理調査)

町会所蓄積金の経理調査 体制を整えた函館支庁は、ついに町会所蓄積金の経理にメスを入れた。,函館支庁は明治10年12月支庁第45号広告で「函館町会所蓄積金穀ノ員数、従来精密ノ調査無之ニ付、今般官民,ノ内ヨリ委員ヲ命ジ調査セシメ候処現在ノ金穀左ノ通ニ候」と、町会所蓄積金調査結果を広告した。,の人事刷新と同時に、次の2点を改正して、町会所経理の公正を期した。  ,1、町会所の経理精算書を年2回(7月と12月)一般市民に公開縦覧すること。 / 町会所蓄積金の経理調査
函館市史 通説編 第二巻 (初めての小学校・会所学校)

初めての小学校・会所学校 初めての小学校・会所学校の子どもたち    8年3月20,日、会所学校の開校が布達され、翌4月4日には、100名の児童を収容して函館で初めての小学校が開校した。,文部省の学則・教則に基づいて決められた会所学校の「校則」は次のとおりである。,一入学出願日ハ・・・月々二ノ日就学ハ其翌日ト相定 一入学出願ノ者ハ左ノ雛形(略)ノ通名札二葉ヲ製シ、町会所,会所学校は開拓使費によって開設した開拓使立=官立の小学校である。 / 初めての小学校・会所学校
函館市史 通説編 第二巻 (町会所蓄積金から函館区共有金へ)

出納表に「(出納内容を)詳細閲覧致族ハ函館区役所内町会所ヘ出頭帳簿閲覧」とある通り、町会所は区役所内に,明治10年末の町会所出納調査以前は市中商人へ貸付けて増殖を図っていたが、出納調査以後は貸付会所に預け替,この時町会所共有金から区内共有金へと名称が変わり、町会所という名称も自然消滅となったようである。  ,この集会所に「穏当なる古称を復習し用ふる」ということで町会所という名称が付けられ、19年4月に富岡町に,洋風2階建84坪(本屋)の町会所の運営は町会所取締(初代取締今井市右衛門、副平田兵五郎、同工藤弥兵衛) / 町会所蓄積金から函館区共有金へ
函館市史 通説編 第二巻 (運上会所の創設と通訳)

運上会所の創設と通訳 塩田三郎  安政6年6月に外国との交易が開始され、運上会所も創設された。,安政6年2月末には運上会所の定員などが定められたが、その「詰合人数」には各役々に混じって、名村五八郎、,そこでの通訳の仕事ぶりは、運上会所の書類にある一件がよく示している。 / 運上会所の創設と通訳
函館市史 通説編 第二巻 (運上会所設置と海岸道路普請)

運上会所設置と海岸道路普請 東浜町海岸より税関を望む 北海道立文書館  これまでは、函館の都市形態,この運上会所が、産物会所とともに大町の御作事場に建設されることに決まったのが安政5(1858)年10月,同年の12月20日に両会所建設の入札があり、1423両にて伊勢屋伝蔵代伊兵衛に落札された。,8月11日に運上会所事務室落成。,万延元(1860)年7月1日運上所波止場が落成し、10月20日に全体で4551両をかけた運上会所産物会所建築工事 / 運上会所設置と海岸道路普請
函館市史 通説編 第二巻 (町会所開設の新聞縦覧所)

町会所開設の新聞縦覧所 明治の初期、新聞はどのようにして一般の人々へ普及していったのだろうか。,して進んで新聞を購読してもらい、それによって函館の人々の開明化を図っていこうという意図のもとに、6年町会所 / 町会所開設の新聞縦覧所
椴法華村史 (陸路の充実)

寛政十一年(一七九九)八月幕府は、東蝦夷地知内村から以東を直轄し、東蝦夷地の場所請負人を廃し、道路を開き会所,宿泊所は最初会所とよんでいたが、のちには旧運上屋だけを会所と呼び、宿泊するものを旅宿所又は通行屋と呼ぶようになった,寛政十二申年三月、休明光記遺稿    蝦夷地会所掟書竝箱館会所掟書之事   斯而、東蝦夷地場所々々,おゐて会所を造り建られて、蝦夷人と交易の場となし、又は旅人之宿所となりぬ、依て会所掟書を定めらる。,以上     申三月                   会所
函館市史 通説編 第二巻 (設置の理由)

西蝦夷地の産物は松前沖の口で検査収税する制度を設け、安政4年閏5月7日に密取引防止の方法として箱館産物会所,ついでこの会所を江戸、大阪、兵庫、下関、敦賀等に置いて、蝦夷地より廻送する荷物は会所の周旋を以て売却し,、また各地商人より蝦夷地物産元仕入として会所に供托する資金は、これを箱館会所に廻送して請負人、問屋、出稼人等,、箱館生産会所と改称された。,東京を始め諸国枢要の地に会所を置いた。
函館市史 通説編 第二巻 (富岡学校予科併設)

しかしその後、会所町の官舎を利用して小学校(会所学校)を開校することとなり、富岡学校予科生もその小学校,等出仕 城谷成器 中里方精 坂本重勝 吉田元利 高橋済一 菊地卓平 鈴木重直 和田音次郎 会所学校,会所学校 会所学校 会所学校 会所学校 松蔭学校(英) 松蔭学校(数) 松蔭学校(数)
椴法華村史 (下海岸地域の浦役場)

は浦役場ニ代用扱所之地名詳細取調至急可差出旨、今般甲弐十三号ヲ以御再達ニ相成奉畏候即チ當邨方村用扱所会所,開拓権少書記官柳田友郷殿      別記        茅部郡十八大区一小区         小安村十三番地    會所, 飯田藤吉         同戸井村五十番地   會所 水戸忠吉         同尻岸内村三十八番地, 會所 増輪半兵衛         同椴法華村二十九番地 會所 佐々木弥三郎    右之通取調候所聊相違無御座候也
椴法華村史 (オンコの木沢遺跡)

市立函館博物館所蔵 B B 縄文後期 椴法華遺跡出土 椴法華村教育委員会所蔵 C,C 縄文晩期 椴法華村教育委員会所蔵 D-1 D-1 縄文晩期 椴法華遺跡出土 椴法華村教育委員会所蔵,D-2 D-2、D-3 続縄文 恵山式土器、浜町砂丘遺跡出土 椴法華村教育委員会所蔵,D-3 E E 縄文晩期初め、椴法華遺跡 椴法華村教育委員会所蔵 [図],G 縄文晩期 椴法華遺跡 椴法華村教育委員会所蔵 [図]
函館市史 通説編 第二巻 (機能と業務形態)

機能と業務形態 「貸付会所仮規則」の最初の条項に、貸付金は北海道地方から輸出する産物ならびに北海道地方,貸付会所定款によると貸付会所の組織は、役員の最高が頭取で、ついで副頭取が検査、出納の2課を分掌し、支配人,貸付は一切を東京会所が管理し、役員を派遣して大阪、函館両所の事務を分掌せしめる。,の純益を積立てたものを第3類とした(貸付会所定款第14条)。,〔   五年〕 函館会所町に貸付会所を設けた。
函館市史 通説編 第二巻 (函館の区入費)

明治5年はまだ町会所入費として江戸時代以来の坪割銭が徴収されたようで、この坪割銭の使用目的項目としては,「杉野家文書」の明治7年の大区割費徴収資料によると、明治6年の区入費は2636円60銭9厘で「町会所駅場町用掛月給町会所取建拝借金納,徴収に先立って、町会所から「大区割計算表」が市民に示され、「細目承知イタシ度モノハ町会所ヘ罷出帳簿閲覧可致,「払之部」の費目については、明治10年末の町会所経理調査の後(11年1月より6月の計算表から)、町会所経費,大区割区入費を町会所が総括していたので各大区毎に経費が集約されることはなかった。
恵山町史 ([宿泊施設の独立])

[宿泊施設の独立] 当初、この宿泊所は『会所』と呼んでいたが、後、旧運上屋(役人が駐在)だけを会所と,すなわち、『会所』は役人による公的な事務(行政)を扱い、旅人・輸送に関する実質的な業務は、専門業者による
函館市史 通説編 第一巻 (産物取扱方)

すなわち、場所産物を積んだ船が箱館港に到着すると、会所掛がこれを産物帳に記入し、送状は吟味役に差出し、,官船・雇船にかかわらず、下役または在住の者が船改めに赴き、会所からは産物掛手代が船中に行って品物を見届,開札には会所掛が出席し、御用聞と産物掛手代が立会ってこれを開き、高札者を落札者として記帳、御用聞らが評議,の上会所掛の認可を得て、落札者に品物を渡した。
函館市史 通説編 第二巻 (郵便役所設置前の函館事情)

触書、市在三通町役人ヘ相渡 十一月十六日 奉行衆ヨリ御用状亀田五稜郭内大鳥圭介ヘ被差越候ニ付、右町会所,十二月二十四日 玄蕃殿(永井玄蕃箱館奉行)ヨリ福山表人見勝太郎方ヘ御用書差出ニ付町会所ヘ差遣ス,ヘサシ出ス 三月二十六日 諏訪ヘノ返事、町会所ヘ差出 四月二日 高龍寺より竹中殿ヘノ手紙遣候ニ付、,運上所が脱走軍首脳から逓送を依頼された手紙は、町会所を通じて(町会所からは請書を取る)且つ遠隔地は郷村継,これも手紙は町会所を通じて相手方へ届けている。
函館市史 通説編 第二巻 (書店魁文社の開店と新聞縦覧所)

#160;  この新聞縦覧所の運営は、北海道の書店の先駆けともいうべき書店「魁文社」の開店により、町会所,そして同時に、既設の町会所管理の新聞縦覧所はこの魁文社内の新聞縦覧所へ合併され、施設の充実が図られたのである,の新聞誌ヲ備ひ一層展観の便ニ供ス」(「官許新聞誌縦覧書移転御触書」、( )内引用者)という御触書が町会所,さらに翌9年には、施設の公共性より従来は町会所が負担していた新聞の購入代金を、経営のめどが立ったとして,魁文社が総てを負担することになった(明治9年「町会所金穀出納評議留」道文蔵)。
函館市史 通説編 第一巻 (市街の拡張)

役所正門から海岸に向かって広い坂道が通り、貿易港としての表玄関である運上所、産物会所および交易会所につき,それに続く大町は産物会所、交易会所から、内陸の旅人、商品の出入を取締まる沖ノ口役所および問屋、小宿、諸商人
函館市史 通説編 第一巻 (近江商人の排除)

すなわち、寛政11(1799)年仮直轄になると、会所を箱館ならびに江戸(当初は伊勢崎町、のち霊厳島に会所,次いで兵庫、下関、酒田、青森、鍬ヶ崎、岩城、平潟、浦賀、下田等にも会所を置いた。
椴法華村史 (元揃昆布の高値と粗製)

粗製 その後長崎俵物の昆布・煎海鼠(いりこ)・干鮑(ほしあわび)は天明五年(一七八五)から長崎俵物会所,の直売となり、箱館に会所を設置し会所の役人二人が直接買入れを行うようになった。  
椴法華村史 (長崎俵物の買入れ)

長崎俵物の買入れ 長崎俵物の買入れは、天保九年(一八三九)から普請役が会所役人に替わって行ったが、成績不良,のため、天保十二年(一八四一)から再度、長崎俵物箱館会所がこれを取扱うことになった。,会所の下には問屋があり、問屋は昆布の産出する各地方からの昆布を集荷し買入れを行った。
南茅部町史 下巻 (〔搔き送り船(かきおくりぶね)〕)

尻岸内の会所から椴法華へ、そして尾札部の会所と引き継ぐ。,椴法華から古部・木直・尾札部の往来をする船便は会所(以前は運上屋)の大事な役目であった。  
函館市史 通説編 第一巻 (幕府の蝦夷地調査)

  且又差当り長崎廻し俵物の儀、請負人ども、不束の儀これ有り候間、自今諸国一同に、長崎会所直買入,、召限り払いの積りにて、則わち此度会所役人をも相添え差遣わし、俵物稼方の者のためにも相成り候様、場所において,  とあって、文中「長崎会所直買入」とは、長崎俵物の直買のことで、幕府はこの調査派遣を契機,に、俵物を全国画一に直買制とするとともに、箱館に会所を開設し、その会所役人として河野伴左衛門、青野助十郎
函館市史 通説編 第二巻 (町内入費)

坪割銭の徴収は年2回(5月と12月)で、町会所発行の切符「札」をもって徴収した。,この坪割銭は、明治5年に大小区制が導入され、町会所経費を大区費として整理されるまで続いた。  ,次に町会所の事務費といえる「筆墨紙料」であるが、宗門改の時にその他の役銭と共に集められた。,この祭礼銭は明治5年に大小区制が導入された後も、町会所が引き続いて徴収を続けたようであるが、明治10年,ただし、函館では後述する大区費小区費ともその内訳に祭礼費のような項目がなく、町会所がどのような形で八幡宮
椴法華村史 (近村への道)

その後、前幕領時代となり、旧来の運上屋は会所と変わり、椴法華村に番所が見られるようになる。,番所というのは会所の出先機関として、運行屋を兼ねほぼ会所と同じ役務をなしていたものである。  
函館市史 通説編 第二巻 (大区扱所・小区扱所)

この大区扱所が、翌10年5月に「従来各町ニ取設有之大区扱所及ヒ会所等(函館町会所ヲ除)ハ、自今開拓使第何大区区務所,しかし区務所となっても大区事務が函館町会所において取扱われることには変わりなく、形式的には3つの区務所,が町会所内という体制であった。
函館市史 通説編 第二巻 (英語稽古所の設立)

英語稽古所は運上会所構内に設けられたのだが、いつ頃できたかは、次の万延元年12月付けの史料から見当がつく,異船諸書付」道文蔵)    すなわち、稽古所を新しく設けたので業務量も増えるであろうから、運上会所付,運上会所が完成したのが10月だから、その後間もなく12月中には英語稽古所もできていたことがわかる。,名村がここで教授を始めたのも12月中であったことは、先程の運上会所増小遣の件中にある名村本人からの願いに,元治元年にはそのうち、神辰太郎が、箱館での通弁御用を依頼され、また、明治元年には佐山利三郎が、運上会所
函館市史 通説編 第二巻 (小学教科伝習所付属小学校)

小学教科伝習所附属小学校 北大図書館蔵北方資料室蔵    入学希望者が跡を断たない会所学校,そこで道路を挟んだ隣地(元町99)に新たに小学校を新設し、会所学校の児童を移すことになった。,この時期すでに師範学校の旨趣に基づき開拓使立の小学教科伝習所が開設していたこともあり、新設の会所学校を
函館市史 通説編 第二巻 (伝習所の設置とその機能)

の札幌本庁管内からの派遣生(明治9年「函館支庁日誌」道文蔵)など31名の生徒が入所し、9年2月8日、会所学校,城谷成器を筆頭に同じく東京師範学校の卒業生である中里方精・坂本重勝それに斗南藩士吉田元利の4名で、ともに会所学校,、小学師範学科として初の全科卒業生は翌10年7月になって2名(官費生の菊池敏四郎・土屋直三郎、ともに会所学校,この全科卒業の二名は会所学校に奉職した。  ,翌11年6月従来教員が兼任であった伝習所と会所学校は組織上完全に独立、伝習所には監督が置かれ初代監督に
函館市史 通説編 第二巻 (町年寄・名主の廃止)

町年寄・名主の廃止 江戸時代以来箱館の町政を担当してきたのは町会所である。,この町会所は、幕府による前直轄時代が始まる頃にはもうその存在が確認されている(「維新前町村制度考」『函館市史,』史料2)が、安政元年に幕府による再直轄が始まる以前については、「町会所」とその名称を特定することは難,つまり安政2年1月26日に出された「町年寄名主詰所ノ義、私領中町役所ニ唱来候得共、以来町会所ト唱可申候,」とする旨が明記されており、それ以後の触書では全て町会所名が用られている。
函館市史 通説編 第二巻 (城谷成器の着任)

8年1月12日、「校舎には称名寺の建て家を借用した富岡学校を使用する予定だったが、永続の目的を以て、会所町一五,の官舎を修繕し使用したい」、「校名は所在地所名より会所町学校としたい」、「他の尋常学校とは異なり官費設立,授業料を徴収する以上は純粋の官立とはいえないので、北海道在籍だけでなく寄留の人の入学も許可したい」、「会所町学校規則,この伺いに対し、校則・学則の一部訂正と校名は「会所学校」とすることという「但書」が付いたが、8年3月2
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