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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (松浦武四郎の記録)

松浦武四郎の記録 松浦武四郎は弘化2(1845)年28歳の時江差、函館を訪れて以来14年間蝦夷各地を,明治十年丑の春雷の発声のころ 弘誌 松浦武四郎『撥雲余興』″箱館尻沢辺の雷斧・石鋸・砥石″ / 松浦武四郎の記録
恵山町史 ([松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社])

[松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社] 北海道名・国郡名の名付け親でもあり、古今稀な旅行家,・探検家である松浦武四郎は、蝦夷地の探検も6回に及んでいる。 / [松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之五)にみる郷土の寺社]
南茅部町史 上巻 (松浦武四郎)

松浦武四郎 武四郎は北海道の名付け親として知られている。 / 松浦武四郎
恵山町史 (2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より)

2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より この時代の郷土の交通状況について,詳細かつ正確に記されているのが、松浦武四郎の蝦夷地探検の記録『蝦夷日誌』である。  ,松浦武四郎の『蝦夷日誌』にみる渡島の道  以上、郷土の道の『蝦夷日誌・巻之五』から、郷土の行程・距離 / 2、郷土の道 松浦武四郎の『蝦夷日誌・巻之五』(初航蝦夷日誌)より
戸井町史 ([松浦武四郎の『蝦夷日記』(嘉永三年)])

[松浦武四郎の『蝦夷日記』(嘉永三年)] 弘化二年八月、松浦武四郎が森村を出発して砂原、臼尻、尾札部,      十六町余 (この通りは馬道である)    (附)日浦村の孝女レン 弘化二年(一八四五)八月、松浦武四郎,この事蹟は、松浦武四郎が日浦を訪れた弘化二年より四十年も遡る昔のことであるが、松浦は孝道地におちた当時 / [松浦武四郎の『蝦夷日記』(嘉永三年)]
椴法華村史 (水無)

天明元年(一七八一)の『松前誌』には「ミツイシ」と記され、前掲松浦武四郎の『蝦夷日誌』には、「水無、少
椴法華村史 (海馬(とど)岩)

弘化二年より四年(一八四五-四七)に至る記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌』によれば、「海中に在り、
椴法華村史 (北海道の誕生)

同月二十四日前箱館府知事であった清水谷公考を次官に、(同年九月十三日辞任)島義勇・岩村通俊・岡本監輔・松浦武四郎,このため開拓使は松浦武四郎に国郡制定の研究を命じ、その意見を容れ蝦夷地を「北海道」と改称し、十一国八十六郡
椴法華村史 (カシカソリ)

カシカソリ 前掲松浦武四郎の『蝦夷日誌』に初めて見られ「カヂカソリ、此浜恵山の東南の岬に当たる。
函館市史 通説編 第一巻 (箱館回航)

かくて嘉兵衛は箱館の回船宿白鳥勝右衛門(松浦武四郎『蝦夷日誌』に白鳥新十郎とあり)方に止宿し、積荷を売捌
恵山町史 (3、箱館附在々六ケ場所道途絵図)

前出の松浦武四郎の蝦夷日誌と合わせて読むことにより、当時の郷土の道路状況、あるいは郷土の地理がより理解
南茅部町史 下巻 (口絵)

川汲上空より尾札部、木直を望む 写真提供 (有)道映写真 昆布採取 松浦武四郎,文月(七月)八日 穴水郷大社(石川県) 八月十三日 東大寺 大仏殿 松浦武四郎
函館市史 別巻 亀田市編 (馬の利用)

馬の利用 松浦武四郎の『蝦夷日誌』には「(鍛冶村)人家三十軒計。皆大家なり。
南茅部町史 上巻 (開拓使設置)

蝦夷地の新しい国名郡名を定めるに当たっては、求められて松浦武四郎が七月一七日に意見書を提出している。
椴法華村史 (赤禿(あかはげ))

でえさを食べ、親鳥のまねをしている」  また弘化二年より四年(一八四五~四七)に至る記事をまとめた松浦武四郎
椴法華村史 (昔日の水無温泉)

昔日の水無温泉 松浦武四郎、蝦夷日誌の弘化四年(一八四七)五月の記事に「水無濱、少しの砂浜、水無より
函館市史 通説編 第一巻 (地誌・風俗書)

地誌・風俗書 地誌・風俗書については、右の如水の著のほか、松浦武四郎の『蝦夷日誌』なども貴重であり、
南茅部町史 下巻 (〔漁港〕)

弘化二年(一八四七)来村した松浦武四郎も、「蝦夷日誌」に臼尻の澗の賑いを描いた。  
恵山町史 ([郷土の寺院])

[郷土の寺院] 文書に残る郷土の寺院については、第1章に記したが、江戸時代の記録として、第2節松浦武四郎
南茅部町史 下巻 (〔商業のはじめ〕)

〓酒井屋の大福帳  弘化二年(一八四五)、松浦武四郎が、「蝦夷日誌 巻五」に記述した郷土の事情から,   人家弐十余軒          小商人壱軒    明治以前は、来住の人家は少なかったので、松浦武四郎
恵山町史 (2、恵山町指定文化財)

豊浦から日浦に至る3キロに及ぶ海岸線は、安山岩の柱状節理の奇岩絶壁が連なる絶景として、古くは菅江真澄や松浦武四郎,松浦武四郎の蝦夷日誌にも記されているが歴史的にも参拝者が絶えなかった霊場である。
恵山町史 (1、賽の河原)

松浦武四郎も記した賽ノ河原  「扨(さて)、是より登山するに、村中に華表(鳥居)有。,細き鳥居を越て上なり」  松浦武四郎の蝦夷日誌(巻之五)の恵山登山の記述の一部分(抜粋)である。
椴法華村史 (明礬の採掘)

松浦武四郎の『蝦夷日誌』(弘化二年)には、明礬の採掘について次のように記している。      
南茅部町史 下巻 (〔厳島社〕)

弘化二年(一八四五)  松浦武四郎 蝦夷日誌 巻五  臼尻村の項に             弁天社  
椴法華村史 (水無浜から磯谷村まで)

水無浜から磯谷村まで 弘化二年(一八四五)から同四年の見聞をまとめた松浦武四郎の「蝦夷日誌」は、水無浜
椴法華村史 (日持由来説)

日持由来説 松浦武四郎の『蝦夷日誌』弘化二年より同四年(一八四五-一八四七)までの記事をまとめたものによれば
椴法華村史 (鱈請負の制度)

松浦武四郎の『蝦夷日誌』弘化二年(一八四五)の記事によれば、鷲ノ木の所で「惣て此辺は人間地とはいへども
椴法華村史 (鱈漁と税)

鱈漁と税 松浦武四郎の『蝦夷日誌』臼尻村の記事によれば、      臼尻村、人家五十余軒、小商人二
椴法華村史 (恵山硫黄の自然発火)

これは特殊な例であるが、松浦武四郎の『蝦夷日誌』によれば、弘化二年(一八四五)六月十一日の恵山硫黄自然発火
南茅部町史 下巻 (郷土の医療の始め)

記録としては弘化の頃、箱館の医師深瀬鴻斎が臼尻村に滞在した、と松浦武四郎の「蝦夷日誌」に記されている。
椴法華村史 (商店のはじまり)

のはじまり 椴法華村と近村における商店に関する一番古い記事は弘化二年より弘化四年に至る記事をまとめた松浦武四郎
函館市史 通説編 第一巻 (幕吏の文人)

蝦夷地探検者として有名な松浦武四郎が、弘化2(1845)年はじめて蝦夷地に渡り、箱館の和賀屋孫兵衛の手代,松浦武四郎 函館港総図 「蝦夷日誌」より
恵山町史 ([江戸時代の農業])

農地の実態 『松浦武四郎の蝦夷日誌(巻之五)より』  弘化2年~4年(1845~47)松浦武四郎の蝦夷日誌,右之通御座候間乍恐此段奉申上候 以上    寅二月   尻岸内持 根田内 小頭 乙右衛門    松浦武四郎
函館市史 通説編 第一巻 (為替及び金融)

松浦武四郎の記録によると、早春荷物積込のため場所に赴く者の借金の利子は、帰って直ちに返済すれば2割、翌日
恵山町史 (蝦夷日誌(巻之五)椴法華村の項より)

……(以下省略)」    松浦武四郎は椴法華側より登山している。村中(登山口)に華表有、とある。
南茅部町史 下巻 (〔川汲山道〕)

弘化四年(一八四七)、松浦武四郎が箱館より友人を訪ねて川汲温泉に来往したときの川汲山道の里程は、蝦夷行程記
椴法華村史 (恵山温泉のはじまり)

その後、松浦武四郎の「蝦夷日誌」によれば弘化二年(一八四五)六月十一日、恵山硫黄自然発火の時「山上に湯治場有之処
南茅部町史 上巻 ([蝦夷日誌])

松浦武四郎は弘化二年(一八四五)八月二二日、森町を出立してカカリ澗村の〓に宿る。
恵山町史 (日浦・武井泊(豊浦)間開通(昭和5年3月))

また、世界的な探検家松浦武四郎は、蝦夷日誌の巻之五(1845~6年の巡検)の中に、「重畳たる怪岩つづきの,日浦海岸 松浦武四郎蝦夷日誌巻之五(函館市史史料編第1巻より)  いずれもこの海岸の景観の美しさ
南茅部町史 下巻 (鶴の湯伝説)

弘化四年(一八四七)丁未五月一一日、友人白鳥雄造を訪ねて箱館から木ナシ山を越えて、山道九里を川汲温泉に来た松浦武四郎,弘化四年(一八四七)、松浦武四郎は「蝦夷日誌」の川汲温泉の項に、「温泉壺一つ。
函館市史 通説編 第一巻 (阿倍臣の征討と蝦夷の綏撫)

まつりどころ)と為す可し、胆鹿島等が語に隨いて、遂に郡領を置き帰る」とあり、北海道に政庁をおいたと伝え、松浦武四郎
南茅部町史 下巻 (〔鶴の湯〕)

松浦武四郎「蝦夷日誌」弘化四年・一八四七    ② 薬王神掲額文より                 
戸井町史 (凡例)

又菅江真澄(すがえますみ)や松浦武四郎などの書いた日記、紀行文は、当時の状態を知ることのできる誠に詳細
南茅部町史 下巻 (〔磯谷温泉〕)

弘化二年、松浦武四郎がこの海岸を巡回の砌り、すでに無人なざら湯壺と粗末な小屋があるときいて山中にこの湯,松浦武四郎「蝦夷日誌」により当時の磯谷温泉のことを詳述すると、磯谷の人家は二軒でアイヌの家一軒あった。
椴法華村史 (蝦夷地の病気)

弘化二年より四年に至る(一八四五―四七)記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌』は、この時のことについて
南茅部町史 下巻 (村々の畑作)

村々の畑作 弘化二年(一八四五)、この地を旅した松浦武四郎は、その蝦夷日誌巻五「板木(安浦)・清水川
南茅部町史 上巻 ([郷土の戸口])

いわゆる字(枝村(えだむら)、支村とも記す)地域の戸口などが登場するのは、ようやく弘化二年(一八四五)、松浦武四郎
椴法華村史 (弘化二年恵山の硫黄自然発火)

弘化二年恵山の硫黄自然発火 弘化二年から四年に至る(一八四五-四七)記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌
南茅部町史 上巻 ([幕末・明治のイカ釣り漁])

松浦武四郎の「蝦夷日誌」臼尻村の出産として、鱈・昆布などの終わりに鯣と記されている。  
恵山町史 (19世紀中葉の異変と弘化3年(1846年)の噴火)

「蝦夷日誌」松浦武四郎(尻岸内町史、1970)   ・1845年(弘化2年8月)  後方の山岳暴風雨,「蝦夷日誌」松浦武四郎(尻岸内町史年表、1970)   ・1846年(弘化3年7月30日)  北海道恵山泥流
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