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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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椴法華村史 (前松前藩時代)

前松前藩時代 椴法華は今から約三百年以前より、良き澗のある場所として知られており、その後恵山沖を航行,『津軽一統志』の寛文十年(一六七〇)の記録によれば「やしろの浜(やしろ浜と記すものもある)能澗有」の記事,前松前藩時代の終りごろ寛政十年(一七九八)の『蝦夷雑志』によれば、「トトホッケよりヲサツベまで三里、この / 前松前藩時代
南茅部町史 上巻 (松前昆布)

宇賀昆布として知られたこの地方の昆布は、松前地の名産として松前昆布と呼ばれ、若狭の小浜へ積み送られていた,松前蝦夷記  享保二年(一七一七)   一、昆布 右東郷亀田村志野利浜と云処より東蝦夷地内浦獄前浜まで,海辺二十里外の所にて取申候 尤献上昆布は志野利浜宇加と申処の海取分能ゆゑ取申由   一、収納 亀田村,松前より伝えてここにてこしらえて売也。名物となれり。,同じく蝦夷松前、江刺、箱館などにも採れり。 / 松前昆布
函館市史 銭亀沢編 (志苔館)

志苔館 志苔川口ノ東側ノ嶼ヲナセル台地ニ其跡アリ。,想フニ四百余年前ニアリテハ蓋シ形勝ノ地タリシナランカ。,是ハ後花園天皇ノ康正二年頃(四百五十余年前)亀田海岸ノ領主タリシ小林太郎左衛門良景(法号妙国院殿良景日鶴居士長禄元年五月十四日戦死,爾来小林氏ノ族移リテ松前ニ住シ、館全ク廃タレ以テ今日ニ至ル。,有志等之ヲ見テ大イニ憾ムベシトナシ、塁内洽ク松櫻等ヲ植ヱ、行ク行クハ此所ニ小公園ヲ作リ、永ク此ノ旧蹟ノ / 志苔館
函館市史 銭亀沢編 (志苔館の再建)

志苔館の再建 長禄元(一四五七)年のコシャマインの戦いで、そのアイヌの民族的マジョリティの前に、志苔館,松前家側の『新羅之記録』は「夷狄発向し来りて松前の大館を攻め落し、守護相原彦三郎季胤又村上三河守政儀生害,せしむるなり」とし、この蜂起で「松前守護職」の相原季胤とその補佐役の村上政儀が滅亡したが、その原因をあくまでも,永正九年から十年の蠣崎光広治世下において「下之国」「松前」「上之国」の三守護職体制のうち、「下之国」と,「松前」の守護職が消失したことは確実なことである。 / 志苔館の再建
函館市史 通説編 第一巻 (松前藩復領の経緯)

松前藩復領の経緯 このころ、欧州においては、ナポレオン戦争などがあって、ロシア政府の東漸南下政策も次第,し、左の指示によって、ついに松前藩が再び蝦夷地一円を領有統治することになった。,                   松前志摩守 一 其方儀、最前蝦夷地の手当行届き兼ね,其方儀彼地草創の家柄、数百年の所領に候得ば、旧家格別の儀を思召され、此度松前蝦夷一円前々の如く返し下さる,一 此度松前蝦夷地返し下され候に付ては、取り来り九千石は上り候。 / 松前藩復領の経緯
南茅部町史 上巻 (有志懇親会)

有志懇親会 明治一六年一一月三日、天長節の日を祝して、熊泊村、臼尻村、尾札部村三か村の重立(おもだち,)五〇余名が、川汲の〓竹越旅館に来集して有志懇親会を開催した。  ,三か村の有志が一堂に会し、懇親、交流をはかることによって村会の基礎を確立したいと念願しての集まりであった,懇親会は会長に臼尻村戸長篠田順を、副会長に川汲の医師前野三甫を選任、会則の編纂に臼尻村赤石歓三郎ほか五名,末松・土屋両氏の演説があって大盛会のうちに、今後、春秋二度の開催を約して散会したという。 / 有志懇親会
函館市史 銭亀沢編 (松前藩の出先機関できる)

松前藩の出先機関できる 知内から銭亀沢周辺一帯を所管したのは慶長期末頃には設置されたとされる亀田番所,明治九(一八七六)年から実施された開拓使による地租創定事業のための調査書によると、志苔村での昆布場の割渡,この地方の土地には早くから松前藩の支配が及んでおり、昆布は古くから重要海産物であったわけである。,元禄十三(一七〇〇)年に幕府に提出された「松前島郷帳」と「元禄御国絵図」によると、銭亀沢地区の村として,享保二(一七一七)年の幕府巡見使が残した記録「松前蝦夷記」(『松前町史』資料編第一巻)によると、地元では / 松前藩の出先機関できる
函館市史 銭亀沢編 (志苔館と渡党)

「道南の十二館」のうち、志苔館の築造は、安藤康季の永享四(一四三二)年の渡道以前、すなわち、安藤氏が本拠地,そして三つ目は、松前町字上川遺跡から発見された一二基の和人墳墓で、これは土葬墓で伴出した古銭(北宋銭・,明銭など)の年代から判断して、一五世紀中葉から一七世紀頃のものと推定される(久保泰「松前町字上川墳墓遺跡,の調査」『松前藩と松前』13)。  ,その年代を一四世紀末期と前に推測してみた。 / 志苔館と渡党
函館市史 銭亀沢編 (函館風松前神楽(渡島神楽))

従って函館風松前神楽は松前神楽の一形態とみなせる。,神楽との関係を示す資料が『松前神楽』(近藤鏡二郎編集松前教育委員会・松前神楽保存会 昭和三十九年)に現亀田郡七飯町,近藤鏡二郎は現代の松前神楽と函館風松前神楽との関係、ならびに函館風松前神楽成立の一断面を明らかにしている,次に現在奉奏されている函館風松前神楽式の一例(志海苔八幡神社例祭)をあげる(資料1参照)。  ,(譜例1)    資料1 平成七年八月十五日 志海苔八幡神社例祭 開始の太鼓       / 函館風松前神楽(渡島神楽)
函館市史 別巻 亀田市編 (松前藩の蝦夷地統一と番所の設置)

松前藩の蝦夷地統一と番所の設置 康正二(一四五六)年や永正九(一五一二)年のアイヌ人の蜂起により、宇須岸,すなわち、この場所は和人勢力の中心たる松前地方と、昆布の主産地たる下海岸方面を結ぶ陸路の要地であり、また,その後永正十一(一五一四)年武田光広は上の国から大館(松前)にその本拠地を移し、檜山(秋田)安東氏の臣下,このような状況の中で蛎崎慶広(松前氏第五代)は文禄二(一五九三)年豊臣秀吉に謁し、志摩守に任ぜられ、蝦夷島主,すなわち檜山安東氏の支配を脱し、一国の領主となったわけであり、ちょうどこのころから武田・蛎崎の姓を松前 / 松前藩の蝦夷地統一と番所の設置
恵山町史 ([松前藩時代の下海岸のみち])

[松前藩時代の下海岸のみち] 函館から東渡島の津軽海峡に面した沿岸一帯、郷土恵山町・恵山岬辺りまでを,『下(しも)、上(かみ)』の区域については、もともと松前を中心に西側を上、東側を下と呼んでいたようである,松前藩は、この地、下海岸・陰海岸(噴火湾沿岸の南部)をアイヌの居住地の蝦夷地としながらも、豊富な昆布に,幕府は、この松前藩の莫大な漁業収益に目を付け、蝦夷地の警備手薄を理由に、寛政12年(1800年)箱館奉行,これらの集落は漁獲物の集散する商い場所となり、村役人の会所や駅逓がおかれ、箱館や松前の商人がやってきて / [松前藩時代の下海岸のみち]
函館市史 通説編 第一巻 ([第2節 松前藩の再生産構造と箱館港])

[第2節 松前藩の再生産構造と箱館港] 松前藩初期の箱館地方の中心は亀田にあり、住民の生計は主として,繁殖が多かったわけではなく、この地の人々は、宇賀昆布の名称で代表されているように、豊かな繁殖地である志海苔以東 / [第2節 松前藩の再生産構造と箱館港]
南茅部町史 上巻 (志海苔で古銭の大甕出土)

志海苔で古銭の大甕出土 昭和四三年七月一六日、国道二七八号線志海苔地区の改良工事中に、古銭がザクザク,その最も年代のわかい銭貨をもとに、銭甕が埋められた年代を一四〇〇年前後とみると、 ―北海道史年表によると,―日本史年表によると、後小松天皇の御代で、年号は応永七年(一四〇〇)、将軍足利義満が太政大臣となり、将軍職,この頃、夷後藤の祖といわれる鍛治、後藤の徒が、乱をさけて京都から松前に渡来したという。,(新北海道史)  享徳三年(一四五四)になると松前家の祖となる武田信広がのちの箱館の館主河野政通らと / 志海苔で古銭の大甕出土
戸井町史 (二、松前神楽の概要)

二、松前神楽の概要 松前藩歴代の藩主が神楽の奨励につとめ、第十代藩主矩広(のりひろ)時代の延宝二年(,文化三年(一八〇六年)正月徳川幕府の監察使(かんさつし)遠山金四郎景晋(かげちか)が目付役志鎌万輔(しかままんすけ,佐々木一貫の書いた文書に始めて「松前神楽」の名が使用された。  ,この松前神楽が神官によって継承され、現在まで道南の神社の祭典に於いて行われているのである。,神楽の面  3 松前神楽の神歌 (意味不明の歌詞が若干ある。)   / 二、松前神楽の概要
南茅部町史 上巻 ([津軽一統志])

[津軽一統志] 寛文九年(一六六九)から同一二年(一六七二)にかけて、蝦夷地におきたアイヌの和人への,このとき松前藩救援の幕命をうけた津軽藩は、蝦夷地の事情を把握するため、津軽藩独自に蝦夷地の調査をして記録,この記録を、のちに津軽藩史といわれる「津軽一統志」の巻第十に編述した。  ,津軽一統志は、蝦夷地とくに郷土の沿岸の地名を記した最古の記録である。   / [津軽一統志]
函館市史 銭亀沢編 (志苔村における村民の階層)

志苔村における村民の階層 志苔村居住者の土地や漁船などの所有状況をまとめたのが表1・4・10である。,志苔村には鰯漁場を持ついわゆる曳網業者が三戸ある。笹谷卯兵衛、菊地藤五右衛門、中村喜代松である。,」(北海道立文書館蔵 簿書番号1784)より作成         「小前一人別田畑調帳」(北海道立文書館蔵,361)より作成          ( )は鰯漁場関係の数字で、外数    もう一戸の中村喜代松は,これらのことから志苔川を挟んだこの地域が志苔村の中心地であったことがわかる。   / 志苔村における村民の階層
戸井町史 (一、明治以前)

一、明治以前 ○寛文十年(一六七〇) 『津軽一統志』   石崎(十軒)やちまき(あき家十三軒)、たか,○宝暦九年(一七五九)『松前蝦夷聞書』   箱館六十五、六、いくら前十二、三戸、銭亀約二十戸とあり、,  トイ 運上屋一戸、世田良村と境を接し、このうち海岸里数、三里   ○寛政九年(一七九七)『松前地誌,○天保九年(一八三八)『松前国中記』   「箱館、寺社町家およそ三、四百軒」とあり、戸井の地名はオヤス,[道南の戸口]  以上が古文献に記載されている戸口を集計した一覧表であるが、殆んどが松前藩や幕府 / 一、明治以前
函館市史 通説編 第一巻 (北前船)

北前船 松前渡海船の図 大宮神社総代大橋謙太郎氏より寄託(滋賀大学経済学部附属史料館保管)  ,すなわち、それまでの松前交易は、近江商人の手船か、あるいは共同雇用船団である荷所船が主体をなしていたが,(『西川家文書』)  このように買積船としての北前船は、これまでの荷所船とは異なり、船頭の意志で売買,従って従来は、近江商人の拠点となっていた江差や松前にしか入港出来なかったものが、箱館へも次第に入港することが,たとえば慕吏中村小一郎の寛政10年『松前蝦夷地海辺盛衰報告書』によれば、「箱館在の儀は、昆布重の家業に / 北前船
恵山町史 (1、津軽一統志にみる郷土の地名・ようす)

、津軽藩史の『津軽一統志』である。,松前藩はこの鎮定後、蝦夷地での権力・勢力を益々強固なものとしていく。,津軽藩はこの乱に対し幕府の命令により松前藩を救援すると同時に、密かに藩士を蝦夷地に派遣し情勢を探索させ,これは、松前藩が新井田に海産物の取り引きを行う権利を与えたことを示すもので、この沿岸一帯は名目的にはアイヌ,元禄国絵図 松前島絵図にみる郷土 元禄13年(1700)幕府の命令により松前藩が作成した地図(蝦夷島 / 1、津軽一統志にみる郷土の地名・ようす
椴法華村史 (津軽一統志とアイヌ人)

津軽一統志とアイヌ人 次に『津軽一統志』の寛文十年(一六七〇)の記録から、和人とアイヌ人の関係について,青山弥左衛門商場の記録が見られるが、これは「のたあい」の知行主が新井田権之助、「ゆうらつふ」の知行主が松前藩士青山弥左衛門 / 津軽一統志とアイヌ人
函館市史 通説編 第一巻 (北前船の発達)

北前船の発達 箱館の経済は前述のような不振を続けるが、しかしこの時期は同時に北前船の飛躍的な発展をみた,北前船はいわゆる賃積船ではなく、船頭の意志でどこにでも航海する買積船であり、文化・文政以降になると箱館港,但、松前受負場所も前同断。 一、場所荷物運送並に買附船の事。,右船積登り御口銭並に口銭は前文の通り場所宿受用の事。  ,一、松前請負場所当所取扱前同断の事。 / 北前船の発達
戸井町史 (三、幕領時代前期の概観)

天正十八年(一五九〇)から二〇九年間、松前藩が統治した蝦夷地を幕府の直轄にした時代である。  ,てがあるという風説を聞き、近藤重蔵等に東蝦夷地の実地調査を命じ、その報告に基づき、ロシヤの南侵に備えるには松前藩,に任せておけないと判断し、寛政十一年に松前領の東蝦夷地を幕府の直轄とし、松前藩に命じて、ロシヤの侵略に,北辺の警備と開拓を幕府に志願して、八王寺千人同心隊の千人頭原半左衛門と弟新助が、百名の千人隊を引卒して,文化四年(一八〇七)先祖より松前家が領有していた福山附近の地をも幕府の直轄地とし、松前藩を伊達(だて) / 三、幕領時代前期の概観
函館市史 銭亀沢編 (工藤福松と樺太)

明治四十年に「樺太西海岸特許漁業者大会」が真岡で開かれたが、二九名の来会者のなかに工藤福松の名前があがっているのである,また、明治四十三年に「真岡支庁管内水産品評会」がおこなわれたが、ここでも工藤福松の名前をみることができる,市立函館図書館にある小熊家の文書によれば、工藤福松と福田松之助は戦後も密接な関係があり、小熊幸一郎がかれらに,                                       (大正元年「備忘」)    『北海道立志編,大正三年の営業方針は前年同様で、樺太西海岸の仕込漁場も三か所とされている。 / 工藤福松と樺太
南茅部町史 上巻 (松浦武四郎)

号は多気志楼ともいう。,本邦にて松前にては古来より昆布にて屋根を葺と云は、皆此屋根の上迄昆布を干したるを見てかとも思はる。,如何斗志無世の中と云もあまり有べし。,丁未の夏昆布最中には、小商人・煮商店・妓・三味線引・祭文よみ等群集して、江差の浜小屋のごとく群集し、松前,後数度松前にて逢て話しを聞たり。 / 松浦武四郎
恵山町史 (2、青年団の活動・発足から戦前まで)

砂山村長、有志、在郷軍人の列席あり。  ,・大正13年1月 「根田内祝賀式」根田内・磯谷青年会外有志一同は二十六日午前十時より同地小学校,丹野校長及び有志の祝辞、祝奉歌斉唱し閉会す。  ,団員の五分間演説に移り、高松(倉)君の「青年の急務」、高松(開)君の「我が弟妹を愛せ」等、熱弁をふるい, 班  長  谷藤直次郎 村田 武 大坂留雄 村田 勇 高松倉次  幹  事  松永誠三郎 中野吉勝 / 2、青年団の活動・発足から戦前まで
恵山町史 (①松前地古武井熔鉱炉の研究並びに考証年表)

文学博士白山友正(函館大学教授)北海道経済史研究所尻岸内町教育委員会昭和41年3月28日発行松前地古武井熔鉱炉,の研究第1節序論松前地箱館六ケ場所古武井熔鉱炉、女那川仮熔鉱炉、川上レンガ製造場(以上現在北海道亀田郡尻岸内町,庄兵衛については、昭和10年10月、北海道水産協会刊行の「北海道漁業志稿」 775~6頁及び「北海道史人名辞典,この前後、箱館弁天町松右エ門、タタラ吹分製鉄場を開く?,7月17日・村垣奉行退職 7月18日・大島高任同志共箱館抗学校を開く。 / ①松前地古武井熔鉱炉の研究並びに考証年表
函館市史 通説編 第二巻 (北海道における近代寺院の造立と函館)

にみると、中央教団が本寺になって造立した寺院が47か寺、以下同様に函館寺院を本寺とするのが14か寺、松前,そのうち函館と松前という先発地の寺院を本寺としているのが21か寺もあり、札幌の8か寺をはるかに凌駕している,しかも特徴的なことは、この先発地の函館・松前の寺院が本寺となって末寺を造立する地域が釧路や根室という沿岸部,・小樽 後志・島牧 天塩・留萌 本願寺 本願寺 本願寺 本願寺 総持寺 京都仏光寺 松前法幢寺,松前正行寺 函館高龍寺 小樽龍徳寺 札幌中央寺 苫前願海寺 寿都籠洞院 札幌中央寺 根室開法寺
函館市史 通説編 第一巻 (乱後の箱館)

にあり、河野政通も箱館を回復し、また湯川と志海苔の間には、良景の2男小林二郎左衛門政景の子、小二郎季景,・与倉前の前記3館を攻略、当時館主であった箱館の河野弥次郎右衛門尉季通をはじめ、志海苔館の小林良定、与倉前館,、これよりさき文亀元(1501)年に没し、孫の下国八郎師季が嗣いでいたが、これまた「夷賊に敗続」して松前,かくてその子孫は、志海苔の3代小林三郎右衛門良治が永正11年松前に移り、与倉前小林季景の子小三郎景宗は,、同12年蠣崎光広に臣事し、また河野季通の1女(3歳)は、乳母に負われて松前に逃れ、後に蠣崎季広(松前家
椴法華村史 (安東氏より独立)

次いで文禄二年(一五九三)一月肥前の名護屋において秀吉に謁し、志摩守に任ぜられ「朱印の制書」を賜わったのであるが,(新北海道史第二巻所載)     於二松前一、従二諸方一来船頭商人等、対二夷人一、同二地下人一、非分儀不,とのへ    これを書き下し文にしてみると、      松前に於て、諸方より来る船頭商人等、夷人,一 諸国より松前へ出入の者共、志摩守に相断らずして、夷仁と直に商売仕り候儀曲事となすべきこと。   ,の如し    慶長九年正月二十七日 黒印                            松前志摩守
函館市史 銭亀沢編 (市村合併前後の生活の変化)

市村合併前後の生活の変化 村民にとって市村合併は、生活格差の是正を目標とし、「農道の整備、浅海増殖対策,海岸線を走る下海岸道路(道道函館-戸井-尾札部線)は、路線の一部変更をしながら本格的な改良工事が合併以前から,次に、銭亀沢の水道事情は、銭亀沢簡易水道が昭和二十八年度に、志海苔簡易水道が翌年に設置されている(昭和三十一年度,また、昭和三十九年度からは根崎と高松の一部に函館市の水道が給水を始めている(昭和三十八年十二月十八日付,さらに、道路整備の進展とともに、高松町など市街地周辺で急激な都市化現象を起こしていたことも事実であろう / 市村合併前後の生活の変化
函館市史 銭亀沢編 (戸井館の築造)

これを裏付ける文献は、松前藩の学者・蠣崎敏が、一七代藩主崇広の命をうけ、『蠣崎広時日記』から珍事奇談を,それによれば、文政四(一八二一)年、一人の松前藩士が、岡部の澗という入り江の通称岡部館付近で、古い石碑,志苔館が創建されたのは、前にみたように、一四世紀末の頃と推定されるので、この志苔館に遅れること程なくして,岡部季澄は、のち、松前・原口に移り、「道南の十二館」の一つである原口館を築いた。  ,志苔館には、東部アイヌに対する防衛的ないし最前線基地としての役割がどうしても求められてくる。
函館市史 銭亀沢編 (宇賀昆布)

先の「松前蝦夷記」に「東郷亀田村志野利浜ト云所より東蝦夷地内浦嶽前浜まで海辺弐拾里余之所ニテ取申候、尤献上昆布,ハ志野利浜宇加ト申之海取分能ゆへ取り申」とあるので、志海苔付近の海岸で採れた昆布のことではないかと思う,ところが、天明元(一七八一)年に松前広長が書いた「松前志」(『北門叢書』第二冊)では穀類部で「コンブ並,松前、江差より出るものは下品也。,ついで、松浦武四郎は「蝦夷日誌」で、石崎村にウカカという川があるが、ここ以外に「彼庭訓往来に宇賀の昆布
戸井町史 (二、二代戸長 松代(まつしろ)孫兵衛)

二、二代戸長 松代(まつしろ)孫兵衛 松代孫兵衛  明治十八年(一八八五)に退任した初代戸長飯田東一郎,市蔵は父の歿する二年前から寺子屋をやめて家業に精励し、明治十五年祖父の死後、孫兵衛を襲名した。,孫兵衛の弟、姥子太郎左衛門は、家督を継いでから銭亀沢村外三村(銭亀沢、亀尾、石崎、志海苔)の戸長に任命,松代家の祖先は長野県松代の出身といわれ、故あって下北の佐井に移住し、石崎松代家の祖金沢屋孫兵衛は石崎に,両松代家に仏壇を納めた嘉永四年には、石崎松代孫兵衛は五十六才、箱館松代伊兵衛は四十三才、三代孫兵衛を襲名 / 二、二代戸長 松代(まつしろ)孫兵衛
函館市史 別巻 亀田市編 (シコツと亀田)

シコツと亀田 文化四(一八〇七)年『松前紀行』(別名蝦夷紀行・陸奥紀行)には、「亀田川を越え万年橋を,亀田の地名が最初に見られる文献は、寛文十(一六七〇)年の『津軽一統志』の記事で、前記したように「一 亀田,『松前紀行』にあるように、「シコツ」という地名は確かに亀田川下流域に付けられた地名であるが、亀田地域一般,『松前紀行』はその文中で亀田の地名を使用しているが、それは単に亀田川下流域の一部を示すものではなく、もっと,また「シコツ」の地名は『松前紀行』以外にはその名すら発見されず、地名が用いられた確実な年代は、「亀田」
函館市史 銭亀沢編 (安藤康季の渡道と「道南の十二館」)

知内町字涌元 南条治部少輔季継 穏内(おんない)館 福島町字吉岡 蒋土甲斐守季直 覃部(およべ)館 松前町字東山,今泉刑部少輔季友 大館 松前町字西館 下国山城守定季 相原周防守攻胤 袮保田(ねぼた)館 松前町字館浜,近藤四郎右衛門尉季常 原口館 松前町字原口 岡部六郎左衛門尉季澄 比石(ひいし)館 上ノ国町字石崎,地域でもあったので、ほかの館以上に、アイヌとの対応においては、敏感にならざるをえなかった(春日敏宏「松前藩成立期,に関する一考察」『松前藩と松前』19)。
函館市史 通説編 第一巻 (徳川の幕下に入る)

          定 一、諸国より松前へ出入の者共、志摩守に相断らずして、夷仁と直に商売仕,慶長九年正月二十七日 黒印                         松前志摩守どのへ  ,; 松前藩成立を認めた徳川家康黒印の制書  かくて松前氏は徳川の幕下に入り、交代寄合の資格,しかしながら松前藩の封建体制は、前記の制書の内容に象徴されるように、他藩とは著しく異なっていた。  ,従って松前藩が確立しても、その基本的な原則には変わりなく、前述に見たごとく松前氏が秀吉ならびに家康に、
函館市史 通説編 第二巻 (函館出張開拓使庁から函館支庁へ)

所管地は渡島国の内松前藩地(福島、津軽、檜山、爾志の4郡)を除く亀田、上磯、茅部の3郡であった。,それから6日後の9月20日、先に開拓使の所管地から外れていた元松前藩の領地が函館支庁の所管となり、北海道全域,松前藩は廃藩置県により館県となった直後、その所管地は4年9月に弘前県(この月の内に青森県となる)に合併,されて青森県松前出張所が置かれていたのである。  ,この時の函館支庁の所管地は、渡島国亀田、上磯、茅部、福島、津軽(福島津軽の2郡は14年6月松前郡となる
函館市史 通説編 第一巻 (朱印の制書)

高麗国を手裏に入れらるること更に疑いなし」(『新羅之記録』)と、さながら外征の成功の瑞兆のごとく感激し、志摩守,  松前に於て、諸方より来る船頭商人等、夷人に対し地下人と同じく、非分の儀申懸くべからず,文禄二年正月五日 朱印                          蠣崎志摩守どのへ  ,; 初代松前藩主松前慶広像(松前町阿吽寺蔵)  これこそ、まさに日本国の統治者である太閤秀吉,こうして蠣崎氏は帰国早々近在のアイヌを集め、「此上猶、夷敵対して志摩守の下知に違背し、諸国より往来の者某
函館市史 通説編 第一巻 (鰤漁)

『松前志』によれば「冬月東部オヤス・シヲクビ辺殊に多し甚だ美味なり」と見られ、『松前国道中記』には、戸井
椴法華村史 (昆布収穫税)

昆布収穫税 享保年間の「覚」(松前福山諸掟の中の享保年間に出されたと推定される法令)から昆布収穫税関係分,汐くびより下まて昆布取候事松前え無断取申間舗候事。   ,一、志のり浜の内にて昆布取候者共に志のり昆布七駄宛相納候事。   ,この「覚」は『松前福山諸掟』の中の亀田箱館奉行「覚」の中に含まれているもので、享保年間(一七一六-三六,このことは松前藩が昆布関係の税を重要財源の一つとしていたことを物語るものであろう。
戸井町史 (四、戸井から六万枚の古銭と宝物出土(文政四年))

古銭を入れた大瓶は何れも室町時代前期未のものと推定され、志海苔館と関連づけ、埋められた時代はコシャマイン,戸井の古銭  旧銭亀沢村志海苔から三十七万枚の古銭が出土した昭和四十三年より一四八年前の文政四年(一八二一,茂八、鎌歌の第吉(近江屋―後の宇美)等が協議の上、場所支配人であった箱館村の新井田金右衛門を通じて、松前藩主松前章広,この沢の何箇所かを、松前の役人が堀らせたところ、六尺四方もある大きな石柱が一つ出土した。,『松風夷談』は松前藩第十七代藩主崇広(たかひろ)が、松前藩の学者蠣崎敏という人に命じて、『蠣崎広時日記
函館市史 通説編 第一巻 (大坂の問屋組織)

これは蝦夷地各場所の漁場における生産が上昇してきたことにもよるが、そのため従来大坂では、干鰯商仲間が松前物,を取扱っていたが、この期にはその取扱量が極めて増大したため、仲間同志の矛盾も激化し、文化3(1806),年その取締りについて協議し、同8年松前行司3名を置き、文政2(1819)年には、松前物最寄組なる仲買組織,と、松前問屋なる問屋組織をつくるに至った。
函館市史 通説編 第一巻 ([2 文化])

平安から鎌倉にかけて信仰された来迎の浄土思想を、みごとに表現した一種の曼陀羅であり、ともに発掘された前述,志海苔町出土の古銭を収容した3個の大甕は、室町期の越前窯および能登の珠洲窯と推定され、昆布を媒介としてこの,地との文化交流を物語り、志海苔館からも越前窯粗陶破片とともに、宋代末から明代と思われる中国青磁破片などが,若狭の方に向って伸びたので、「思いの松」と呼び、嘉蜂が物故すると枯れたので、人々は「嘆きの松」と呼んだともいい,、思いの松、嘆きの松など庶民の文学的発想が看取される。
函館市史 通説編 第一巻 (産物の箱館回送方請願)

産物の箱館回送方請願 しかるに文化9年東蝦夷地の直捌制の廃止が決定し、しかもその地の場所経営は箱館、松前,にしてくれるよう請願したが、幕府から何らの音沙汰がなかったところ、翌10年になってようやく請負人の意志で,、箱館・松前両港のどちらにでも自由に荷揚げできる許可が出された。,松前商人の手に占められている。,、松前居住の請負人が圧倒的に多い中では、必然的に産物の多くが松前に集荷されたことはいうまでもなかった。
函館市史 銭亀沢編 ([図版])

最終間氷期といわれる約12万年前頃に海の波に洗われてできたとされる。,その後、隆起途上4万年前を少しさかのぼる頃に大規模な火砕流に襲われた。,(平成9年・高松町) 変わりゆく町景観の点描Ⅰ(平成8年・高松町) (平成9年・高松町,年・石崎町) (平成9年・古川町) (平成9年・石崎町) (平成7年・志海苔町,) 志海苔漁港(銭亀地区)の整備(平成8年・新湊町) 石崎漁港(平成9年・石崎町)
恵山町史 (1、古い記録にみる、郷土のようす)

1、古い記録にみる、郷土のようす 1670年頃(寛文10年頃)『津軽一統志』  郷土の地名や集落のようすが,記されている最も古い記録は、『津軽一統志』である。  ,津軽一統志は文字通り『津軽藩史』であり、この巻第10にシャクシャインの乱に関する内容が収められていて、,に毒を入れ狄(てき)とも殺可申」(津軽一統志)と受けとめ、「メナシクル(シャクシャイン側)の狄の義は松前,松前藩もこの命を受け1700年(元禄13)1月、『松前島絵図・松前島郷帳』を調製し、同年2月に幕府に提出
函館市史 通説編 第一巻 (昆布税)

採取季節になると、箱館や亀田の住民ばかりでなく、福山や江差地方の漁民も多く出稼ぎして盛んに採取したが、松前藩,  一 昆布 右東郷亀田村志野利(しのり)浜と云う所より、東蝦夷地内浦嶽(駒ヶ岳)前浜まで,古は二十五駄宛納め申し候得ども、松前まで船積にて収納申し候ては、人夫多くかかり申し候故、近年願い元昆布,(『松前蝦夷記』)    また、元禄4(1691)年松前藩主から亀田奉行に達した覚書によると,右納め松前にて一枚づつ相改め、後仕上げを致し、献上の昆布に相定め申す由。
函館市史 通説編 第一巻 (道路開削)

道路開削 陸上の交通は、東蝦夷地は前時代すでに開削が行われ、海岸沿いに人馬が通ずるようになっていたが,、西海岸はそのことがなく、箱館から西蝦夷地に赴くには船により松前を迂回して行かなければならなかった。,住民福次郎、千代田郷の住民才太郎の二2人が、共同して出願し、5年間橋銭を取ることを条件に、長万部と黒松内間,の山道を開き、また箱館の佐藤定右衛門(歌棄・磯谷の請負人栄五郎の父)が篤志をもって、黒松内から歌棄までの
函館市史 銭亀沢編 (ニシン漁)

    旧記に拠るに、文安四年(一四四七)陸奥の馬之助と称する者、今の松前郡白符村に来り鯡漁,其後各地漁場請負人あり、土人を使役して漁業に従事し、或は漁夫を松前及内地より募り、競て漁獲に従事。,   一筆啓上仕候、然者御百姓共為渡世之松前へ働に罷越度由願出候者共、  左之通に御座候,また同県東津軽郡平舘村の『平舘村史』(肴倉彌八編著 昭和四十九年)のなかに、安政二(一八五五)年の「松前行人数調,平舘六人、根岸一六人、宇田四人、頃々川七人、石崎九人(いずれも現同村)の漁民四二人が生活に困窮しているため松前
函館市史 別巻 亀田市編 (名主の仕事内容)

明治初期(明治元年より五年ころまで)の亀田地域の名主の仕事内容について、詳しく記した資料がないが、前述,(第二章第四節 三 前幕府時代の村役人)の『維新前町村制度考』と同様と思われるので、ここでは省略する。, 平七 本谷八郎右衛門 年       寄 明治元年 岩松 五月 吉五郎 源蔵 二年,善四郎 小柳 三四郎 亀井 藤蔵 四年 小柳 三四郎 亀井 藤蔵 鍛治谷 善四郎 永田 伝松,百   姓   代 明治元年 吉五郎 与志 二年 吉三郎 兵四郎 留弥 三年 吉三郎
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