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椴法華村史
(椴法華回漕店)
椴法華
村史 /
椴法華
回漕店 大正から昭和初期にかけては、漁業が盛んで非常に景気がよく、このため
椴法華
回漕株式会社も,次に参考として昭和初期の出入船統計及び近村諸港への船賃、
椴法華
回漕株式会社役員について記すことにする。,
椴法華
回漕株式会社役員 (昭和五年七月一日現在・官公吏・各種団体職員名簿より)
椴法華
回漕株式会社,中村小吉 監査役 中島悦一 監査役 川口与之助
椴法華
港統計, 昭和四年村勢要覧より(1)
椴法華
港統計 昭和四年村勢要覧より(2) /
椴法華
回漕店
椴法華村史
([椴法華音頭])
椴法華
村史 / [
椴法華
音頭]
椴法華
音頭 [図] 一、ハーアーエー
椴法華
よいとこ 恵山は招,くよ なびく煙は なびく煙は 君を待つ ソレ ホイサよいとこ
椴法華
みんな来て踊ろよ シャント,ハーアーエー お花畑に咲くぞつつじよ かおる湯の花 かおる湯の花 夢のくに ソレ ホイサよいとこ
椴法華
,恵山岬から 銚子の沖にゃよ 今日もカモメの 今日もカモメの 大漁唄 ソレ ホイサよいとこ
椴法華
,ハーアーエー 櫓拍子揃えて 帰りの船によ 娘心の 娘心の 血は踊る ソレ ホイサよいとこ
椴法華
/ [
椴法華
音頭]
椴法華村史
(椴法華の行政)
椴法華
村史 /
椴法華
の行政 さてこの時代における
椴法華
の行政はどのような様子であったろうか。,この時
椴法華
村は尾札部村(村並)の支郷としての扱いを受けていた。,村役人の職務内容については、前幕領時代とほぼ同じ内容なので、ここでは省略することとし、尾札部(本村)と
椴法華
,小頭 藤蔵 不 詳 百姓代 喜太郎 御百姓代 喜太郎 不 詳
椴法華
/
椴法華
の行政
椴法華村史
(椴法華と搔送り)
椴法華
村史 /
椴法華
と搔送り 後松前藩時代の
椴法華
における海上交通の状況はどのようなものであったろうか、天保年中(,一八三〇-一八四四)と考えられる『東蝦夷地道中略記』によれば、
椴法華
箱館ゟ拾三里半,
椴法華
を挾み込むように位置する、恵山と銚子、屛風(びょうぶ)岩の絶壁は容易に道路の開削を許さず、前幕府時代,に引き続き
椴法華
・尾札部の間は搔送り船を利用しなければならなかった。,また
椴法華
・根田内間には恵山越の踏み分け道ができていたが、この間もまた大部分の通行は、搔送り船が利用されていた /
椴法華
と搔送り
椴法華村史
(椴法華の村役人)
椴法華
村史 /
椴法華
の村役人
椴法華
は正式には尾札部村の支郷であり、開拓使砂原出張所が開設された明治五年二月から砂原出張所,しかし交通上
椴法華
・砂原間の連絡はすこぶる不便をきわめたため、明治六年一月末ついに
椴法華
は、特別に戸井村出張所管轄下,この時代の
椴法華
村は未だ一村独立を認められておらず、村に置かれる副戸長は存在せず、村政を担当するものとして,なお『明治八年評議留』(北海道蔵)に依れば、 尻岸内村枝
椴法華
村用掛 佐々木弥三郎 同 ,越崎 與作 の名が見られ、この頃はおそらく仮りにであろうと思われるが、
椴法華
が尻岸内村の枝村の取扱いを /
椴法華
の村役人
椴法華村史
(椴法華簡易小学校と椴法華尋常小学校)
椴法華
村史 /
椴法華
簡易小学校と
椴法華
尋常小学校 明治十九年『小学校令』が公布され、北海道庁はこれを受けて明治二十年四月,なお『小学校簡易科教則』に基づき
椴法華
学校ではこの改めにより、従前の名称の他に
椴法華
簡易小学校とも称されるようになった /
椴法華
簡易小学校と
椴法華
尋常小学校
椴法華村史
(村立椴法華保育所)
椴法華
村史 / 村立
椴法華
保育所 ・
椴法華
季節保育所の開設 漁村地帯の
椴法華
村では盛漁期ともなれば急激に労働力が,このような状況の中で
椴法華
村は村民の意見を取り入れ昭和三十八年春、僻地保育所設置を道に出願(途中季節保育所設置,に変更)
椴法華
季節保育所として開設を認可された。 ,こうして、昭和三十九年七月一日、村内外の関係者を招き、村民待望の
椴法華
季節保育所の開所式が研修所で挙行,・開設時の
椴法華
季節保育所 所在地
椴法華
村字八幡町二十二番地 建物 旧公民館三十四坪 / 村立
椴法華
保育所
椴法華村史
(椴法華尋常小学校)
椴法華
村史 /
椴法華
尋常小学校 大正九年四月一日、ついに村民待望の高等科が
椴法華
尋常小学校に併置されることになり、,名称も『
椴法華
尋常高等小学校』と称されるようになった。,昭和5年
椴法華
尋常高等小学校運動会 昭和13年3月
椴法華
尋常高等小学校卒業式 /
椴法華
尋常小学校
椴法華村史
(椴法華と舟渡)
椴法華
村史 /
椴法華
と舟渡 前松前藩時代の終り、寛政十年(一七九八)の『蝦夷雑誌』によれば、「トトホツケ此所三里舟渡,アリ」と書かれており、開始時期は明らかではないが、(寛政三年菅江真澄もこれを利用せるか)
椴法華
-尾札部間,御舟一里余繪丹内日本人家多し夫ゟ二里半行て尻岸内七ツ前着日本人家多し と書かれており、当時尾札部-
椴法華
間 /
椴法華
と舟渡
椴法華村史
(椴法華産鱈の献上)
椴法華
村史 /
椴法華
産鱈の献上 天保十年(一八三九)の『松前秘説』によれば、
椴法華
の鱈漁について次のように記されている,釣よしまた鱈少き年は三十日餘も釣、共餌にても釣れるなり、根田内より臼尻までの場所を鱈場所と唱へ就中、
椴法華
,この記事により天保十年頃幕府に献上する鱈は、特に
椴法華
産の中から選ばれたものであったことがわかる。,このことは天保十年
椴法華
で最高品の鱈が漁獲されていたことを物語るものであろう。 /
椴法華
産鱈の献上
椴法華村史
(設立時の椴法華学校)
椴法華
村史 / 設立時の
椴法華
学校 『開拓使事業報告第四編』によれば、開校の頃の
椴法華
学校の状況を次のように記している,
椴法華
学校 公立渡島国亀田郡
椴法華
村ニ在リ建家二十一坪 〔明治十二年〕九月郡村吏及村民等百八人各金,○十一月民有地ヲ借リ校舎新築ノ工ヲ興ス 〔十三年〕三月新築落成
椴法華
学校トシ変則小学科ヲ教フ。,また『
椴法華
小学校沿革史』は創立時の状況を次のように記している。 ,
椴法華
小学校沿革史
椴法華
小学校創立、明治十三年四月五日本村有志佐々木弥三郎、山根吉三司、佐藤仙之助 / 設立時の
椴法華
学校
椴法華村史
(椴法華の先人)
椴法華
村史 /
椴法華
の先人 渡島半島の南東にあるトドホッケ村にはいつ頃から人がきたのだろうか。,人達による記録が残されている程度であるが、その土地によって、記録のないこともあるが、記録がない時代の
椴法華
,
椴法華
には何千年も前に人間が住んでいたことが、専門家の人達によってはやくから知られていた。,昭和十三年の「日本文化史大系 第一巻」に、"渡島国
椴法華
発見の尖底土器"と説明のある,この頃、
椴法華
の尖底土器とならんで北海道で有名なのは、函館の住吉町遺跡から出土した尖底土器であった。 /
椴法華
の先人
椴法華村史
(戦後の椴法華港)
椴法華
村史 / 戦後の
椴法華
港 昭和二十一年十一月七日、前
椴法華
村長谷内久吉と助役小畑定夫との間で引き継がれた「事務引継,ニ関スル件」の文書によれば、戦後復興途上の
椴法華
村が、切に大漁港の建設と船入澗修築を希望していたことがわかる / 戦後の
椴法華
港
椴法華村史
(椴法華の貨物輸送)
椴法華
村史 /
椴法華
の貨物輸送 『ジョン・ウイル航海記』によれば、明治三年「横濱に持ち行くべき鱈は、海峡の沿岸の数村,是等は主に恵山岬の北の
椴法華
村より取りたるなり、これが終るや予等は直ちに横濱に向ひて、こゝを出航せり、,」と記されており、この記事より
椴法華
産の鱈が直接あるいは関接的に船便にて横浜に運ばれていたことがわかる,北海道蔵、詳細は海難の項参照)によれば、明治六年十二月十三日十二時ごろ函館より荷物積取(海産物)のため
椴法華
,同じく『明治六年戸井往復』には、明治六年十二月二十一日、
椴法華
へ新鱈積入れのため函館地蔵町梅谷吉五郎に /
椴法華
の貨物輸送
椴法華村史
(椴法華回漕株式会社)
椴法華
村史 /
椴法華
回漕株式会社 明治末から大正時代にかけての浜は、活気に満ち貨物の移出入もますます増加しつつあったが,、この機運を感じた川口勇吉を中心とする村内の有志は、
椴法華
回漕店の設立を計画、従来の〓白府回漕店を吸収,次に大正八年と大正十三年の「村勢一班」
椴法華
回漕株式会社に関する部分を記すことにする。 ,大正八年
椴法華
村勢一班
椴法華
回漕株式會社 所在地 字島泊二七 設立年月 大正元年八月,(十二月三十一日)
椴法華
回漕株式會社 人員 一三 株式数 三五 /
椴法華
回漕株式会社
椴法華村史
(椴法華駐在所統計)
椴法華
村史 /
椴法華
駐在所統計 大正時代の
椴法華
巡査駐在所の内容については現在資料不足のため明らかではないが、「大正八年,の
椴法華
村勢一班」によって当時の警察関係部分を記すと次のようである。 /
椴法華
駐在所統計
椴法華村史
(椴法華戸長役場)
椴法華
村史 /
椴法華
戸長役場 明治十二年の『官記辞令録』によれば、
椴法華
村初代戸長成田源之亟は、明治十二年十一月廿六日, 十一月廿六日 依レ願出仕差免許レ之[等外三等出仕成田源之亟]成田源之亟 同郡
椴法華
村,戸長事務兼掌候義ト心得ヘシ 函館支廳 開拓大書記官 時任為基 茅部郡
椴法華
村 /
椴法華
戸長役場
椴法華村史
(椴法華・尻岸内の道)
椴法華
村史 /
椴法華
・尻岸内の道 明治八年三月
椴法華
・尻岸内村民の寄附金及び
椴法華
六十五名・古武井六十五名、計百三十名,の人夫奉仕によって、
椴法華
・尻岸内間(現在の
椴法華
村字元村から恵山町古武井間)の山道三里二十三丁三十間,また『(明治)八年民事課往復』(北海道蔵)によれば、
椴法華
・尻岸内間の道路の状況を次のように記している,二百九十四号 民事課 戸井出張所 先般尻岸内村枝古武井ヨリ
椴法華
ヘ之新道修繕落成 /
椴法華
・尻岸内の道
椴法華村史
(椴法華分室の閉所)
椴法華
村史 /
椴法華
分室の閉所 かつて北海道沿岸は荒天が多く海難の発生しやすい所と言われ、中でも恵山岬付近は、潮流,このような中で、函館、室蘭海上保安部もまた海難防止及び救助体制の充実がなされ、従来函館海上保安部
椴法華
分室,「函館海上保安部沿革史」は
椴法華
分室の閉所式について次のように記している。,(要約)
椴法華
分室の閉所式に思う。 ,即ち、
椴法華
分室の廃止、通信所の閉局、一管本部工作所の同居等です。 /
椴法華
分室の閉所
椴法華村史
(椴法華村の艀船業)
椴法華
村史 /
椴法華
村の艀船業
椴法華
村では明治三十五・六年頃から〓小井田によって現在の富浦〓橋本の付近で艀船(はしけ,にたよっていたのは旅客と貨物であったが、貨物では函館から主として食料品・日用雑貨品・漁業資材等が積み込まれ、
椴法華
,かくて
椴法華
村に二つの艀船業者が存在し両者競争となったのであるが、〓小井田の艀船業はその後事業振わず、 /
椴法華
村の艀船業
椴法華村史
(戸井・椴法華間道路)
椴法華
村史 / 戸井・
椴法華
間道路 前にも記したように以前より何度か改良工事が進められていた湯の川・戸井間は比較的簡単,一方、戸井・
椴法華
間では道路は未だ整備されておらず、頼みの海路も冬期や台風の時期などは、何日もストップ,、戸井・
椴法華
間の道路建設を強く望むようになり、大正十二年二月には戸井村・尻岸内村・
椴法華
村は三村合同,これ以後も何度となく関係官庁へ足を運ぶようになっていき、ついに大正十二年四月七日準地方費道函館
椴法華
線,尻岸内町史 一、湯川・
椴法華
村間道路開鑿ニ付屢々陳情請願ヲナシ三ケ村(戸井・尻岸内・
椴法華
)ニ金壱万五千円 / 戸井・
椴法華
間道路
椴法華村史
(椴法華病院の焼失)
椴法華
村史 /
椴法華
病院の焼失 大正十二年五月二日、島泊に発生した大火により三十戸を焼失する。,この時焼失した建物の中には
椴法華
村の虎の子ともいうべき
椴法華
病院が含まれており、村民はもちろん古部住民 /
椴法華
病院の焼失
椴法華村史
(椴法華村総合計画)
椴法華
村史 /
椴法華
村総合計画 ・策定の背景
椴法華
村は江戸時代より、漁業、鉱山の開発が進められ、明治九年には,こうした情勢から、
椴法華
村では長期的展望に立った村づくりの必要に迫られ、限られた資源と地域の特性を活した,新しい
椴法華
村の建設を目標とし、昭和五十五年から「
椴法華
村総合計画策定」の準備がはじめられ、村民の意向調査,を行いながら五十六年六月に
椴法華
村総合計画が策定された。 ,・スローガンと期間 ~二十一世紀の
椴法華
村の展望に向けて~ 豊かな自然と 人間性あふれる /
椴法華
村総合計画
椴法華村史
(戦後の椴法華漁業会)
椴法華
村史 / 戦後の
椴法華
漁業会 戦後他町村の漁民の中には、漁業権の解放や漁業会の民主化を強く叫ぶ者があったが、我,が
椴法華
村ではあまりこれを強く主張する者はおらず、
椴法華
漁業会の主な仕事は、漁船用油・網・ロープ等の配給,なお
椴法華
漁業会は昭和二十四年四月頃まで存在していたと云われている。 / 戦後の
椴法華
漁業会
椴法華村史
(椴法華の昆布漁場)
椴法華
村史 /
椴法華
の昆布漁場 昭和九年、「渡嶋支庁管内水産業概要」は、
椴法華
村の海岸状況を次のように記している。,第十二章 亀田郡
椴法華
村水産業概要 海岸ノ狀況 海岸線ノ長九、九〇〇米ヲ有シ、自恵山岬至影濱岬,自影濱岬至元
椴法華
間ハ沿岸嶮崖ヲナシ崖下大岩石及岩盤ヨリナリ、淺海ニハ海蘿、銀杏草、汐干昆布、真昆布、,元
椴法華
岬ハ水深比較的淺ク岬ノ突端ヨリ沖ヘ百米ノ点「ソリ」アリテ其附近真昆布發生ス。 ,元
椴法華
以西築港間ハ岸邊「ゴロタ」石満布シ、近海ニ石花菜、昆布、和布發生ス。 /
椴法華
の昆布漁場
椴法華村史
(椴法華沖漁船落雷)
椴法華
村史 /
椴法華
沖漁船落雷 昭和十四年九月十二日、
椴法華
沖で漁船に落雷し死者一名。 /
椴法華
沖漁船落雷
椴法華村史
(椴法華村信用購売組合)
椴法華
村史 /
椴法華
村信用購売組合
椴法華
村信用購買販売利用組合から「
椴法華
村信用購売組合」と名称が変更されたのはいつの,次に昭和五年の
椴法華
村信用購売組合の実態を知るため当時の新聞から抜き書きする。 ,昭和五年三月十三日 函館日日新聞 ▲
椴法華
信用組合は大正六年の設立にて當時は出資金三千七百餘圓口數僅,なお八月八日昭和五年度の産業低資割が決定され、
椴法華
村信購組合は七千圓の割當を受ける。 ,その後、昭和八年六月十九日、有限責任
椴法華
信用購売組合を保證責任
椴法華
信用購売利用組合と変更する。 /
椴法華
村信用購売組合
椴法華村史
(椴法華学校創立記念日)
椴法華
村史 /
椴法華
学校創立記念日 『
椴法華
小学校沿革史』では、明治十三年四月五日
椴法華
学校創立となっており、これに,これは最初
椴法華
学校の開校式を四月四日に予定していたが、函館支庁の学務係はこの日別の学校の開校式とかち,合ったため、直前になって
椴法華
学校の開校式を四月五日に変更したため、このような期日違いが生じたものである,なお明治十三年四月五日に開校された
椴法華
学校は、変則小学校教則に基づき教育課程が編成されていた。 /
椴法華
学校創立記念日
椴法華村史
(椴法華分室の開設)
椴法華
村史 /
椴法華
分室の開設 このような地域住民の強い声が中央に届きついに昭和二十六年九月五日函館海上保安部
椴法華
分室,が開設され、翌六日には
椴法華
分室に待望の救助艇「あかし」が配属されることになった。 ,昭和二十六年十月二日付の北海道新聞は保安部
椴法華
救命艇基地開所の様子を次のように記している。 ,救命艇配属する 保安部
椴法華
分室きのう開所
椴法華
、尻岸内、臼尻、戸井、鹿部、,この日、式場には松坂
椴法華
村長、川口同村漁業協同組合長、鈴木恵山岬燈台長など地元民代表に小樽第一管区保安本部松崎部長 /
椴法華
分室の開設
椴法華村史
(椴法華村老友会)
椴法華
村史 /
椴法華
村老友会 創立 昭和三十五年八月二十日 会員数 四十六名 初代会長 谷口帰道,事務所は
椴法華
村役場厚生係に置かれ、会員は正会員と賛助会員に分けられ、正会員は年齢満六十五齢以上の者で,・
椴法華
老友会の事業 昭和五十年度事業報告より 四月 総会 五月 第一回墓地清掃、つつじを /
椴法華
村老友会
椴法華村史
(現在の椴法華八幡神社)
椴法華
村史 / 現在の
椴法華
八幡神社 名称
椴法華
八幡神社 祭神 誉田別命(応神天皇)漁業関係の守護神として祭られている,格式
椴法華
村全体 年中行事 ○元旦 ○節分 ○二月始めの午の日(初午),八月十一日湯たての行事 ○旧十月二十日、えびす講 ○十二月三十一日、大ばらい
椴法華
八幡神社 / 現在の
椴法華
八幡神社
椴法華村史
(椴法華村の電話開通)
椴法華
村史 /
椴法華
村の電話開通 文明の利機として村民待望の電話が大正三年に設置されることになったが、この時の様子,なるべしと 大正三年三月二十七日 函館毎日新聞 逓信省告示を以て尻岸内・古武井・
椴法華
, 尻岸内字古武井泊・同大澗・同メナ川・同メノコナイ 尻岸内村字古武井・同山背泊・同根田内・
椴法華
村字嶋泊,・同矢尻濱・同崎・同相泊・同元
椴法華
加入区域外通話区域通常電話料 特設電話取扱高 /
椴法華
村の電話開通
椴法華村史
(椴法華母子会)
椴法華
村史 /
椴法華
母子会 ・
椴法華
母子会の設立 昭和三十五年、十五名の会員によって、会員相互の助けあいと、親睦融和 /
椴法華
母子会
椴法華村史
(椴法華独立の動き(二))
椴法華
村史 /
椴法華
独立の動き(二) 明治六年五月の大小区画制の実施により尾札部村支郷
椴法華
は、小安村・戸井村・尻岸内村,とともに第六大区一小区に属することになったが、
椴法華
の一村独立の要望は益々強まり明治八年二月に至り、再度一村独立,次に記す資料はこの時
椴法華
住民の要望を受入れた開拓使函館支庁開拓中判官杉浦誠から開拓使長官黒田清隆に提出,された
椴法華
村新置に関する伺書である。 ,明治九年一月十七日府県布達により
椴法華
は一村独立することになったのである。 /
椴法華
独立の動き(二)
椴法華村史
(常駐の椴法華巡査駐在所)
椴法華
村史 / 常駐の
椴法華
巡査駐在所 明治四十年三月
椴法華
巡査駐在所開設。, 木造平家二十坪 (新築) 明治四十三年十二月調査の『北海道庁警察区劃』(略記)によれば、
椴法華
巡査駐在所,名称
椴法華
巡査駐在所(戸井分署管轄下) 所在地
椴法華
村字島泊 区町村名 亀田郡
椴法華
村, 字名 水無・元
椴法華
・島泊・矢尻濱・相泊・赤井川・冷水・恵山・武奈岱 戸数 二百九十四 / 常駐の
椴法華
巡査駐在所
椴法華村史
(〔椴法華小学校沿革史〕)
椴法華
村史 / 明治十二年八月
椴法華
村明治十三年四月開校の
椴法華
学校の教師派遣を開拓使函館支庁に請願する。,明治十三年三月
椴法華
学校新築落成(旧役場付近) 明治十三年四月五日
椴法華
学校開校式挙行,明治三十九年三月三十一日
椴法華
尋常小学校補習科廃止し、
椴法華
実業補習学校を設置する。,昭和十六年四月一日
椴法華
尋常高等小学校より
椴法華
国民学校に改称される。,昭和二十二年六月一日 学制改革により、
椴法華
国民学校から
椴法華
小学校と改称され、同時に
椴法華
中学校 / 〔
椴法華
小学校沿革史〕
椴法華村史
(椴法華産鱈の内地直送)
椴法華
村史 /
椴法華
産鱈の内地直送 最高品の鱈が
椴法華
で漁獲されたことは前に述べたが、これらの大部分は船で箱館へ運送,され、更に内地へ積み出されるか、又は直接漁獲地の
椴法華
から内地へ送られていた。 ,一度箱館へ送り出した場合、箱館において積み荷の検査を受け税を徴収されたが、漁獲地である
椴法華
から直接に,
椴法華
から内地へ向け直接新鱈を送るため積荷改めについての沖の口番所へ願った文書が残されているので次に記, 一、龍神丸 酒井左衛門尉様御手船 九人乗 陣屋彦次郎 右之船
椴法華
村 /
椴法華
産鱈の内地直送
椴法華村史
(椴法華・尾札部の道)
椴法華
村史 /
椴法華
・尾札部の道
椴法華
・尾札部間には、後幕領時代に開かれたと推定される人間のやっと通行出来る道が,渡島国茅部郡尾札部支木直より同古部を経て
椴法華
村に出る海岸三里ほどの路は山岳海岸にそびえて僅かに山下に,改修工事が完成されたのは、明治十三年五月であり、この道路が現在の
椴法華
-古部間の山道の基になったものである,戸井村ヨリ尻岸内二里十四町餘内二里山道甚嶮ヲナス尻岸内村ヨリ
椴法華
村ニ至ル四里弱山道稍嶮難
椴法華
村ヨリ,明治13年
椴法華
・尾札部間改修工事完成図 /
椴法華
・尾札部の道
椴法華村史
(椴法華村巡査駐在所)
椴法華
村史 /
椴法華
村巡査駐在所 昭和時代戦前の
椴法華
村巡査駐在所に関しては、資料が少なくその詳細について記すことはできないが,巡査部長派出所三、巡査派出所二十、巡査駐在所二十七の計五十二ヵ所の派出所や駐在所が設置されていたが、
椴法華
村 /
椴法華
村巡査駐在所
椴法華村史
(〔椴法華中学校沿革史〕)
椴法華
村史 / 〔
椴法華
中学校沿革史〕 年 月 日 事 項 昭和二十二年四月一日
椴法華
村立
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中学校,昭和二十二年六月一日
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中学校が
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村立
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小学校に小中併置校として開校される。,(この日をもって
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中学校の開校記念日とする。),昭和二十四年九月六日
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中学校PTA創立。,昭和三十五年三月十八日
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中学校ピアノ購入。 / 〔
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中学校沿革史〕
椴法華村史
(古武井・椴法華間の開通)
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村史 / 古武井・
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間の開通 古武井・
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間道路開通式は
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村地内工事を昭和八年三月に終り、七月二十三日
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小学校,古武井
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道路開通式 昨日
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村で挙行 亀田郡古武井・
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間準地方費道開通式,は二十三日午前十一時より
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小学校に於て挙行せるが主なる来賓は、 町田土木事務所長、神谷支庁殖産課長,山木戸井署長、田中尾札部・安川戸井・斉藤尻岸内各村長、川口亀田水産会長、函毎・函館新聞社、 其他
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村会議員,古武井・
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道路開通式 昭和8年7月24日 函館新聞 昭和8年 開通当時の乗合自動車 / 古武井・
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間の開通
椴法華村史
(椴法華の村役人)
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村史 /
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の村役人 慶応三年(一八六七)十月十四日の太政奉還、同年十二月九日の王政復古と徳川政権から明治新政権,されたが、蝦夷地の実経営は未だ旧幕府時代の箱館奉行所が引き続きまかせられているような状況であり、我が
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,
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の村役人(現在判明している分だけ) 年月\村役 小頭 年寄 百姓代 明治元年 覺藏 弥三郎 /
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の村役人
椴法華村史
(椴法華式土器の文化)
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村史 /
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式土器の文化
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尖底器に類似する土器が出土する遺跡は少ない。,
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の土器より底が尖っているが、底部と体部の部分だけで完全ではないが、竹管の押引き文は粗く、あたかも,貝殼文様の尖底土器からどのような形で竹管文による
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式尖底土器となったか明らかでないが、この尖底土器,土器の一点から推理することは難かしいが、この
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式尖底土器は、
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でいまのところ最も古い土器で、考古学,文様と器形は類似するが、
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村に隣接する地域だけに、この文化は亀田半島の南東部に存在していたといえる /
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式土器の文化
椴法華村史
(椴法華と本州直送海運)
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村史 /
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と本州直送海運 後幕領時代、
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と本州との海運はどのような様子であったろうか、毎年時期になれば,その後、本州から積んできた積荷の一部である米・酒・味噌・塩・その他、日用雑貨品を積んで
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に入港し、,帰路は
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から商人の依頼による荷物(海産物・昆布・鱈等)を積み込み、検査を受けるため箱館を経由するか,この当時、
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村から本州へ新鱈直送を願出た書面に次のようなものが見られる。 , 一、龍神丸 酒井左衛門尉様御手船 九人乗 陣屋彦次郎 右之船
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村 /
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と本州直送海運
椴法華村史
(椴法華の駅逓制度)
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村史 /
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の駅逓制度
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において、いつごろから駅逓制度が実施されたものか詳かではないが、天明六年(一七八六,「トトホッケ泊」、更に寛政十二年(一八〇〇)の『アツケシ出張日記』に「小薩部、御用宿支配人、源治郎、
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番人武左衛門,これらのことからこのころ尾札部・尻岸内の運上屋の中継所として
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・根田内の番屋が設置されており、これらの /
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の駅逓制度
椴法華村史
(椴法華学校設立の準備)
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村史 /
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学校設立の準備 開拓使や函館支庁より学校設置の強い要望を受けた
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村では、早くも明治八年には,すなわち明治八年十一月函館に設置された「小学校教科伝習所」(現在の北海道教育大学の前身)へ、
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村民辻初弥,の七男の勝藏十四歳を入所させ、その学費を全戸数で負担し、将来
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学校開設の際は先生として勤務できるように /
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学校設立の準備
椴法華村史
(二級町村椴法華村の誕生)
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村史 / 二級町村
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村の誕生 大正八年四月一日から
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村は二級町村制が施行され、従来の
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村戸長役場は,
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村役場と改称されることになった。,前項でも記したように二級町村制の施行に伴い、従来からあった総代人は廃止され変わって、我が
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村に村議会,が設置される運びとなり、大正八年五月三十日、村民注目のうちに第一回
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村会議員の選挙が行われることになったのである / 二級町村
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村の誕生
椴法華村史
(椴法華港着工とその後)
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村史 /
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港着工とその後 こうして村民からの陳情は道庁の認めるところとなり、昭和七年実地調査のうえ元
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,昭和七年六月廿五日 函館日日新聞
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船入澗、道廳實地調査 亀田郡
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村は純漁村,元
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船入澗(昭和九年渡島支庁管内水産業概要より) 工事着手 昭和七年十月 竣工期日,この時
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村長上村浩太郎より道庁その他関係機関に提出された陳情書を次に記す。 ,昭和15年7月15日の台風により大破した
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港防波堤 ・昭和十五年七月十七日、前
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村長高柳良雄 /
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港着工とその後
椴法華村史
(椴法華と近村の海運)
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村史 /
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と近村の海運
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村と近村との交通状況はどのようなものであったろうか。 ,後松前藩の時代と同様
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と尻岸内の間は陸路と海路との両方があり、陸路はかなり整備され馬が通行可能となっていたほどである,安政四年(一八五七)三月箱館奉行村垣淡路守は蝦夷地巡察の途中、尾札部・
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間を通過したが、この時もまた /
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と近村の海運
椴法華村史
(戦後椴法華漁協の歩み)
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村史 / 戦後
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漁協の歩み 年 月 日 事項 (※は関連事項,発表 昭和24年 2月15日 水産業協同組合法施行 4月
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漁業会解散, 6月24日
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漁業協同組合設立 12月15日 漁業法公布,#160;7日 漁業協同組合再建整備法公布 11月 1日 ※函館海上保安部
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分室開署,昭和37年
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漁業協同組合、国の漁業組合整備促進法の適用を受ける 昭和38年 / 戦後
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漁協の歩み
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