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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 銭亀沢編 (遺跡立地の類似性と相違点)

遺跡立地の類似性と相違点 これまでみてきたように、銭亀沢地区の遺跡立地に類似する場所としては、海岸段丘上,また、これらの中間にある松倉川およびその支流域では、比較的両方の様相を含んでいるような傾向にある。,そして、再び後期から晩期の海退時期になると、再度海岸段丘など早期頃の遺跡が立地したのと同様な場所に、活動 / 遺跡立地の類似性と相違点
函館市史 銭亀沢編 (十三仏(十三仏和讃・十三仏様))

十三仏(十三仏和讃・十三仏様) 御詠歌(和讃)に類似する十三仏は、通夜や初七日などの法事が終了し、僧侶,新湊町の中村幸太郎と中村シノブの夫妻は十三仏様の様子を次のように話した。,根崎町の瀬川桂子は、「ここでは十三仏様といい、坊さんみたいにやる人が、仏さんの一番前にすわる。,薬師 観音 勢至 阿弥陀 阿しゅく 大日 コクード(虚空蔵)の部分を文句あるいは、お経(それぞれの仏様の,譜例9も同様に分割し、さらに念仏とでもいうべき部分の3小節を加えて三分割する。 / 十三仏(十三仏和讃・十三仏様)
函館市史 通説編 第二巻 (都市空間拡大の要因とその様相)

都市空間拡大の要因とその様相 都市空間の拡大が資本の都市への集中と都市における就業機会の増大に依るところが,相関関係を係数から見れば、0.58とそれほど高い数値を得ることはできないが、全体の傾向で把握すれば類似する,明治期の都市空間拡大の要因は、商品流通の集散地としての「場」の既得にあり、これにともなう都市空間拡大の様相 / 都市空間拡大の要因とその様相
恵山町史 ([陸路の充実])

主な道路の開削では、寛政・享和年間(1789~1803年)東蝦夷地の礼文華山道(長万部~虻田)、様似山道,(様似~幌泉)、猿留(さるる)山道(幌泉~猿留(さるる))等の道路を開削、文化年間(1804~1817
函館市史 通説編 第一巻 (原史の時代)

東北地方北部では土器の文様も依然として縄文が付けられているし、農具の存在も確証するまでには至っていない,東北地方北部では弥生文化の影響で籾や米が移入されたとしても、生産形態や生活様式を変えることはなかった。,石器は弥生文化の石器というよりも北朝鮮などに類似のものがあり、この時代は本州の影響よりも何らかの形で沿海州,土器には依然として縄の文様が付けられていて、前半の土器は青森県などのものに類似するが、縄文時代には見られなかった
函館市史 通説編 第一巻 (春日町遺跡)

第1群土器は貝殻腹縁による尖底土器の文様に似た撚糸圧痕文の土器で、器形も貝殻文尖底土器に似ているが、平底,いかにも貝殻文の文様をまねている。,その後、釧路市の東釧路貝塚などからも類似の形式が発見され、道東地方では東釧路第2群土器、第3群土器と呼,大谷地遺跡の春日町第2群土器と類似の土器は、底部の小さい深鉢形土器で、底部に竹管押引き文が施文され、体部,土器は縄文時代の生活様式によって変化したが、社会の仕組み、風俗習慣、住居構など、まだこの時期の様子はわかっていない
函館市史 通説編 第一巻 (江別集団の発生)

竪穴様墳墓とは墓壙内部に竪穴住居のような柱穴様の穴がある特有の江別式墳墓である。,江別式土器の文様はアイヌ文様にも似ているが、古い形式から壷形土器の吊(つり)耳とか片口土器など独自の様式,に発展し、やがて器形や文様が簡素化して次の北大式と呼ばれる土器形式に編年されてゆく。,洞窟壁画が″手宮の古代文字″と似ているので話題になったが、線描写による抽象壁画は洞窟内外から次々に発見,などで発表されているが、この洞窟画の類例はわが国では小樽などに限られ、シベリア、北方ユーラシアの岩壁画に似ているなど
函館市史 通説編 第一巻 (オコジョとエゾイタチ(イイズナ))

習性はともにイタチに似て精悍(かん)で、ネズミ類を捕食するが、エゾユキウサギなどを襲うこともある。,近郊の農村から山麓地帯に住み、家禽(きん)に被害を与えたこともあるが、最近は個体数も激減している模様で
函館市史 通説編 第一巻 (ロシア船との遭遇)

米塩を送るため、大坂の伊丹屋平兵衛所有の栄徳丸という船を雇い、船頭重蔵が乗ってきたが、たまたま風がなく様似沖
函館市史 通説編 第一巻 (択捉場所開発)

のため兵庫に帰った嘉兵衛は、明けて寛政12年弟金兵衛とともに辰悦丸に乗り、図合船2艘、鯨船4艘を率いて様似
函館市史 通説編 第一巻 (アメリカ人の見た箱館)

まず箱館市街の状況を「商業都市に普通な慌しい活動の様子がない。,といいて、鼻をつまみ面(つら)をしかめて驚畏の身ぶりし、又わが大砲一たび放さば箱館忽ち徴塵になるべき手真似をし,この大砲を指して小鳥をおとすによかるべきなどと手業(てわざ)して侮弄(ろう)-(中略)-さまざま手真似、,身振り等して日本をさすは取る事易しという様子なり。」
函館市史 通説編 第一巻 (艦隊の動静)

湾内の測量をはじめ、更に正午ころ2隻のボートに小旗を立て、多数乗組み山背泊台場へ漕ぎ寄せ、上陸しそうな様子,なので、かねて配置されていた警固の人数が出て、手真似で上陸を制止したところ、直ちに2隻とも沖の方に漕ぎ,4人で、その内3人は船長らしい異人で、紺羅紗の頭巾(帽子)に筒袖同股引(洋服)を着用、両肩先に金で房様のもの,そのうち1人がその徳利を下げて有川付近まできて、日本語でサケ、サケとしきりに求めるので、警固の足軽共は手真似で,酒は一切ないと断ったが、何分にも聞入れず、だんだん村内に入ってくる様子に、まず平穏に処理することが然るべきと
椴法華村史 (椴法華式土器の文化)

椴法華式土器の文化 椴法華尖底器に類似する土器が出土する遺跡は少ない。,底の部分はまるでうず巻きのように見事な文様である。,貝殼文様の尖底土器からどのような形で竹管文による椴法華式尖底土器となったか明らかでないが、この尖底土器,文様と器形は類似するが、椴法華村に隣接する地域だけに、この文化は亀田半島の南東部に存在していたといえる
函館市史 銭亀沢編 (桃太郎話)

婆様、川さ着物洗いにいったどよ。桃がドンブラコ、ドンブラコと川流れてきてよ。,「爺様、婆様。オラ鬼が島に鬼殺しに行くはんで、飯握ってけれ」といったとよ。,婆様飯握って腰さ下げてやった。そして鬼ば殺してきたどよ。,いっぱいお土産貰って、家さ帰ってきて爺様、婆様に銭こいっぱい儲けたとよ。とつばれんこ。,その中で、銭亀沢の昔話は青森県に伝わる昔話と話型が類似しており、東北的な性格をもっている。
函館市史 銭亀沢編 (妊婦・出産の禁忌食)

出産後の禁忌食は、油物、辛い物、すじこや刺激の強い物で、妊婦の禁忌食と似ていた。,そのほかに、妊婦と同様に脂肪の多いもの(志海苔町)や、赤カブ漬け、ナスの潰物(石崎町)を出産後の禁忌食
函館市史 通説編 第一巻 (土偶)

後者は破損品で、発見当初は土板と考えられたが、類似のものがその後青森県で発見され、体部の一部であることがわかった,その他類似品が2例あり、いずれも母性像であるが体部に縄文装飾文と点列装飾文があって、衣服を着けていたことがわかる,文様が肩から足の部分まで付いているので、ワンピースのように頭からかぶる服であったものと思われる。,顔の表現よりも生殖器を誇張した土偶、生殖器より顔の表現や様態を意図とした土偶、それぞれに趣がある。
函館市史 通説編 第一巻 (縄文文化の起源)

底が不安定な尖底土器で貝殻で文様が付けられている。,文様が全くない土器もある。,類似の製法は北米西南部のクリフドウエリングの岩窟居住人が、かごに粘土を塗って乾燥した土器を使用していた,つまみのある石小刀について、馬場脩はアリュート人など北方民族が、海獣などの生肉を食べるのに用いるナイフに似たものであると,をした海洋民族でなかったかとの推察もされ、日本の周辺地域である中国北部やシベリアでこの貝殻文尖底土器に似た
函館市史 通説編 第一巻 (石刀と紡錘車)

石刀と紡錘車 石刀の柄頭文様(女名沢遺跡出土)(市立函館博物館蔵) 女名沢遺跡の紡錘車(市立函館博物館蔵,これらは日本で出土する刀の形態と異なって、中国の青銅製刀子に似ている。,青銅製刀子は柏倉亮吉の研究で、中国の安陽で出土した青銅製刀子に似ていることが指摘されたが、李済の″殷墟銅利器,文様は同心円文などであるが、幼稚な線描きで、何を表わしたのかわからないものもある。,円形に周縁を打ち欠いて研磨し、中央部は石製品と同様に石錐で穴をあけている。
恵山町史 (海運の官業)

受け続いて凌風丸を買上げ、浦賀で大船神風丸を、南部大畑で数艘の小船を造らせ、翌12年には、東蝦夷地の様似
函館市史 通説編 第一巻 (幕府の蝦夷地調査)

一行は5月福山に到着すると、渡辺胤はここに留まり、大河内政寿は東蝦夷地を巡回して様似に至り、その別動隊
椴法華村史 (〔大龍寺遺跡〕)

時期的には椴法華遺跡と似ているが、資料から先史の時代を追ってみると、縄文中期は余市式とほぼ時期が新しい,円筒上層式の土器には装飾的な造形や文様まで多種多様の縄文技法がみられるが、余市式とそれ以後の短かい時期,文様は平行沈線文と体部のふくらみ部分にヘラ作りの連続する舌状文がある。,これは工字文にみられる文様や雲形文などでなく、独特な文様である。,台付きの壺は、器形的に晩期後半に似ているが、肩部に四本の平行沈線があり、地文には縄文がない。
函館市史 通説編 第一巻 (円筒土器)

後半のC、D式は、頸部の隆帯はそれほど顕著でなくなるが、文様は口縁と体部では明確で、撚糸文による文様が,体部文様は羽状縄文が主である。C式は、文様も器形も簡素化される。,体部の文様は単節斜行縄文である。,遺跡数も増加し、B式が石狩地方や勇払地方まで分布し、更に地方化して焼尻島、礼文島、旭川、名寄、日高の様似,道東北部では円筒土器に似た大形の土器が分布しているが、これは円筒上層式の影響によって形成したものでないかとも
函館市史 通説編 第一巻 (大陸との関連)

北海道と比較的似ているのはアムール河流域からモンゴル地方で発見されるダウル型の石刃鏃である。  ,本州でもまれに見ることができるが、大陸にもある文様要素で、北海道では前期から中期と後期および晩期にもある,類似のものでは河野広道により斜里の朱円で環状土籬が調査された。
函館市史 通説編 第一巻 (神社)

東照宮は日高様似の等澍院(文化年間建立、蝦夷三官寺の1つ)に勧請されていた東照大権現を元治元(1864
函館市史 通説編 第一巻 (亀ヶ岡武士器)

亀ヶ岡武士器 縄文土器の中で精巧な技術を生み出した亀ヶ岡式土器は、華麗で多様な器形を持っている。,文様の簡略化と共に、多様化していた器形も特殊なものが見られなくなってくる。,文様や装飾文は口縁部に平行する沈線文を付けるか無文帯を残す程度である。,この条が縦走する土器群に、櫛状工具で縄文に似せた条痕文を器面に施しているものもあるが、次の時期には引き,これは大洞A式、砂沢式とは異なるもので、その後これと類似の土器群が尻岸内町日ノ浜遺跡から出土して、日ノ
戸井町史 (三、幕領時代前期の概観)

この時長万部、礼文華(れぶんげ)、様似、猿留、釧路、厚岸等の山道が開かれたのである。,(えとも)(今の室蘭)に渡ったのが最初で、乱後その馬を留めておいて、有珠で飼育され、この馬を有珠から様似
函館市史 通説編 第二巻 (政府の対応)

期日ヨリ三拾年ノ間ハ日本政府ノ為メニ既ニ納シ紙幣及ヒ此後納ムヘキ紙幣ト商業取引キノ際誤認スベキ如ク模様外形等,ニ於テ類似セル紙幣ヲ上梓製造仕間敷又タ他ノ社中ヲシテ上梓製造スルニ到ラシメ間敷万一此約定違背ノ事ヨリ日本政府,う30年間は、日本政府の為に既に納めた紙幣およびこのあと納めなければならない紙幣と誤認されるような模様、,外形の類似した紙幣を上梓製造しないという条項があったからである。  ,また日本紙幣、日本銀行証券にも類似していないので、日本政府としてはこれを差し止める特権はない。
南茅部町史 下巻 (大正四年 函館港海運・回漕店)

二七〇番                    第一日高丸  門別・春立・三石・後辺戸・ロ舞・浦河・様似行,廣尾・大津・釧路行                 命令航路 十勝丸  門別・下下方・三石・浦河・様似,直江津行        三場所汽船会社  定航   國引丸  門別・春立・三石・□舞・後辺戸・浦河・様似
函館市史 銭亀沢編 (チャンコ茶屋の婆(嬶))

古川町(山鼻節郎伝承)と新湊町(石田キヨ伝承)、銭亀町(中浜清一伝承)で採集され、北海盆歌とよく似た,娘)出せよ    銭亀沢地域の出身で函館市湯川町在住のA氏は、資料12と同じ旋律で次の様に
恵山町史 ((5) ベーリング海でクラゲが好物のゴッコ)

(5) ベーリング海でクラゲが好物のゴッコ 頭が丸く腹がぷっくりと膨らんでいるところが七福神の布袋様に,似ているところから付いた名前がホテイウオ。
函館市史 通説編 第一巻 (装身具)

白鳥などの鳥骨管に文様を付けたものや、玦状耳飾りと呼ばれる碧玉(へきぎょく)製の装身具、また滑石に穴をあけて,玦状耳飾りは日本では縄文前期から中期に現われる装身具の一種で、中国の玦に似ている。
函館市史 通説編 第一巻 (尖底土器の遺跡)

体部の文様は貝殻文と細い棒の先端を連続的に刺突した文様や、刻み付けた線を組合わせた文様がある。,梁川町式に類似する土器がその後室蘭、静内、釧路で発見されるようになり、現在ではこの時期に新しい文化圏があったのではないかと,根崎の貝殻文尖底土器は体部に貝殻腹縁文と条痕文が付いていて住吉町式に似ているが、丸味を持った乳房状のものがない,これに類似する土器は、その後函館空港遺跡の第6地点でも発見された。,字形連続文を横位または斜位に施し、斜行する2本の並行沈線で矢羽状や杉綾(すぎあや)状あるいはZ字状文様に
函館市史 通説編 第一巻 (貝殻文のない尖底土器)

文様は線状に描いたように見えるが押引き文である。,文様の付け方は竹管工具の押引き文であるがやや粗い施文である。,春日町遺跡の土器は、椴法華村や千代ヶ岱町遺跡の土器と施文が似ているが、底部が小さな平底で、胎土に植物織維,この土器は網のように太い縄を器面に巻き付けたような文様の土器で、底が尖っている。
函館市史 通説編 第一巻 (場所請負人の交替)

三石   三〇〇両   箱館 栖原屋寅之助 浦河   六六四両一分永五〇文   松前 萬屋宇右衛門 様似
函館市史 通説編 第一巻 (熊と海獣の文化)

ボール形土器は半円形の容器で、やや小形であるが体部に文様がある。,、この土器はあたかも皮袋に液体を満たしたように体部が膨らみ、底部が丸味を持って上部には壷形土器の口に似た,海獣や大形の魚を捕る骨角製の銛(もり)や魚杈(やす)はカムチャツカ、アリューシャンなどのものと類似している,鯨が狩猟の対象であったことは、出土する銛が北方の海洋民族が使用していた回転式離頭銛と形態が非常によく似ていて
函館市史 通説編 第一巻 (縄文後期の土器)

また、装飾的磨消縄文を用いたり、頸部を境として上下に文様が分けられた特異な曲線文の土器もある。,文様原体を器形に合わせて図化したものが多い。,図化した文様帯を沈線で描いて一部を縄文で施文し、一部は磨いて滑らかな地膚にする。,波形の文様帯は原体を波形に回転移動させ、直線の文様帯は直線的に原体を回転移動し、右撚りと左撚りの原体を,龍山(ロンシャン)文化の黒陶土器の影響であると考えた人もいるが、龍山文化の土器の器形や伴出遺物など類似点
函館市史 通説編 第一巻 (平底土器の出現)

北海道の平底土器の出現は道東地方と道南地方では様相が異なり、釧路などでは縄文早期の初めに下頃部式土器や,条痕文平底土器の器形は口縁部が住吉町式に似ている。,体部文様は条痕文で装飾され、文様は口縁部から底部近くまで施文されているものもあるが、これは器形調整痕とも,器面に付着している炭化物は油性のもので、油鍋に付着している炭化物の状態に似ている。
南茅部町史 上巻 ([慶祥丸漂流])

助命モ相成候義ト心強相成候所   是ヨリ跡ノ方ヘ戻リ候テハ 船ヲ覆シ相果候由   目ヲ眠り 死ヌ真似又,ハ橋船ノ艫綱ヲ引起シ 艫   ヲコキ真似抔(等)イタシ   先々ヘ参候得ハ 助命仕候義 漸々相分リ,モ相分リ可   候ニ付 先々ヘ罷越間敷旨 相談イタシ 右ノ者   共ヘ 色々物真似イタシ 赤人ノ所, 是ヨ   リ帰候テハ 食物無之候ニ付 明年雪消草ノ延候   時参候様 彼等ヨリモ様々物真似イタシ,善六ヨリ 私共ヘ相咄候通 長嶋ヘ連渡候   漂流四人ノ者共義 自滅ノ覚悟イタシ咽ヲ突候節   ノ真似抔
函館市史 通説編 第二巻 (黒船渡来)

「亜墨利加一条写」はこの時の様子を次のように記している。,打出し、夫より七面山之櫓鐘又は御殿山櫓鐘打出し、市中受付判(ハン)木打出し、兼而アメリカ舟当澗ヘ参リ候様承知,短い文章ではあるが、市中の動揺ぶりや藩役人たちの緊張した様子をうかがい知ることができる。,いたしかたなく手真似で渡来目的、類船の件、乗組人数等を尋ねたが、もとよりこうしたことを手真似でできるはずもなく,弁天崎台場沖へ碇泊したので、再び応接方(新たに藤原主馬・関央が加わる)を同船に派遣したところ、先の渡来船と同様、
函館市史 別巻 亀田市編 (本州との交流)

古墳時代につくられた東北地方の土師器と同じものが道南地方や石狩低地帯でも発見され、住居の構造も似ていることが,辺境の地であった北海道も平安時代になると東北地方の鉄製品が伝わり、生活様式も変化するが、亀田周辺の上磯町東浜町
椴法華村史 (昆布の清国直輸出)

天保年間二千五百石)十勝の四千二百六十余石(天保年間二千石)がこれに次ぎ、浦河は約三千石(天保年間千五百石)様似
椴法華村史 (陸路の充実)

以上のような幕府の方針に基づき、まず寛政・享和年間(一七八九~一八〇四)には、東蝦夷地長万部-虻田間、様似,一、御役人中様御通行被レ遊候節、不禮不レ仕候様、入念相慎可レ申候。
恵山町史 ((2)縄文尖底土器)

それまでにはみられなかった、胎土に多量の繊維を混ぜる技術伝統をもった土器で、縄文、撚糸文、竹管文、押型文などの文様で,同じ頃、噴火湾岸から石狩低地帯には道南に分布した土器と類似した、砲弾形の尖底土器に粗い斜行縄文が施文された,には矢羽状、格子目状の押型文と撚糸文が施文された押型文土器や、ロープを土器に巻きつけて施文したような文様が
椴法華村史 (明治十七年)

・九月 清国商人、昆布・鯣を買い集めはじめ、このため海産物の価格が上昇、三ツ石・浦川・様似産の昆布は百石,八月の昆布採集時期暴風が続き昆布の収獲量が少ないことから、その後も更に上昇が続きそうな様子となる。
恵山町史 ((4) 豊浦・大澗、女那川地区(調査期間‥昭和59年4月〜60年3月))

同様に、女那川漁港の北端を基点として寄貝歌にかけて11線を設け(磁針方位120度)女那川地区とした。,この地区では古武井、日ノ浜地区同様8つの底質型に類型化を行った。,女那川地区は豊浦・大澗地区と同様に1〜8線にかけて平磯があり、距岸距離は30〜130メートルである。,このように両地区の底質型をみると、岩盤(R型)底質が全面積の約2分の1を占め、日浦地区に類似している漁場
函館市史 銭亀沢編 ([民謡])

その歌い方は故内沢カトの道南口説節と旋律などが似ていました。,また門付けが本州から恵比寿様の格好をしてきて歌っていました。
南茅部町史 上巻 (ヲサツベの新鱈)

誠に臼尻よりも鱈の丈ケもよき様なり。」(松前秘説=高田屋嘉兵衛蝦夷出産申上書)と記している。  ,ひと塩ものは、江戸までの冬の航海日数にも充分貯蔵に耐え、程よい味と正月への鮮魚としても似合い、何よりも
恵山町史 (1、蝦夷地の直轄)

以降になると、南部地方からの和人の入稼・土着が加速度を増し、六ケ場所の和人化は、アイヌ居住地といい難い様相,名は総勢180余名の調査隊を組織し、同年4月江戸を出発、5月福山(松前)到着、大河内政寿は東蝦夷地を様似
函館市史 銭亀沢編 ([おわりに])

の形態が引き継がれていたり、出身地のものをこの地区に合わせて改良して活用するなど、これらの地域との類似性,しているが、銭亀沢地区の刺子は織り筋を三筋や四筋間隔で真っすぐに刺す刺し方であり、岩手県北部の仕事着に同様の,刺し方(ベタ刺し)をしたものが若干みられるが、津軽のこぎんや南部の菱刺しなどの模様刺しとは異なるものである,手袋や前掛けなどは模様に刺す時もあったようだが、こぎんや菱刺しといったような明確なものはこの地区ではみられない,さらに、都市の生活様式が日常生活に浸透するに従い、昭和四十年代以降は、この地区の衣生活も都市部と同様に
函館市史 銭亀沢編 (通婚圏)

といって地区内のことを良く知っている男性がおり、青森県の世話人(女性)と連絡を密にして、それぞれの家庭に似合,このように、同じ環境あるいは類似した環境にあった女性を嫁として迎えていたこの地域は、時代とともにその枠,その習慣の違いなどが、この地区の女性の有り様をも徐々に変えてきている一因といえるのではないだろうか。
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