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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (昆布税)

但し一駄と申すは長さ三尺の昆布五十杖抱四把なり、昆布数四百枚なり。,二十五駄納の時は切昆布と申し、元昆布の能を取り末の薄きあしき所にて外より多く赤昆布納め申す候事は、昆布出所,赤昆布は、一名天下昆布ともいい、幕府にも献上した最良品で、この昆布と普通の昆布の区別について『松前蝦夷記,本赤昆布と申すは右の如く常の青昆布の内千枚に一枚も他目なきものにて候由。,青昆布は沢山、是も本末段々分け申す由、本の能所は赤昆布の如く、知らざるものは是も本赤昆布と存じ、尤も常 / 昆布税
函館市史 通説編 第二巻 (日本昆布会社開業後の昆布取引)

日本昆布会社開業後の昆布取引 明治22年5月、前述した昆布会社と連合組合との契約要領に基づき、最初の,   表6-35  日本昆布会社の昆布購入価格の推移 種別 明治21 明治22 明治, 一方、昆布の主要な輸出先となる上海市場の価格をみると、日本昆布会社の直輸出開始前の21年に615,』)、過去数年間低迷していた昆布の産地価格や需要地の価格が、連合組合と日本昆布会社による一元集荷と直輸出,を取扱う目的をもち、主に東京の資本家によって創立された大規模な日本の会社(日本昆布会社のこと-著者)が / 日本昆布会社開業後の昆布取引
椴法華村史 (昆布役)

昆布役 前幕領時代より安政元甲寅年(一八五四)に至る箱館の税制沿革の記録といわれる『箱館御収納兼分帳,昆布にて納来候処 文化元子年より依願金納相成候)    菓子昆布 壱駄     但、家役拾三駄半は,菓子昆布、壱駄     但、運送の節難破船或は雨濡、汐濡等にて難レ納節は銭納。    ,御上り昆布 壱抱     但、前同断      菓子昆布、壱駄に付 代八百拾弐文      御上,り昆布、壱駄に付代五百弐拾文     但、[図会船三半船]願にて御役昆布併自分取昆布共々積入、難破船皆無捨 / 昆布役
南茅部町史 上巻 (松前昆布)

享保二年(一七一七)の松前蝦夷記には、昔から昆布は大別して、赤昆布・本赤昆布・青昆布・切昆布・細昆布などにわけられていた,赤昆布は品質は今では荒昆布・塩昆布と呼んで下等なものであるが、当時は色彩の点で珍重されたものか、献上昆布,寛永年間(一六二四)、日本海から下関・瀬戸内海を経る北回り航路が開かれ、蝦夷地の産物が大坂に送られるようになる,天明年間(一七八一)、大坂には数軒の昆布問屋が開業されて、昆布商として荒昆布を刻(きざみ)昆布に加工が,                          (市立函館図書館 所蔵)       日本山海名物図会 / 松前昆布
南茅部町史 上巻 (宇賀昆布)

宇賀昆布 延暦一六年(七九七)に成る続日本紀(しょくにほんぎ)四〇巻(菅野真道ら)に、元正天皇の霊亀年間,(七一五~七一七)「先祖以来貢献昆布」云々とあるのを、昆布の記述の始めとされている。  ,一名比呂女(ひろめ)、衣比須女(えびすめ)とその語源が記されている(稲垣美三雄編・日本昆布大観・昭和二二年刊,室町末期の註釈本「庭訓往来註」に、宇賀昆布について「夷嶋弁才天ノ御座所也」と記す。  ,永正六年(一五一九)、近衛尚通の日記には、日蓮宗の一本山京都本満寺の僧侶が「エソヘ渡」り、帰京して『昆布 / 宇賀昆布
南茅部町史 上巻 (御上り昆布)

蝦夷嶋奇観の一五六に「御上り昆布、一に曰く天下昆布」と記す。,島之允は、これに志苔昆布・菓子昆布・蝦夷地三ツ石昆布と分けている。  ,真昆布白口浜は、御上り昆布、天下昆布、菓子昆布などの名が同様に用いられていたものとみられる。  ,島之允は、続日本紀の「蝦夷」「先祖以来 貢献昆布」を引用して、アイヌの人たちが古くから昆布を採っていた, 味          甘美 此昆布ハ唐山に          贈る        一 菓子昆布 / 御上り昆布
戸井町史 ([昆布漁])

昔から下海岸と蔭海岸の昆布は、品質の面で日本の昆布を代表するものであった。,本赤昆布というのは、普通の青昆布のうちに千枚に一枚もない。,本の良いところを見ると赤昆布のようで、昆布をよく知らない者は、これをも赤昆布だと思う。,や昆布取用具のことをくわしく書き、幕府や松前藩の役人、本州からの文人、墨客は必ず「日本一」の昆布場所と,川汲、尾札部の昆布は白口昆布といわれ、日本一の昆布として、最高の高値で売買されている。 / [昆布漁]
函館市史 通説編 第二巻 (刻昆布)

刻昆布 前期末には「年ヲ逐ツテ盛大ニ赴カントスル」と推測された刻昆布製造業は、20年をピークに清国向,加えて印の製造元小林重吉は昆布価格の低落により漁場経営が不振となり、23年には印高橋清作へ東川町の工場,こうして函館の刻昆布は印、印の製品をはじめとして上海で好評を博し、30年代には新規の参加者が増加する。,ところが、30年10月に刻昆布劇薬混和販売事件が発生する。,の業者は根室産の3等の昆布が8割、残りが厚岸、釧路、国後、三石、様似産であった。 / 刻昆布
椴法華村史 (昆布収穫税)

昆布収穫税 享保年間の「覚」(松前福山諸掟の中の享保年間に出されたと推定される法令)から昆布収穫税関係分,覚   一、灘追昆布本浜役、東在喜(木)古内より汐くびまで昆布取候船役、壱艘ニ付金四匁。,一、汐くびより下え昆布取ニ相越候者共、本昆布四駄宛人別の役右書出候。役金弐匁の代り相納候事。   ,一、志のり浜の内にて昆布取候者共に志のり昆布七駄宛相納候事。   ,一、亀田百姓やけないにて昆布取候者共、役金弐匁の代りやけない昆布拾弐駄相納候事。     / 昆布収穫税
南茅部町史 上巻 (昆布製造願)

昆布製造願 明治二二年六月、尾札部の杉林金次郎から郡長に提出した「昆布採収製造兼業願」(杉林信弥所蔵,また、同年一二月、熊泊村千葉亀次郎が郡長の許可をうけた「昆布採収起業方法書」(二本柳文彦所蔵)がある。,また、二本柳文書の千葉亀次郎のものは昆布採収の起業方法書である。  ,昆布採収製造兼業願 杉林信弥 所蔵    昆布採収製造兼業願 水産物取締規則ヲ遵守シ昆布採収並,大阪昆布商から和兵衛に宛た書状   拝啓 御地川汲産元揃昆布之内、貴家御仕入之分者、古来特ニ上品 / 昆布製造願
函館市史 通説編 第一巻 (昆布の種類)

昆布の種類 この地方の昆布は真昆布といい、また本昆布ともいわれ、その産地は西はいまの上磯郡から東は内浦湾,『庭訓往来』に「宇賀昆布」と記されているのは、亀田郡小安村ウンカ川付近から産出したので名付けられたという,また後に志海苔昆布と称されたのは、志海苔海岸から採取されたのでその名がある。,昆布は通例暖流に寒流の交流する潮の穏やかな所の岩礁または石礫に根ざし、干潮の最低線から生ずるというが、,またガモメという昆布もあって、汐首岬から茅部郡沿岸の深さ2尋から5尋くらいの所に真昆布と混生し、その長 / 昆布の種類
函館市史 通説編 第二巻 (刻昆布製造)

刻昆布製造 刻昆布の製造は享保6(1721)年に大阪で創始され、文政年間(1818~1829)には販路,刻昆布の製法は葉昆布を煮たのち、乾燥圧縮(寒気のため12月中旬より2月末まで休業)して鉋を以て削り、再,維新後、輸出昆布価格の騰貴があって、函館港よりの刻昆布輸出は、数量・金額ともに逐年上昇したが、その明治,推定される)は、本章第4節(3 漁業組織と函館資本)で明治12年、西富内鰊漁場主の福崎清兵衛と同一人物,であり、刻昆布製造業の収益を鰊漁場の仕込みに投入したものであろう。 / 刻昆布製造
南茅部町史 上巻 (昆布市場視察)

  名産「大阪昆布」            尾札部産昆布は昆布中最高価ノ優良品  要望 1三等以下ニ,の見本に大阪着値百石五、〇〇〇円を付値せり。,               尾札部産の上品は僅少                小売・百匁四、五〇銭位 広島市 辻本昆布問屋,仕入先は主に広島市辻本問屋 京都市 伊勢久荒木昆布製造販売店   尾札部産は一部で、主に尻岸内・椴法華,乾物問屋で取扱う 勧業課長                「だし昆布・巻昆布(昆布巻)・煮昆布」 / 昆布市場視察
函館市史 通説編 第二巻 (日本昆布会社の設立と昆布生産者連合組合の結成)

日本昆布会社の設立と昆布生産者連合組合の結成 昆布諮問会開催の翌22年、道庁は、諮問会の答申を受けて,新会社は、22年5月、社名を日本昆布会社(後に日本昆布株式会社)と称し、資本金50万円(1株50円)、,採択された連合組合規約によれば、連合組合の生産した昆布は総て日本昆布会社に販売すること、販売価格は毎年,  1.連合組合の生産する昆布は総て日本昆布会社に販売すること。,、これによって日本昆布会社は、従来函館の海産物商が、昆布の流通過程においてもっていた仕込み資本としての / 日本昆布会社の設立と昆布生産者連合組合の結成
函館市史 通説編 第二巻 (日本昆布会社の解散)

日本昆布会社の解散 このように、連合組合と昆布会社の矛盾対立が深まる中で、会社の経営は一層悪化した。,(中略)然ルニ会社ハ創業以来営業ノ結果ニ依リテ之カ統計ヲ作ルニ、其生産者ヨリ年々買入レタル昆布ハ凡十二万石,ヲナスコト能ハスシテ不幸ニモ会社自身ニ於テ生産者トノ契約ヲ破ラサルヘカラサルニ至レリ… (前出『日本昆布業資本主義史,この結果、昆布の生産者価格の維持、流通過程における清国商人の排除を目的に組織された日本昆布会社と連合組合,そして昆布輸出の商権は再び清国商人の手中に帰すことになったのである。 / 日本昆布会社の解散
函館市史 銭亀沢編 (天然昆布漁)

天然昆布漁 天然昆布漁はその年の生育状況に合わせ、七月下旬あるいは八月上旬から始まり、十月中旬までおこなわれる,「本場折り昆布」に仕上げる。,最後に、押し切りで仕上げの「ひれ切り」をおこない、「本場折り昆布」の完成品とする。,これらは等級別に選別され、「岸昆布」は八キログラム、「中間昆布」は一〇キログラム、「沖昆布」は一五キログラム,の豊かな現在では、出荷の残り昆布をわずかに自家用とし、ほとんどはダシ昆布に使う程度であるという。 / 天然昆布漁
椴法華村史 (昆布製法の改善)

昆布製法の改善 椴法華村や根田内村の昆布は、明治十七年以前、手繰昆布とされることが多く、これは清国向,このように昆布を手繰昆布として製品化した場合、価格が安く漁民の収入面からも、徴税する官側からみても元揃昆布,またこの他にも、北海道産元揃昆布の品質粗悪化の問題もあり、官民の協力により、昆布の信用回復と収入増加のための,は從来、手繰昆布と唱へ需要地は大阪、敦賀の外は他所へ向かざるものなりしが、本年は右改良を加え、三場所の,同地方昆布の同商へ売込は本年はじめとすべし、実に從來手ぐり昆布の時と比すれば、直段は倍にもなりこの声価 / 昆布製法の改善
南茅部町史 上巻 (戦後の昆布市場)

昭和二九年、関西各昆布業界代表と北海道漁連との間に、昆布の集荷と価格の正常化を図るために協議がおこなわれた,北海道昆布共販連絡協議会が設立され、昆布の販売に当たり共販制が発足した。  ,昭和三六年、道昆布共販連絡協議会が、北海道昆布共販協会に改組となる。  ,昭和四〇年、ソ連産昆布輸入促進協議会が設立した。昆布市場に大きな波紋をもたらした。  ,昭和四七年、中国産昆布の輸入が実現した。日本昆布協会が設立される。   / 戦後の昆布市場
恵山町史 ([昆布の道])

[昆布の道] 下海岸一帯に和人が大挙して渡来したのは13世紀中頃、南部氏に追われた安東氏一族、渡党と,彼等は館を築き和人村をつくりコタンのアイヌ達や下北からの出稼ぎ漁師の収獲する昆布や海産物を商った。,彼等は大船に買い集めた昆布や海産物を満載、津軽海峡を西に走り日本海に入り、一族の地、津軽の十三湊・秋田,この昆布の道が下海岸地方と内地を結ぶ太い、海上の交通路であった。  ,蝦夷地の海産物、とりわけ高価な値段で取引される昆布、北前船は日本海の荒波を越え、その主産地下海岸・陰海岸 / [昆布の道]
椴法華村史 (昆布資源の回復)

昆布資源の回復 その後、日本経済が戦後の混乱からようやく落ち着きをみせはじめた昭和二十七年から椴法華村,では、漁業組合を中心に道や村の援助を受け実行された岩礁破砕や漁民の協力による磯掃除、更に漁協による昆布漁着業資金,の貸付などにより昆布漁の振興がはかられた。  ,こうした漁協と村民の努力により、昆布漁場は次第に改善され、昆布漁業従事者が増加したこともあり、豊凶によって,昭和49年 天然昆布の採取 / 昆布資源の回復
南茅部町史 上巻 (元揃昆布の相場)

ハ、渡島国中の昆布出産地にて、殊に元揃ひ昆布ハ、往時頗る精製にて他の元揃昆布に比すれば大ひに声価ありしが,出産人に改良の告諭を為したりと聞しが、其主旨の透(とお)りしと見え近ごろ又候(またそろ)声価を増し、本年,実に元揃昆布声価の極点ともいふべし。,昆布採りの最盛期をようやく終えた見透しの中での昆布市況を報じたものである。,明治一二年九月一五日月曜日の函館新聞(第二五一号)に     九月一四日 相場   ○昆布 元揃昆布一把 / 元揃昆布の相場
南茅部町史 上巻 (昭和の献上昆布)

昭和の献上昆布 昭和一一年秋、天皇陛下の北海道行幸をお迎えすることになった。,昆布の採取は尾札部木直昆布海区の境界で、尾札部村の村場所として知られている日陰浜沖に選定した。  ,実に謹厳壮観な献上昆布採取の状況であった。  ,天下昆布にはじない絶品を正副各一把ずつ仕上げた。  ,昭和一一年夏の献上昆布謹製は、記録写真が一連で保存されている。 / 昭和の献上昆布
椴法華村史 (昆布採取の様子)

昆布採取の様子 昆布採取 中学二年 毛網正史   北海道信用漁業協同組合連合会々長賞受賞 (広報,僕が着くころにはジッチャンが昆布を刈るカマ、その切った昆布をひっかけてとるカギを用意してもう出かけるぞという,「さあ出よう」ロープを二本を互い違いに使い船を海へ出す。慣れない僕はよろけて落ちそうになる。,目的地に着いた漁師は大きな水メガネで昆布のある所を探す。,昆布がある時は二時間程で終るが昆布が少なくなってくると取っている時間が長くなる。 / 昆布採取の様子
椴法華村史 (大正時代の昆布統計)

大正時代の昆布統計 第一表の大正二、三年の欄では、長切昆布の統計しか記入されていないが、その他の海藻類,また明治二十年以来生産されていた元揃昆布の記入がないが、何らかの理由により、昆布のほとんどが長切昆布として,(例えば、元揃昆布にするよりも長切昆布の値の方が高いというような理由)  大正元年八月の「函館新聞」,によれば、「近海昆布の産況、椴法華村、長切昆布に製し本年の採取高五百石の見込にて昨年に比し減収発育又充分,すなわち、第一表では長切昆布の生産量、価格が一番大きな数字となっていたが、第二表では、元揃昆布がその数量 / 大正時代の昆布統計
椴法華村史 (昆布の清国直輸出)

昆布の清国直輸出 昆布は元禄年間(一六八八-一七〇四)より少量清国に輸出され、その後天文五年(一七四,〇)ごろから長崎俵物として本格的に長崎を経由して清国に輸出されていたが、箱館が開港されるや箱館から直接輸出,昆布貿易は多額の利益を得るといわれており、清国商人は大量の昆布を箱館で買付け始め、このため蝦夷地産昆布,の価格は年を追うごとに著しく騰貴しはじめ、漁師もまたその利を求めて昆布採取に努力したため採取高は増加する,しかし六個場所では古くから昆布採取場が開発されており、新採取場は見当たらず且つ人工増殖や漁具の改良などが / 昆布の清国直輸出
南茅部町史 上巻 (真昆布の生産地)

真昆布の生産地 大正・昭和のこんぶ生産高  「マコンブの着生分布区域は、渡島国白神岬から函館・, このうち品質・数量ともに主要を占めているのは、函館から恵山岬・南茅部・森までの沿岸に産出する真昆布,恵山から南茅部・鹿部・砂原沿岸のものを白口浜といい、白口の名称は、肉質が白く光沢や風味のうえで勝る昆布,の製品の特長から「白口浜」「白口もの」と呼び、または茅部産とも呼ばれて昆布の王者とされている。,函館から汐首までのものは丈が長く幅広で、折(おり)昆布にするので折浜(おりはま)という。 / 真昆布の生産地
函館市史 通説編 第二巻 (明治後期の昆布貿易)

明治後期の昆布貿易 このように、明治前期を通して、昆布などの清国向け海産物輸出に特化してきた函館港の,、明治後期においても、昆布の輸出は首位を占め、昆布の清国輸出の消長とその商況は、依然、函館の経済界のみならず,   表6-33  本邦商人と清国商人の昆布取扱実績 年 次 本邦商人 清国商人 合,22,163 100.0 100.0 100.0 100.0  左欄:千斤、右欄:%  『日本昆布大観,こうして、昆布取引実権は再び清国商人の手中に帰し、20年頃には昆布輸出高の約90パーセントが清国商人の / 明治後期の昆布貿易
椴法華村史 (昆布養殖事業の推進)

昆布養殖事業の推進 当村では古くから昆布増殖に力が入れられており、昭和初期には自然石投入による昆布礁,戦後は、昭和二十三年より自然石の投石が実施され、それ以後毎年のように昆布礁の造成や磯の清掃(ホンダワラ,やすがもの除去)が実施されるなど昆布生産に対する意欲はなみなみならぬものがあった。  ,が実施され、結果成績が良好であるため、以後昭和四十六年より本格的に昆布養殖が実行されるようになった。,道、村の援助を受け、昆布養殖施設の増強につとめ、更に従来からの投石による昆布礁に精力がそそがれることになった / 昆布養殖事業の推進
南茅部町史 上巻 (弘化の昆布場 蝦夷日誌)

左右に昆布取小屋有。,昆布小屋五、六軒も有る也。   モノミ浜 岩石大難処なり。昆布取小屋二、三軒。,昆布採りの漁師達と一夜を語り明かす。昆布の土産と餞別を贈られている。     ,昆布小屋有。   クマトマリ 人家十七、八軒。小商人壱軒。昆布小屋多し。   ,本邦にて松前にては古来より昆布にて屋根を葺と云は、皆此屋根の上迄昆布を干したるを見てかと思はる。    / 弘化の昆布場 蝦夷日誌
恵山町史 (4、江戸時代の昆布漁)

昆布の名称  日本の歴史の上で昆布に関わる文字が出てきたのは、『続日本紀(しょくにほんぎ)(797年,<昆布の銘柄、赤昆布・青昆布>  当時の採取昆布の種類については、赤昆布・本赤昆布・青昆布・切昆布・,本の良いところだけを見ると赤昆布のようで、昆布を良く知らない者はこれをも赤昆布だと思う。,輸出昆布は本道産と奥羽(主として南部)産とがあったが、本道産昆布の方が数量が多かったことと考えられる。,の5割乃至7割5分を本道産昆布が占め、天保3年(1832)以降は本道産昆布のみが輸出された。 / 4、江戸時代の昆布漁
函館市史 通説編 第二巻 (上海における日本昆布会社の営業)

上海における日本昆布会社の営業 他方、昆布の輸出先となる上海の営業状況をみると、初めて輸出する明治22,  (1)日本昆布会社は北海道で集荷した清国向け昆布総ての輸出取扱いを三井物産会社に委託,(2)昆布の商談には日本昆布会社の主任が当たるが、その際必ず三井物産上海支配人に協議すること。,(4)三井物産会社は、日本昆布会社が輸出する昆布1万石までに対して、上海相場で概算して7分の前貸金を承諾,こうして上海における日本昆布会社の昆布販売の独占体制は一応出来上がり、昆布相場に大きな影響をもつようになったが / 上海における日本昆布会社の営業
椴法華村史 (明治二十年代の昆布漁業)

真昆布     即チ長昆布ト唱フルモノニシテ幅二三寸長サ數丈ニ及フ三石昆布ニ比スレハ質薄シ   水昆布,船側ニ引キ揚ケ三十本乃至五十本ヲ一把トシ船ニ積入ルゝナリ之レヲ束ルニハ尚昆布ヲ以テ結束スルヲ常トス而シテ,   原草ハ元昆布黑昆布ノ二種ニシテ根ヲ切リ捨テ一本毎ニ元ト先トヲ揃ヘテ三十五枚或ハ四十五枚ヲ重ネテ,即チ大ハ五本結ト稱シ昆布五葉ヲ二ッニ折リタルモノナリ、小ハ三本結ト稱シ三葉ヲ二ッニ折タルモノニシテ孰(,ノ種類ニヨリ各々其需用地ヲ異ニセリ本道ノ東海岸乃至南海岸日高等ヨリ重ニ産出スル長切昆布ハ大槪之ヲ支那ニ / 明治二十年代の昆布漁業
椴法華村史 (明治二十年の昆布採取)

明治二十年の昆布採取 明治二十年の椴法華村の昆布漁はたいへん不漁であったが、このことについて、当時の,明治二十年八月二十三日 函館新聞     椴法華昆布の概況    本月十一日附けの通信に依れば亀田郡椴法華村,の昆布ハ甚(はな)はだしき薄生(うすをひ)にて昨年に比ぶれば殆んと半額にも至らざるべし就中長切昆布(一名,又本月九日より元揃昆布の採取に着手せしが何分にも薄生(うすおひ)にて岸頭(きし)と距ること僅かに數十尺,緻密(ちみつ)に採集せる次第なり右に付き本年より凡そ三ヶ年を期として毎年昆布採収の終期に至らバ村民協同 / 明治二十年の昆布採取
函館市史 銭亀沢編 (マコンブと昆布食の歴史)

「マコンブ」の名も「真昆布」に由来することから、本当の、まともな、昆布中の昆布という意味合いが読み取れる,」「志苔(しのり)昆布」の名で広く知られており、現在でも数百年前に運ばれた昆布が富山の昆布蒲鉾などに珍重,1989)によれば、最初にマコンブの和名を付けたのは宮部金吾博士によるようで、水産上は「ホンコンブ」(本昆布,ほぼ最初に開拓された真昆布漁場がこの銭亀沢であり、最初に日本人が食物として口にした昆布が「宇賀昆布」「,志苔昆布」であったとすれば、貴重品である真昆布を無駄なく利用しようとした先人の知恵が「本場折り」「花( / マコンブと昆布食の歴史
椴法華村史 (享保二年ころの昆布の種類)

赤昆布は生の内より色違、紅うこんの如くにて、両脇みゝ笹葉色の如く青く、赤と青との間、本より末まで黄色なる,本赤昆布と申は、右の如く常の青昆布の内、千枚に一枚も他目なきものにて候由、青昆布は沢山、是も本末段々分,け申候、本能所は赤昆布の如く、不知者は是も本赤昆布と存、尤常の商売の赤昆布は夫を用申よし。    ,元来赤昆布は昆布の中で品質の下等なものに属し、今日では荒昆布・塩昆布と呼ばれるものであるが、当時は色彩,の点で賞せられていた故か珍重せられ献上昆布としてこの赤昆布が用いられていた / 享保二年ころの昆布の種類
函館市史 通説編 第一巻 (宇賀昆布と箱館の繁栄)

宇賀昆布と箱館の繁栄 「庭訓往来」  しかるにこのころから、いまの渡島半島沿岸には、相次いで諸館,宇賀昆布とは、いまの函館市銭亀沢のウンカ川付近に産したもので、この地は昆布の産地として有名であり、のちに,志海苔昆布として知られるようになったのも、この地方のものである。,そしてこの昆布は、すでに足利時代には若狭の小浜で加工され、若狭昆布と名付けられて諸国に販売された。,かくて良港をかかえた箱館は、後背に志海苔・宇賀昆布をもって代表する産地をひかえ、「若狭を結節点とする日本海商品流通圏 / 宇賀昆布と箱館の繁栄
椴法華村史 (明治三十年代の昆布漁場)

明治三十年代の昆布漁場 明治三十年代の椴法華と近村の様子を「北海道水産調査報告書巻之三、昆布採取業」,昆布採取漁場    臼尻村    熊泊村界ニ接セル所及ヒもさしり附近、辨天島周圍ヨリ板木ヲ經河汲部落,ノ西端ニ至ルノ間並ニ河汲稲荷社前沖ヨリ築上澤ニ至ルノ間ニ昆布礁アリ延長約二里沖出三十間乃至百間水深一二尋,尻岸内村    本村ノ昆布礁アルハ恵山岬邊ヨリ古武井ニ至ルノ間ながい岬附近尻岸内村落附近ヨリ日浦川附近,昆布採取図 北海道水産調査報告 明治35年 / 明治三十年代の昆布漁場
椴法華村史 (箱館の開港と昆布の暴騰)

由りて自分は見本を携へ、亀屋七郎右衛門氏の宅に至り、鑑定を乞ひしに、海帯即ち昆布なりと云ふ。,於レ是三石及び十勝産の上等昆布を彼等に示したるに、彼等は見本に違へりとて承知せず。,不レ得レ止自分は該二種の昆布十四本づつ贈り、帰国の上、確め来らんことを求めたり。,是れ箱館より昆布を清国に直輸せし嚆矢なり。,箱館に来り昆布買付をなし。 / 箱館の開港と昆布の暴騰
函館市史 通説編 第二巻 (清国市場視察と昆布諮問会)

清国市場視察と昆布諮問会 こうした事態に対処するため、20年9月、北海道庁は、清国内の昆布市況視察のため,翌年帰国した視察団は復命書をまとめ道庁に提出しているが、その中で清国における昆布取引の実情と、昆布貿易不振,けて、昆布の流通過程を一本化し、清国商人の支配を排除して市況の回復を図ろうとするものであった。  ,、刻昆布の国内移出は除く)、昆布事業に対して最低50万円の資本金を準備し会社役員の若干名は官選とすること,函館商人ヨリ貸シ渡シタル金ハ多キハ一家一万四五千円、少キモ三四十円モアリ云々」(羽原又吉『支那輸出日本昆布業資本主義史 / 清国市場視察と昆布諮問会
恵山町史 (3、明治前期の昆布漁について)

・採取場所     尻岸内本村 ・46戸           ・5か所 ・ム井泊(11戸)・小ウタ,「結束法あるいは製品名」 ・元揃昆布  原草は、元昆布・黒昆布の2種類で、根を切り捨て1本ごとに元と,大きい物は5本結と呼び昆布5葉を2つ折りにしたもので、小さい物は3本結と呼び3葉を2つ折りにしたものである,福井・新潟・秋田・島根・石川・熊本」、さらに「京都・岐阜・鹿児島・岡山・奈良・佐賀」がこれに次いでいた,相場  明治22年当時の相場は本道は百石単位で表し、清国は百斤(きん)単位で表していた。   / 3、明治前期の昆布漁について
南茅部町史 上巻 ([明治初期の昆布場])

[明治初期の昆布場] 明治七年一月、布達により、漁場昆布場自費新開の分の地租は、地所規則により五年間除租,明治一〇年、昆布場の所有権が認められ、昆布浜からは地租が徴収される。,昆布採りの時期になると多くの入稼ぎが入り、商家も僧侶も村中挙げて昆布の作業で多忙を極めた。,昆布場取獲調により村々の昆布場の詳細を揚げて参考とする。,茅部郡昆布場及び取獲高調 自明治5年 至 同9年(北海道所蔵)   昆布取獲高調の数(明治九年 / [明治初期の昆布場]
函館市史 通説編 第二巻 (昆布会社の営業方針の転換)

ヲ反対者又ハ無供者ニ密売シ甚シキニ至リテハ前借シタル昆布営業資金ヲ以テ他ノ漁業ヲ営ミ一朝不漁ニ遇ヒ昆布採取,船数人夫ヲ減シ、若シクハ前借金連帯責任ヲ脱センカ為メ中途廃業シ他人ヲシテ其義務ヲ果サシム」(前出『日本昆布業資本主義史,、特に昆布流通に最も深い拘わりいもつ、海運、回漕、港湾荷役関係業者24名は、翌25年5月、日本昆布会社,明治25年4月、昆布会社の株主総会が開催されたが、資本金の増資が決まり、50万円から100万円に増額された,すなわち、26年4月現在の会社の昆布在庫量は約12万石に達した。 / 昆布会社の営業方針の転換
南茅部町史 上巻 ([大正・昭和初期の昆布採取])

[大正・昭和初期の昆布採取] 昭和五年に尾札部村漁業組合の編集した「漁業組合状況」に拠り、当時の昆布採取,毎年七月二〇日から昆布は解禁となる。,よい昆布は、よい昆布場(海産干場)で干燥される。  昆布の採取はマッカで搦み、捻り採る。,真昆布のなかでも浜の内、または白口浜と呼ばれていた南茅部沿岸の昆布には七つの区画の印が付されていた。,熊泊ク(大船オ)、臼尻ウ、板木イ(安浦ヤ)、川汲カ、尾札部ヲ、見日ケ(のちヲに一本化)、木直キ、古部フ / [大正・昭和初期の昆布採取]
南茅部町史 上巻 (大阪昆布業者一行、視察に来村)

大阪昆布業者一行、視察に来村 昭和九年八月一八日、大阪市昆布新聞社主催の産地視察団一行(新聞社長勝見長三郎,函館日日新聞に「茅部郡方面産出の元揃昆布は、主としてその販路を関西方面に確固たる地盤を有し、その価格百石一万数千円,を越へ、本道水産製品中の首位を占め地方特産品として全道に誇り得る製品にして、殊に同郡尾札部産のものは(,道庁大阪物産斡旋所松永徳次郎が付添い、茅部郡山越郡水産会加藤主事が案内して尾札部村・臼尻村・鹿部村の昆布産地,昆布の販路、用途からみた製品に対する希望意見はすこぶる有意義だったと記している。 / 大阪昆布業者一行、視察に来村
椴法華村史 (昆布礁の造成)

昆布礁の造成 前掲書「渡嶋支庁管内水産業概要」を参考とする。      ,駒ケ岳災害復舊事業    昭和四年六月十七日駒ヶ岳噴火ノ為メ本村沿岸一帯燒石降下礁岩埋没海藻類ノ / 昆布礁の造成
函館市史 通説編 第二巻 (直立会議における昆布会社と組合側の対立)

直立会議における昆布会社と組合側の対立 このようにして日本昆布会社の営業においても成功を収め、23年,鯣、鮑、煎海鼠、干鱈、刻昆布等の清国向け輸出海産物の取り扱い、刻昆布の製造が付け加えられることになった,組合側の提示価格の根拠は22年の昆布価格の高騰にあり、とくに、会社ルート外の函館における昆布の平均価格,   表6-36 日本昆布会社第1・2実際報告書 1.負債資産勘定 借方(負債の部),だが、総資産の中では、昆布の在庫(昆布売買)が43パーセント(31万8950円)、かつ払込未済株金が29 / 直立会議における昆布会社と組合側の対立
函館市史 通説編 第二巻 (昆布の過剰輸出と上海での滞貨)

昆布の過剰輸出と上海での滞貨 広業商会による昆布輸出は前述したとおり10年以降は逐年増加し、在留清商,大体このころの清国市場の昆布消費量は7万石前後(1750万斤)であったものが、連年10万石前後の輸出がなされた,79,429 41,905 10,955 △19,108 △21,542 14,418  『昆布商況,これまでの営業で得た資産一切は笠野吉次郎へ引き継ぐことは承認されたが、この当時で35万円余にものぼった産業資本貸与金,の未償還分や40万円の資本金の年賦返納を命じられた。 / 昆布の過剰輸出と上海での滞貨
函館市史 通説編 第二巻 (資本金貸与・償還の仕組み)

主要輸出品である昆布、煎海鼠、干鮑、鯣のうち資本金貸与は昆布に集中している。,『昆布商況に関する調書』より作成.    これに対して昆布生産は資本を要する漁業形態であった,大多数の昆布業者は従来は昆布塲その他を大漁業者から賃借し、これに必要な資金は函館の清商や海産商から融通,例えば輸出用昆布の主産地へと成長してきた根室支庁管内をみると、明治10年に367か所あった昆布場が14,生産者は価格が決められたあとに、それぞれ資本貸与を受けて、漁夫を雇用したり、漁場経営のための資材-昆布包装 / 資本金貸与・償還の仕組み
南茅部町史 上巻 (徳田屋和兵衛と小板屋久兵衛)

本来、名産といわれる川汲の元揃昆布である。,二代目和兵衛の略伝や〓印の印鑑には元揃と書かず、本揃昆布と書いてある。  ,ニ一層ノ注意ヲ加ヒ産出セシムル為メ 大阪昆布商ノ人々ハ 〓印昆布改良ヲ好シテ 一ノ標準トシテ本揃昆布の,テ 第一ニ乾燥ヲ重トシ 結束ノ中込等取除テ製造セシ故 大阪ニテハ〓印本揃昆布 倍々聲價ヲ博セリ 依テ大阪昆布屋,モ漸々直段騰貴シ 本揃昆布百石ニ付壱千百七拾円ニ 大坂ノ商人泉茂八 三浦作左エ門 本間甚六氏等ヘ(壱万千六百廿四把即
椴法華村史 (明治十八年)

や品質粗悪の昆布を、梱包の際良質昆布の中に入れ込む(普通中込とよばれている)者があり、このため昆布の値段,・八月 椴法華村では従来の手繰昆布中心の生産より長切昆布中心の生産に切りかえられる。,(手繰昆布→根元と先より順に折り始め中央に至り二つ折とし結束するもの。,椴法華村漁業組合申合規則では、『手繰昆布ハ竿前収獲ノ日ヲ夏土用前二十日ト豫定シ元揃昆布ハ夏土用入一日前,春から日本全体では物価が低落し不景気であった中で、椴法華村が好景気となったため、村民の中には成金になったような
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