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函館市史 通説編 第一巻
(徳川の幕下に入る)
が主として政務を執るに至ると、慶広は翌4年11月家康に会い、蝦夷島地図と家譜を奉ったが、蠣崎氏を改め
松前氏
, 松前志摩守どのへ 松前藩成立を認めた徳川家康黒印の制書 かくて
松前氏
,従って松前藩が確立しても、その基本的な原則には変わりなく、前述に見たごとく
松前氏
が秀吉ならびに家康に、
恵山町史
([古武井熔鉱炉と女那川煉瓦製造所])
[古武井熔鉱炉と女那川煉瓦製造所] 本論は、尻岸内町史 第8章
松前氏
の復領そして再直轄への第4節『幕府
函館市史 別巻 亀田市編
(はじめのころの林業)
はじめのころの林業 前
松前氏
時代の蝦夷地の森林は、本州方面のように荘園、地頭領のようなものはなく、ほとんどが,このようなことから、前
松前氏
時代の林業は主として伐採の時代であったといえるであろう。
函館市史 別巻 亀田市編
(松前藩の蝦夷地統一と番所の設置)
このような状況の中で蛎崎慶広(
松前氏
第五代)は文禄二(一五九三)年豊臣秀吉に謁し、志摩守に任ぜられ、蝦夷島主,この後更に慶広は慶長九(一六〇四)年徳川家康からも黒印の制書を受け、名実ともに蝦夷地の支配者となり、
松前氏
函館市史 通説編 第一巻
(蝦夷地の上知)
同年3月5日、西在および東西蝦夷地の版図を
松前氏
から受取り、東蝦夷地へは箱館奉行支配組頭河津祐邦、西蝦夷地
椴法華村史
(場所)
前項でも記したように慶長九年(一六〇四)徳川家康から黒印の制書を受け、蝦夷交易の独占権を与えられた
松前氏
函館市史 通説編 第二巻
(松前藩への幕府の達)
薪水食料等差支候節、松前表ヘ罷越度候ニ付、地理之様子致二見聞一置度候ニ付罷越」すものであること、またこのことは、
松前氏
,当時寺社奉行)の娘″浪″と婚約(但し″浪″は、同年3月14日婚礼前に病没)したことにより、以後松平家と
松前氏
函館市史 別巻 亀田市編
(歴代名主)
(前
松前氏
時代) 1 白鳥孫左衛門 白鳥氏第三代か 2 佐藤彦左衛門
函館市史 通説編 第二巻
(黒船渡来)
幕府から通告のあったアメリカ船であることを確認したのは、その後応接方が最初に入津した船に赴き、同船より
松前氏
家来宛下田奉行支配組頭,ところが幸いにも、この書状は、
松前氏
家来に宛てた下田奉行支配組頭黒川嘉兵衛、徒目付中台信太郎連名の書状,が橋船でポーハタン号に赴き、ペリー付通訳ウイリアムズと会見、次いでマセドニアン号に向かい、同船で先の
松前氏
家来宛応接掛林大学頭等
函館市史 別巻 亀田市編
(村々の状況)
村々の状況 天明・文化の戸口比較表 前
松前氏
時代、天明六年の統計と、前幕府時代文化八年の統計
南茅部町史 下巻
(〔郷土の森林〕)
開拓使事業報告」第一編に、享和元年(一八〇一)、幕府の蝦夷地直轄のとき「箱館管地西知内ヨリ東海岸連山ハ、従前
松前氏
函館市史 別巻 亀田市編
(代官と下代)
下代の制度は前
松前氏
時代の終りまで続いたものと思われる。
函館市史 通説編 第一巻
(絵画)
釈迦涅槃図(高龍寺蔵) 画家では、松前応挙などといわれた画家蠣崎波響(松前資広の5男)は、
松前氏
転封中
函館市史 通説編 第二巻
(松前藩の対応と松平乗全)
「覚」が藩庁に到着した正確な日付は定かでないが、アメリカ船がいよいよ箱館へ向う旨を記した3月13日の
松前氏
家来宛老中松平伊賀守忠優達,(『幕外』5-292)、及び普請役井上富左右・辻嘉右衛門を箱館へ派遣する旨を記した同日の
松前氏
家来宛石河政平達
恵山町史
(5、松前藩の復領)
また、
松前氏
は蝦夷地草創の家柄であり数百年の所領でもあるから、特別の配慮で復領を許可する」という理由であるが
椴法華村史
(硫黄鉱山の歩み)
・文政五年(一八二二)頃椴法華村中にて硫黄掘取
松前氏
へ石切金五両宛上納、『椴法華神社明細書』 ・天保十二年
函館市史 通説編 第二巻
(ペリーの抵抗と要求)
執着したのは松前・琉球(那覇)の2港と江戸湾内の浦賀か神奈川の1港で、とりわけ松前については、応接掛が
松前氏
,の領地故即答できないと返答するや、松前へ艦隊を廻して
松前氏
と直接交渉すると迫ったほどである。
函館市史 別巻 亀田市編
(蝦夷地直轄)
蝦夷島奇観) 市立函館図書館蔵 寛政十一(一七九九)年一月十六日、幕府は外国との境界取締りのため、
松前氏
函館市史 通説編 第一巻
(コシャマインの乱)
松前氏
祖 武田信広 しかも越えて翌長禄元(1457)年5月、東部の酋長コシャマインを陣頭に、いよいよ
函館市史 別巻 亀田市編
(荒廃から保護へ)
荒廃から保護へ 前
松前氏
時代の林業は、主としてヒバ(別名アスナロ)を中心にしたもので、取締りのための
函館市史 別巻 亀田市編
(名主の仕事)
またこれらの賃銭は前
松前氏
時代は無賃であったが、後
松前氏
時代になり宿泊した場合の賄料と一緒に翌年の春にまとめて
恵山町史
(古武井熔鉱炉・女那川煉瓦製造所の研究論文)
古武井熔鉱炉・女那川煉瓦製造所等の復元も含め、将来の調査・研究に資するため、まず、尻岸内町史、第8章
松前氏
函館市史 別巻 亀田市編
(半農半漁の村)
その後
松前氏
による統一事業が進み、蝦夷地が平定され、再度和人が渡島地方の海岸部に、漁業のために居住するようになり
戸井町史
(三 蠣崎の錦帯城趾の伝説(川内町))
これが南部氏の記録による蠣崎信純渡島の経緯(けいい)であるが、
松前氏
の記録では、大畑よりの信広の船出が
椴法華村史
(安東氏より独立)
黒印 松前志摩守とのへ かくして
松前氏
函館市史 別巻 亀田市編
(牛と五升芋)
これは前
松前氏
時代からすでに栽培されており、最初のうちは近在に手配し、外国船へ供給していたが、外国船の
恵山町史
(恵山に登った菅江真澄)
1454年(享徳3)
松前氏
の祖、武田信広が、この地に上陸して地元民の崇敬に倣い祈ったという。
椴法華村史
(恵山八幡宮(椴法華八幡神社))
その後『椴法華八幡神社明細帳』にあるように、文化十三・四年(一八一六・七)頃になり恵山硫黄掘取のため
松前氏
戸井町史
(二、和人の館)
松前氏
の記録は「盛季の渡島は嘉吉三年(○○○○)(一四四三)」となっており、南部記録の十一年後になっているが
函館市史 通説編 第二巻
(杉浦兵庫頭の決断)
も詰合役々無之候テハ行届間敷、重役は格別、吏務ニ至り候テハ、事馴候もの共召仕候方可然哉と被存候、右ハ
松前氏
恵山町史
(1、郷土の起源・集落の形成)
1799年(寛政11年)幕府は、
松前氏
の領土として1590年(天正18年)以来認められていた蝦夷地の内
函館市史 別巻 亀田市編
(一 亀田村の郷土史について)
内容は、 一 石器時代の亀田村 二 和人の渡来 三 亀田村のはじめ 四
松前氏
の独立
函館市史 通説編 第二巻
(幕領初期に直面した問題)
(2)の問題も、閏7月18日付の竹内の老中宛伺書(『幕外』7-補遺6)では、台場の警備は従来通り
松前氏
恵山町史
([明治・大正時代の漁業])
しかしながら、江戸時代、蝦夷島(北海道)の主権を握った
松前氏
は、福山(松前)に居城を構え、西は熊石(関内
恵山町史
(1、古い記録にみる、郷土のようす)
そして、これを鎮圧するために幕府は、
松前氏
の一族であり、旗本の松前八左衛門泰広に出陣を命じ、津軽藩にも
戸井町史
([昆布漁])
(2)寛永二十年(一六四三)
松前氏
四代目の藩主
松前氏
広が、幕府の命により、氏広の叔父景広が編纂させた、
恵山町史
(3、幕府直轄以降の箱館六ケ場所)
10月には、蝦夷地全域を直轄地とすると、本営を松前に移転し松前奉行と改称、1821年12月(文政4)の
松前氏
函館市史 別巻 亀田市編
(函館市史 別巻 亀田市編 目次)
92 一 亀田番所と亀田奉行 二 亀田郷と名主 三 前幕府時代の村役人 四 後
松前氏
時代
戸井町史
([戸井の鰮漁の沿革])
幕府が蝦夷地を再び
松前氏
に返還した文政四年(一八二一)以降である。
椴法華村史
(目次)
311 第一節 前松前藩時代……………………………………………………………311 一
松前氏
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